第68話 蘇る心
着替えるのも億劫だから、パジャマ姿のまま外に出る。
陽の光が久しぶり過ぎて、目や皮膚が痛い。
さすがに敷地より外に出るのは躊躇われたのか、カタリアは庭を散策するように歩く。
僕にそれを追う義務はないのだけど、彼女に掴まれた手を振り払う気力もないので、仕方なくついていくことに。
「ふん。相変わらず貧相なお庭。家主の性格が出ていそうですわ」
憎まれ口をたたきながらも、カタリアはずんずんと進んでいく。
どこまで行くのだろう。そう思ったら、彼女はようやく止まって僕の腕を離す。
そこは庭の隅。玄関からも最も遠い場所にある木の下。
そこで彼女はキッとこちらを見据えて、
「勝ったと思わないでほしいですわ」
何がだろう。何を勝ったと思うのだろう。分からない。
「お父様から聞きました。あろうことか軍議に乗り込んで、策を披露し、果ては従軍まで願っただなんて!」
ああ、そのことか。
けど、そのことが大きな間違いだったんだ。そう言ってもしょうがないことだから沈黙した。
「しかもお姉さまの一騎討ちを妨害して、ちゃっかり相手と競り合ったとか。あなたの邪魔がなければお姉さまの武功がまた増えたというのに。とんだお邪魔虫ですわ」
お姉さま。あぁ、クラーレか。
もう彼女のこともだいぶ遠いもののように聞こえる。
「ま、いいですわ。今のうちにいい気になっていなさい。わたくしもすぐに追いついて見せますわ。そしてお姉さまと共に、タヒラ様と共に、この国の立派な将軍になって戦場を駆けて見せましょう」
「――じゃない」
声が出た。けどかすれて声が出たのか疑わしい。
「なんですって?」
案の定、カタリアが問い返してくる。
だから僕は少し声を張った。
「戦場なんて、ろくなもんじゃない」
「っ! 知ったような口をきくんじゃありません!」
「知ったような口、か……。ああ、そんな中途半端だったから、覚悟もなかったから……僕は……」
「……無様ですわね。人の生き死にを見てふさぎ込んだというお姉さまの言葉は本当だったようで」
「なんとでも言うがいいよ」
あれと比べれば。無様だ臆病者だと言われた方がマシだ。
そう考えると、元の世界は本当に平和だったんだなと思う。血なまぐさい事件もそれなりにあるけど、それでもこの世界よりは断然マシだ。
そう思えるほどにこの世界は狂っていて、破滅的で、終わっていた。
「本当に、なんなんですのあなた。ずっとわたくしのことを無視してきたかと思えば、いきなり啖呵を切ってわたくしに歯向かい、わたくしより先に軍議に参加し従軍し、それでいて初めての戦場でショックを受けてふさぎ込むなんて。これがあのキズバールの英雄の妹だと思うと、情けなくなりますわ!」
「悪いことなのか? 初めて、あんなことをして、ショックを受けないのは?」
「当たり前でしょう。この世界は、あなたが思っているほど優しくも簡単でもないのですわ。イース国の重鎮の娘なら承知の上でしょう? この国は今、累卵の上にあることを。いつ攻め滅ぼされてもおかしくないことを」
それは分かる。分かるけど、だからなんだというのだ。
「もしかして、だから他人を殺してもいいっていうのか。危険だから、やられる前にやるってことなのか?」
「違います。戦争なんです。だから仕方のないこと」
「それも同じだ。ただの人殺しを、正当化するだけのまやかしだ。それに、人の死を仕方ないと思う。それは残酷なことだよ」
「なら黙って殺されろというのですか!?」
「それは……」
そう、とは頷けない。
もともと、僕の中にあったのもそれだったから。
僕が死にたくないから、家族が死んでほしくないから、国が滅びてほしくないから。
けど、それが嫌だから相手には死んでもらうっていうのは、それもただ単に言い訳をしているだけのように思える。
「もっと他に手はあったはず。話し合いとかで、退いてもらうとか」
「話し合い? はっ、あのイリスから話し合いなんて言葉が出るなんて、傑作ですわ!」
カタリアがあざ笑うように口を大きく開ける。
「それでも、人が死ぬよりマシだ」
そう、マシだ。
人が死ぬという感情的な面以上に、経済的な側面も大きい。
言い方は悪いが人間の一生を数字で換算すれば、人が障害に生産する価値を一瞬で吹き飛ばすのが戦争。数人単位ではなく、数千、数万、あるいは数十万の人間の価値が一瞬でなくなるのだから、大きな損失でしかない。
コストカットの面から見ても、戦争なんてものは何の利益も生まない最も愚劣な生産活動だ。
「そんなパンケーキにはちみつとフルーツソースとアイスクリームをぶっかけて砂糖漬けにした甘さで、よく生きて行こうなんて思いましたわね。それがグーシィン家の方針ということですの? そんなこと、すでにやっていて当然でしょう? それでも相手は攻めてくる。そうしないと自分が滅ぼされるから。今やどの国も必死ですわ。他国に滅ぼされたくない、食糧危機で餓死したくない、天変地異で死にたくない。そのために他国を侵略する。そんな時に、のうのうと話し合いの席になんてついていられませんわ」
「悪いのか」
「ええ、悪いですわ。何故悪いか。それはあなたが口だけで、それを実際に実行しないのが悪いのです」
口だけ。仕方ないだろ。
そんなこと、今の僕の立場で言ったところで無視されるか握りつぶされるのがオチだ。
失敗すると分かって、進言するのも馬鹿らしい。
「今の自分には無理、という風に考えていますわね。だからあなたは二流なのです。今が無理なら将来の自分でやればいい。そのためにこんなところで死んでしまえば、それは永遠に叶いませんわ! あなたは一度、成しているのですよ。軍議の席で、自分の意見を押し通し、従軍してその結果まで出した。それによって確かに人は死にました。ですがそれを為さなかった時には、それ以上の人が死んでいたはず。あなたは救ったのですよ、この国を、そこに住む人々を、父を、母を、わたくしさえも! なのにこんなところでぐちゃぐちゃうじうじと……みっともないったらありゃしない!」
一気にまくしたてたカタリアは、肩で息をしながらこっちを必死の形相で睨みつけている。
けど、なんか変だ。
今の言葉。これってもしかして……。
「慰めようとしてくれてる?」
「だ、誰があなたみたいな負け犬を慰めますか! ただわたくしは事実を言ったまで。それでなお腐って死んでいくなら、何も為さぬまま死んでいくがいいですわ!」
顔を真っ赤にしてそっぽを向くカタリア。
不器用だな。思わず失笑してしまう。
久しぶりに感情を表にした。
それがどこか胸の中にあったもやもやを、吹き飛ばしてくれた。
「何を笑っているんですの! わたくしの言葉がおかしいとでも!?」
いや、言葉というか、言動すべてが。
あれだけ憎むようにいじめて、怒って、なのにこうして心配して見に来てくれて慰めもしてくれたと。
これぞまさしくツンデレか。
「とにかく、わたくしが生きていることに感謝なさい! あなたは未来のイース国の大将軍を救ったのですから!」
どれだけ自信過剰なんだろうか、この子は。
あるいは、こうやって割り切って生きていければそれは幸せなのかもしれない。
そうだな。
本当はもっとやるべき方法があったはず。それをしなかったのは、どこか他人事だったのと現実感がなかったこと。
もう他人事でも非現実でもない。
ここに、僕を心配して見に来てくれる友達がいる。
これまで何日も心配をかけた父親が、兄姉がいる。
ほかにも、いっぱい心配してくれた人がいる。
やってしまったことはもう取り戻せない。
けど、それによって救われる命もあった。
そしてここで諦めて未来を捨ててしまえば、犠牲になった人たちも浮かばれない。
今が無理なら未来の自分に託せ、か。
ポジティブな内容なはずなのに、明日から本気出す、と似てるのはなんか面白い。
まずやってみる。
それから決めてみる。
間接的ながらも人を殺した。それは僕の罪。
それを認めたうえで、もっと犠牲を最小限にして、あわよくばゼロにする。
それを可能にできるだろうスキルを僕は2つも持っている。
ただ、今の僕には発言権がない。
ならそれを実行できるほどの実力を見せつけていくしかない。
コストカットの鬼と呼ばれたあの手腕で、この国を一気に再生すれば、あるいはそれも可能になるだろう。
それ以前に、強敵ばかりの周囲に攻め滅ぼされないよう、生き抜く力も必要なわけで。
……うん、心の整理がついた。
いや、まだ引きずってる部分がある。けど今すぐ死にたいとはもう思わない。
僕は生きていく。
罪を背負って、未来を見据えて生きていく。
そして、平和な世界をこの子――イリス・グーシィンに渡す。
それが僕の、今、この世界でやるべきことだろう。
それを彼女は気づかせてくれた。
だから、
「カタリア」
「なんですの」
「ありがとう」
「……っ! べ、別に! ただライバルのあなたがこんなところでダメになっていくのを見ていられなかっただけですわ!」
あぁ、ライバルとか普通に言うんだ。恥ずかしいやつ。
けどそれも今やほほえましい。
空を見上げる。
青い空。白い雲。小鳥が鳴きながら視界を横切った。
生きている。
それが実感できる。
だから――
「お腹空いたな」
切野蓮の残り寿命228日。