第60話 桶狭間
奇襲は成功した。
岩山の南に陣取る敵に対し、岩山の東からぐるりと回り込むようにして、林を突っ切って攻めたのだ。
敵は雨宿りのために林に避難したザウス軍。
大軍の驕りか、あるいはもともとの練度の低さなのか。
まったくの無防備で休憩している敵に、イース軍が襲い掛かった。
林の中で悲鳴が入り混じる。
その多くは、戦闘準備をしていなかったザウス軍のもので、味方が押しているのは間違いない。
うちの大半が歩兵だったのも影響しているだろう。こういった小回りの利かない場所では歩兵が有利になる。
「あたしの国を襲おうなんて、ちょっと調子よすぎじゃない!?」
「あっははははは! 死んじゃえ! 死んじゃえ!」
イリス姉さんとクラーレが先頭に立って敵をなぎ倒すのが見える。
それを見て、新兵たちも狂ったように敵を突き倒していく。
さらに遠くから銃声が聞こえた。
岩山に配置した鉄砲隊が、逃げ出すザウス軍に斉射したのだろう。
鉄砲と言っても火縄銃に近いものだし、練度も低いから、連射性も命中性も期待できない。
けど、下手に逃げ出せば鉄砲の餌食となる。その恐怖は明らかに敵の動きを鈍くした。
さらに増援として来た熟練の弓兵も岩山から雨のように矢を降らせているから、相乗的に効果は出るはずだ。
だからあとは敵を追い立てまくって、潰走まで持ち込めば勝ち。
なのだが――
「全軍、ここに集まれ!」
敵が動いた。
少し時間はかかったが、敵も手を打ってきた。しかも有効な手立て。
どれだけこちらの状況を把握しているかは分からないが、奇襲部隊は少数と見て取って防御の陣形を整えようというのだろう。
もしかしたらトンカイ軍に援軍を出しているのかもしれない。
この戦い、敵に落ち着きを取り戻されたら負けだ。
こちらの方が兵力は小さい。だから数の多い敵にがっちり守られたら勝てない。援軍を呼ばれれば逆襲される可能性だってある。
くそ、あと一押し。
あと何か一押しあれば、完全に勝てた。
この戦い、敵に損害を与えるだけじゃだめだ。
壊滅とまではいかなくても、追い払うくらいの勝利はつかまなければ、後がない。
だが悔やんでも遅い。賽は投げられている。
なら退くべきか。けどここで退いたら敵に逆に襲い掛かられて全滅する可能性が高い。新兵たちは引き際を考えてる場合じゃないだろうし、この動きの悪い林という地形が、今度は僕らが逃げるのを邪魔する。
なら考えろ。考えて、考えて、ここを打開するための策を考えろ。
最悪の場合、自分自らが敵に切り込むか。いや、それを将軍が許すはずもない。
なら打つ手は。僕たちにとって最善手は。
それはさきほど相手がしたように、こちらにとって最善は相手にとって最悪。つまり相手が最悪と思うことをすればよい。
今、相手にとって最悪なのは。援軍がこないこと、トンカイ軍が逃げ出すこと――いや、違う。それよりも最悪なこと。
それは、トンカイ軍も共に攻めてくること、だ。
そこまで考えた時だ。
「トンカイ軍が寝返ったぞー!」
という声が響いたのは。
「トンカイ軍が裏切ったぞ! もとからザウスを滅ぼすつもりだったんだ! このままじゃ挟み撃ちにあって殺されるぞ! 逃げろ!」
どこか聞き覚えのある声が戦場にこだまし、それにより敵の動きが明らかに鈍る。
それもそうだ。もしその言葉が本当なら、ザウス軍は東から来る僕らと、西に陣取るトンカイ軍に挟み撃ちにされる。
挟み撃ち。
それは単純なりに効果的すぎる戦術。
挟み撃ちされれば戦う兵は常に背後を気にしなければいけないから、集中力が散漫になり弱体化する。
すなわち死が頭によぎれば、もう戦えない。
そうなれば負けだ。
もちろん冷静に考えればそんなことはあり得ない。
トンカイ軍は同盟国であるザウス軍の要請を受けて進軍してきたわけだ。ここで裏切るということは、国際社会における信用を失うに等しい。
同盟を破棄して裏切れば、二度とトンカイ国を信用する国は現れないだろう。あるいは簡単に裏切る危険な国として、他国から袋叩きに遭う可能性もある。
だからこれは、誰かが流した虚報であり、普通だったら信じられないで斬り捨てられる内容。
だが今、ザウス軍にはそんなことを虚報と切り捨てる心の余裕はない。僕らの奇襲により、まだ浮足立っている状態。
ならここでさらに一押し。
「将軍、ここにいる全員で敵将を討ったことを叫んでください」
「し、しかしそれはまだ――」
「いいから!」
「む……わ、分かった。全員、鬨をあげろ! 敵将、討ち取った!!」
僕の気迫に押されたのか、将軍が声をあげると、それにつられて本陣の兵も声をあげる。
敵の総大将を討ち取った、と。
もちろん嘘だ。先ほどまで指示を出していた人間が、こうもたやすく討たれるはずもない。
けど雑兵はそんなこと知ったこっちゃない。
トンカイ軍が寝返ったという虚報に怯えたところに、総大将の死が聞こえてくるのだ。
よく総大将が死ねば、全軍総崩れになるケースが歴史上にある。トップがやられたところで、司令部は生きているわけだし、そこが的確な指示を出せれば兵力もある以上、簡単に負けないのでは、と思うだろう。
けど、特にこの中世期における戦いは違う。
総大将が死ぬ、それはつまり司令部の崩壊も意味するので、的確な指示など求めようがなくなる。その軍は弱い。個別に戦うだけだからだ。
さらに手柄を立てても、それを認めれくれる人がいないわけで、骨折り損になる。
雑兵はそれを敏感に感じ取り、だったら逃げた方が、と考えるのは当然だろう。
さらに、総大将は武力の象徴でもあるのだ。総大将に選ばれる人――つまり偉くて強くて装備もいい。そんな人が討ち取られるのだから、地位もなく弱く装備の悪い雑兵なんかは簡単に殺される。そう思ったらもう戦えない。
だから同盟国の裏切り、そして総大将の討ち死に。
その2点が波及すれば、敵は戦意喪失する。
そしてそれは現実となった。
「うわぁぁぁ、逃げろー!」
「し、死にたくない!」
誰かがそう叫ぶと、雪崩を打ったように敵が僕らに背を見せ逃げ出す。
北は岩山だから、必然的に逃げる方向は南。ザウスとの国境の方向だ。
「全軍、追撃せよ!」
すかさず将軍の命令で味方が逃げる相手を追いかけていく。
追撃戦こそ、この兵力差を覆す大チャンスだ。
相手は向かってこず、ひたすら逃げるだけなので、後ろから襲い掛かれば被害なく敵の数を減らせるのだ。
だから皆が躍起になって背を向ける敵に剣を振るう。
将軍のいる本隊はその後から移動して、林の外に出た。
空にはこれまで雨を落としてきた雲が広がっているが、もう雨は止んでいる。まさに天祐の雨だったわけだ。
「行けいけ!」
タヒラ姉さんとクラーレが逃げる敵に追いすがる。
だが僕はそれとは違う方向を見ていた。
方向で言えば南西。そこにいるトンカイ国の援軍だ。
数は5千から6千ほど。
まだ何が起きたか分かっていないらしく、動きらしい動きは見せていない。
だが――
「将軍、あまり深追いは。トンカイ軍がわき腹を突いたら僕らの敗けです」
「ん……」
将軍がちらっとトンカイ軍の方を見て、大きくかぶりを振る。
「トンカイ軍の主力は歩兵と聞く。あれがこちらに来る前にザウス軍を削るだけ削る」
つまり追撃を続行するということだ。
一抹の不安を感じたが、それでも完全に無視しているわけではないってことか。
なんというか、見当違いな心配をしていたようで、少し恥ずかしくなる。
「ふっ、そうしょげる必要はあるまい。この勝利、まさしく君の策によるものだ。そしてその気配り、さすがはタヒラの妹である。いや、あれとは違う視点を持っているのだな。これからもその他にない観点で助言してくれると助かる」
そんな僕の心境を察知したのか、将軍はそう言って慰めてくれた。
一応、この軍の最高責任者というのに、この腰の低さといったらない。あの大将軍の下にいるからかな。
僕は小さく頭を下げて感謝の意を示すと、気を引き締めて追撃の態勢に入る。
そのさなかに、本陣にウェルスの軍旗を掲げた一隊が近づいてきた。
それはレイク将軍の率いる隊で、離脱の報告をわざわざしに来てくれたのだ。
「これより帰国します。取り決めの通り、国境守備隊と合流し“ザウス国への侵攻”を行います」
「援軍、痛み入ります」
将軍が頭を下げ、謝辞を述べる。
「いえ。そちらの軍略も素晴らしいものでした。できれば次も味方であってほしいものです」
レイク将軍が僕の方を見て、柔らかく微笑む。
だがその微笑みの裏には、意味深な牽制が含まれているのを感じた。
そう、本来友軍が強いのは喜ばしいこと。
だが今は乱世。心強い味方が、いつ手ごわい敵になるか分からないのだ。
同盟に意味がないのは、ザウス軍の背信をみれば明確。
けどそれは今すぐじゃないし、何年後かもしれないのだから心配するだけ損。
そんな複雑な状況を踏まえての微笑みだったのだろう。
これでレイク軍が離れていく。
南西に進みながら敗走するザウス軍を掃討しながら。
それを見て、今回の戦いもこれまでだと感じた。
味方は1千にまで減ったわけだから、いくら敵を減らしたといっても、落ち着かれたら兵力差は出る。
物事は引き際が大事。ここで無理して逆襲にあいでもしたら、せっかくの勝利が水泡に帰す。
恐れていた知らせが本陣に飛び込んできた。
「トンカイ軍に動きがあります!」