第58話 天祐と襲撃
火照った体を濡らすのは、天より落下する水。
ぽつっと寝そべる僕の背中を打ち、その数は次第に増していく。
雨だ。
そこまで激しくないが、しばらくは振り続けそうだ。そんな雲行き。
だがこれこそ天祐の雨。まさに桶狭間。
それによって起きた事象は3つある。
1つは移動。
ザウス軍は雨を嫌ったのか、林の方へと雨宿りのために動いた。
1つは距離。
対するトンカイ軍は雨にも関わらず、その場を動かず天幕らしきものを張るような動きをしている。
つまり林に逃げ込んだザウス軍と、その場に留まったトンカイ軍の間に、さらに距離ができた。お互いを容易に助け合えないほどに。
1つは時間。
彼らは雨が降っている間は動かないことに決めたようだ。
雨に打たれ続けることは、人間のスタミナ低下を招く。あんな重苦しい甲冑を着ていればなおさらだ。
もはや勝ち確の状況なのだから、兵に無理させるよりは、雨宿りして元気な状態で国都に行こうというのだろう。
そもそも強行軍によってだいぶ時間を短縮してきたのだから、その休憩も兼ねているに違いない。
その3点がさらなる勝機を産んだ。
あとは時間との勝負。
この雨が止んで、敵が動き出す。その前に全軍を引き連れて敵を叩く。
だからすぐに自分も動く必要があった。
偵察を終えて、みんなと合流してすぐに南下する。
時間はない。
だからその場から起き上がると、飛び降りるように岩山を駆け下りる。
コタローは。いない。探す時間はない。逃げたならそれでいい。
コタローが敵のスパイだとしても、もう状況は動かない。
そう思って、岩山の中腹あたりを駆けていた、
その時。
「シャアァァァ!」
何かが来た。鳥? いや違う。大きい。何か、来る!
咄嗟に身を投げた。何かが掠った。
でこぼこした岩肌を転がり、痛みに顔をしかめながらも、すぐに身を起こして膝立ちに。
「誰、だ……」
知らない人がいた。
そりゃこの世界に来たばかりだから、知っている人の方が多いが、これはもうどんな場合でも知らない人だ。
黒いマントのようなものを体に巻き付けるようにして立つ、痩身の人物。
覆面をしているのか、髪も顔も見えない。唯一、瞳だけはこちらを見据えているが、それだけで誰かが分かるはずもなく。ただその瞳から洩れる殺気に、僕の中にいる軍神が警告をかき鳴らす。こいつは、敵だと。
「なんの、用、ですか? 僕はちょっと急いでいるんですが」
「…………」
答えはない。
代わりに動きが来た。
聞く耳、なし!
こちらに突進する動き。速い。あんな動きにくそうな格好でなんで?
覆面の相手は岩山のでこぼこを気にすることもなく、目にもとまらぬ速さでこちらに駆けてくる。しかもところどころでフェイントを入れるようにジグザグに。
「くそ!」
相手がこちらを狙っているのはあからさま。けど僕には相手にしている時間がない。
失敗した。武器の鉄棒を登山に邪魔だという理由で、馬にしばりつけてしまったのだ。つまり無手。武器もない状態で、この異常な襲撃に対しなければならない。
ならこういった時は、
「三十六計逃げるに如かずってね!」
逃げる。そう思って踏み出した瞬間。
「あっ!」
滑った。
雨で濡れた岩肌が、見事に脚をもっていった。
相手が何事もなかったかのように走っていたから忘れていた。
態勢を崩した僕に対し、覆面はさらに加速する。激突まであと2秒。
「にゃろ!」
反射的に手が出た。
瞬間、相手が消えた。
「え?」
どこへ?
警告。雨が、止んだ? 違う。上!
見上げる。そこには重力のくびきから解き放たれた覆面が、頭を下にして存在していた。
この足場でよくもまぁ。
なんて感心している場合じゃない。
相手の体に巻き付いていたマントのようなもの。それが動く。中から現れたのは一本の腕。これもまた黒づくめで判別がつきにくいが、その中に1つ。黒ではない色が混ざっている。
それは銀色に染まった細い硬質状のもの。
それが何を意味するか。考えるまでもない。ナイフ。それで僕の首を搔っ切るつもりか。
ゾッと背筋が凍る。
死。死ぬ。こんなところで。誰かも分からない状態で。
あの時の光景がフラッシュバックする。
僕が死んで、あの死神と共に世界を見て回った時。
鮮血に倒れるイリス、彼女の姿。
それが再現されるということ。
そんなこと、そんなこと、
「あっちゃいけないだろ!」
滑って崩れた態勢をさらに崩した。つまり、その場に倒れ込んだ。
そしてさらに転がる。
「なに!?」
相手の行動が意外だったのだろう。覆面の声が漏れる。高い。子供、いや、女性?
いや、今はどうでもいい。
相手のナイフは空を切り、着地するまでのラグが発生した。その間に、僕は僕のやるべきことを進める。
そう、逃げる。
敵に後ろを見せてひたすらに。
今、追いつかれたら背中からぐさりだ。そんな恐怖を振り払うように、飛ぶように山を降りる。
途中で何度も転んだり、転がったりしたけど、それでも距離を取ることが第一。そう考えてひたすらに駆け――降りきった。
ふもとに倒れ込むようにしてたどり着き、振り返る。
上がり切った息を無理やり抑えて、しばらく周囲の音と気配に全身を集中させる。
雨で音も気配も感じにくい。が、いない?
とりあえず見える範囲に相手はいない。
安心、とまではいかないけど、少し警戒を緩めながら繋いでいた馬のところに戻る。
コタローは……やっぱりいないのか?
けど逃げたわけじゃなさそうだ。彼の馬はまだ繋がれている。
「あ、戻ってきましたっすね」
と、探していた人物の声がした。
見れば、林の方からコタローが手を傘の代わりをしながらこちらに駆けてきた。
そのことに安堵しつつも、ここをあの襲撃者に襲われたら大変だ。けど、その気配はやはりない。諦めたのか? いや、そもそもなんで僕が狙われるんだ?
分からないことだらけだったけど、今、僕がしなくちゃいけないことは見失わない。
「ごめん、すぐに戻るからここで待っててほしい」
「ちょ、その体で何言ってるんです! 血ぃ、出てるじゃないっすか!」
言われ、そこで気づいた。痛みも感じた。
自分の左腕。そこが赤く染まっているのを。さらに体中が擦り傷だらけ。肩当てが1つどこかへ落としたのかない。服が切れている部分もある。あんな岩肌を転がって来たんだから当然か。
それにしてもこの左腕の傷は覚えがない。いや、あるか。最初の一撃。あの時に斬られていたに違いない。本当に間一髪だった。
「ちょっと待ってくださいね。今、治療しますから」
コタローが腰の袋をごそごそと漁りながら言う。
けどそんな悠長なことを言ってられない。
「いや、ダメなんだ。すぐに、戻らないと手遅れになる!」
「じゃあ自分が行くっす」
「え」
「そんなボロボロの状態で行っても倒れちゃいますって。だから自分が行きます。馬は慣れてないっすけど、とりあえず飛ばして。これでも自分、男なんで」
そう言いながらも、歯が鳴っているのが分かる。
緊張と恐怖。そのうえで、彼はそう言ってくれるのだ。
それを断る度胸は、僕にはなかった。
「分かった。じゃあ、よろしく」
「はい。じゃあこれ、包帯と薬です。とりあえず雨を避けて、休んでてください」
包帯と薬を押し付けると、コタローはすぐに馬に飛び乗ってそのまま北へ駆けて行った。
よくよく考えたら、コタローをここに残したら、あの謎の覆面に殺されるかもしれない。
なら彼を行かせた方が、いろんな意味で良さそうだ。
しかし、あの覆面はなんだったんだろう。
何も言わずにこちらを殺しに来た。
そんな殺したいほどに僕を憎んでる人はたぶんいないだろう。だってこの世界に来てまだ1週間かそこらだ。
なら、イリス。
いや、グーシィンに関連することか。
「やれやれ、また1つ。問題が増えたなぁ……」
そうぼやきながら、木陰に座ると、周囲を警戒しながら腕に薬を塗り始めた。薬が傷にしみて痛かった。