第55話 行軍にて
行軍は順調だった。新兵の割には。
それもこれも全員が馬に乗っているからで、普段は歩兵の300も最低限の乗馬の訓練は受けているという理由で馬にのせた。速さを優先させたわけだ。
僕自身も先日の地獄の特訓で、最低限乗れることはできたから、ひとまず問題なし。
唯一の懸念となる夜間行軍だったが、空は晴れていて月明りもあり、国都付近はなだらかな草原となっているから、比較的安全だった。もちろん馬同士の接触の危険性はあるが、もともと群れで行動する生物だからか、一つのまとまりとなって距離を置けば特に問題はなさそうだった。
だから僕が上手く馬を操ったというよりは、流れに身を任せていたというのが正しいわけで、そうなってくると夜空を見上げる余裕もできるというものだった。
見上げる空は、一面の星空。
高いビルもなく、大気の汚染もないからか、宝石箱をぶちまけたという表現が実にしっくりくる。
思えば、夜空を見上げるなんてことは物心ついてこのかた、なかったような気がする。
夜は家に閉じこもって高いびきか、モニターにしがみついて敵を撃破しているかのどちらかだったから。
こうして死んだ後に、こんな綺麗な景色があったのかと新たな発見を得るのは本当に皮肉なものだ。
そんな美しすぎる景色があっても、その下で人は騙し、奪い、殺し合うのだ。そう考えると、僕はいったい何をしているのだろうと思わないでもない。
対話による解決もあっただろうに、人はどうしてこうも争うのか。
それでも、相手が拳を振り下ろしてくるなら、こちらも相応の対応をしなければいけないのは確かなこと。
黙ってたった1つしかない命を差し出すほど、僕は人間ができちゃいない。いや、できた人間こそ、そんなことはしないだろう。
それは言い訳なのかもしれない。
けど今の僕には必要で、さらにイースの国にも必要なことだから躊躇わない。
「全軍、並足に落とせ。斥候が戻り次第、休憩を取る」
将軍が号令を出す。
いくら危急のこととはいえ、一晩中駆け続けるのは、人にも馬にもよくない。ましてや新兵だ。
敵を見つけました、でも全員疲労で戦えません、じゃあ意味がないからだ。
ゲームだったらそんなの関係なく移動できるんだけど、現実はままならない。まぁそれは相手も同じだから条件は五分だけど。
だからこそ、適度なところで小休止して、一時の仮眠もとって動くことを徹底している。そこらへんの呼吸は、素人の僕には分からないから、将軍に全部任せるがままにしている。
やがて前方から戻ってきて、異常はないことを認めたら小休止。交代で仮眠を取りつつ、3時間ほどで再出発。そして再び適度なところで休憩を入れて、再出発を繰り返すうちに、東の空から目を焼くような光を持った太陽が昇って来た。
「ところでイリリはそれでいいの?」
途中でタヒラ姉さんが問いかけてきたのは、僕が馬の鞍にくくりつけた得物についてだ。
歩兵が使う槍の穂先を取ったもの――つまりはただの鉄の棒だ。
1メートルもないくらいで、重さは2キロくらいはあるが、それで武器になるかとタヒラ姉さんは考えたようだ。
「ま、なんとかなるよ」
もちろん、なんとかはなるはず。
僕には『軍神』スキルがあるから、ただの鉄の棒でも一騎当千の武器になる。あのカンウと呼ばれた黒衣の騎士とやりあえたのは確かだし。
なんて格好つけなことを言ってみたけど、その実は槍とか剣で戦うことに抵抗があるからだ。
それで人を傷つける、果ては殺してしまう。その覚悟がまだできていない。
でも仕方ないだろ。いきなり人を殺せと言われて、はいそうですかと受け入れるほど僕は人間を辞めていない。
せっかく、殺さなくても済む力があるのに、それを使って殺戮を楽しむ異常者に僕はなりたくない。
だから今はこれでいい。そう心に刻んだ。
「分かった。じゃあなおさら、あたしの傍から離れないでね」
「だから大丈夫だって」
なんて会話をするのも、高まって来た緊張をほぐすためだろう。
敵は国境を越えてきている。
1万の軍勢だからそれなりに移動速度は速くないはず。だが、状況はお気楽を許さない。
おそらく今、僕らがいる場所に全軍が到着するのは明日のさらに昼過ぎになる。
となるとここはマズい。
まだ平原が続く場所で、起伏も少ない。つまり野戦となった時に兵力差がものをいう戦いになるのだ。
だからやはりもう少し。半日から1日ほどは相手の足止めが必要になるわけだ。
ここからあと数キロ行ったところなら、地図上では林や岩山があるから、真っ向勝負以外の戦いもできるというもの。
それが分かってるから、タヒラ姉さんも難しい顔をしながら、僕の身の心配をしてくれてるのだ。
「将軍、急ぎましょう。やはり足止めが重要になるかと」
「分かった」
将軍が小気味よく答える。
なんでも進言してくれ、というから言ってみたけど、確かに文句も言わずに聞いてくれる。年齢の半分くらいの年頃の素人に意見されるなんて器がでかいというか。
若干、何も考えていなさそうだけど、話を聞いてくれるだけでこちらは嬉しいもの。
だからどんどんと図々しくも、色々と言ってしまう。
陽がのぼってしばらく進むと、景色が若干変わって来た。平地ばかりの緑から、岩山らの肌色や茶色が増えてきたのだ。
そんな時だ。
「ん……斥候が戻って来たけど……誰?」
タヒラ姉さんが前方に目を凝らしながらつぶやく。
斥候?
目を凝らす。だが、人影というか馬影も見えない。なんて視力してんだ、我が姉は。
それから2分ほどして、ようやく僕の目にも見えるようになってきた。
それは遠いというのもあったが、馬にしては移動が遅かったから。
徒歩の人間と一緒にいるからに見えた。さらにおかしなことに、乗っているのは乞食のようなボロをまとった見知らぬ男で、馬を引いて歩いているのが、それこそ斥候の兵だった。
「一体何があった?」
「それが、この人物が……」
将軍の問いに、斥候の兵が答える。
この人物、馬に乗るボロをまとった人間に視線が行く。
だが男は、500もの槍を持ち、鎧をまとった兵たちに囲まれても怖気づいたようには見えず、
「あのー、ちょっとぶしつけですみませんっすが」
どうやら声を聞く限りは若い男のようだ。
はっきりしないのは、黒い髪もぼさぼさで、また羽織っているボロが口元まで隠すので、目元と顔がよく分からないからだ。
「ごはん、食べさせてもらえねぇっすかね?」
唖然とした1000の瞳を受け、男は「たはっ」とはにかむように笑い、そしてそのお腹がぐぅぅ、と鳴った。