第98話 何回目かの脱獄
夜明けが近い。
政庁から離れたところにある、牢に入れられて数時間。何もできぬまま時間が過ぎるのを待つしかできない自分を呪い続けた。
それはなんでこうなったという後悔の時間ではない。
これからどうするか、という未来の時間だ。
脱獄自体は容易。
清盛からすれば、僕はか弱い女子ということだろう。少し剣を使うと思っても、まさか中に軍神がいるとは思っていない。
だからか牢自体は普通だし、手枷自体も少し本気を出せば十分に破れるレベル。
若干面倒なのが、周囲が水で囲まれた牢だということ。
さすがはゴサ国。これまでいくつもの牢に入れられてきた(自慢にならない)プロフェッショナルの異見としては、なかなかに脱獄しづらい牢だ。
けど不可能じゃない。
むしろ水に囲まれているからこそ、見張りはすぐそばにいるわけじゃないし、水に入れさえすれば、そのまま遠くまで気づかれずに泳いで逃げることだって可能だ。闇に紛れれば、さらにそれは容易だろう。
だがこの数時間。それをしなかったのにはわけがある。
脱獄したとしてどうするか。
それがまとまらなかったからだ。
今、ゴサ国は戒厳令の緊張の状態にある。
清盛、周瑜ら国を運営する側についた御用商人。それに対し、自由と独立を重んじる豪商。その2つの勢力がぶつかり合おうとしている。
それは商人が国のほとんどを占めるゴサ国にとっては、国を二分する内乱といって差し支えない。
商人が争ってどうなるか、と考えるのは甘い。
彼らは戦乱の世の商人だ。つまり武器や兵糧を運ぶし、何より荷物を奪われる危険から逃れるために力自慢の護衛を抱え込んでいる。さらにカイユのようなあぶれ者を雇う財力もある。
だから一昼夜で100人規模の兵員を動員できる、武装勢力と呼んでもいい存在になっている。
しかも豪商たちは、国からの受注を独占している御用商人たちを激しく憎んでいるし、何かにつけて邪魔をする豪商たちを御用商人は毛嫌いしている。
どちらかを滅ぼせば、さらなる利を独占できると考えれば、人を殺すのに十分すぎる動機はできている。
兵の動員に1日。
やるとすれば夜襲による先制攻撃も考えれば、日付が変わって今日の夜がタイムリミット。
そして周瑜はそれを見込んで、今日の朝、遅くとも昼までには乱の鎮圧を発動する。そしてそれは御用商人の側について豪商たちを叩き潰すために動くのだ。
だがそうなれば戦火は果てしなく広がる。富を独占しようとする御用商人より、豪商の方が圧倒的に数が多いのだ。そして区切りがない。
一部を叩き潰しても、おそらく次は自分と自衛のために反抗する連中が後を絶たないに違いない。
その果てにあるのは、この豊かな水上都市の壊滅。ゴサ国の国力衰退。
そして僕は、商人たちの暗殺未遂事件にかかわった他国の工作員として処刑される。
それが今の状況。
このまま何もしなければ起こりうる未来。
そんな内乱は許せるわけないし、何より僕の死なんてもっと許せない。
だから動く。
けどどうすればいい。
その煩悶。焦燥。苛立ち。
それらがピークに達しようとした、夜明けの頃。
「イリス、聞こえる?」
声が聞こえた。
聞こえたものの姿は見えず。どこだと探っていると、再び声。
「聞こえてる? イリス?」
幻聴かと思ったが、確かに聞こえた。
この声、まさか。
「千代女!?」
「しっ。気づかれる」
どこから、と思ったが、見れば牢の前にある水堀。その中に1本の筒が伸びている。じっと目を凝らしてみれば、その下に何かが見え……千代女だ。いつもの巫女服姿じゃなく、全身を黒で包み、顔も汚しているが、わずかに輪郭が識別できた。
まさか水遁の術。ガチ忍術来た!!
などとどうでもいい感激をよそに、千代女は筒を口から離し、そのまま漂うようにして牢に近づき、顔だけを陸にあげた。
「出れる?」
「あ、ああ。それは簡単だけど……」
「そう。じゃあ要件だけ。鶴が動く。イリスは好きに動いてって」
「鶴姫が!?」
「うん。清盛を止めるって。で、龍馬は商人の方」
「そうか……」
動いたか。あの2人が。
それはなんとも心強い。そしてやらなくちゃいけないこと。それの目途が立ったのが大きい。
「千代女。僕は出るぞ」
「門番はあの風魔が寝かせてる。出るなら壊す?」
「いや、いい。これくらいは……ふんっ」
鉄格子を軍神の力で折り曲げて外へ。なんとなく軍神のスキル自体も強くなっている気がする。あの恥ずかしいV2とか使わなくてもこれなら何とでもなりそうな気がしてしまうのだから現金なものだ。
一晩、硬い床で寝ていたから体を動かすとゴキゴキと骨が鳴る。それをほぐしながら、僕はそのまま水路へダイブ。千代女の先導で牢エリアから抜け出す。
うっすらと東から太陽が顔を出し始めた時間帯。門番は小太郎が寝かせているというからか、人気のない中を泳いで渡る。
「イリス、まずはどこへ?」
「そうだな……」
今、喫緊の問題は周瑜による豪商への鎮圧行動だ。豪商たちが武力を持つとはいえ、この国最強の正規軍で、率いるのがあの周瑜というのだから、それだけでもう正規軍の圧勝だと思える。
だが豪商たちも数だけは多い。それに最新の輸入品などで武装した彼らは周瑜の軍とも互角に戦うのでは、と坂本さんが危惧していた。それを信じるなら、彼らがぶつかればそれはこの国を火の海に包み込む内乱が始まってしまう。
そう。僕が一番にやるべきは正規軍と豪商軍のぶつかり合いを止めること。
かといって僕が1人で正規軍の方に行っても無理だろう。何より僕を牢に放り込んだ張本人がいるのだ。再び牢に放り込まれるならまだしも、脱走の罪を追加されてその場で殺されることもあり得る。
ならやるべきは豪商軍の方。
そっちを説得、あるいは街を犠牲にしないやり方で正規軍と膠着に持っていく。それが最良の方針だと考える。
だから僕がやることは分かり切っている。
「坂本さんと合流しよう。彼なら、豪商たちもなんとかしてくれるはず」
「分かった。任せて」
「おやおや、任せてって。どこに行けばいいか分かってるのかな、そこの山猿は?」
この千代女に喧嘩を売るような声……。
「小太郎!」
「どーも、あなたの小太郎でっす」
振り返るとそこに笑顔でウィンクしてみせる小太郎がいた。相変わらずチャラいな。
「なんであんたが知ってる」
「さぁ。信頼されてるからじゃない? やっぱ山より海だってこと」
「そっちだって山育ちのくせに」
「あーあー聞こえないっすー。というわけでイリス殿。自分が案内するっすよ。合流後の隠れ家と、中心になりそうな豪商たちの家は教えてもらったんで」
「分かった。じゃあ早速行こう。千代女、行くぞ」
小太郎に駄々っ子パンチをする千代女を引きはがして僕らは朝焼けの街を行く。




