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第90話 暗殺者のこと

 血しぶきが舞った。


 けどこの暗闇。月明りに照らされたとはいえ、血は赤く見えずに黒い何かの液体。


 斬られた。

 つまりあれは自分の血。イリス・グーシィンの血。命を司る、すべての根源。


 でも――


「浅い……!? なら!」


 相手が来る。

 もうそれが誰かなんてどうでもいい。血が、激痛が、生存本能が、すべてをかなぐり捨てて敵を排除せよと警鐘を鳴らす。


 のけぞる体。それを無理やり前に倒して、痛みはすべて奥歯に持っていく。そのまま前へ。相手が剣を振る前に。肩からぶつかった。


「うぁぁぁぁぁぁ!!」


「ぬっ!」


 弾き飛ばす。軽い。いや、跳んだのか。となれば――


「っ!!」


 また斬られた。後ろに跳んだと同時に剣を振るった。その一撃は首筋を狙ったようで、ずれて左肩に激痛が走る。


 それでも止まっていられない。

 距離を取られれば、また闇に紛れて闇討ちされる。


 だから恐怖を脱ぎ捨てて前へ。相手もさらに追撃が来るとは思っていなかったのか、対応がわずかに遅れた。その間に懐に入る。今度は弾き飛ばさないよう、両手で相手のわきの下に入れる。いや、入らない。それは相手の対応が早かったわけじゃなく、相手の身長があまりに低く、僕とほぼ同じくらいだったから。

 男の大人が相手なら身長差でいけると思ったのがいけなかった。いや、もう構っていられない。


「あぁぁぁぁ!!」


 左手で思いきり相手の脇腹を殴りつける。何度も。何度も。

 右手は相手の服の裾を掴んで逃がさない。その間も殴る。ボディボディボディ。


「ちっ、厄介なこと!」


 衝撃。蹴りが来た、と分かったのは、斬られた傷を膝で押し上げられた後だ。


 痛みで一瞬意識が飛ぶ。それでも最後に渾身の力でボディにパンチを入れた。バキッ。いやな音が拳に響く。


「ぐっ……!」


 今度こそ足で僕の体を蹴り飛ばしてきた。傷口がさらに痛む。

 だが相手も右の脇腹を何本かもってってやった。これで互角……とは全然ならないけど、相手の方も痛手を受けた。


 痛みは体の動きを鈍らせる。だけでなく呼吸にも障害を起こす。

 そうなれば相手は気づかれまいと呼吸を殺して近づいてこれなくなる。少しでも荒い息が聞こえれば、居場所が分かる。

 もっとも単純で、難度の高い闇討ち対策。なんとかさまになってくれるか。


「あ、てめぇゲンサイ! なに勝手にイリスとやってやがる!!」


 千代女とやりあってるはずのカイユが怒鳴る。

 そちらを向くことなどしない。いくら呼吸が乱れたといっても、まだ相手の方が断然有利。今、見える位置にある相手から目を逸らすわけにはいかない。闇討ちを封じたといっても、僅かそういう可能性を潰しただけで、そもそも僕のこの出血。冷静に相手の呼吸を察知できるとは思えない。

 だから目を離せられない。いや、それ以上にこの男の眼。人の命を奪おうというのに、そこには何もない。僕のような後悔も、ラスのような優しさも、カタリアみたいな傲慢も、カイユみたいな愉悦も。その無味乾燥な眼が僕を捕えて離さない。


「貴殿が遅いゆえ。与えられた仕事はすべて果たす。誰が最後の一刀になろうと構わない。それが依頼人との契約だ」


 仕事? 依頼人? 契約?

 もしかして暗殺の……? てことはやっぱりだ。この男。


 河上彦斎かわかみげんさい

 幕末の四大人斬りの1人(他は土佐の岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛、そして西郷隆盛の側近で桐野利秋こと中村半次郎)で、幕末の有名な学者である佐久間象山さくましょうざんを暗殺したことで知られる。

 今でいえば「おろ」や「ござる」で有名な不殺の人斬りのモデルになった人物と言えば分かりやすいか。


 かの勝海舟かつかいしゅうとの対談で人を人と思わないような鬼畜なことを言い放つ反面、愛妻家だったりする良く分からない人物。というかそれ以上の情報があまりない。


 ただ当時に恐れられて新政府になってからは、その暗殺の腕を恐れられて殺されたというらしいから、とてつもない手練れだったのは間違いない。


 その人物が今、僕の前にいる。

 イレギュラーとして。


「ではイリス・グーシィン殿。そのお命。頂戴仕る」


「おいおいおいおい、待て! ゲンサイ! てめぇ、俺の獲物に! おい、このエロい嬢ちゃん! ちょっとタンマ! このままだとイリスが殺されるぞ!」


「2秒でお前を殺す。イリスを助ける」


「んな馬鹿な!」


 千代女とカイユの会話も遠い。


 それほどこの相手。河上彦斎のプレッシャーが半端ない。てゆうか血を流し過ぎた。大丈夫なのか。まだ意識はあるし、痛みは感じてる。だから致命傷じゃない。けどどくどくと鳴る心臓の音が血の流出を奏でている。腹と左肩。このままだとマズい。早急にケリをつけるしかない。


 だから僕は、河上彦斎が左半身になりながらぐっとしゃがむのを見て次の必殺の攻撃が来るのを感知した。


 くそ。どう来る。いつ来る。

 これが薩摩の田中新兵衛とか中村半次郎とかだったらまだ分かりやすい。薩摩の示現といえば一撃必殺。猿叫えんきょうと共に繰り出されるその剣は、相手の刀を叩き折るほどの破壊力を持つ。

 だが1つだけ弱点がある。それは相手の入り――つまり動きの瞬間が分かりやすいのだ。もちろんだからといって「初太刀を外せ」と近藤勇が言うように簡単なものじゃないし、避けたとしても二の太刀、三の太刀が確実に相手を殺しにくるわけだけど。


 ただ今のこの状況。相手が薩摩の示現なら、その初太刀を見切ってのカウンターという一発逆転がある。どこから来るか分からなくてもタイミングは分かるはずだ。


 だがこの相手、河上彦斎は違う。

 声も気もなく、ただ刀を振るって敵を殺す。それだけの剣術に、タイミングなど分かるはずもない。しかもこの暗闇ならなおさらだ。


 何もわからない相手。いや、確か1つだけはっきりしているものがある。

 河上彦斎。彼が得意とするのは抜刀からの逆袈裟――


「っ!!」


 来る。来た。それが分かった。

 やはり呼吸だ。ボディブローで折れたわき腹が一瞬呼吸を乱した。それが聞こえた。


 そして来るのは右下。納刀状態から抜刀しての左下から右上への逆袈裟斬り。それが河上彦斎の必殺剣の特徴。もちろんそれだけじゃないけど、わずかに痛む体を気遣っての一番得意な形で来たということだ。


 かわせる。来るタイミングも来る方向も分かった。ならあとは軍神がやる。軍神の絶対的な力と勘で避けられる。いける。やれる。風。殺意。来る。体は動く。後ろ。一歩。それが限界。だが十分な一歩だ。

 僕の服、布一枚のところギリギリを河上彦斎の刃が通過する。

 よし、かわせた!


 ――だが。


「がっ!!」


 熱が来た。


 痛み。痛みだ。全身を駆け巡る死と絶望の鋭痛。体が真っ二つになったかのような感覚。


「我が必殺剣は触れたものすべてを斬る。たとえそれが空気であろうと、必ず目標にたどり着き、斬る」


 スキル。それが頭に思い浮かんだ。けどそれがどうした。スキルなら僕にだってまだある。まだだ。まだ生きてる。体も繋がっている。なら、戦える。


「ぐっ、おおおおお!!」


 吼える。死の恐怖を、痛みを忘れるように。

 だがそこにあるのは蛮勇。無謀とも言える特攻。


「散れ」


 刀を持った相手に無手で飛び込むのは愚の骨頂。さっきはなんとかなったけど、そんな幸運が二度も続くわけない。

 あ、死んだ。

 完全にそう思った。


 そして河上彦斎の刀が、僕の頭部を両断する。その刹那。


 金属音が響いた。


「…………え?」


 金属音?

 残念ながら僕の頭は金属製でできていない。いや、むしろすべてを斬るとかいうなら、金属すらも断ち切る気がする。またくだぬものを斬ってしまったとか言いそうに。


 けどそれが起きていない。

 そう。僕の頭の直上。そこに河上彦斎の刀があった。もちろん振り下ろした刀が途中で止まるなんてことはない。それは何かが妨害しているから。そしてその妨害しているものは――


「ふぅ、やれやれ。なんか前にも同じことがあったっすよねぇ」


 僕と河上彦斎。その間に立つように。


 風魔小太郎がそこにいた。

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