第42話 敗者のこと
「え……」
一瞬、何が起きたか分からなかった。
剣を振り降ろそうとした男が、瞬間、硬直したように止まったのだ。
「なんで、おじゃ……」
男の体が揺れ――倒れた。
その背にはばっくりと切り裂かれた傷跡があり、その奥からどくどくとどす黒い液体が流れている。男はぴくりとも動かない。
「あーあ、またやっちまった」
その背後にいた人物――長尾景春が、どうでも良さそうにぼやく。その手には血に濡れた剣。それがこの凶行を引き起こしたのが誰なのかを如実に語っている。
まさか、この男が? 僕を助けてくれたのか?
助かったという思いより先に、何故? という疑問符が頭に次々と浮かび上がる。だってこの男は、僕を捕まえてトンカイ国に引き渡そうとした張本人でもあるのだ。それがなんでこの期に及んで僕を助けようとするのか。
それほどに唐突過ぎる出来事だった。
「き、貴様!」
唐突だったのは彼女にとってもだろう。
一瞬の間をおいて、ようやく事態を認識した小松が剣を抜いて景春に斬りかかる。一応、男の護衛でついてきたらしい彼女。それがこうもおめおめと、目の前で護衛対象を殺されてしまったのだ。彼女の役目たるや、だろう。
だがそれを景春はこともなく防いだ。
「おお、強い強い」
景春はひょうひょうとした様子で、次々繰り出される剣戟を防ぐ。あのクラーレを叩きのめした小松と互角に渡り合うなんて。剣技も十分じゃないか。
「ふざけるな! なんのつもりだ、長尾景春!」
「なんでも何も、気に入らないから斬った。それだけだろ」
「っ……! だからって!」
彼女も斬られた男に対して思うことはあるのだろう。けど、彼女は彼を守ることを命じられていた。それを防げなかった。その憤りが力となって景春を襲う。
金属音と火花が狭い空間に響き渡る。
だがその終わりは唐突に訪れた。
「っ!」
小松の怒り爆発の連続攻撃が、景春の防御を飽和させ受けに回らせる。その期を逃さず、小松が渾身の一撃を振るう。それを無理な体勢で受けようとした景春の剣が折れたのだ。
「あーあ……また“負け”か」
剣を突きつけられ、折れた剣を眺めながら景春がひとりごつ。
「首を出しなさい。あなたの首でトンカイ国への罪をあがなう」
景春が殺した相手は、トンカイ国の貴族というだけで小松が処断する大義名分はある。しかも今回の場合、使者としての特性も兼ね備えるので、景春が行ったことはトンカイ国を裏切って喧嘩を売った宣戦布告以外の何物でもないのだ。
だから殺気立つ小松の行為は正しい。だがその突きつけられた剣を見ようともせず、いや、気に留めようともせずに景春はぽりぽりと頭を掻くと、
「やれやれ、“負け”ないと勝てないなんて辛いもんだ。いや、それは勝ってると言えるのか? 勝つためには“負け”る必要がある。けど“負け”ることで勝つとなると、“負け”も勝ちも同じってことか」
「何を言ってるのです?」
負けた。そう、この状況。長尾景春の負けだ。なのになんだ。この余裕。いや、あるいはこれか。これなのか。僕が感じた、この男の不気味さ。その正体。
「“百戦百敗”」
瞬間、景春の体が消えた。いや、物理的に消えるわけがない。僕の眼が景春の動きについてこれずに消えたと感じたのだ。
「な……」
目の前で相対する小松の方が、その驚きは大きいだろう。文字通り、目の前から人が消えたことに戸惑いの方が先行する。
「こっちだ」
声。長尾景春が小松のすぐ横に現れた。それに小松が反応する前に、景春は左手のひらを小松に突き出すと、
「ふっ!!」
突風が起きた。この地下室の、締め切られた世界に荒れ狂う風が僕の体を襲う。
だがその直撃を受けたのは小松だ。真横からの突風にさらわれ、鎧を着こんだ小松の体は軽々と吹き飛んで土の壁に思いきり激突した。
まるでビルから落下したかのような激しい音と衝撃が響く。
「ぐっ……あ……」
苦悶の声を漏らした小松は、白目をむき、そのまま地面に倒れ伏した。
圧倒的じゃないか。
しかも手も触れずに小松を吹き飛ばす。まさに人知を超えた力。
「それが……お前のスキルか」
「ん。ああ、そうだ。もう分かっただろう? 俺は負ければ負けるほど強くなる。昨日はお前の口論に負け、あの歩き巫女にも負けた。さらに今日。この変態馬鹿を斬ったことで俺は負けた。作戦がパァになった。そしてまたこの小松お嬢ちゃんに負けた。だから強くなった」
「風を操ったんだな」
「ああ、そうらしい。原理は良く分からんがな」
負ければ負けるほど強くなる。しかもその負けの定義は多種多様。実際に死ぬわけじゃなく、その直前でも負けの定義になるということだろうし、口論やプラン崩壊による失敗も負けの定義に入るということなのか。
なんだそれ。無敵じゃんか。
対処法は思いつく。要は一撃で彼を殺せばいい。
しかもその前に“殺される”と彼が認識した時点で彼の『負け』は決定されるだろう。そのパワーアップした彼を、一撃で殺すことができるのか。
しかも風を操るとか、なんか主人公チックな力じゃないか。それがどこまで応用できるのか分からないけど、風で障壁を作るとか、襲って来る相手を弾き飛ばすとかが出来ると仮定すると、そもそも一撃必殺を叩き込むことも不可能だ。
「くっ……」
フラッときた。足の出血は止まっていない。傷は深くないとはいえ、このまま放置するのはマズい。
「おっと、そうだった。すぐに医者を手配しよう。その程度の傷でも、膿めば命取りだからな」
助けてくれるのか。少し意外だった。
いや、あの男の凶刃から助けてくれたのだから、この程度は驚くべきことじゃないんだけど……。どうもしっくりこない。あるいは、この男は一体何がしたいのか。
「お前、何が目的なんだ」
もう状況がここに至っては、直接質問をぶつけてみた。
僕をこうやって助けるだけじゃなく、あの貴族の男を斬ったのが計画の失敗になるのなら、そもそも殺すつもりはなかったのだろう。小松だって、荒っぽいことをしたもののまだ生きてる。
つまりこの男には僕らを殺すつもりはなかった。
けど間違いなく、今、この男は反旗を翻した。イース国の僕らをだまし討ちし、さらにトンカイ国の彼らもだまし討ちした。
つまりトンカイ国を後ろ盾にイース国とザウス国を攻め滅ぼすという最初に考えた絵図はまったく違うということになる。
だとしたら、一体この男は何を企んでいるのか。
「まぁいいだろう」
そう景春は小さくうなずくと、とんでもないことを口走った。
「トンカイ、ザウス、イース、すべてを相手取っての大戦。それが俺の目的だ」
 




