第39話 長尾景春のこと
「そういや、長尾景春。聞いたことあんな」
一触即発から落ち着いた繁長は、ふと思い出したようにそう言った。
「知ってるのか、繁長!?」
「ああ、上杉の姉御から聞いたことがあったな。確か、親父さんのころの話だとか」
「ちょっと待った。ちょくちょく聞くけど、上杉の姉御って誰? もしかして上杉謙信のお姉さん?」
上杉謙信の姉。長尾政景に嫁いで、のちの上杉景勝を産む。
「ん? ちげーよ。姉御はあれだ。うちのお屋形様だろ」
「…………お屋形様って……上杉謙信本人!?」
「なんだよ。姉御は姉御だろ」
「いや、てゆうか……女性!?」
「え? 知らねーの?」
いや、そんな当然だろって風に言われても……。
千代女に視線を向けるけど、彼女も困惑したように首を横に振った。
「知らなかった」
「そ、そう」
上杉謙信女性説はあったけど、マジもんだったってわけか。世紀の大発見というか。え、マジ?
「確かに女だてらに戦の日々は辛いんだろうけどよ。あの人の強さはハンパねぇぜ? タイマンでやり合っても柿崎のおっさんをぶちのめすほどだし。その上で『そんな腕で我が家の先陣のつもりかこのゴミムシが』『弱すぎるからさっさと討ち死にして? 兵糧の無駄だから』なんて感じでなじられるとよ……そりゃあもう、勇気百倍、ええ、士気も最高潮ってわけよ!」
えぇー……なに。上杉家って変態しかいないの? ドMの集団なの?
それより柿崎のおっさんって、上杉家最強と言われる柿崎景家? それをぶちのめすの? いや、上杉謙信のパラメータならそうなのかもしれないけど。女性って聞くと、ねぇ。
「いや、今はとりあえずおいておこう。その長尾景春ってどんな人だって?」
「えと、あんま覚えてねーけど。確か姉御の親父さんと手を組んで戦ったとか言ってたな。今じゃ姉御が守護についてるが、元は越後の守護は越後上杉家の人間だったわけだ。それが親父さんに殺されて、山内上杉がブチギレた。なんでも当時の関東管領・山内上杉当主は、越後上杉から来た人間だとか。腐っても関東に覇を唱えた山内上杉、それに対抗する形で手を組んだって話だ」
「へぇ。そういや山内上杉の真の家宰とか言ってたっけ。つまり関東の長尾氏ってことか」
「ああ。その関東管領も最終的に姉御の親父さんに討ち取られることになるんだが。まさかその系譜の人間から、関東管領の職をもらうなんて夢にも思わなかった、って姉御が酒の席でこぼしてたな」
そう。長尾景虎が上杉謙信になったのは、上杉家の養子となって家督を継いで関東管領職についたから。その関東管領を与えた人物は、河越夜戦で小太郎のいた北条家にボコボコにされて謙信を頼ったというから、上杉謙信の父親である長尾為景が殺した子孫がその子供を頼ったということになる。確かに皮肉な話だ。
「ということは長尾景春ってのは、関東管領の部下で、何かの理由があって対立。上杉謙信の親父さんと手を組んで関東管領に反逆していたって人か」
「そんな感じじゃねーか。あ、そういえばもう1人、手を組んだとか言ってたな。そうそう、伊勢宗瑞だ。越後、上野、伊豆の3方向からボコってやろうって感じ」
「うわ、なにその極悪トリオ」
戦国時代を象徴する下剋上の体現者である梟雄・長尾為景と伊勢宗瑞こと北条早雲。それと手を組む相手とみなされていたということは、かなり名を馳せていて、さらに力もあったということなんだろう。
それほどの危険な人物だとは思ってもみなかったな。あの最初に見せた人当たりの良さげな態度も、謀反人として生きていくための処世術だったということか。
ただ気になるのは、彼が言っていたスキル『百戦百敗』。確かにそう聞こえた。ってことは勝ててないってことなのか。いや、そりゃそうだ。勝ってたら、彼が関東管領にとってかわるみたいな歴史があったはずだ。なのに今の今まで僕は長尾景春という人物を知らなかった。ということは負けたからこそ、歴史の海に埋没したということで『百戦百敗』というのはそういうことなんじゃないか。
長尾為景と北条早雲という東日本の二大梟雄が認めるほどの実力者だが、勝利者になれなかった不遇の男。長尾景春。
それが今のこの相手となると、一体何を考えているのか……。
「イリス、話は終わりまして?」
僕らの話がひと段落したとみてカタリアが問いかけてきた。
「ああ。一応」
「なんですの、一応って。それよりあなたたちが知っている人なのね、あの男は」
「あー、まぁ知っているというか、なんというか。聞いたことがある程度?」
この話の前に千代女と繫長にはカタリアたちには僕らのことを黙っておくように念を押しておいた。というか別世界から来ました、とか時代を越えています、とか言っても信じられないだろうから、そこは2人とも神妙に頷いてくれたけど。
「まったく。そういうことは早く言いなさい。こんな屈辱を受けずに済んだかもしれませんのに」
それも確かにそうといえばそう。長尾景春というのが、それほど危険な男だと知っていれば。少なくとも出された食べ物を口にすることはなかっただろう。
もちろん、この世界において誰がイレギュラーなのかなんてわからないわけだし、それを前提に誰もを警戒していくにはヘヴィすぎる。今後の対策として考えつつ、とりあえず今はそういった人物だと知れたことから、この状況を打破することを考えよう。
「あなたも知ってたならさっさと言いなさい、このへぼ!」
「おおぅ、カタリアのお嬢。いただきましたぁ」
カタリアに罵倒されて喜ぶ変態1人。さっきまでと打って変わっての軟弱ぶり。本当にこの男、本庄繫長? 騙りじゃない?
ともあれ、相手の正体は知れた。敵を知り己を知ればなんとやら。
その情報を踏まえて、あとはどうこの状況に対処するかを考えるべきだが……。
と、その時だ。
外――牢屋の鉄格子の奥から、ガチャガチャと金属のこすれる音が聞こえてきた。
見れば奥にあった扉が開き、そこから数人の男たちがこの地下牢のある空間に入り込んできた。彼らは鉄の鎧を着こんで、槍を手にしている。さらに腰には剣を差しているから正規兵に近い人物だろう。
それが一体何をしに、と一瞬思ったけど、同時チャンスだと思った。
彼らが僕らを逃がしにきたとは思えない。一番ありえるのは殺しに来たということだろうけど、だったら毒でやられた時に殺せばいいだけの話。僕らをここに閉じ込めたということは、そのための見張りが必要だし、僕らを死なせないために最低限の食事や医療品というものが消費される。その消費はもちろん空から降ってくるわけがないから、この豊かとは思えない山中の反乱軍の軍資金から出ているのだろう。
つまり、今ここで僕らを殺してはその分の出費が無駄になる。もちろん気が変わって、あるいは政情の変化により殺すことにした、ということはあるだろうけど、確率としてはかなり低いだろう。
だからあるいは。彼らは単に用があるだけと考えれば――
「おい、出ろ」
鉄檻のところまでたどり着いた先頭の見張りが居丈高に言い放つ。
「ようやく来ましたわね。いいでしょう、行きましょうかイリス」
「いや、出るのはイリス・グーシィンという者だけだ。他の者はここで待て」
「なんでですの! なんでイリスだけ!?」
「おい、カタリア……」
僕が止めようとするより、見張りの兵の方が動きが早い。
見張りの1人が手にした槍をカタリアに突きつけた。サンと繁長がにわかに色めきたつ。槍の穂先があと少し動けば、カタリアは死ぬ。驚きに目を見張ったカタリアに対し、勝ち誇った様子で、
「これはお頭の命令だ。従わなければ殺す」
「……っ!!」
言わんこっちゃない。僕らは囚われの身なんだ。生殺与奪の権利はあちらにあるのに、そんな威張り散らせばそうなる。
「カタリア。ここは従おう……外の様子は探っておく。機を見て脱出の指揮はお願い」
後半は見張りに聞かれたらマズいので、小声で耳打ちするように言った。
カタリアは少し不満そうな顔をしながらも、恐怖を打ち消すように僕を睨みつけて、
「仕方ありませんわ。ここはあなたに任せます、イリス」
「はいよ」
見張り3人くらいなら手を塞がれている状況でも叩きのめすのは容易い。けど、その後がどうなるかがまったく分からない。
もしかしたらすぐ外には、反乱軍2千が待ち構えているかもしれない。あるいは断崖絶壁の牢屋なのかもしれない。そう考えると、外の情報が一切ないのは脱出に不便だ。
だから呼ばれるついでに外の情報を手に入れようと考えているわけで。時間がないのは確かだけど、ここで焦って脱出の機会を潰しては本末転倒。しっかり準備して、逃げられると決まった時には一気に行く。それが今は大事だろう。
そんなわけで僕は1人、檻の中から出た。といっても縄は解かれないし、前後を槍で武装した見張りに挟まれている状態。まだ動くには早い。そう思わせるこの状況。それをチャンスにできるかどうかは、ひとえに僕の話術。それ以上に長尾景春という男の根本を見極めることが必要になってくるだろう。
さて、鬼が出るか蛇が出るか。
こんな状況にもかかわらず、あの二大梟雄が認めた男と対することへ楽しみが少し、胸の奥から沸き上がっているのを抑えることはできなかった。




