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第38話 上杉と武田のこと

 頬を打つ水の気配。それで目を覚ました。

 目を覚ましたといってもそれはただ目が開いたというだけで、頭にもやがかかったみたいにぼやっとして意識がはっきりしない。はっきりと現状を認識して、僕が僕であることを認識するにはあと数十秒が必要だろう。


 そう。意識がぼうっとしても、思考は動く。ただゆっくりと、徐々にアクセルを踏み込むようにじっくり慣らしていく。視界。一面の茶色。それが何を意味するのか。壁。土の壁だ。目の前と右側に立ちはだかるようにそそり立つ土の壁。いや、違う。壁というのは一部が間違っている。その答えは僕の右半身が知っている。僕の右側頭部、そして右肩。それが壁にもたれかかるようにしていて、そちらに重力を感じているのだ。

 つまり――僕は今、右肩を下に地面に横たわっている状態。


 それを意識した途端。視界がパァっと開けたように広がった。脳のエンジンが暖気されてハイウェイを走り出したようだ。はっきりとした意識の中、僕は土壁に囲われた空間に倒れているのだと知る。


「イリスっち、目、覚めた?」


 僕を呼ぶ声。この声は……そう、サンだ。となれば次に来るのは……。


「くっ……ええい、早く起きなさい! わたくしが起きてるのに、寝ているなんて許しませんわ!」


「いや、お嬢もほんの数十秒前まで寝てたじゃんか」


「黙りなさい、サン! 数十秒でも先に起きた方が偉いのです!」


 ああ、やっぱりカタリアだ。しかも通常運転。


 こいつの相手するのは疲れるけど、状況的に仕方ない。ゆっくりと体を起こす。体が重い。まるでインフルエンザにでもかかったみたいだ。少し吐き気があるのは、まだ体内に毒があるからだろうか。


 再び倒れたくなる体を叱咤して、上体を起こそうとする。だがそれが難しい。なぜかと思うまでもない。僕の両手は荒い縄でがんじがらめになっていた。荒い縄目ですごいチクチクするのがストレスだ。手錠の代わりということか。


 それ以上に、今僕らがいる状況。一目で分かるほどに単純にして明快。

 土の壁に囲まれた空間。その一方は複数の鉄線によって区切られていて、まさに四方を壁に囲まれた状態だ。


 早い話が土牢つちろう


 戦国の天才軍師・黒田官兵衛が捕らえられた土牢は、立つこともままならないほどの狭くて、しかも水はけが悪くてじめじめしている場所だったらしいけど、それと比べたらここは天国だ。天井は2メートルくらいあるから立ち上がっても問題ないし、広さ的にも前に住んでいた自宅の自分の部屋くらいはある。

 といっても1人じゃなく、僕、カタリア、サン、千代女、繫長の5人がまとまっての牢だから広いというわけではないけど。


 というか繁長が一緒か。男1人対して女子4人とかどんなハーレムだよ。こういう時は男女別にしてほしいよな。ま、向こうからしたら警備の人数を分けたくないんだろうけど。あるいはそんな長い時間放り込むつもりじゃないのかもしれない。


「あー、もう! 不覚ですわ。こんな幼稚な罠に引っかかるなんて。ちょっと! 誰か! いないのですか! このわたくしをこんなところに閉じ込めて! 一体なんのつもりです! なんとか言ったらどうなのです!?」


 こういう状況でもこいつは元気だなぁ。それはある意味羨ましいというか、この場においてはありがたいものだ。ともすればこの後の僕らの運命を考えるとふさぎ込みたくもなるけど、こうして1人が諦めずにあがこうとしているのを見ると、こっちもやってやろうと思って来るのだから。


 というわけで、カタリアの勢いに僕も乗っかろうか。こんなところにいても絶対良からぬことが起こる未来しかない。なんとかここを脱獄なりして、味方に合流する必要がある。

 特にここの連中が、トンカイ国と結んでイース・ザウス国に対して破壊工作を行おうとしているならなおさらだ。


「千代女、ちょっといい?」


「イリス……不覚。申し訳ない」


「いや、いいんだ。僕も迂闊だったから。それより聞きたいんだ。長尾景春って誰?」


「わたしも知らない。長尾って言うから、越後の馬鹿のこと?」


「越後の馬鹿って……もしかして上杉謙信?」


 上杉謙信の元の名前は長尾景虎ながおかげとら。だから同じ長尾家というのもありえなくはないんだけど……。


「馬鹿でしょ。東へ西へ南へ。年がら年中、いくさばかりで何がしたいの。はっきり言って大迷惑。あいつのせいでお屋形様の覇業は遅れに遅れた。典厩てんきゅう(信玄の弟)様も(山本)勘助もあいつのせいで亡くなったし。死ねばいいのに」


 うん。まぁそういう風に見るよな。武田側からすれば。

 けどあの上杉謙信を馬鹿呼ばわりなんて、千代女くらいしかできないぞ……ははは。


 なんて呑気な感想を抱いていたが、それが1つの地雷になっていて、そしてそれを踏み抜いていたというのを僕はまだ認識できていなかった。


「おうおうおう、そこの姉ちゃん! なんか好き勝手言ってくれてるじゃねぇか!」


 隅っこでぼぅっとしていた本庄繫長が、眉を吊り上げてこちら――もとい千代女の方へと詰め寄って来た。


 あ……そういえばこの2人。

 そう。武田側の望月千代女と上杉側の本庄繫長となれば、それはまさに宿敵の間柄。5回にわたる川中島の戦いだけでなく、関東攻めにおいても武田と上杉はひたすらに争い続けてきた。


 今までは千代女は山県昌景と、繁長はカタリアについていたから顔を合わせることもなかったけど、ここで今、お互いの立場がはっきりとした上に、牢屋の中という文字通り逃げ場も何もない空間に押し込められているのだからガチンコ待ったなしだ。


「姉ちゃん、もしやもしやと思ってたが……やっぱあれか? その格好。武田の側室かなんかか? あぁ!? だとしたらぶっ殺しても文句ねぇよなぁ!」


「ふぅん。あんた、長尾の家臣? はっ。これだから北の脳筋は。きっと雪で脳まで凍り付いてる」


「あ? 馬鹿にしてんのか? やんのか、てめぇ!」


「馬鹿にしてる。うん。言わなきゃ分からない? それとも日本語が不自由? 所詮、越後の田舎者ね」


「はっ、そっちこそ甲斐とかいう山奥の秘境育ちの猿が。よく文明に馴染めたな。よく人語を話せたな。おめでてぇやろうだ。褒めてやるよ」


「はい、もう殺す。あの足柄山の男女と一緒に、お前を殺す」


「ぶっ殺すのはこっちの方だ! 1回痛い目に遭ってるからよ。女だからって加減はしねぇぜ!」


 千代女と繁長の距離が詰まる。およそ1メートル半。どちらも踏み出せば相手に当たる距離だ。


「ホンジョー! 一体何の騒ぎです!」


 それを見かねたカタリアが繁長を問いただす。


 お、いいぞ。カタリア。頼むからこの2人を止めてくれ。


「悪いがカタリアのお嬢! こいつは退けねぇな! 忌々しい強欲の化身、武田の敵が目の前にいてぶちのめさなけりゃ、散っていった仲間たちや、ご先祖様に顔向けできねぇ!」


「……む、そういうことなら」


 おい、それで引き下がるなよ!

 くそ、仕方ない。


「2人とも、タンマ。頼むからやめてくれ」


 今にもこの狭い空間でガチバトルを始めそうな2人の間に立って、争いを止めようと動く。


「イリス。これは死活問題。ここに長尾てきがいる。長尾てきは殺す。それだけ」


「おい、イリス。おめぇ、まさかその山猿に手を貸すわけねぇよな? だったら、お前ごとぶっ飛ばすぜ」


 あー、もう。なんでこんな火がついちゃってるんだよ。


「なぁ、今はそんなことで争ってる場合じゃないだろ。ここをどう脱出するか。それが今の僕らのすべてだろう?」


「なぁに、1人くらい減っても問題ねぇだろ。むしろ足手まといが1人減って脱出しやすくなる。さぁ、どけイリス」


「足手まといはそっち。イリス。こいつがいると脱出できない。だからここで今、討ち果たしておく。それが正解」


 ダメだ。完全に出来上がっちゃる。


 どうする。こんなところで争ってる場合じゃないってのに。ええい、こうなったら一か八かだ。軍神。力を貸せ。


「むっ」


 体が動く。千代女と繁長の間。まさに殺し合いが始まるその真っただ中に。


「お願いだ、2人とも。ここで殺し合っても意味はない。むしろマイナスだ。これからのイースにとって、2人はなくちゃならない存在なんだ。だから頼む、退いてくれ。さもなければ――」


「ければ?」


「僕が相手をする」


 言っちまったー。武田の歩き巫女と上杉の特攻隊長相手に。争うなと言っておきながら、ここを通りたければ自分を倒していけなんて自己矛盾を抱えつつも、こうするしかこの2人の気を発散させるのは無理だろう。呂布や項羽を相手にするよりは……幾分かはマシ、か?


「イリス。どいて」


「どけない。ここでの殺し合いは無意味だ」


「…………ずるい。イリスと戦えるわけ、ない。それが知盛あいつとの約束」


 千代女が悔しそうに一歩後ろに退く。


 よし。なんだか弱みに付け込んだみたいで気が引けるけど、これであとは前門の狼だけ。それが一番の問題だけど。


 本庄繫長。

 上杉家きっての猛将。謙信、景勝の二代にわたって仕え、一度謀反を起こすも許されその後は忠節に励み、最終的には関ヶ原後に徳川家との和平交渉を任されるなど、実は政治的な面も持ち合わせている文武両道の男だったりする。

 背丈は僕の1.5倍近くありそうで、2メートル近い巨漢。戦国時代――もといこの時代では、人間山脈といっても過言ではないほどだ。

 そんな巨体の大男が目の前に立って敵意をむき出しにすれば、常人なら腰を抜かすか一目散に逃げ出すだろう。


 けどここに逃げ場はないし、腰を抜かしている場合じゃない。僕が止めないと、イリス・グーシィンの逃避行は国都脱出から1週間もしないうちにゲームオーバーだ。


 だから丹田に力を入れて繁長を睨み返す。呼吸を浅く吸い深く吐く。


 最初だ。最初の一撃を防ぐ。それに全力を賭ける。


 ピクリ。

 動いた。来る。集中しろ。全力で一撃を――


「――くっ、はっははははは!」


 不意に響く笑声。


 え? 笑った?

 繁長は構えを取りつつも、さも可笑しそうに呵呵大笑かかたいしょうする。何が起こったか分からないまま、繁長は僕を見て頬を緩め、


「わぁーったよ。ここは退いてやる。俺だってそんな馬鹿じゃねぇ。ここでこいつとやり合ったら、それこそどっちかが死ぬまでやるしかねぇだろ。それにカタリアのお嬢にも迷惑かけるだろうしな」


「……そ、そうか」


「本来ならお前と一戦交えてぇところだがな。なんでも軍神と呼ばれてるそうじゃねぇか。上杉の姉御とどっちがヤベェか、見てみたかったぜ」


 いや、上杉謙信と比べられても……。


「ふん、というわけだ武田の忍。ここはイリスに免じて許してやる。次はねぇと思え」


「こっちの台詞。イリスがいなければお前が転がってた。首と胴が離れなかったこと、イリスに感謝して」


「はっ。その前にてめぇのちっこい体をぶっ潰してやるぜ。あ、ならやるか? おお?」


「望むところ。首がなくなっても後悔しないで」


「2人とも!!」


 あー、もう。結局火種はくすぶったままか。

 この2人との旅。前途多難すぎる……。

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