第19話 子のこと
それはこの世界に来て以来、初めての衝撃だった。僕の正体がバレる。そんな日がいつか来るとは思っていたけど、この時、この場所で、この相手からだとは全く思わなかった。
「な、何を言ってるの。父さん。僕は僕だよ、イリスだ」
「いや、お主はイリスではないよ。これでもあれの父親よ。それくらい分かる。去年の半ば。ザウス国から帰って来たお主の変わりようを見て、わしはイリスが改心したのだと喜んだ。けど、違うな。その後のお主の言動、主義主張、そのすべてがどこか元のイリスとは少し違う。息子たちはそういうもんだと思ったのだろうが、わしにすれば大いなる違和よ。お主はイリスではない。それは間違いなくな」
「…………」
言葉にならない。実の父にそう言われれば、そしてそれがあたっていれば、反論する言葉もない。
「だが困ったことがある。お主はイリスではないが、だからといってイリス以外の何物でもない。なりすまし、というのも少し違うな。憑き物、というべきか。トンカイより南にある国では、何かが憑いたことで発狂したようになる物狂いというものがあると聞く。狂ったようには見えないが……そうなれば、何が憑いたか。祓わねば、もとのイリスには戻らないということ。ならば――」
すらり、と金属のこすれる音。何かと思えば、父さんが持っていた杖。それを引き抜くと、中には刃が。仕込み杖かよ。腐ってもグーシィン家の元当主ってことか。
そしてその剣をこちらに向けて構えるさまは、老いたとはいえイース国の重鎮を思わせる重量感と迫力がある。ましてや娘をどこの誰とも知れない悪霊に取りつかれたと思われている――いや、悪霊というのも含めてまさにその通りだ。その通り過ぎてぐうの音もでない。あの状況。死に瀕したとはいえ、勝手に僕が乗り移って彼女としてふるまっているのだから、悪霊憑きと呼ばれてもいたしかたないと思う。
そんな父さんが、まさに鬼のような形相でこちらを睨み剣を構える。
その視線が僕を両断するような鋭さを持っていて、それ以上に鋭い刃がこちらに向いている。あの呂布の前に立つのとはまた異なる感覚。死ぬとは思わない。けど生き残れるとも思えない。そんな感覚。
「違う! いや、違わない、んだけど。そのなんていうか」
「そうか、認めるのか」
「ちがっ、いや、違うというか」
どうする。相手は父さん、しかも剣を持ってる。生半可な対処じゃ斬られるし、軍神を使えば乗り切れるかもしれないけど父さん相手にそれはまずい。
「…………」
「…………」
無言の対峙。息が吸えない。いや、吸っている。けどこの緊張。重苦しさが通常の呼吸をさせない。吸っているんだけど入ってこない。吐いているのに出ていかない。その悪循環がただでさえ困惑している思考にもやをかける。
バレた。どうする。白を切るか。命乞いをするか。それとも、父さんをどうにかするか。いや、ダメだ。どれを取ってもその後に続かない。どうしようもない未来しか見えない。
あるいは。1つ光明を見いだすとすれば、それは逃走。闘争ではなく逃走。父さんの一の太刀を外してそのまま扉を出て外へ。金も何も持たないまま着の身ひとつで逃げ出す。
けどそれは文字通りの逃走で、イリス・グーシィンという存在からの逃走でもある。今後、僕はイリスでもなんでもない、グーシィン家とは何もかかわりのない人間として生きるしかない。イース国に戻るのはもちろん、ラスのもとに行くこともままならない。まさに死人も同然の暮らしとなる。
これまで出会った人たちと断絶して、別人として別のところでただ生きる。死なないだけで生きていない生活を送る。そんな未来しか見えてこない。
ああ、なんてことだろう。
いつの間にか、僕はこの世界に来て、この世界が本当の世界になってしまっていた。この世界で出会った人たちが、僕の命を繋いでいた。
父さん、ヨルス兄さん、トルシュ兄さん、タヒラ姉さん、ミリエラさん、ワイスさん、カタリア、ラス、ユーン、サン、トーコさん、クラーレ、ショカさん、カーター先生、ムサシ生徒会長、変態太守と爺さん。イース国だけでこんなにたくさんの人たちと知り合って、そして生きてきた。たくさんのイレギュラーの人たちとも、イリスとして付き合い、時に戦い、時に語らい、生きてきた。
温かかった。
今にして思えばそれに尽きる。
前の世界。仕事で他人を斬り捨てる。それを成果として生きてきた。友もなく、愛する人もいない。社長からは信用されていたと思ったけどそれは仕事上のことで、所詮自分も駒でしかなかった。家に帰れば独りでゲームに興じるだけ。画面の向こうには誰かがいるけど、顔も名前も性格も知らない赤の他人。こんな風に誰かと一緒に生きる世界じゃなかった。
思えばそれは過去に根差していたのだと思う。父も母も、忙しさにかまけて僕の相手なんかしなかった。とにかく合理主義で、よくこんな2人が出会って僕が生まれたのだと思った。ご飯も1人で食べることが多く、ほぼ毎日が留守番。親が買ってくれたゲームや本も、罪滅ぼしの意味合いじゃなく、それさえ与えておけば留守番ができるだろうという合理的判断によるもの。
今にしてはそうやって言語化できるが、当時はそれがなんとなく嫌で、でもゲームとかは面白くてそちらの世界に逃げ込んでいたような気がする。
そんな自分が、こんな温かい世界にいていのかと思ったことは数えきれない。
それでもこの世界に間違いなく自分はいて、他のみんなと様々な関係性を築き上げてきて、そんな世界が……好きだった。間違いなくそう言える。恥ずかしくても。そう思えていた。のに。
それが消える。
それはこのたった1年だけど、自分の人生の集大成ともいえるような1年が水泡に帰すというようなもので。いや、女々しい。そもそもが嘘の上に成り立った世界だった。けど、それは間違いなくここに生きている僕の世界は真実で。
「………あ」
泣いていた。
なぜだか分からないけど、涙があふれて止まらない。何が悲しいのか、何が虚しいのか。何もかもが分からない。あるいはこのまま父さんに斬られた方がいいのかとも思うと、さらに涙があふれだす。
この歳になって、まさか人前で号泣するとは思わなかった。それでも涙は止まらない。止めようと思っても後から後からどんどん出てくる。
もうこのまま斬ってくれ。そう父さんに言いたいけど、嗚咽が出るだけで言葉にならない。
「…………ふぅ」
父さんのため息。そしてチンっと何かが鳴る。
「わしも甘いなぁ」
「え?」
「お主は斬れんよ」
目をこすって父さんを見る。仕込み刀はすでにしまわれていて元の杖に戻っている。さらにこちらを見る父さんの表情は、先ほどまでの鬼のような形相ではなく、これまでと変わらない、どこか好々爺然としたものに戻っていた。
「お前はイリスだ。イリス以外の何物でもない。その涙で感じた」
「…………でも。僕は」
「いや、イリスだよ。お前の言葉が聞こえた。自分は自分だと。そう訴えかけるお前がいたよ。そんな娘の必死の叫びを、どうして父親が無視できようか。お前はお前だ。イリス・グーシィン以外の何物でもない」
父さんが何を見たのか、何を聞いたのか、それが本当なのか幻聴なのか思い込みなのか建前なのか。そんなことはもうどうでもいい。ただ父さんの思いが、ありがたい、ただそうとしか感じなかった。
「ありがとう……父さん」
「うん。お前もな」
その言葉が意味すること。それを考えるのはやめた。
この父親とは何かが通じ合えた。血は繋がっていなくても、1年しか付き合いがなくても。そう思えただけで、僕は満足だった。
「イリス、この国のことは私に任せなさい。お前は信じる道を行け」
「…………はい」
本当の親子じゃない。体はそうでも、心は違う。
けどここにいるのは間違いなく、僕の親だった。ほんの1年足らずの付き合いだけど、その心から見せる愛情は本物の親子そのものだった。かつての僕の親なんかではない。本物の。
それから父さんは静かに笑って、
「ではな。体に気をつけろよ」
そう言って地下室から出ていった。
鍵の音はしなかった。
「……まったく、洒落た真似を」
いつものイリスイリス言っている人とはまったく違う。すべてを知りながらも、それを受け止めて子の規範となろうとする。本物の格好いい大人という感じがした。
もし僕にも子供ができたら、ああいう親父になれるだろうかと。そう思ってしまうほどの。
だからこそ、今。
僕はその思いに応えるために、行く。この国から。外へ。




