閑話6 ツァン国
「ふぅ……」
ツァン国宰相、高師直はカップに入った黒い液体を飲み干してソーサーに戻す。
(このコーヒーというもの。初めて見た時は泥を飲ませるつもりかと憤ったが、なかなかどうして。飲むと頭がすっきりする。うむ、これは国内でもコーヒーの増産をしなければならないな)
八大国の1つにして、大陸中央に君臨するツァン国という大国の宰相として。何より先日、帝都を追われた皇帝を保護してから、師直はひたすらに書類と格闘していた。
皇帝の住処や警備のための出費、旧帝国領に住みつつもツァン国に亡命してきた流民の保護、それらに伴う元の住民への配慮。さらに(自分で言いだしたものだが)各国の反ゼドラ同盟の呼びかけとその受け入れに対しての準備。
仕事が増えることはあれど、まったく減らないのは手妻(手品)でも見せられているような感覚に師直はなった。
その逃避でありストレス解消方法の1つがコーヒーだった。
そのほとんどが外国からの輸入品で、近くではクース国でしか栽培されていないという貴重品。それをがぶ飲みするが如くに消費できるのは、さすがに大国の宰相という立場のためだろう。
今は既製品を楽しむばかりだが、豆の種類やひき方で味が変わるということを聞き、いつかは自分でブレンドしたいと考えているほどに中毒になっていた。もちろんそんな暇が訪れるとは思ってもいないが。これくらいの小さな夢はあってもいいだろうと彼は考える。
(あのころもこのコーヒーがあればなぁ。直義(尊氏の弟)の考えなしの政策に振り回されながらも、頭が冴えて一家断絶させる策謀が湧いただろうに。あ、直義を一家断絶させると殿(尊氏)も対象になってしまうか……ま、いいだろう。殿も少しは痛い目にあった方がいいしな。それに殿のあの躁鬱の気にも効くに違いないな)
などと物騒な物思いにふけるのが、彼なりのストレス解消法だった。
だがその憩いの時間も、ノックもせずに扉を蹴りあけて入って来た荒々しい音にぶち壊された。
「大変だ、師直!」
入って来たのはこの国の軍を統括する将軍、高杉晋作だ。
「トーギョ……いや、高杉だったか。なんだ騒々しい」
「ローカーク門が陥ちた」
「…………なんだと?」
ローカーク門とは、ツァン国と帝都の挟間にある門で、逃亡してきた皇帝とイリスらが逃げ込んだ門だ。帝都周辺をゼドラ国に支配されたとなれば、そここそがツァン国の最前線と言ってもいい。それゆえに皇帝にはそこから北東へと向かった城塞都市に移動してもらったわけで。
後のゼドラ国との対決を睨み、門には兵を入れて守りを固めていたはずなのだが、
「奪われたというのか、ローカークを?」
「ああ。ゼドラの奴に一蹴されたみたいだな。報告にあるだろ、源為朝の弓の異能だ。3日前のことだ」
「報告には入っている……が、本当にそんな簡単に陥落したのか? いや、それより将軍。なぜここにいる? ローカークに籠っているなら、もう少し戻ってくるのに時間がかかるはずだが」
「いや、俺はずっとここにいたからな」
「何故だ。軍の総裁が前線にいずに何をしていたのだ。これは懲罰ものだぞ」
「おいおい。国都にいて軍の再編を行えって言ったのはそっちだろ」
「………あ、そうだったか。うん……そう、だったな。すまない」
「ふぅ……寝てるのか?」
「ふっ。この私が眠るだと? 眠気など、このコーヒーをがぶ飲みすればあら不思議。目がしゃっきりして3日は寝なくても大丈夫だぞ?」
「血走った目で言われても説得力ないんだけどな……やれやれ、あんたも大変だねぇ」
「無能に任せると、逆に私の仕事が増えるからな。まったく、緊急時にもかかわらず遊郭で酒を飲んだくれる遊び人気質の男ではなく、もう1人の自分が欲しかったものだ」
「へー、そうだねー、そんな酷い男がいるんじゃあ大変だねー……泣いていい?」
「誰も貴君のことをなじっているわけではない」
「そうかい、それなら安心だ」
「ああ。真実、そのような不届きものがいれば免職して家財を没収したうえで罪人の烙印を押して追放するだけだからな。なに。軍の指揮くらいなら私にもとれる。北畠卿(顕家)や楠木の子せがれを討ったくらいの戦功しかないがな。あとは殿と共に全国を駆け回ったくらいで目立ったことはしていない。いやいや、私もまだまだだ。そうは思わないか、将軍様?」
「……気を付けます」
「ならいい。ところで気になっていたのだが」
ちらと師直は高杉の顔からその下、袴の横から覗く瞳に目を移した。もちろんそんなところに瞳があるわけがない。高杉の体に隠れるようにして少女が師直を覗いているのだった。
「その者は誰だ?」
「ん? ああ。ついてくるなと言ったのに……あー、これはあれだ。隠し子だ」
「そうか。国家の一大事に遊郭で飲んだくれ、果てには妊娠させたうえで見受けのための大金を軍資金であがなうという横領も行っていたとは」
「待った! そこまでしてない! てかそんなことするか!」
「なら何だ」
「……はぁ、その他人の感情を乱高下させる言い方なんとかならないか」
「これが性分なんでな。特に殿の時は楽しかったぞ。殿をおだてにおだてて躁状態に持っていきながら、一気に鬱へと叩き落す。その振れ幅が大きいほど殿の自殺願望が高まって、それはまた面白いのだった。自殺する直前に、いかに再び躁状態に持ち上げられるかを弟といつも賭けていたのが面白かったな」
「太平記で読んだ高師直像とはだいぶ違うな」
「後世の人間の評価に興味はないな。で、誰だ?」
氷のような冷たい師直の言葉に、少女はビクッと体を震わせ、高杉の影に完全に隠れてしまった。
「ああ、師直が脅すから」
「私としては幼子に対し、精一杯の愛情を込めた視線を送ったつもりだが。息子はこれでいつも泣き止んだ」
「それは怯えて……いや、なんでもない。彼女は帝国のお偉いさんの娘さんだ。先の戦いで父親を亡くし、さらに友人2人を亡くしている」
「マシュー、サンレーン、です」
高杉の横にちょこんと立ち、ぺこりとお辞儀をするマシュー。
「なぜ高杉のもとへ?」
「パパとカイヤ、オルトナの……かたき討ち。する」
たどたどしいながらも熱のこもった言葉を受け、何かを感じ入るものがあったのか師直は口をゆがませ眉をひそめた。その表情が恐ろしく、かつ人見知りのマシューは再び高杉の影に隠れてしまった。
「ああ、また怖がらせるから」
「何を言っている。今のは精一杯の笑顔を向けたのだぞ。その娘の健気で愚かな心意気に感銘を受けてな」
「え、今の笑顔!? しかも健気はともかく、愚かって!?」
「愚かだろう。友の仇討ちのためにだと。しかもこのような程度の低い男のもとに身を寄せるとはな」
「そりゃないだろ。……後半のことを聞いて、なおそりゃないだろ」
げんなりと肩を落とす高杉。だがそんな様子の高杉には目もくれず、師直は再び顔を半分だけ出して覗き見るマシューに視線を向ける。
「娘よ。仇討ちなどくだならいことに人生を賭けるなど愚かなことだ」
「ダメ。仇討ちする」
「相手は稀代の英雄にて猛将どもだ。そこにたどり着く前に、お前のような子供は100回は死ぬ。万が一、いや億が一、その猛将どもを討ち取ってそれで何が起こる? 死んだ人間が生き返るわけでもあるまい。あの世で死んだ者が仇討ちをしたことを喜ぶと思うか? そもそもあの世の人間に、この世を動かすことができない。喜ぶと思っているのはお前の頭の中だけで、死んだ人間は何もしてくれない。そのためにお前は本当に無理無謀のことをするとでも言うのか? それで死んだ場合、お前のことを慕う人間がどう感じるか考えたことはないのか?」
「…………えー」
「なんだ?」
呆然とした表情の高杉の視線に、師直は不機嫌そうに問いただす。
「師直がまともなことを言ってる」
「ふざけるな。私はいつも真面目だ。真面目に他人を蹴落とし、自分の都合のいいように世界を塗り替えることを考えている」
「あ、僕の感動を返して」
「それでも、やる」
大人たちのやり取りの間に入って、マシューは宣言する。
「やらないと、前に、進めない。……から」
「マシュー……」
高杉は痛ましそうにマシューを見る。この小さな子供。それがこうも追い詰められて生きているのはなんでだ。この世界、争いというものがなくならないのはなぜか。
対する師直は少し目を閉じ、再び開いた時には彼の言語はすべて論理を構築してあとは言葉を放つだけの状態になる。
「ふっ。自身が先に進むための通過儀礼ということか。ならば私が言うことは何もない。存分に私の駒として使ってやろう。そこの高杉とかいう男は、吞んだくれで女の尻を追いかけるのが生きがいの最低な男だが、1つだけ取り柄がある。弱き者を率いて戦うのが上手い。お前のような者なら、十全にその性能を引き出すことだろう。存分に励むがいい」
師直の言葉がどこまで通じたかは分からない。
だがマシューはその瞳の中に怯えと共に炎をともしていた。
「あのー、さりげに僕をけなすのやめて?」
対する高杉は、師直のディスりに心を痛めていた。
「気持ちを持った者は強い。お前も人を見る目はあるのだな」
「そりゃ酷いだろ……僕だってちゃんとやってるんだぜ。なんてったってマシューは面白い」
「どこがだ?」
「ふっ、よく見ろよ。マシュー」
「……?」
呼ばれたマシューは首をかしげる。
だが高杉はその反応に満足そうに頷いて、
「な?」
「何がだ!?」
「いや、面白いだろ。この子」
「…………もういい。それよりローカーク門が陥ちたならゼドラ軍はすぐに出て来るぞ。人形……いや、皇帝陛下の利用価値はまだある。殺させるなよ?」
「さりげに酷い言葉が混じっていたのは無視して、そこは抜かりない。ローカーク門の東には3つ砦を構築してる。それにローカーク門の北には山岳戦に富んだ連中を籠らせて、適当に帝都とローカーク門の間を襲うように言ってる。奴らはローカーク門に閉じ込められたようなもんだ」
「ふっ。食えない男よ。そのためにわざとローカーク門を奪わせたと聞こえるぞ」
「まさかそんなひどいことはできないさ。どこぞの宰相じゃあるまいし。たまたまそうなっただけで、状況を利用してなんとか取り繕っているだけさ」
「ならいい。あとは各国の軍勢が集まり次第、ローカーク門を奪還し、帝都を抜いてゼドラ国の国都を陥落させる。そうすれば誰がこの大陸の支配者か。全世界に知れ渡るだろう」
「やれやれ、あんたにそこまで露骨な野望があるとは思わなかったよ。僕はとりあえず適度にやれればいい。もちろん、マシューのことも含めてね」




