挿話3 カタリア・インジュイン(ソフォス学園1年)
「もう、なんなのよ! あの女は!」
ここは学校の保健室。
絹のシートが敷かれた診察ベッドに、乱暴に腰かけながら憤懣をシーツにぶつける。いい手触りじゃない。さすがですわね。
「ええ、まったくですわ。あの無粋な猿が何を言い始めたかと」
ユーンが同調するように、口をとがらせてなじる。左右に結んだテール状の髪の毛とそばかすがチャームポイントの美人。まぁわたくしには及びませんが。
「こうなったら……やっちゃう、カタリア様?」
サンは不真面目に、けど楽しそうに恐ろしいことを問いかけてくる。青の髪をばっさりと切ってショートにしている。一度、伸ばした方が可愛いんじゃない、と言ってみたけど、くせ毛がすごいのでと断られた。わたくしの提案を断れる数少ない友人だ。
ユーンとサンは小等部から一緒で、家も軍部の名家で小さいころから家族間の交流でずっと一緒だった2人だ。
2人が一歩、わたくしより引いたようにしているのは、さすがにわたくしの父上のことを遠慮してのこと。
けど知っている。彼女たちがわたくしに心酔していることを。その能力差によって、主役を引き立てようと必死に頑張っていることを。
ですからわたくしはその期待に応えるべく、これまで必死に努力してきた。
勉強や運動、武術に軍略、それらすべてをトップクラスになるまで習得してきたし、クラスメイトの交流においても圧倒的な支配を展開して顔つなぎを行ってきた。
彼らもいずれはこの国の中枢にかかわってくる人材。今のうちに“どちらが上かを躾けておく”のは重要なことです。
そのかいあってか、今のこの学校においてわたくしの同志でない人物は1割もいない。
その努力を見てか、ユーンとサンも進んでわたくしの引き立て役をしてくれるし、こうやっていつもともに行動してくれる。
だからこの2人は本当に気の置けない、わたくしの大事な大事な友人。
そしてもう1人。
5年前、お父様が開いたパーティ会場。
大人たちが談笑する中、姉もおらず暇を持て余した子供のわたくしは、会場を抜け出して出て行こうとしたところ、廊下でつまづいて転んでしまった。
いや、転ぶ前に助けられていた。
『おっと危ない。やぁ、素敵なドレスの可愛い子猫ちゃん。あぁ、もしかしてクラーレの妹さんだね。両親の仲は悪いけど、あたしらはひとつ、よろしくお願いするよ』
一目惚れだった。
それがのちにキズバールの英雄と呼ばれる、タヒラ・グーシィン様との出会いだった。
親のことなんてどうでもよかった。
タヒラ様に褒められたい、タヒラ様とずっと一緒にいたい。
その想いもあったから、成績も実績も学校での立ち位置も、すべてを完璧であるように努力して来れた。
そのはずなのに……。
「あの男女ぁぁぁ!!!」
イリス・グーシィン。
名前を思い出すだけでも腹が立つ。
あの野蛮で自分勝手できらびやかな雰囲気が一切ない、能無しのごく潰し。
あいつが、あいつごときがあんな論陣を張るなんてありえない。ありえてはいけない。
。一体どこからそんな入り知恵を。
まさかタヒラお姉さまじゃあないでしょうね。
そこだけは、いや、そこが一番あの男女の気に入らないところ。
存在しているだけで、視界に映るだけで不愉快なのに、タヒラお姉さまの妹であるというその一点で万死に値する。
そんな女に泥をつけられたなんて、インジュイン家の人間として、タヒラ様に顔向けができませんわ!
「しかしカタリア様。さすがにラスを放っておくのは危険ではありませんか? きっとあの娘、カタリア様のないことばかり悪口を広めるに違いありません」
「そうだぜ、あの裏切りもの! カタリア様が悪いような言い方をして。今すぐヤキ入れよう」
ユーンの心配に、サンが同調する。
慌てた人間を見れば、対する自分は落ち着いてくる。
あの男女に対する怒りに比べれば、その心配は些事でしかない。
「問題ありませんわ。放っておきなさい」
「けどよぉ……」
「いいですか、サン。ここでわたくしたちがラスに対し何かを行えば、それは彼女が言ったことが正しかったことを認めることになります。それは絶対に避けなければなりません。それに所詮、わたくしたちの使いパシリ。彼女が何を言おうが、誰も信じません。わたくしたちは逆に何もしないことで、自らの潔白を天下に知らしめるのですよ」
「さっすが、カタリア様。分かったよ。あれは放っとく」
心底感動したように、サンがうなずく。
ユーンもホッとしたようだ。
「しかし、他に何もしないという選択肢はありません。2人とも、このカタリア・インジュインが“根も葉もない嘘を言われて困っている”という噂を流しなさい。“友人と思っていたラスさんに問い詰められてショックで倒れた”とも」
「なるほど、ことの裏を知らない人たちからすれば、どちらが真実かは分からない」
「そうなった時に人が信じるのは、当事者の風評・評判っつーことなわけだ。今まで日陰にいたラスよりも、カタリア様の言葉を信じる――いや、信じたいと思うものって筋書だ」
「信じたいだなんて人聞きが悪いですわ、サン?」
「いやいや、感心してんのさ。さっすがカタリア様だって」
ええ、そう。もっと褒めなさい。わたくしを。わたくしの頭脳を。
そして称えるのです。このわたくしこそが、この国の暗黒を打ち払い、タヒラお姉さまとともに新たな時代を切り開く英雄であると!
あぁ、その時のことを考えると……鼻から血が出そうですわ。
さて、そろそろお昼休みが終わる。
わたくしが寝込んだという既成事実はこれで完了して、あとは噂が真実になるのを待つだけ。
所詮イリス・グーシィンが何をたくらもうが、わたくしの前では児戯も同然なわけで。
そんな愉悦に浸りながら医療用ベッドから降りてカーテンを開けると、
「お嬢ちゃんたち、元気だねぇ」
「ハーティ先生、いらしたのですか……」
保険室の講師であるクーン先生が、しわがれた声で面白げに笑う。
御年70になるというのだから、この学校の生き字引みたいな先生だ。
「そりゃあたしゃこの保健室の主さ。あたしがいなくて誰がいるのさ」
「先生、今のことは――」
「なに、あたしゃこれでもお悩み相談所みたいなもんだ。問われれば答えるし、問われなければ答えない。そして秘密を守ってくれと言われたら何も喋らない。そういう女さ」
「先生、長生きしましてよ」
「そりゃありがたい。あたしゃあと倍は生きるつもりだからね。つまらないことで縮めたくないものだよ。ひっひ。……ただね」
「なんでしょう」
「あたしの経験だけどね。人生万事塞翁が馬。好事魔多し。何が起こるかもわからないし、何も起きないなんてこともない。絶好調の時こそ予想外のことは起こるもの。くれぐれも気を付けなよ」
「ご忠告、痛み入りますわ」
保健室を出て失笑する。
あの婆さん。何を言っているのか。
このわたくしが失敗する? ありえない。
なのにあんな不吉なことを。文字通りの老婆心など、聞くに値しませんわ。
保健室を出て廊下に出る。人はまばらだ。
ふむ、少しゆっくり行きましょうか。そうして少し辛そうな様子で教室に入れば、倒れたというのは本当だと刷り込むことができる。小芝居レベルだけどやらない理由はない。
だから少し気だるそうに、ゆっくりと教室へ向かおうとした時、
「あっ、いた!」
「え?」
声に振り返る。そこに、宿敵がいた。
イリス・グーシィン。けどなんでこの男女がここに?
「あー、保健室行って、まだ戻らないっていうからさ。ちょっと心配になって。大丈夫だった?」
心配した? この女。しらじらしい。
自分でやったことなのに、何を知らんぷりしているのか。
もっと自らの非を詫び這いつくばって誠心誠意謝り倒し、それでいて慰謝料と見舞いのフルーツと花束と菓子折りでも持ってくるのが礼儀でしょうに。
「あなたと話すことはありませんわ! 行きますわよ、ユーン、サン」
保健室は2階。さっさと1年の教室がある1階に降りなければ。
だが、それでも男女はしつこく後を追って来る。
「ちょ、ちょっと待ってって!」
うるさい。
タヒラお姉さまに似た声でわめくな。
苛立ちが募り、ユーンとサンをも置いて走り出す。
あーもう。これで病人のように教室に戻るのがご破算だ。けどあの男女の顔を見つづけるより数百倍マシ。
けど、その時わたくしは気づいていなかったのです。
自分の体が、心が、意外に弱っていたことを。
だから階段に足をかけた時、
「あっ……」
ぐにっと、左足に違和感。
踏み出した足、それがうまく階段を踏み込めない。
一歩が踏み込めなければ、次も踏み出せるはずもなく、それによって生まれるのはバランスの崩壊。絨毯は階段の中央に敷かれているだけで、段差の左右は白色の硬そうな石の壁が剥きだした。当たれば痛いでは済まない。
慌てて手を伸ばす。しかしつかめるものがない。
足。右足。駄目。足場もない。何もない。ただ、落ちる。頭から。そうなると、どうなる。きっと痛い。痛くて、血が出て、わたくしは、タヒラお姉さまと一緒に――
「「カタリア様ぁ!!」」
ユーンとサンの悲鳴を、聞いた気がした。
衝撃。
一体どうなっていしまったのか、天井が見えて体が動かない。
痛いかどうかも分からない。
いや、次第に分かってきた。感覚が戻って来た。
てっきり絨毯の上か、白くて冷たい大理石の上に倒れ込んでいると思ったけど違うらしい。
不安定な支え棒に首と膝が支えられている感覚。それでも体のパーツは1つも地面についていない。
「大丈夫か?」
その声に聴きおぼえがある。
あの時もこうやって助けてくれた。あの細くもたくましい腕で、身のしっかり詰まった包み込むような肉体で……。
「タヒラ……様」
「え? タヒラ姉さん?」
「あ?」
視界が、開けた。
そこに、最も見たくない顔が映った。あろうことか、最も間違ってはいけない相手に対し。
「イリス……グーシィン!」
叫ぶと同時、分かった。分かってしまった。
自分が置かれている場所、そしてポーズに。
体が床に面していなくて、この不安定なさま、イリス・グーシィンの顔と胸がすぐ近くにあるということ。
抱きかかえられていた。イリス・グーシィンに。首の下と膝の裏に手を回されて。お姫様抱っこというやつだ。
「あ、あなた! 触らないで! 降ろせ、降ろしなさい!」
「ちょ、あ、暴れるな!」
暴れるわ!
何が楽しくて、こんな男女にお姫様抱っこをされなくちゃいけないのか。
これがタヒラお姉さまとだったら文句なしの昇天・鼻血ものだったのにぃ! ちくしょおおお!
ようやく降ろされて、こんなことをしたイリス・グーシィンに文句の1つでも言ってやろうとしたが、
「いてて……」
「あんた……」
イリス・グーシィンが痛そうに後頭部と背中をさする。
まさかわたくしをかばって……?
いや、あり得ない。だって、それはタヒラ様だけが……。
「ごほっ、ごほっ……」
急にイリスがせき込みだした。
これまで健康だったのにわざとらしいことを、と思ったものの、それは仮病には見えない。本気の咳。
「あなた……」
「あー、いや。大丈夫。ちょっと力を使っちゃっただけだから」
意味が分からない。
けど辛そうなせき込み方だというのは分かる。
……くっ! このわたくしが、こんな男女に借りを作るだなんて!
「えっとすごい顔してるけど……僕、なんかした?」
何かした?
ええ、しましたとも。タヒラお姉さまの妹であること、わたくしの前に立ちふさがること、わたくしの楽園を奪ったこと、すべてが許せませんとも!
「そんな眉間にしわよせないほうがいいよ。可愛いんだからさ」
ドキッとした。
一瞬、タヒラお姉さまとかぶった。
いや、違う。こんな下品な女がタヒラお姉さまと同じわけがない。
言われた言葉は似ているのに、なんでこんな不愉快なのか分からない。
「何を言ってるんですの、この男女!」
「お、おとこ!?」
「ふん! その胸の起伏がもうそうでしょうが!」
これ以上、こいつの顔を見ているとむかむかして卒倒しそうだったので、一瞥を加えて階下へと走り出す。
今度こそ、踏み外さないよう、しっかりと足を固めて降りていく。
「カタリア様、よかった、よかったです」
「今回ばかりはあの男女に感謝っすねー」
ユーンとサンが追い付いてきた。
彼女たちにも心配をかけてしまった。
それ以上に、あの男女のことがよく分からない。
本当にあれはイリス・グーシィンなの?
『可愛いんだからさ』
お父様にもお姉さまにも言われたことがない。
タヒラお姉さまだけがそう言ってくれた、あの一言。
それを、なんであいつが……。
しかもわたくしを身を挺してまで守るなんて。
朝は徹底的に糾弾したくせに。
あんな……。
本当に訳が分からない。
訳が……。