挿話51 呂布(ゼドラ国将軍)
「くそ……やりやがった、この女。よくも、よくも俺に……」
為朝が血を流しながら地面に転がる女を見て喚く。
地面に伏す女。一度見覚えがあった。いりすの傍にいた女だ。
たった1人で殿軍を行おうというのは、自殺行為以外の何物でもない。まさか俺と為朝、そして2千の兵にたった1人で勝てると思ってはいなかっただろう。
ほんの僅かの時間だけ稼げればいい。その思いで残ったはずだ。
ただあの加速力と身体能力には驚かされた。それにより自分は手傷を負い、為朝は特注の大弓でなければあるいは致命的な傷を負っていただろうことを考えると、あるいはとも思ってしまうが。
「俺を傷つけた報いだ。お前なんか馬に潰されて死ね」
為朝が倒れた女に向かって馬の足を女に向けた。
その行為に、なぜか俺の心はざわついた。
そう。俺はこの女に興味を持ったのだ。
たった1人で、死以外の未来のない殿軍でここまで見事に戦ったのだ。
さらに最期に放った言葉。
『いりすはボクが守る!』
この言葉。そして何よりその瞳が、あの時の彼女に似ていた。
『漢王朝は、お父様は、私が守ります!』
貂蝉。ああ、貂蝉。
お前がそう望むから、俺は義父となったあの男・董卓を斬った。
あの時の貂蝉と似た瞳をした女を、殺すような矛を俺は持たない。
だから最後の突き。それは石突きで行われていて、今も女は気を失っても生きているはずだ。
為朝が馬の足を上げさせる。
その為朝の喉元に、方天画戟の先を突きつける。
「なんの真似だ、呂布?」
これまでの少年のような無邪気な顔を、怒りに染めた為朝。視線で人を殺せるなら一騎当千だろうが、俺には通じない。
「そこまでだ」
「なにがだよ! この女は敵だ! 敵を潰すのに何の遠慮がある!」
それはそうだ。為朝のいう通りだ。だが、それは俺の望むものじゃない。
「この女は俺が預かる」
「……ふーん? 所詮呂布も人の子かよ。そんなに女が欲しいなら、色町にでも出ていけよ」
ギリッと方天画戟を握る手に力がこもる。
それは。それはいけない。こいつは今、俺と貂蝉を侮辱した。
方天画戟を振るう。為朝の首が飛ぶ――その刹那に、為朝は馬を操って一歩、距離を開ける。
僅か、皮一枚。為朝の首から血が一筋流れ出る。
ただその皮一枚が、為朝の何かを変えた。
「あー……ごめん。呂将軍。俺、今変になってた」
元に戻った。まるで人が変わったかのように、今までの怒気がふっと消え失せ、いつもの為朝に戻っていた。
「ごめんなさい。謝ります。だからこの方天画戟、しまってくれないかな。マジで斬れたし」
そのなんとも子供らしい謝罪に、冷や水を浴びたように怒りの炎が消え去っていく。
ふん、まぁいいだろう。
「命拾いしたな」
方天画戟を為朝から離して言う。
「本当にね。この女も」
為朝が倒れた女を見やる。
この娘も命拾いした。そういうものなのだろうか。
「で、まだ続ける?」
この追撃を。この戦いを。
まだ奴らの息の根を止めていない。つまり決着はついていないということ。
だがどこか空虚な気分が心の中を吹いている。そんな気もする。
「将軍ー!!」
西から駆けてくる騎兵が1つ。伝令だ。
その手には白起からの命令書が握られていた。
「……撤退か」
命令書にはそれだけ書いてあった。
皇帝をどうするとか、そういうことは一切ない。無駄を排した白起らしい命令書。
「退けって?」
「ああ。巴も連れて戻ってこいと」
己の心の内を見透かされたかのようなその命令に、どこかささくれたものを感じた。
やはりあの男とは肌が合わないのかもしれない。
だがそれをここで表出することはない。
「撤退する」
「さんせー。てか正直、めちゃヤバいかも。血ぃ、ですぎじゃね?」
「そんだけ喋れれば大丈夫だろ」
「うわー、呂将軍冷たいなー。で、本当にこれ、持って帰るの? めっちゃ斬ってたよね? もう死んでるんじゃない?」
「それならそれまでのことだ」
そうはならないと心の底では感じていた。貂蝉と同じ、生きることへの情熱を宿す瞳を持つ者が、そう簡単に死ぬものか。
「ま、いいけど。あー、疲れたー、てかいてぇー、死ぬー死にませんけどー」
為朝が馬の上であおむけに倒れ込む。
「呂将軍ー」
「なんだ」
「ようやく終わったね。帝都を落として、一区切りだ」
「いや、違うな」
東の方向。この女が身を挺してでも逃がしたあの“いりす”のいる方向を向き、
「始まったんだ。天下を覆う、大きな戦のうねりが。今」
皇帝を逃した。だが帝都は破壊され、世界は中心を失った。
それが新たな戦乱を呼び起こすのは、俺でさえわかる。
だからこれは始まりだ。
喰うか喰われるか、殺すか殺されるかの生存競争。
その中心に、幾度となく矛を交えてついに殺すことができなかった少女がいる。そんな気がする。
「へー、そりゃ楽しみだ」
それを聞いた為朝は、心底面白そうに笑った。
笑えないな。
そう思ったが、気づいたら口が弓になっていた。




