第119話 別離の刻
撤退戦は山場を迎えていた。
朝から今まで、一体どれくらい戦い続けてきたのか。ただこれだけの戦いがあったにもかかわらず、一方的に押し負けずに均衡と言っていい一進一退を繰り返しているのは、奇跡のようで、嘘のようで、それでもどうしようもなく真実で。ひたすらに戦い続けた兵たちと、散っていった者たちとの願いが結実した結果なのだと思う。
だが、その均衡はもろくも崩れ去った。
それは当然、僕たち側の崩壊だ。
「弾薬、切れました!」
鉄砲隊の部隊長が悲鳴のような声をあげる。これまで何発も放ってきた鉄砲がついに弾切れになったのだ。
高杉さんが仕入れた鉄砲だから弾薬もそれなりに揃ってはいた。
それを元に帝都に立てこもるならば補給は容易だったが、皇帝が脱出するにあたって持ち出せるもの以外は廃棄されてきた。だから弾薬も鉄砲隊の各個人が持てる分量だけ所持していたに過ぎない。
だからいずれそうなるとは思ったけど、この佳境でそうなるなんて……。
「……っ」
土方さんが顔をあげ、大きく口を開いて――押し黙った。
土方さんが言いたかったことは分かる。そんなことを大声で言うな、と鉄砲隊の隊長に怒鳴りたかったのだろう。
鉄砲による攻撃ができなくなることが部隊に伝われば、それだけで士気が萎える。鉄砲隊はこれから自分が死ぬかもしれない白兵戦を強要されることになるし、近接兵科の兵たちも今後は援護なしで戦わなければならなくなる。
そして何より、その声が風に乗って敵に聞こえたら最悪だ。鉄砲という、どんな精強な武将でも1発でお陀仏の強力な兵器に神経を注がなくて良くなる。
だからそんな不注意による利敵行為をする隊長に怒鳴りたかったけど、それを怒鳴ってもどうなるものでもないと思いとどまったに違いない。
そんな時だ。
「いりす殿」
突如、横から声がした。伝令と敵のかく乱の任務を帯びている風魔小太郎だ。
「小太郎! 前はどうなってる!?」
「かたりあ殿らが率いる部隊は、切通しに無事侵入を開始しましたよ」
「よし!」
そこの入り口を封鎖されれば僕たちは袋のネズミだったわけだけど、これで少しは希望が見えた。
「ただ、予想以上に道が狭くて、道が荒れているためにつっかえてるっぽいっすね」
「てぇことは、しばらくの間はアレを防がなくちゃいけねぇってことか。だがぼさっとしてると、敵に後ろを取られる」
土方さんがうなる。
鉄砲の弾薬が切れ、じりじりと押される形の状況がさらに苦しくなると思ってのことだろう。
さらに最悪なのが、僕らとカタリアたちの部隊とは若干距離があいている。もし巴の部隊が僕たちとカタリアの間に部隊を展開した場合、カタリアたちは逃げられても僕たちは逃げ場を失うことになる。
「土方さん、ここは一気に退こう」
「だがな、ここで背中を見せれば一気に刈り取られるぞ」
「分かってる。だから一回前に出る。これまで受け身になっていた僕らがいきなり攻勢に出るんだ。相手からすれば意表を突かれるはず」
「悪くない。だが、あいつらと組み合ったが最後。逃がしちゃくれないぞ」
「それでもここで包囲されるよりはマシだと思う」
「…………よし、やるか」
それで決まった。
あとは動くだけ。そのはずだった。
「2人とも、それは待ってほしい」
琴さんが珍しく決定に逆らう言葉を発したのだ。
「なんだ、琴。もう決まりだ。それにこいつの言ってることは間違ってねぇ」
「ボクも誤っているとは思わない。いや、こうして人間同士が争いあう。それが過ちだというのは人類が武器を手にして以来の宿業なのかもしれないが」
「悪いが今は訳の分からねぇことを聞いてる暇はねぇ」
「ボクが行く」
「あ?」
「あの部隊に滅びの歌を聞かせるのはボクだけでいい。土方殿。そしていりす。君たちはすぐにこの場から去れ」
「ああ? てめぇのスキルの使い過ぎでばててるじゃねぇか」
「そ、そうだよ琴さん! 僕たちはまだ――」
その瞬間だった。
詰め寄ろうとした足がガクガクと震える。もう一歩。進もうと思っても体が動かない。
「あ、れ」
そのまま電池が切れたかのように体から力が抜ける。受け身も取れないまま地面に倒れ伏した。
顔どころか指一本動かない。頭の周囲でゴングが鳴り響くような耳鳴りと頭痛が襲って来て発狂しそうになる。嘔吐感でものを吐こうとしても朝から何も食べていないから胃液しか出ず、喉が焼ける思いで涙が止まらない。
来た。
来てしまった。
ネイコゥの薬の副作用。時間切れだ。
「いりす。君はもう限界だ。その小さな体でこの数日、死と直面しながらも生き延びてきた君も、もはや立って戦うことは不可能だと法神がボクにささやいていたんだ」
琴さんの声が聞こえる。それは理解できる。だけど答えられない。口が、声が、機能を停止してしまったかのようで、わずか可能な呼吸が荒い息を吐くだけだ。
「そうかい。じゃあ琴。お前がこいつを連れてけ。殿は俺がやる」
「それは不可能領域の到達点だ。あなたはまだ死ぬべき時じゃない。そうボクの法神は言っている」
「法神だか王林だか知らねーが、言わせてもらう。ここは女の出る幕じゃねぇ」
「ここに至っては性別は無窮の空を行くがごとく意味のないことだ。ボクの異能と君の異能。殿軍をするにどちらが適しているか、あなたなら分かるだろう。そしてここに残る兵たちを率いるのはどちらが適しているかも」
「……っ!」
「これは適材適所、効率能率の問題だ。そういったもの昇華させて作ったのが新選組なのだろう?」
「…………くそ」
「そう嘆くな。ボクがここにいる意味。いりすと出会った意味。土方殿と再会した意味。それらがここに至る羅針盤だったというだけのこと」
そんな。ダメだ。琴さん。
止めないと。声が枯れようが、喉がつぶれようが、心臓が止まろうが、そんなことはあっちゃいけない。
「こ……と……」
「いりす。君と出会えて……良かった。永久の愛を君に」
不意に琴さんの顔が目の前に現れた。
その顔はやつれたように白く、それでいて生気を失っておらず、幽玄とした雰囲気もあってこれ以上ないほどに美しかった。
琴さんの顔が近づく。何を、と思った次の瞬間。
唇が触れた。唇と。
初めてのキス。
それはどこか死の味がした。
「じゃあ、行くよ」
待ってくれ。行かないでくれ。
そう言いたいけど口が動かない。顔も動かない。だから琴さんの顔も見れない。最期にもかかわらず、面と向かって彼女に言えない。それがとても辛い。
「全軍、撤収する! おい、そこの。イリスを馬に乗せてやれ」
ダメだ。土方さん。琴さんを止めないと。
1人を犠牲にして皆を守る。そんなの間違ってる。皆が無事に逃げる。それが重要なのに。考えれば、きっとそんな方法も見つかるはずなのに。
涙は出る。でも声は出ない。体も動かない。
意識はある。気絶すらできないその状況が今ほど憎々しいと思ったことはない。
「イリス」
ぽんと、背中を叩かれた。それだけでハンマーで殴られたような痛みが来るが、悲鳴は出ない。うつろな嗚咽と涙がにじみ出るだけだ。
それに構わず土方さんは続ける。
「あいつはずっとお前を考えて来ていた。自分より年下の少女が、こうも限界ギリギリまで前線で戦っていることに心を痛めながらも、どうにかして守ってやりたいって。そうこぼしてたよ」
そんなことない。僕は琴さんに守られっぱなしだ。十分に守ってくれていた。だからこそ、もうこれ以上のことをする必要はないのに。
「だから気にするな、とは言わない。だがあいつは満足してるはずだ。お前を守れて。それが、あいつの人生なんだからな」
そう言われても、まだ納得できない。なんで体が動かない。こんな大事な時に。なんで。なんで……無力だ。
兵に馬に乗せられた。その時に見た。
撤退を始める兵たちの向こう。愛用の薙刀を持って、仁王立ちしている彼女の姿。
そしてその向こうから溢れるように現れる敵の大軍。
琴さん!
叫ぶことも出来ず、遠ざかる彼女の影を追って――その影が敵に呑まれていった。




