挿話32 ベィン・アカーシャ(アカシャ帝国特別顧問)
宮殿の奥。そこにこじんまりとした物置がある。
普段、誰も用がな置き去りにされているため、開いた途端に埃の匂いが鼻についた。帝室の過去の書類とか、行事における記録など紙媒体のものがあるために、カビた匂いも充満している。
「ベィン卿、このようなところに何を……」
側近の1人が顔をしかめ、口元をハンカチで覆いながら聞いてくる。
ふん、察しの悪い奴め。先ほどの会話から分からんのか。
「ふふふ。当然、この帝都から逃げ出すための場所だよ」
「え?」
もうその男に関心をなくした私は部屋の奥へと進む。
ハンカチで口と鼻を塞ぎ、ヴェールをかぶった立ち見をどかして、場所を確保する。さらに奥にある箱も少しずらす。埃が宙に舞い、せき込むところだった。
本当に酷い場所だ。さっさとこんな押し閉じ込められた檻からおさらばして、広大な平原、光り輝く陽光の下に出たいものだ。
スペースを開けた床板に、わずか切れ込みが入っている。その一部に手を伸ばし、思い切り引き上げる。
「おお!」
驚きの声があがる。
そこにあるのはぽっかりと空いた穴。宮殿から帝都の外に通じる隠し通路だ。
「さすがベィン卿。このようなものを作っておられたとは」
「ふん。帝室に伝わる万が一の時の逃走経路よ。父親から聞かされて以来、誰にも言っていない。兄には、甥には自分から告げると言ったから、あの甥は知らないことだがな」
「ふっふ、陛下もお人が悪い」
「まだ陛下ではないわ。では行くぞ」
穴に続く階段を降りていく。そこは2メートル四方はある地下道だ。
このトンネルがいつできたのかは分からないが、今の今までずっと崩れずにいるのはさすが帝国の技術力だと感心せざるを得ない。崩落で塞がれないよう、穴の周囲を鉄の枠組みで補強して保っているのだ。
灯りを自前で用意しないといけないのが気にくわないが、この1キロ近い穴に灯りをともそうとすれば、すぐに酸欠なってしまうだろうから致し方ないものなのだろう。
ランプの便りない光を目印にトンネルを進んでいく。
懐かしい思い出が脳裏によぎる。ここを通ったのはもう何年前か。兄と共に窮屈な宮殿から抜け出す時に一度使った。もちろん、後でこっぴどく叱られたが。
あの時はまだ楽しかった。窮屈な生活ながらも、豪勢な食事、服装、買い物、パーティ。何をするにしても、ある程度は許されたし、何より召使いを使役できることが楽しかった。
それが変わったのは、兄が帝位につくことが決まり、父親が亡くなったあたりだ。
その時から私はただの皇帝の弟という立場になった。私についていた人間はほぼ兄の方へとなびいた。さらに兄は何を思ったか、宮殿の質素倹約を標榜として、緊縮財政に手を付け始めたのだ。
それによって私たちの暮らし向きは変わった。贅沢な食事も着替えも買い物もできなくなり、パーティの回数も減った。さらに自分が何をするにしても、一度兄の裁可を得なければならなくなった。
煩わしい。
そう思うようになったのも無理はないだろう。
そしてその時から崩壊は始まった。
いや、悪いのは兄だ。あの吝嗇で無能な愚かな兄。
なぜあそこまで私の邪魔をするのか。これでも私は帝国が好きだ。帝国があるからこそ、好き勝手できるし、皆が傅いてくれる。その帝国を繫栄させるために、少しだけ密貿易に手を貸しただけのこと。その見返りをもらっただけのこと。
それをあの馬鹿な兄は、烈火のごとく攻め立てたのだ。誰のおかげでこの帝国が潤っているのか、それを考えようもせずに。
少し懲らしめてやろうと、密貿易で懇意になった商人から毒を手に入れた。なんでも大陸の外、密林生い茂る秘境で手に入るという毒だ。もちろん殺す気はなかった。徐々に弱っていく毒で、体調不良を理由に自分に帝位を渡せばいいと思っただけだ。
不幸な事故だったのだ。
元々体が頑強でなかった兄だ。誰が思っただろう。浴槽で発作を起こし、滑って頭を打ち付けて死ぬだなんて。
悲しかった。
どれだけ悪いことを言っても、私にとってはただ1人の兄だったのだ。共にこのトンネルを抜け出すほどに仲の良い兄弟だったのだ。
だが同時に怒りもした。しっかりお膳立てして私に帝位を譲るはずが、あろうことか何も言わずに死んでしまったのだ。いや、それだけならまだ挽回はできた。だが兄は自分を狙う影に気づいていたのか、あるいは幼い息子を守るためなのか。なんと遺書など用意しておいたのだ。
『帝位は我が息子に譲る』
その一文が私の未来を崩壊させた。
だがそれでも私は止まらなかった。甥の唯一の理解者として、彼を“教育”し、堕落させ、私に帝位を譲るよう仕向けた。幼い甥は次第に快楽の蜜の味を知り、ひたすらに転落の道を歩んでいった。
それに伴い甥を見限る近臣を取り込み、その大勢をもって譲位を迫る準備も進んでいた。
あと少し。
あと少しだったのだ。
それをあんな蛮族どもに帝都を荒らされ、さらには甥が妙な正義感に駆られて変なことを言い始める始末。
この隙に暗殺してしまうのが一番早いと思い、刺客を送り込んだがこの状況では逆効果だったようだ。成功すれば、外のゼドラ国のせいにもできたというものを。もちろん刺客は口封じのために先ほど処理した。
「ここだな」
突き当りに出た。壁にははしごがかかり、天井にはわずかに切り込みが。それを部下たちに開かせる。無事に崩れることもなく、空から差し込む陽光を一身に浴びながら外に出た。
「おお、良い天気だ」
数十分、狭い暗がりを進んできたのだ。
見渡す限りの大地。果て無く広がる悠久の空。力強く照り付ける太陽。それらが体に沁みる。
ここは帝都の北東3キロの地点に違いない。振り返れば遠く帝都の壁が見える。それだけだ。
「天が陛下を祝福しているのでしょう」
「ふっ。かもな」
愚かな甥め。急に何かに目覚めたように帝位にすがりつきおって。だがあれでは逃げようもない。蛮族どもに首を斬られ、帝国は一時滅亡する。
だが私がいる。このまま北に向かい、港から船で亡命する。どこに向かおうか。ツァンはダメだ。あそこは何を考えているか分からないし、このままゼドラが侵攻する可能性がある。私の正統性を示しながら力をためる期間が必要だ。となれば北。キタカとエティンのどちらに行こうか。
そんなことを考えていると、不意に風が巻き起こった。
「ぐぁ!」
悲鳴が上がる。
何事かと見てみると、部下の1人が胸に矢を受けて倒れていた。
なぜだ。なぜ矢がある? なぜ倒れている? なぜ……死んでいる?
理解ができなかった。だが現実は速度を増して襲い掛かってきた。
「ぎゃっ!」「ぐぇっ!」
悲鳴が連鎖する。
周囲にいた10名ほどが次々に倒れていく。
「へ、へい……か」
先ほど追従をしてきた男が、見開いた目でこちらに倒れ込んでくる。背中に矢が刺さり、もはや虫の息だ。
「よ、寄るな! 汚らわしい!」
もはや死体と化した男の手に触れることがおぞましく、その手を払う。男は最期に信じられないような瞳でこちらを睨みつけて倒れた。
やめろ。そんな目で見るな。一体なにが。なにが起きたのだ!?
周囲に生きている人間が1人もいなくなったころ。周囲の茂みから人影が現れた。
弓を持った彼らは私を包囲するように近づいてくる。
「これは陛下。お待ちしておりました」
女の声。
振り返り見れば、これまた美しい女がいた。アーマーをあしらった軽装備で、体のラインがくっきり見える。
本来ならむしゃぶりつくしたいほどの体だったが、その女の瞳が、全身から発する血の気配が押しとどめた。
「な、なんだ。お前は」
「ぜどら軍の巴と申します」
ゼドラ!? まさか。なんでこんなところに!? まさか、私を追って来たというのか!?
「わ、私はベィン卿だぞ。未来の大帝国の大皇帝だぞ!?」
「ん……? もしかして皇帝じゃない? あー、そっか。皇帝って10歳だっけ。こんな歳、いってないよね?」
「な、何を言っている! ええい、頭が高い。ひれ伏せ!」
「はぁ。戦場から離れてこんなところで張ってたのに、かかった獲物がこれだけ? ついてないなぁ……」
がくりとうなだれる女。
これはチャンスだ。いくらゼドラ軍とはいえ、相手は女。かぶりつきたくなる良い女だ。これを人質に取って逃げるんだ。そうすれば絶大な栄光と共に、美しき女武者を手に入れられる。
虚弱な兄とは違って、これでも鍛えてきたのだ。女1人。女1人。
「女がぁぁぁぁ!」
女に襲い掛かる。相手は反応できない。その間に首に手を回し、取った!
「う、動くな! この女の命が欲しければ、道を開けろ! それから馬だ! 馬をよこせ!」
だが敵兵は1人も動かない。ただ白けた視線をこちらに向けるだけだ。
何故だ。こんな女とはいえ将軍を人質に取られたのだぞ? なにをそんな冷静でいられる!?
ベキッ
何か音がした。
不意に痛みが走った。右腕。女の手をからませている右腕が、あらぬ方向を向いている。
「誰に、触ってるんですか、このクソ蛆虫」
「な、な、な、なぁぁぁぁぁ!?」
私……余の腕が! 大皇帝のすべてを掴む栄光の右腕が!!
「私の体は義仲様のものです! あぁ、でもあの白起将軍も……いえ! 巴は義仲様一筋ですもの!!」
女の腕が余の左手に添えられる。
ミシミシ、バキッ。今度は左手。
座り込む。もう嫌だ。頭がおかしくなる。こんな現実ありえない。余にはもっと輝かしい未来があったはずだ。それがなんでこんなことになったのか。どこで間違ったのか。あるいは初めから間違っていたのか。
「こんな男に汚されるなんて……巴、一生の不覚です。この憂さは、すぐに晴らさないといけませんね」
体温が来た。ぐっと何か柔らかいものが頬に当たる。おお、まさかこれは。傷ついた心身を癒す、紛れもない母の愛。豊満なる女の胸の感触。なんと心地よ――
「ぐっ……ぐる……」
首が締められる。それと共に首の角度が変わっていく。抵抗しようにも圧倒的な力で押さえつけられてそれもできない。首の角度が変わるたびに、ミシミシと何かがきしむ音がする。
頬に触れる母の快楽と次第に激しくなる首の痛み。気持ちよくて痛い、いや気持ちい――痛い。痛い痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたいいたいいたいいいいいいいいい!!
ミシミシときしむ音が激しくなり、痛みが狂いそうになるほど激しくなり、誰かの口から漏れる絶叫が激しくなったその果て。
ぶちっ。
何かがちぎれる音がした。
それから何も見えなくなった。




