第34話 ある出会い
簡素な食事を終えると、僕とタヒラ姉さんはすぐに外に出た。
ノートらしき紙の束を入れた鞄だけ持っての出発。
勉強かぁ。すごい憂鬱。
そして初のスカート姿を人前でさらすのもすごい憂鬱。膝がスースーするとは言うけど、あぁ本当なんだな、と実感。
玄関を出ると、広い庭に出る。
昨日は陽が落ちた後に帰って来たからちゃんと見れなかったけど、これまた広い庭だ。
緑が生い茂り、ちゃんと手入れをされているのかきちんと整って見える。
噴水もあって、水が生み出す清涼感もひとしおだ。
振り返る。
そこには10メートル以上ある豪奢な家が、威勢をただして屹立としている。
まさかこんな豪邸に住むことになるなんて。
6畳一間の生活では考えられないことだ。
ただ、やっぱり気になる。
この国の状況、それに対する豪華すぎる邸宅。
それがどう影響してくるのか、まだ分からないけど心に引っかかるのだ。
「イリリー、遅れるよー?」
先に門まで歩いていたタヒラ姉さんがぶんぶんと手を振ってくる。
ふぅ。今は考えるより日常生活をどうするかだ。
それよりこれから通うことになる学校。その道順も覚えておかないとめんどくさいことになる。
歩きはかったるいから、せめて自転車とかあればいいんだけど……。
なんて思いは数秒後に粉砕された。
まだまだ僕は父親のことを舐めていたらしい。
「ほら、乗って乗って」
門の前に、これまた古風な――いや、この時代には今風なのか――1頭だての馬車が止まっていた。
後ろに人力車みたいな2人乗りの空間があって、御者さんが前に乗って操るタイプだ。
「おはようございます。今日もよろしくお願いしますね」
と初老の人の良さそうな御者さんが挨拶してくる。
初めての人にどう答えていいか分からず、
「あ、どうも」
とだけ答えていた。
まぁそうだよねー。お金持ちのお嬢様は高級車でお出迎えだもんねー。
軽く引いた。けど、道を覚えなくていいのと、歩かなくていいことはありがたかった。
――のだが。
「タ、ヒラ、姉、さん! これ……普通!?」
走り出して数分もしないうちに、思わず隣に乗ったタヒラ姉さんに問いかける。
「イリリー、あんま喋ると、舌かむよ? ま、あとは慣れねー、慣れ」
あははー、と笑いながら普通に喋るタヒラ姉さん。やっぱり普通じゃない。
それほどに馬車は揺れるのだ。
馬が引いているのだから多少の揺れは我慢できそうだが、これは普通じゃない。車輪がガンガン跳ねるのだ。
つまり道が舗装されていないということ。だから突起とか段差でガンガン揺れる。
僕は結局乗らなかったけど、トウヨやカミュはここまで馬車に乗って来た。
1日揺られ続けた彼らは、その日の夜は消耗して元気なかったが、その理由も分かるというものだ。
しかし、これが毎日続くのかと思うと、優雅なお出迎えとか考えてた自分が恨めしい。
下手なジェットコースターよりはるかに酔う。とりあえず遠くを見ようと努めて、周囲の風景などまったく目に入ってこない。
「でもさ。本当、良かったよ。イリリが、無事で」
「……うん」
「ヨル兄なんて、発狂寸前だった、っていうから、あはは、見たかったなー」
「……うん」
「というわけで、上はごちゃごちゃしてるけど、イリリは気にしないで、大丈夫だからね」
「……うん」
酔いとの格闘でタヒラ姉さんにちゃんと返事ができない。
ただ、タヒラ姉さんはタヒラ姉さんで心配してたんだろうなぁ、とぼんやり思った。
およそ10数分におよぶ苦行の末、ようやく馬車が止まった。
そこはこれまた大きな建物、そして庭を擁する門の前。どうやらここが目的の学校らしい。
校舎と庭――というよりグラウンドか、を囲むようにレンガ積みの植木と柵がぐるりと伸びている。
その門の前には、僕だけじゃなく様々な馬車が停車していた。
こんなので登校したら目立つよな、と思っていたけどそんなことはなかったらしい。
外見からも想像つくが、要はお金持ちのための学校らしい。だから皆馬車で登校するのだ。
彼らは悠々と馬車を降りて、級友と談笑している。
「じゃ、イリリはちゃんと勉学に励むようにー」
「はぁい……」
答えるも声に張りがない。
朝っぱらからこんな状態で勉学なんて励めるかって話だ。
ふらふらと、馬車から降りると、傍にあったレンガ積みの植木に手をつき小さくえづく。
きっついわー。明日からは歩きにしようかな。
「大丈夫ー? 御者さん、何か薬ない?」
「はぁ……休憩時に飲もうとしていたアルコールしか」
「それだ! やっぱりアルコールはすべてを治すよね!」
いいわけあるか!
そうツッコミたかったけどそんな元気もない。
酒は好きだったけど、今はそれを求めてない。元気の時に頂戴。
と、そのやり取りを聞いた周囲の学生たちに反応があった。
「まさか……タヒラ様?」「え!? タヒラ様!?」「本当だ、タヒラ様だ!」「すっげ、本物!?」
何やら周囲が慌ただしくなった。
学生たちが詰め寄せてきたのだ。
タヒラ、様?
あぁ、そうか。
キズバールの英雄。その名はこういうところにも――いや、こういうところだからこそ効力を発揮する。
彼ら彼女らにとっては、目指すべき英雄、有名人。そんな人がまさかここにいるのだから、その驚きたるやだろう。
「あ、やば。御者さん、離脱、離脱!」
「は、はい!」
慌てて御者さんを急かして馬車を発車させるタヒラ姉さん。
「ごめんねー、ちょっと急いでるからー。皆も勉強頑張ってー。じゃ、イリリ。また」
モーセの海割りみたいにタヒラ姉さんを乗せた馬車の前の人垣が割れた。そこをタヒラ姉さんの馬車が通過。
「はぁ……タヒラ様お美しい」「格好いいよなー」「タヒラ様にお声をかけていただいた……私、今日眠れないかも」「うぉぉぉ、やるぞー!」
なんか皆ははしゃいでるけど、あれの本性を見たら皆どう思うのかな。
妹の肌を見て鼻血を出してたお方だぞ? 枕をくんくんしてた変態だぞ。まったく、訳が分からない。
「つか今、タヒラ様、イリリって……」「あ、まさか……」「あ、ああ……イリス・グーシィン……」「なんで今頃……」
ふと、周囲から聞こえる声のトーンが変わったな。そう思い、少し落ち着いてきた顔をあげる。
すると、取り囲まれていた。
それも危険のありそうな取り囲み方じゃない。遠巻きにして敵意の籠った視線を向けてくる感じ。
え、なにこれ。
決して危害を加えてくるわけじゃない。
けど敵意という名の圧倒的な感覚的暴力が、僕の小さな体を次々と貫いていく。
それから逃げるように、門の方へと進もうとしたがそちらも人の壁。
仕方なく、敵意に対し言葉を投げてみる。
「通して……くれない、かな?」
「ふん、何を言ってやがる。この暴力女!」「そうだそうだ! 弱った振りしても騙されないぞ!」「むしろいい気味だわ!」
浴びせられる暴言の数々。
それらが僕を襲い、僕の中にある登校に対するやる気ゲージをドンドンと削っていく。
「お前さ、タヒラ様の妹だからって調子乗るなよ?」
包囲の中から1人が出てきた。
それはまた見事な体格の男子生徒で、上着が筋肉ではちきれそうになっている。僕より頭2つは大きいその男は、どうも友好的ではないのは言動からして分かる。
「格闘部のゴーシュだ!」「やっちゃえやっちゃえ」「朝っぱらからいいものが見れそうだ!」「ゴーシュ、かまうこたねぇ、いけいけ!」
周囲は止めるどころかゴーシュとやらをあおっている。
まさか学校の目のまえで暴力沙汰を? 冗談だと思いたい。けど、ゴーシュは手を鳴らしながらこちらに一歩一歩と近づいてくる。その暴力的な雰囲気に、ためらいはない。
「女の子に手をあげる気?」
「何言ってやがる。軍じゃ、男も女もない。強いものが正義だろうが!」
おお、なんというジェンダーレス。
なんて言ってる場合じゃない。身を犠牲にした殺し文句をたやすく返された。
……仕方ない、か。
身に降りかかる火の粉は払わないと。それから難癖つけて、処罰の対象にするのはその後だ。
「さっさと家に帰りやがれ!」
ゴーシュが振りかざした右こぶし。それを叩きつける前に――スキルを発動した。
一歩、前に出る。少し腰をかがめて。
それだけで相手は目標を見失った。まさかこうも素早く動くとは思っていなかったのだろう。
拳が空を切る。そして無防備となったわき腹にしがみつくと、手前に引く。同時に足を払えば相手は重心を失ってあっさりと倒れた。
うつぶせに倒れたゴーシュ。まだ何が起こったか分かっていない背中にとんっと膝で乗り、左腕を後ろに回して背中に固定した。
そこでホッと一息。
「制御出来てよかった。体調が悪いから、骨の1本や2本、折ってたかもしれない」
「ぐっ……うぅ!? お、お前。なんだ、本当にイリス・グーシィンか!?」
少しきつめに脅しを入れると、ゴーシュはそうわめく。
おやおや、意外と核心をついてくる。
けどそれを肯定してあげる必要はない。
「そんなことは今はどうでもいいだろう? ところで、知ってるかな? 関節を逆に曲げるとどうなるか?」
「痛い痛いっ! や、やめてくれ!」
涙ながらに訴えかけるゴーシュに罪悪感を抱かないでもない。
よく考えたらこいつらはもとの僕の半分くらいの年齢なのだろう。それならこれは暴力じゃない。教育的指導ということで。
いや、よく考えたら何もしてないのに殴りかかってくるのだから、これくらいはセーフということで。
ま、僕も必要以上に痛めつけるつもりはない。
朝は苦手で、馬車の揺れに辟易としてさっそくくじけそうになっていたところでのこいつだから、少しは痛い目を見させてやりたかったけど、これ以上は望むものではない。
そもそも、僕は何をしに学校に来たのか。
その第一が情報収集。まだ僕はこの世界について知らないことが多すぎる。
次に味方を作る。
この国で生きるうえで、一番大事なのが協力者を得ること。かといって子供の僕が大人たちに交じっても、おいそれと強力してくれるとは思えない。
だからこその学校だ。学校なら対等の立場として付き合えるし、何より金持ちの学校ということは、親たちは国の運営にかかわっている人もいるだろう。
そこに食い入るために、味方という名の友人を作れればそれに越したことはない。将を射んとすれば、だ。
とはいえそもそも陰キャ気質の僕に友達100人できるかなミッションがたやすく達成するとは思えない。
だからこそ、スキルなのだ。
圧倒的な武力と圧倒的な学力を示せば、それなりに注目は浴びることはできるだろう。そこドーピングとか言わない。
まぁこれが成功かは、ちょっと自信はないが。
「ゴーシュを一撃で……」「う、嘘だろ」「怖っ……」
……うん、ちょっと成功とは言い難い、かな?
とはいえあのまま殴られていてよいはずはない。うぅん、これは根本解決が必要だな。
「なにをしていますの?」
不意にあがった声が、周囲の喧騒を打ち消したのは、僕がゴーシュの腕を開放して立ち上がった時だった。
それほど声を張り上げたわけでもないのに、凛と響くその声は静かで深く心に響く。
「あ、カタリア様!」
取り巻きの中から声が上がる。
そしてモーセ再び。
声の主の女生徒と僕の間に障害物が消えた。
「カタリア様! “カタリア・インジュイン”様!」「あの女です! イリス・グーシィンが登校してきました!」
「イリス?」
現れたのは、制服姿に日傘をさした女生徒。制服を改造しているらしく、上着は刺繍でラメのように光る素材がふんだんに使われており、フレアスカートに改造された下から伸びる足もローファーのようなシューズではなく、白のブーツという規格外の姿。
まさに絵に描いたような令嬢という表現がぴったりの女生徒が。こちらに向かって歩を進める。
カツカツというレンガを叩くヒール音。その靴が止まったのは、ゴーシュを取り押さえている僕の5歩前。
少女の陶器のような白い肌に浮かぶ赤い唇が動く。
そして青く輝くサファイアのような瞳は、ゴミやムシケラを見るような冷たい視線をよこしてきた。
「はん、生きていたのね。残念だったわ」
絶句した。
視線からなんとなく察してはいたけど、ここまで露骨に敵意を示すとは。こいつも、周りの連中と一緒、か。
「ゴーシュさん、大丈夫ですか? 保健室に向かいましょう。ええ、あなたのことはこのインジュインがしっかり面倒見てあげます。さ、皆さん、授業に遅れますわよ。“こんなの”を相手に、皆さんの貴重な時間を無駄にするのは、それこそ無意味です。うふふ、安心しなさい。“これ”はわたくしがしっかりとどめを刺してあげますゆえ」
その言葉に、周囲にいる生徒たちの熱気があがる。
ここで圧倒的に気づかされる。
学校での自分の不人気を。過ごしづらさを。
そして何より、強大な敵がいるという事実を。
それがカタリア・インジュイン。
グーシィン家の政敵インジュイン家の娘との出会いだった。