挿話11 ラス・ハロール(ソフォス学園1年)
ふわふわふわふわ。
空をたゆたうような、心地よい気分。
それは昨日のことが関係しているのは間違いない。
イリスちゃんに抱きしめられちゃった。うれしいな。
それも、イリスちゃんの方からぎゅぅっと、うれしいなうれしいなうれしいな。
今でも思い出す。その力強さとぬくもり。首筋にかかる吐息がこの身を駆け巡る快感を助長させる。
ああ、もうずっとこのまま、その熱情に包まれていたい…………。
「ラス! ラス・ハロール! 起きなさい!」
「ふぇ?」
衝撃が体を揺さぶる。
何事か――そう思った瞬間に目が覚めた。
ここどこだろう。ああ、そうだ。ここは帝都の下宿だ。いつものお家じゃなく、あのふわふわな場所でもない。あの心地よい感覚は霧散してしまった。それが残念。
「夢、かぁ……」
「なにぼっとしてるんですの! 遅刻しますわよ!」
「遅刻?」
「寝ぼけてるんじゃありません! 今日から登校でしょう! わたくしが起きてるのに、いい身分ですわね!」
「と、言いつつも2分前に起きたばかりのお嬢だった」
「うるさいですわ、サン!」
そういえば今日からまた学校だ。けど今が何時かは分からないけど、窓から差し込む陽の角度からちょっと速いんじゃないかと思うんだけど。
「ラス、今日から帝都にある“ウトリア帝国学園”にお邪魔することになるんだよ。走って1時間とか言われたからね。1時間半前には出ないと間に合わないんだ」
まだぼうっとしている私に、ユーンちゃんが教えてくれた。
そっか。だからこんなに早いんだ。
「うーーーん」
大きく伸びをする。だんだん意識がはっきりしてきた。そうだ。今日から帝都での学習が始まるんだ。それにイリスちゃんもいない。
一昨日、じゃない、一昨昨日にイリスちゃんは倒れた。
すぐにお医者さんが呼ばれて、疲労から来る風邪とのこと。3日は絶対安静にということで、この2日はほとんど気が気じゃなかった。
風邪と診断されて亡くなった人は何人か見たことがある。だからイリスちゃんもそうなるかも、と思ったら天地が壊れるほどの衝撃だった。だから昨日、一昨日はずっとイリスちゃんの看病をしていた。濡れたタオルを取り換え、水を飲ませる。苦しそうにしているイリスちゃんを見ると身が張り裂けそうだった。
けどその甲斐があってか、もともとの健康で体力のあるイリスちゃんだったか、昨夜にようやく落ち着いたみたいで、
『ありがとう。もう大丈夫だから、ラスは明日、学校に行かなきゃ』
と言ってまたぎゅっと抱きしめてくれた。嬉しかった。
風邪がうつるってカタリアちゃんは言ってたけど、イリスちゃんの風邪だったらもらって死んでもいいと思った。むしろそれでイリスちゃんが健康になるなら本望だった。
そんなこんなで慌ただしかった週末が過ぎ、こうして学校へ行くことができるわけだけど。
「ふっ……ラスくんはまだおねむか。仕方ない子だ」
「会長もなんでまだパジャマなんですの!!」
「カタリア様ー、パンが焼けましたよー」
「あー、お嬢! その制服、裏表が逆!」
うーん。大丈夫かな?
と、そこで隣室に隔離という名目で1人寝ていたイリスちゃんが目覚めたようで扉を開けてこちらに顔をのぞかせる。その顔は眠そうにしていながらも、健康的に見えてちょっと安心。
「お前ら……朝っぱらから何やってんだよ」
「あらあら、病人が何しに来たのかしら? さっさと寝ていなさい!」
「カタリア……お前、優しいのな?」
「えっ、な……違いますわ! 役立たずは引っ込んでなさい、という意味ですわ!」
「はいはい、そういう風に受け取るよ」
やれやれと言った様子でイリスちゃんは肩をすくめる。と、イリスちゃんがこちらを向いて、
「ラス、行ってらっしゃい。頑張って」
そう微笑んでくれたから、もう眠気も吹っ飛んで勇気満々、なんだってできる気分!
「うん、行って来ます!」
そんなわけで慌ただしくも出発した私たち――私、カタリアちゃん、ユーンちゃん、サンちゃん、師匠もといムサシ生徒会長の合計5人は朝も早い帝都の街を早歩きで通り過ぎていく。
カーター先生はさすがにイリスちゃんを独りにしておけないということで居残り。コトさんはこないだ出会ったヒジカタという人のところに働きに出て行ってるし、コタローさんは全然顔を見かけない。
外に出て朝の冷たい空気を目いっぱい吸い込む。
帝都というのは不思議な街だ。
朝も夜も人がいっぱいで、どこからこんなに人が出てくるのだろうかと思う。それでもそれは一般区画の一部で、上級区画に近いエリアか、東西南北の門の近くにある繁華街くらいらしい。
それ以外は私たちの宿舎の近辺みたいに、普通の人たちがひっそりと暮らす感じになっている。
そのどこか矛盾した、ハイとロウの熱がはっきりとした帝都の街並みが、私は気に入っていた。情熱と冷静を兼ね備える、イリスちゃんみたいな雰囲気だからかもしれない。
けどまだお日様が顔を出したくらいの早朝では、どこも人の動きはまばら。その中を私たちは行く。
「ああ、もう! なんだってこんな朝っぱらから小走りで行かなきゃいけないんですの! 馬車! 馬車を買います!」
「カタリア様、それはさすがに買えないかと。馬の飼育代も馬鹿になりませんし。第一、厩舎のないあの宿舎では置き場所がありません。それに御者はどうするんです? まさか先生にさせるわけにはいかないでしょう?」
「そーそー。それよりお嬢、少し運動した方がいいっすよ? この1カ月、馬車に揺られる以外はずっと食っちゃ寝でしょう? さすがに太――」
「歩きます! これから毎日! 毎朝! 全力で歩きますわ!」
「ふふ、その意気だカタリアくん。なに、少し早く寝て早く起きればいいだけのこと。そういった規律正しい生活が、生徒会長を作るんだよ」
といった感じでみんな元気に朝の町を行く。
けど、その元気が続いたのも、上級区画の門にたどり着くまでだった。
「はぁ!? 通れない!?」
カタリアちゃんの絶叫。それは上級区画の東門にたどり着いた時。イース国の城門に匹敵するほどの大きさを持った閉じた門の前で警備する門番の人に、許可のない者に門を開けることはできないと言われた時だ。
「わたくしたちはイース国の特別派遣研修生ですわ! この中にあるウトリア帝国学園にお呼ばれしているんですわよ! それなのに入れないとはどういうことです!?」
「そうはいっても許可のない者は入れない決まりなのだ。それ以上騒ぎ立てると、騒乱罪で捕縛するぞ」
「っ……!」
そう言われれば、カタリアちゃんも大人しく引き下がるしかなかった。ここで捕まったりでもしたら、国に迷惑がかかる。いや、それ以前にどういったことをされるか分かったものじゃない。お父さんの仕事が仕事だから、他国の怪しい人間に対しどういったことをするのか、少しは分かってるつもりだった。
「なぁ、そう言えば西門にそんな話が行ってるとかって話、なかったか? ウトリアも西門の方にあるしよぉ」
「んー? そうだったか?」
もう1人の門番が、邪険に扱ってきた門番にそう話しかけていた。
それに目ざとく反応したのはムサシ生徒会長だった。
「西門?」
「ん? ああ。まだいたのか。まぁそうだな。我々のところに話は来ていないが、西門にはそういう話が行っているかもしれん。なにせウトリア帝国学園は西門の近くにあるからな。ここ東門のほぼ真反対だ」
西門。ここが東門だから反対側になる。
けど、そのためには――
「西門というのは、この塀をぐるっと回って向こう側ってことです?」
語気を鋭くしながら、ムサシ生徒会長が聞く。
一般区画と上級区画を区切る巨大な壁は、一般区画の中心を円形にくりぬいたようにしてあって、それは20メートル以上の高い壁でできている。
つまりその距離はざっと直線の数倍ということ。それを歩けば、さらに時間はかかってしまうわけで、このままだと遅刻しちゃう。
「その通りだ。西門に行きたいならぐるっと回り込むんだな」
「くっ。大将軍だかなんだか知りませんが、わたくしたちによくもこんな仕打ちを……」
「なに、大将軍の悪口か?」
「いえ、何でもありませんわよー、おほほー」
「そうそう、このアホの子の言うことは信じちゃいけませんよー」
「むごっ、むごご!!」
ユーンちゃんとサンちゃんに口を抑えられて引き離されるカタリアちゃん。
けど、なんだろう。カタリアちゃんは今、これを大将軍の仕業と言ったけど、なんか違う気がする。
この小さな嫌がらせを積み重ねて相手を苛立たせる方法。それは私たちと同年代の子供が考えたいたずらのような――
「ラスくん、行くよ!」
と、ムサシ生徒会長に促され、ハッとした。そうだよね。今はそんなことを考えてる場合じゃないよね。
それから大慌てでぐるっと壁を迂回して西門へと向かった。そこでは話が通っていたらしく、すんなり門を通れたわけで、そこからほんの数分のところに私たちがこれから1か月の間に通う、ウトリア帝国学園があった。
「ぜぇー、ぜぇー、ここが……例の」
「カタリア様、もう少し運動しませんと」
「日頃のツケが一気に来たなぁ、お嬢」
「うるさいですわ! それにこれは疲れではありません! わたくしに対する、嫌がらせとおちょくりに対する怒りです! それになんなのですか、この学園は! きらきらとばかりして、中身が何もありませんわ!」
「いや、ソフォス学園も同じようなものでしょう。けど、レベルが違うなぁ。広さでは勝ってるけど」
サンちゃんが嘆息するように、確かにこの学校は私たちの通うソフォス学園とは比べ物にならないくらい豪奢だった。外見からでもそれが分かる。
手入れされた庭には緑が生い茂り、中央にある噴水からはとめどなく水が噴き出ている。
その奥にある校舎は、一見古びて見えるものの、それがなんとも言えない味わいを出し、帝都の歴史の重みを感じさせる。もちろんきらびやかな金を混ぜることは忘れられておらず、ソフォス学園の方が敷地的には広いとはいえ、見る者を圧倒する存在感はこちらの方が圧倒的に上回っていた。
特に校舎の右側にそびえたつ時計塔は、高さは20メートルほどしかない――なんだか城壁とかの高さに圧倒されて、高さの認識がおかしくなってるかもしれないけど――が、それでも悠然とそびえるその塔は、街のシンボルであり誇りであるように見えた。
「いや、いいですわ。もうかれこれ1時間近い遅刻になってます。さっさと行きましょう」
と、カタリアちゃんが学園の中に入ろうとして、
「あらあら、そうはいきません。遅刻者はしかるべき罰を。それが我が校の決まりです」
と、校門の脇にある建物から声が響いた。
ドアが開き、そこから現れたのは、金色の髪をサイドにテールさせている女の子。その後ろを4人の人間が続く。
「ふふっ、イースの田舎には時計というものがなかったのかしらぁん? おっほほほほ!」
そう言って、彼女は優雅に、そして高らかに笑った。
10/5 話数を修正しました。




