第26話 その瞳に映るもの
「イリス様」
深夜。眠れずに、宿舎の居間でぼぅっとしていた。
電灯もなく、ランプをつけるのも面倒なので灯りはない――というわけではない。
窓から差し込む月光により、それなりの明るさになっていた。
といっても、元の世界で暮らしていたような透明なガラスにおおわれているわけではなく、分厚くて表面のざらざらした不透明のガラスが当てこまれていただけだが、それでもそれなりに明るさはあった。
あれから――ザウス軍を撃退してから。
一時の戦勝に沸き上がる間もなく、慌ただしい時間が過ぎた。
ザウス軍の同盟破棄。
それを国都に向けて早馬が走り、それから国境周りの警戒と偵察で兵たちが走り回る。
その中を、僕たちザウス国からの避難民は所在なさげに砦の隅の宿舎で小さくなっていた。
いや、小さくなっていた、というのは違うな。
疲労困憊と空腹で、何をする気力もなく、ただ出された食事をかきこみ、お風呂に入った後は、もう思い思いに寝たのだから。
総勢21名。
欠けることなくここまで逃げて来られたことは、安堵すべきで喜ぶべきこと。
お腹いっぱいに食事をして眠るトウヨとカミュを見ていると、肩の荷が下りた気分だ。
けど、その中で僕は、僕だけは単純に喜んでいる場合じゃない。
というかそもそも寝付けなかった。
その一因がお風呂だ。
水道とか湯沸かし器なんてないわけで、沸かしたお湯で体を洗い流すくらいが精一杯だった。けどそれで十分だ。
疲れた体にお湯が染みて関節が諸所で鳴り、汗と森の汚れが落とされてさっぱりとした。
その時に不覚にも――いや、もはや仕方のないことなんだけど……見てしまった。そう、女性の体というものを。
だって仕方ないじゃんか。今の僕は女の子で、体を洗おうと思えばそうしなければならないのは。
え、どうだったかって?
そりゃもう……いや、何もしてないから! てか自分の体だから! それに女の裸なんて見飽きてるしー。全然興奮とかもしなかったしー。全然よゆーだしー。
まぁもちろん、
「イリリー、一緒に流しっこしよー!」
「あ、おねえちゃん。カミュもー!」
となった時には全力で逃げた。
さすがにそれは犯罪だと思った。
そしてもう1つ。
「げふっ、げふっ……」
お風呂に入る前。どうも体がだるく、激しい頭痛をこらえていると、急に体を衝撃が襲った。
それを吐き出すように、せき込む。
そして見た。
今や砦は警戒態勢でかがり火を燃やして昼のように明るい。
そこで手に着いた液体。それが何か不吉な色をかもしだしているのを。
これって……血、か?
なんで? 血を、吐いた? 僕が?
もしかして、イリスは持病持ち? それなのにあれだけ激しく動いたのだから……いや、でも最初はそうじゃなかった。思えばあの時、黒衣の騎士から逃げてウォーリを助け出した時も激しく咳き込んで――そうだ。侍従長たちに血を見られた。
あれは、もしかして唾だと思って服にこすりつけた、それが血だったから?
でもなんでかは分からない。
ただ、僕の体に何か起こっているのは確か。
というわけで、転生やら命の危機やら、そこにさらに女の子の体に吐血という要素も加わって、体は疲れ切っているがどうも眠れないのだ。
いまだにタヒラ姉さんは守備隊長と共に夜警に当たっているのだから、ただ休むのも申し訳ないという気分もあった。
だからこうして、窓の近くで夜空に浮かぶ月の光を浴びながら、センチメンタルな気持ちをもてあそんでいたわけだけど。
そこで呼ばれたのだ。
声の主は侍従長。
この時間でも彼女はメイド姿だ。あぁ、着替えがないのか。
「どうしました?」
正直、この人は少し苦手だ。
なんというか、絡みづらいというか。正論でぶん殴ってくる感じが、ね。
そもそも、そこまでコミュ力に自信がない僕からすれば、当然なわけで。
「眠れないのですか?」
「ん、まぁそうですね」
「そうですか……」
侍従長が少し声のトーンを落とす。
何か悪いことでもあったのか。そう思ってしまうほどの落胆ぶり。
一体何があったのだろう。
そう思っていると、
「遅くなりましたが、ここまで皆が生きて戻れたのは、タヒラ様ら軍の力もありますが、それらを動かしたのはイリス様。貴女様のおかげです。改めて、お礼申し上げます」
と、急に侍従長は手を合わせて頭を下げてきた。
年上の、しかもこんな真面目な人に頭を下げられた経験なんてないから焦ってしまう。
「い、いや。その。なんていうか、運が良かったっていうか」
「昔、大旦那様――イリス様のお父様に言われたことがあります。運を活かすのも武将としての大切な素養だと。判断力と行動力、そして運。イリス様は十分な将としての資質をお持ちでしょう」
「は、はぁ……」
これは、褒められてる?
あまりそんな感じがしないのは、とつとつとした侍従長のしゃべり方が原因か。
ただ、なんだろう。なんともこそばゆいというか。恥ずかしいというか。褒められ慣れない人を無理に褒めるとこうなる。
「しかし、かといって無謀であってよいわけではございません。偵察や囮など将がすることではりません。勇気と蛮勇は紙一重。どうぞ、今後はご自重なされますよう」
あ、やっぱりお小言だった。
うん、なんていうか、こっちの方が落ち着く。
「失礼しました。主筋にあたる方に小言など」
「あ、いや。いいんですよ。なんかそっちの方が落ち着くから」
「さようでございますか……」
と、急に口ごもってしまう侍従長。
さすがの僕でも何かあったのだろうと気づく。
「どうか、しました?」
「……さすがですね。そこにお気づきになるとは」
いや、これはさすがに誰でも分かると思うな。
それほど様子がおかしい――苦しそうな、辛そうな表情をしていれば。
「これはあるいはイリス様なら、分かってくださるかと」
「いったい、何の?」
「トウヨ様とカミュ様のことです。ご主人様のことを思うと、あのお2人が不憫で……」
ご主人様、というと……あぁ、叔父さんか。
そして2人はもちろんトウヨとカミュだ。
「言わなければいいんじゃ?」
「ムリでしょう。ご主人様はすでに逃亡している、と知らされてここまで来たのです。それなのに、どこにもいらっしゃらない。実は亡くなっているということが分かれば……特にトウヨさまはすでに10を越えております。分別がつかないわけがありません」
「いつかは気づく、か」
叔父さんはすでに逃亡済みという嘘でここまでついてきた彼らだ。
それが実は亡くなっている、だなんて聞かされても納得はしづらいだろう。
むしろわざわざ絶望に叩き落さなくても、と思う。
「ええ。ですからお2人のことを考えれば、真実を伝えない方がいいとは考えるのですが……未来のことを考えると、しっかり伝えた方が良いかと思いまして」
僕は驚いていた。
トウヨたちの置かれた状況にじゃない。侍従長。こんな人でも、悩むのかと。
「お笑いになりますか。こんな歳をとった、侍従長という責任のある立場の人間が悩むのかと」
「い、いや。まさか」
図星だったので、少し慌ててしまった。
心でも読むのか、この人は。
「ふっ、良いのです。覚えておいてください。どんなに歳を重ねても、どれだけ経験を積んでも、人間とは時に大いに迷うものなのです。それが特に……人の人生にかかわるものであれば」
「…………はい」
なんとなく、そう打ち明けられたことで侍従長が苦手ではなくなった。そんな気がした。
けど、その問題は確かに難しい。
トウヨとカミュ。前途ある若い2人に対し、どう対応するか。知らねーよ、と言えればどれだけ楽か。
それを言えないくらいには、たった1日とはいえ僕はあの2人にかかわりすぎている。
だから何も答えが出ないまま、沈黙が流れる。
そんな時だ。
「その話……」
「え?」
と、そこでまさかの第3者の声が響いた。
そしてそれはある意味、驚愕の相手で、
「ト、トウヨ様……いつの間に」
渦中の人、トウヨがいた。
まさか、聞かれていた!?
いや、もしかしたら聞き間違いということも……。
「本当、なの? 父上が……死んでるって」
なわけないか。
ばっちり聞かれてる。
「なんで……父上は生きてるって」
「トウヨ様、おお、お許しください」
「許すか許さないかじゃない! 僕はどっちが真実なんだって聞いてるんだ!」
突然、トウヨが声を荒げた。
すごい迫力だ。あの陽気な感じからここまで声が出るとは思ってもみなかった。
それにより誰かが起きてくるか、と思ったけど誰もが疲れ切っているのだろう。その気配はなかった。
「あの……それは、その……」
「真実だよ」
困り果てている侍従長に代わって、僕はそう告げた。
「叔父さんは、君のお父さんは亡くなってる。最期に会った時、怪我していて、逃げられる状況じゃなかった」
「……嘘を、言ったんです?」
「うん。ごめん」
頭を下げる。こうやってきちんと頭を下げたのはいつ以来か。
きっと殴られるんだろうな、と思った。
それでもいいと思った。それで彼の気が済むなら。
けど、その衝撃はいつまでも来なかった。
「頭をあげてください、お姉ちゃん」
「トウヨ……」
顔を挙げるとそこには、諦めとどこか熱気を帯びた瞳を宿すトウヨがいた。
「僕はもう11です。それなりに分別はついていると思います。お姉ちゃんが傷つけるために嘘をついたわけではないと、分かってはいます」
そう言われると救われる。けど、本人が全然救われてない。
それがどうも引っかかって、嫌で、なんとかしてあげたいと思う。
「僕は、いいです。でもカミュ。彼女は、まだ小さい。父上が死んだって言われても、受け止められない。だから、お願いです。カミュにはこのことは伝えないでください。あいつは、父上のことが大好きだったから」
そう言って、逆に頭を下げてきた。
11歳。小学校5,6年ってところか。
それなのにこんな大人びた感じとか。苦労しそうだなぁ。
「いえ、もったいない。こちらこそ、黙っていて申し訳ありません」
侍従長も頭を下げる。
それでこの場は収まった。トウヨが見た目以上に大人だったというか、なんとも救われたのはこっちの気分だけど。
あ、そうだ。
なんとなしにポケットに入れっぱなしだった指輪。
子供たち2人に渡してほしいと、叔父さんから託された遺品。
「これは……父上の」
「うん、君たちに渡してくれって。カミュちゃんには、さすがにだから……2つとも渡しておくよ」
「…………うっ!」
トウヨはその――彼の父親の血がついた指輪を手に取ると、がっくりと膝をつき、そして静かに泣いた。
しばらくは涙を流すトウヨを、僕と侍従長は見守るしかない。
やがて彼は意を決したように立ち上がり、
「1つ、お願いがあります」
と、トウヨがこちらに視線を向けてくる。
熱の入った真剣なまなざしに、思わずたじろぐも、後ろめたさもあって素直に頷く。
「うん、なに?」
「僕に、戦い方を教えてください」
「え?」
「父上を殺し、カミュを悲しませ、皆をひどい目に遭わせた。そんなザウスを許すわけにはいきません。だから僕が……」
そう言った時に見た彼の瞳。
そこで僕は気づいた。
彼の瞳に宿った熱の正体。
それは逃げ場のない怒りの炎。それがどす黒く染まって身を焦がすほどの熱量になっている。
狂気。
それが彼の瞳に宿った熱の正体だった。