挿話51 カタリア・インジュイン(ソフォス学園1年)
心地よい睡眠。それはわたくしをさらなる美へと昇華する。
いついかなる時も、それはわたくしにとって必要なもので、それを邪魔する者は親だろうと教師だろうと抵抗してきた。
「カタリアちゃん! 起きて! 大変だよぅ!!」
地震? いえ、違いますわ。
これは誰かがわたくしをがくがくと揺さぶる振動。つまりわたくしの睡眠を阻害する悪!
「この無礼者!」
「ひゃう!?」
癇に障る吹けば消し飛びそうな悲鳴を聞きつつ目を開ける。
ぼやける視界。それが次第に焦点が定まっていき、そこにいたのはラスの裏切り者。この子はあのイリスについて城内に戻ったんじゃなかったでしたっけ? ま、どうでもいいですけど。
「あら……ラス、どうしたの?」
「う、ううん……なんでもないよ!?」
目を見開いて、少し震えた表情のラス。それがまた憎らしい。わたくしをなんだと思ってますの。
「おー、すげぇ。お嬢のアレを避けた」
「まぁただのビンタなんですけど。てゆうかサン。知っててやらせましたよね」
「だって、お嬢の寝起き。すっげぇ悪いんだもん」
「同感です」
ユーンとサンがひそひそと密談をしている。よく聞こえなかったけど、無礼なことを言われた気もしますわ。
「あ、そ、そうだ! 大変なんだよぅ、カタリアちゃん!」
「後で聞きます。それより、最悪の寝起きですわ。ユーン、サン、すぐにシャワーの用意を。それからブレックファーストにはカリカリのベーコンにトースト、卵はもちろん半熟の――」
「敵がいなくなっちゃったんだよぅ!!」
「……敵?」
ラスに言われて、ピタリと思考が一瞬止まる。
えっと、今この子はなんて言いました? 敵? 敵とは? この子? イリスのお馬鹿さん? いえ、違います。今はもっと緊急の事態。そう、他国があろうことかわたくしのイースに攻め込んできた。それを撃退するため、こうして彼女らを率いているわけで。そう。この体が痛いのも、眠りが不十分なのも、いつものベッドでの寝起きではなくあばら家での雑魚寝だったから。まったく。こんなところで寝るなんて、わたくしを誰だと思っているのかしら。本当にあのイリスの言うことはろくなことじゃない。そもそも……いえ、ちょっとお待ちなさい。どっか行ったイリスはどうでもいい。それより今この子はなんて言いました? 敵。敵は他国の侵略者。それが、いなくなった?
「なんですってぇ!?」
「ぴゃぅぅ!!」
わたくしは悪魔か! 消え入りそうな顔をしてのけぞるラスが恨めしい。
「17秒。おお、これは新記録だ! お嬢が寝起きから自我を取り戻すまでの」
「そうですね。これからカタリア様の寝起きはラスに任せましょう」
ユーンにサンの訳の分からない会話も苛立ちを募らせる。
「一体、何が起きてるんですの!? いえ、いいですわ。自分の目で見ます」
伝聞で知る物事など当てにならないことは自分が良く知っている。だからこそ、自分の目ではっきりと見て、それで決断を下す。
寝起きの格好のまま――上に鎧を着ればすぐに出動できる状態だ――で外に出る。
「お嬢」
横からユーンとサンが鎧を持ってくる。それを歩きながらつけた。背中の部分は2人が手伝う。
広場へ出る時には、完璧な状態に収まった。とはいえここ数日の戦いで鎧もボロボロだ。みっともない。これが終わったら新品にデザインしてもらいましょう。
部下たちはすでに出そろっていた。元は千人ほどいた部隊も今や半分近くに減ってしまっている。
けどそれを悲しむことはない。彼ら彼女らの犠牲のうえで、我が国の平穏は成就するのだから。逆に、ここで勝たなければその人たちに対する最大の侮辱になる。それは許されることではなかった。
「出撃! まずは敵の動きを見ます!」
それから1分後には全軍が乗馬して、補給所から出撃する。
外はようやく明るくなり始めたころ。敵の本陣がある場所までは駆け足でおよそ5分。敵の奇襲に対するために斥候は絶えず3方向に出し続けた。
「カタリア様、あそこです」
ユーンが指示した方向に、陽の光とは別の光が集まっている場所があった。それは多くのかがり火が集まる場所で、敵の本陣に違いない。
「斥候!」
敵の本陣を視認できる位置にいるのに反応がない。あるいはもうすでに攻め入っている? こんな早朝から?
とはいえ油断せずに斥候を出して確認することは忘れない。
「敵陣はもぬけの殻です! かがり火は燃えていますが、誰もいません!」
「周囲に敵影なし! 兵が伏せられる場所も全て調べました!」
「誰もいない……本当だったのですね」
もうすでに戦闘が始まっているのか。そうだとしたら寝過ごしたことが悔やまれる。いえ、ここから挽回してこそ。
「敵陣から国都の方に300メートルほど行った場所に500ほどの部隊がまとまっています! 旗印からおそらくノスルかと!」
「ノスル?」
最後の斥候が持ってきた情報に首をかしげる。
ノスルがデュエンに降伏したことは聞いている。そして以来、攻め手の先鋒になったことも。降伏した兵は忠誠を見せるために、一番犠牲の多い先鋒に回されるとイリスが言っていたが、そういうことだろう。
ただ、デュエンの本隊がいない状態で孤立しているのはなぜか。それが不自然だった。
「お嬢、どうする?」
サンが決断を促すように聞いてくる。
そのノスルの部隊が気になる。そして敵の本隊がどこに行ったのか。
「軍を進めます。そのノスルの場所に案内しなさい」
「了解」
「ノスルはもとは同盟国とはいえ今は敵です。各自、油断はしないように。それから周囲に斥候を出して。敵本隊を探りなさい」
「罠の可能性が?」
「分かりません。ですが、可能性の1つとしては考えるべきでしょう」
「了解っと」
固まっているノスルを囮にして、こちらを撃滅する作戦かもしれない。だから伏兵がいないことは確実にしておきたかった。
それからゆっくりと敵の本陣跡を迂回して、ノスルの部隊がいるという場所に向かった。
「確かに500ほど。いったい何を考えてんですの?」
「罠、にしては妙な位置だねぇ」
「斥候からは周囲500メートルに敵はいない模様です」
1万近い兵を見逃すことはないだろう。となればやはり敵はいない。撤退したか、あるいは……。
「なんか困ってそう。お話聞けないかな?」
隣のラスが、ノスルの軍勢を見ながら能天気につぶやく。
「ばっ、ラス。あれは敵ですのよ!?」
「でも、なんか戦う感じしないよ。多分、大丈夫だよ」
この子の感覚は何なのだろう。能天気なのか、楽観的なのか、それとも阿呆なのか。
「敵に動き!」
「っ!」
ラスのお馬鹿に構ってたせいで先手を打たれた!
迂闊な自分を呪いながら、もっとお馬鹿なラスを呪いながらも叫ぶ。
「戦闘態勢! 相手は500でしかも大半が歩兵! こちらの方が数は上! あの裏切り者どもにイースの力を見せてやりなさい!」
「あ、でも……3騎です」
「なんですって?」
確かに敵の500は動いていなかった。そこから3騎ほどがゆっくりと離れてこちらに向かって来るのが見えた。
罠? 誘い? 囮?
判断がつかないまま、気持ちだけは切らさない。変に動いて罠に嵌れば、それこそあのイリスに馬鹿にされるに決まってる。そんな愚を、わたくしがすると思って!
戦闘態勢のまま、敵の動きを待つ。
だが、やがてその3騎が――その真ん中に位置する男の姿を目視した時から、どこか気持ちが萎えはじめてしまった。
「ああ、やっぱりカタリアじゃないか」
「げっ……」
思わず下品な悲鳴をあげてしまった。
いる可能性はあった。なぜなら相手はノスル軍で、あの男は国の最高権力者の1人だから。ただ本当にそいつがここにいると、なんだか皮肉なものを感じさせた。
「やぁ、俺様だよ。ノスル国の太守アトラン・ピレート様だ」
「黙りなさい、この豚。いえ、裏切り者」
「おおふ……いいね。けど豚呼ばわりの方が好きだなぁ」
両手で自分を抱えるようにして身もだえするアトラン。気持ち悪い。
「カタリア様、こいつ、斬りますか?」
「いや、絞めようぜ。絞めて吊るせば何も言わなくなるし」
「やめようよぉ。豚なら豚らしく、叩くだけでいいんじゃない」
「よしなさい。少なくとも、ここに来た理由を聞くまで」
気持ちはわかりますがね。
ただ、ラスもなかなか言うのね。ちょっとゾッとしたわ。
「で、何の用ですの?」
「用、そんなの君に会いに来たからに決まってる」
「ユーン、サン。絞殺でも撲殺でも扼殺でも好きにしなさい」
「ま、待った待った待った! 分かった! 悪かった! 言うから! ちゃんと言うから!」
ユーンとサンが一歩前に出ただけで、アトランは情けなくも両手を挙げて降参してしまった。いじけない。
「はぁ……本当はさ。こんなこと、したくなかったんだ」
「こんなこと?」
「デュエンに降伏することだよ。けどうちも色々あったんだ。親父が死んで、重臣会議もまとまらず、俺様と姉貴も色々やったんだけど、どうしようもなかった。こうするしかなかったんだ」
「だからってわたくしたちの国に攻め込んだことが許せるとでも?」
「それは……申し訳ない。だからせめて罪滅ぼしをさせてもらいたくて」
「罪滅ぼし?」
「ああ。デュエンの野郎ども、朝起きたらいつの間にかいなくなっていやがった。俺様に何も言わずにな。そんな舐めたことしてくれたんだ。ならこっちにも考えがあるってもんよ」
俗物。
この男に下した判断はそれだった。いや、それは前から分かっていた。ノスルでの行為、その後の裏切り、そして今。
けどいい。それはそれで、使い様はある。
「考えとは?」
「もちろん、逃げたデュエンの奴らをぶっ飛ばす。俺様が手伝うんだ。これはもう勝ち確だろ!」
本当、どこまでも自分勝手に動き、考える男だ。それに鈍い。わたくしが軽蔑80%、怒気50%、殺意120%の視線を投げかけているのに気づいていない。100%を超えている? 関係ありませんわ。
けど――
「分かりましたわ」
「おお、さすが! カタリアなら分かってくれると思った!」
「うるさい、豚。豚ならブーブー鳴いてなさい」
「ブヒィ、ブブ、ブヒィ!」
醜すぎるものを見るに堪えずに目をそらしていると、ユーンが馬を寄せてきた。
「良いのですか、カタリア様?」
「馬鹿となんとやらは使いようです。今は少しでも兵力が欲しい。それに裏切るなら遠慮なく叩き潰せばいいだけ」
「さすがです」
ふん、当然。
「では、敵を追います。アトラン、先導なさい」
「ん、なんで俺様が?」
「…………ノスル軍を見ればデュエンは油断するでしょう」
「おお、そうか! さすがカタリア、よく考えられている。俺様の未来の嫁だ!」
裏切った時に後ろから攻められるから、とは言わないでおきますか。
「では、まいりましょう」
ふふ。これでいい。これで間違いなくデュエンを撃破できる。さらにノスルを屈服させたとなれば、イース国防衛の功績はわたくしのもの!
だがそこへ、横やりを入れる野暮な人物が現れた。
「カタリア!」
タイミングの悪いお馬鹿が1人。
「イリスちゃん! よかった、無事で!」
「ラス、先に行ってくれてたんだな」
「うん! うん!」
ラスが涙目で嬉しがっている。
やれやれ、この2人はいつも一緒にいて、金魚のふんなのかと。
「おお、イリスじゃないか! 俺様に会いに来てくれたか?」
「え……? あ……えっと」
「アトラン」
「あ、そうだ! あのノスルの! 久しぶり……というか、なにやってんの?」
「あ、ははは……それは、その……」
イリスに名前を忘れられて、そのうえなじられる。そのたびにアトランの顔色がころころと変わってざまを見ろですわ。
「そんなことより、カタリア! すぐに軍を動かしてくれ! デュエン軍本隊は西門に兵力を集中した! 西門はもたない!」
「なんであなたに命令されなくてはいけませんの! ええ、お姉さまの危機ですから、全速力で!」
「助かる。で、こいつらは?」
「今はわたくしの部下ですわ」
「え!?」
「違いますの?」
「あ、いえ……違わないです。俺様はみじめな豚です」
睨みつけるとアトランは恐縮しきってみせた。だからわたくしは悪魔かなんかだと思ってますの?
「相変わらずだな……」
「なんですの、イリス。その目は」
「いや、なんでもない。それより急ごう! 僕たちの動きが、この戦いを左右する!」
「だから命令するんじゃありませんわ!」
まったく。いつまでたっても分をわきまえないのだから。
けど、どこかホッとしている自分がいたような気がして、慌てて頭を振ってその弱気を追い出した。