挿話39 ラス・ハロール(ソフォス学園1年)
昔から、他人の言うことを素直に聞く子供だった。
『ラス、勉強はしっかりしなさい』
『はい、お父様』
『ラス、ピアノのお稽古をしなさい』
『はい、お父様』
『ラス、武道を学びなさい』
『はい、お父様』
『ラス、友達は選んで付き合いなさい』
『はい、お父様』
お父様とお母さまの言うことはすべて正しくて、それに従っていれば笑顔でいてくれるから、そのことに疑問を抱かなかった。
ソフォス学園に入ったのもお父様がそう言うからで、カタリアちゃんと友達になったのもお母さまがそう言うからだった。
私には主体性はなく、私の人生には何もなかった。
それでいい。そうすれば皆笑顔でいてくれる。だから、私はそれでいい。そうやって生きていく。そう考えていた。
転機が訪れたのは、中等部に入ってからだった。
『は? なんであんたの意見なんて聞かないといけないの?』
あろうことか、カタリアちゃんに真っ向から批判する人がいるなんて思いもしなかったから、教室が凍り付いた。
『あなた……わたくしが誰だかわかってそれを言ってるんですの?』
『知らね。興味ない。あー、でもそういえば親父が言ってたな。ここには同い年のインジュインの娘がいるとか。もしかして?』
『まさかわたくしを知らずに突っかかって来たんですの? イリス・グーシィン。私はあなたのことをよく知っているというのに。あなたは!』
『あ、そうなの。へぇ。で、えっと誰だっけ、君?』
『こ、こここ、殺します! あなたはそうやっておちょくって!!』
『わー! カタリア様! 落ち着いてぇ!!』
『お嬢! ストップ! ストップ!!』
『くきゃーーー!!』
イリスちゃんとカタリアちゃんが初めて出会った時のこと。すごくよく覚えている。
その時。こんな人がいるんだと感激した。
だってそれまで、カタリアちゃんの言うことは絶対で、クラスの中心で、そして可愛かった。だからみんなはカタリアちゃんに従っていて、それで皆笑顔だったから良かった。
そんなカタリアちゃんに歯向かうなんてこと、あっちゃいけなかったし、あるとは思ってもみなかった。
けど、それが実現した。
たった1人の女の子によって。
それから2人は今まで。あらゆることで衝突し(主にカタリアちゃんが突っかかっていったような気もするけど)、いさかいは絶えなかった。
それが完全な分断にならなかったのは、イリスちゃんはあまり相手にしてなさそうだったし、対抗して徒党を組むわけでもなく、独り、孤高と言っていいような存在として君臨していたから。
やがてそんな彼女に対し、カタリアちゃんは教師を仲間に加えて陰湿ないじめを展開していくわけだけど。
とにかく。そんなイリスちゃんに、初めて出会った時にはもう夢中だった。人に意見を述べるとか、反対するなんてこと。やっちゃいけないことだと思ってたから。
イリスちゃんみたいな人がいるなんて衝撃的で、驚愕的で、運命的だった。
けど、彼女のことを嫌うカタリアちゃんを無視して、彼女とお近づきになるようなことは、怖くてできなかった。だから遠くから憧れの視線で見つめるだけだった。
もちろん、カタリアちゃんが嫌いなわけじゃない。
あれでも優しい時はあったし、なんだかんだで小等部から、友達がいたのは彼女のおかげだと思う。
だからカタリアちゃんとイリスちゃんが対立した時には悲しかったし、私がその騒動の中心になった時は泣き出したくなった。
それでも、イリスちゃんは許してくれた。私を、受け入れてくれた。
それからすべてが変わった。
初陣を果たし、多大なる戦果を勝ち取ったと聞いた時には、自分事みたいに嬉しかった。感動した。
あぁ。こんな英雄が近くにいるなんて。
彼女は切り開いてきた。自分の力で。
盲目的に従ってきただけの私とは全く別。逆のベクトル。
それでも彼女は友達でいてくれた。
それが、どれだけ救いになったか。
そう。彼女のためなら死ねる。私の一番は彼女で。彼女が生きていない世界になんて意味はない。
だから――
「お嬢、敵が離れてく!」
サンちゃんがカタリアちゃんにそう進言する。
背後。確かにこちらを追って来た騎馬隊はこちらへの追撃を止めたように見える。
馬に乗ることは得意でも不得意でもなかった。けど、お父様は子供のころからそれら軍事教育は徹底していて、ある程度のことはできるようになっている。
だからここまでついてくるのはなんとかできた。けど自分で剣を振って、敵の命を奪うことまでできるかというと自信はない。けどこれまでもそれで何とかなってきたし。イリスちゃんもいるから大丈夫だろう。そう思っていた。
「イリスが、やったのね」
カタリアちゃんのつぶやきにぴくっと耳が反応する。
そうだ。イリスちゃんが別動隊を率いて敵を攻めている。そのおかげで、怖い敵からの追撃が止んだ。
「どうしますか、カタリア様。今なら西門へ行けますが」
「その場合、あっちは見殺しだろうなぁ」
「え、どういうこと?」
思わず口に出ていた。
あっち? 見殺し? 誰が? 何を?
「そりゃそうだろ、ラス。イリスっちは50しか連れて行かなかった。それが1千に包まれたら、いくらなんでも終わりだよ」
「え……? え?」
「死ぬ、ということね。イリス・グーシィンが」
ユーンちゃんの言葉が、耳から入る。だけど言葉だけだ。それが何を意味するかは、良く分からない。
死ぬ? イリスちゃんが?
え、だってありえない。だって、イリスちゃんは生きている。生きてるから、死なない。そんなこと、当たり前なのに。なんでそんなことを言うの?
「ユーン、もっと言葉を選びなさい」
「ですがカタリア様。私はただ事実を述べただけです」
「で? どうするお嬢? そこで機能停止しているラスにしてもさ。イリスっちを見殺しにして西門に行くか。それとも取って返してイリスっちを助けるか」
そんなの決まってる。イリスちゃんを助ける。
だってイリスちゃんが死ぬわけない。だから助けてあげないと。助ければ、死なない。そう。助ければいいだけなんだから。
「…………このまま西門に行きます」
「分かりました」「分かった」
「え? え? ちょっと待って」
「待ちません。行きますわよ、ラス」
カタリアちゃんが名前で呼んでくれた。それは嬉しい。けど、頭は混乱している。
今、カタリアちゃんは何て言った? 西門に行く? 西門に行くということは、イリスちゃんは? だって、方向は逆だ。西門に行くことと、イリスちゃんを助けることは合致しない。
「駄目だよ! だって、イリスちゃんが……イリスちゃんは……」
「そんなの、分かっていますわ!!」
カタリアちゃんの叫びが耳を打つ。
彼女は歯を食いしばりながら、眉間にしわを寄せながらも、それでもイリスちゃんを見捨てると叫ぶ。
「けど、彼女は言ったんですわ。あれを止めるから、わたくしの手で西門を守れと」
確かに言った。分離する直前。あるいは、これを見越してイリスちゃんはそう言ったのかと遅まきながらに気づく。
「イリス・グーシィンが死ぬ。それは私事。対して西門を守ることは国事! たった1人の死と、国民全員の死を比べればそれは当然後者を選ぶべき! それがわたくしの判断です!」
「そんなの! そんなのってないよ!」
私は何をしているんだろう。
イリスちゃんを助けたい。なのに、こうしてどうにもならない。
だってそうだ。これまで何もかも、全て従順に従ってきた。だから逆らうなんて、反論するなんて知らない。慣れてない。
でもここで認めたら、受け入れてしまったら、イリスちゃんが死ぬ。死なない人が、死ぬ。
そんなこと、受け入れられない。お父様が死ぬのと同じくらい。
「軍人となる以上、国家のために死ぬのは当然! 今回があの子の番だったってこと。それは彼女も承知の上でしょう!」
「分かんないよ! なに? なんで国のために死ななきゃいけないの!」
だって、いなくなるんだもの。イリスちゃんが。国があるのに、生活はあるのに、イリスちゃんがいない。そんな世界。ないのと同じ。
「いつまで甘ったれたこと言ってるの! わたくしたちは軍人。そして、あなたもわたくしも、そしてあのイリス・グーシィンも特権階級に属する者! あなたが着ている服、食べてきた食物。それらはすべてあなたの御父上が国のために尽くしてきたから受けた特権。そのおこぼれに預かった子弟ならば、国のために恩返しをしなければいけないのは当然のこと! それがノブレス・オブリージュというものですわ!!」
「分かんない! 分かんないよ! そんなの!」
「ええい、ユーン、サン! この馬鹿を――」
「だって、だって!」
分からない。なんでそれでイリスちゃんが死ななくちゃいけないのか。
確かにカタリアちゃんの言う通り。私は生まれてから今まで。それなりに不自由なく暮らせていた。西地区にいる人たち、そして国都の外で暮らす人たちよりは遥かに。
それを知ったのは、イリスちゃんと放課後に遊んでいた時。あの時の光景は二度と忘れない。怖い目に遭ったことより、そこに住む、生きる希望を失った瞳。お腹がすくから生きて行かなくちゃいけない人たちの顔。
だからこれまで受けてきた恩恵に甘えず、国のため、彼らのために頑張らないといけない。
それは分かる。分かるけど。
「それで死ぬのはおかしい! 死ぬより、生きて! 今後の国のため、人のために頑張った方が、絶対いい!!」
「そのためにわたくしたちが死ぬかもしれないのですよ! わたくしは、ここにいる600人余の命を背負っている。それでも、あなたは我がままを言うのですか、ラス・ハロール!」
「言う。言うの。私は。もう、従ってばかりでいられない。従ってイリスちゃん死ぬなら、従わずに私が死んだ方がいい」
「この、分からず屋!!」
「分からず屋はカタリアちゃんの方だよ!」
「わ、わたくし……ラス、あなた……」
私にここまで言われたのが衝撃的だったのだろう。だって、いつも「はい」としか言ってこなかった。反論なんてしたこともない。
今、私はあの時のイリスちゃんと一緒になった。それは、とても嬉しいことで、誇らしいことだった。
たとえそれが、どんな悲劇的な結末を迎えるにしても。
カタリアちゃんは顔を真っ赤にして叫ぶ。
「いい加減にしなさい! ユーン、サン! この者を拘束しなさい。その他の者は全員、わたくしについていらっしゃい! 西門を解放し、緒戦を勝ちで終わらせますわ!」
「駄目だよ、カタリアちゃん! それは絶対ダメ!」
「ラス、あなた……本気でわたくしを怒らせたいようですわね」
「そうじゃない。だって、カタリアちゃんもそれは望んでないでしょう!」
「あなたがわたくしの何を知ってる!!」
「分かるよ。だって……じゃあ、なんで泣いてるの?」
「え……」
そこで初めて、カタリアちゃんは自分の頬に手をやった。こぼれた涙で濡れた頬を。
「なん、で。わたくし?」
「イリスちゃんを失いたくないんでしょ。悲しいんでしょう」
「違う、なんでわたくしがあんな者を……」
「カタリア様。もういいんじゃないでしょうか」
「そうそう。お嬢はあれだ。なんつったっけ。イリスっちが言ってた……そう、ツンデレ! そういうやつだから」
「し、しかし1人のためにここにいる全員を、何より国を危険にするわけには……」
「1つよろしいでしょうか」
「な、なにかしら」
30代くらいだろう、1人の兵隊さんが馬を前に出してきた。
涙を流しているところを見られていたのが恥ずかしいのか、カタリアちゃんは目元を手で隠しながら答える。
「イリス殿は、国家の重鎮の娘。それを救わずに放っておいたとすれば、インジュイン様としては風評が悪いのでは?」
「ふん。風評。そんなものを気にするのは、誇りあるインジュインにはおりませんわ」
「でしたらこういうのはどうでしょう。イリス殿の武略、そして軍略。それを失うのは国家の損失だと」
「それは……ふん、そんな者。誰にでもできますわ」
「しかし、ここまで戦果を出してきたのも事実。そして今、敵がイリス殿に集中して襲い掛かっているということは、それを敵にも知られているということ。それを失うは、将来インジュイン様がイース国の天下を取った時に多大なる損失となるのではと、恐れながら私は具申します」
「…………」
カタリアちゃんは何かを考えるように上を向く。
兵隊さんはさらに続ける。
「それに今回、窮地に立たされているイリス殿を救出に向かえばどうでしょう? 彼女はインジュイン様に深く感謝し、恩を感じることでしょう。それはインジュイン様にとって、とてつもない利益になるのかと」
「恩を売っておけ、ということですわね。あれが素直に恩に感じる器?」
「それならばそこまでの者ということでしょう。そう考えれば惜しくはないでしょうし」
「ふむ」
カタリアちゃんが深く悩むようにうつむく。
多分、もう少しだ。今、カタリアちゃんは迷っている。ならもう1つ。迷いを振り切る何かを出せば。
けど何が。イリスちゃんが死ぬ。それはとても悲しいこと。きっと皆が悲しむ。だとすると――
「そ、それに!」
「なに、ラス」
「悲しむと思う」
「は?」
えっと、えっと、どう言えばいいんだろう。
もう。分からないから、とりあえず思いついた名前を言う。
「その、タヒラさん、とか」
「っ!!!」
途端、カタリアちゃんの顔がハッとなった。
まるで大切な何かを思い出したかのように。
「そうでしたわ! タヒラ様!! アレはあれでもタヒラ様の妹。ええい、まったく! わたくしの手を煩わせるとは、なんて愚かな。ほら、さっさと行きますわよ! 今はアレに夢中で敵はバラバラ。そこへ突っ込めば、大勝利間違いなしですわ! おーーっほっほ!!」
カタリアちゃんが高笑いして認めてくれた。
隣でユーンちゃんがぱちぱちと手を叩き、サンちゃんは私の方を向いて親指を上にあげて頷いた。
よかった。これで皆で助けに行ける。
馬を返して、イリスちゃんたちがいるだろう、敵の元へ。
その間に、先ほど説得をしてくれた人に馬を寄せる。
「あの、ありがとうございます」
「なに。若い者が無駄に散るのは国としてよくない。年よりから死ぬ、その自然の摂理を捻じ曲げるのはよくない。ただそれだけのことだよ」
よく言っている意味が分からなかった。
けど、きっといいことを言っているんだろう。そう思った。