挿話38 山県昌景(デュエン国軍先鋒)
迂闊だった。
敵を背後から襲い、せん滅できる。その好機に目がくらんだ。
それを好餌としてこちらを追走にかかるとは。
「また、お屋形様に叱責されてしまうな」
4回目の川中島での戦。あの時も、敵の小島なにがしとの戦いに気を取られ、義信様(信玄嫡男)を危険にさらし、挙句の果てにお屋形様が討たれるところだったのだ。
あの時のお屋形様の言葉は重かった。それは分かっていたはずなのに。
救いだったのは、敵の本隊はこちらを見向きもせず、ひたすらに西門へと向かったこと。
そしてもう1つ。
金色を見た。
兜をつけていないため目立つ金色の髪の毛。そして自分とそう差はないほどの体格。
いりす。奴がいる。自ら先頭に立って。
手を挙げた。それから指の動きで、後方の300を分断した。
だがそれでいりすが討てるとは思っていない。だからこそ自分が動く。
副官に追撃を任せ、自分が30騎を率いて分離する。
問題は右か左か。中央はない。挟撃の中に入って来るなど、通常も異常もありえない。だから右か左。そこから突破する可能性はある。
直感。従った。右だ。部下が30騎続く。
果たして。来た。いりす。右側の部隊を突破して出てきた。およそ50騎。たったそれだけで、900に挑んできたのか。
それでも300の挟撃をすり抜けた。そして今、自分の30と激突しようとする。
「はっ!」
笑っていた。腹の底から。ここまで笑ったのはいつぶりだろうか。もう忘れた。それでもいい。重要なのは今。この場で笑えているかどうか。
剣を構える。炎は出さない。この混戦。味方に被害が及びかねないからだ。
視線が交わる。顔がはっきりと見える距離。美しい。女の自分でもそう感じる。今から、その頭を胴体から切り離すのだ。その残酷さが、自分の体の中から熱を産む。
「山県昌景!」
いりすが叫ぶ。視線は離さない。
「その首、もらい受ける!」
叫び、剣を振った。金属を打った衝撃。防がれた。同時、突きが来た。それを馬上で体をひねってぎりぎりかわす。
あの二本の槍。厄介だ。手綱は放置して両手で武器を操るとは。馬上槍の使い手はうちにもいたが、それも匹夫の勇。もはや個人の武技での戦いは終わったというのに、これだから戦は面白い。
はせ違った。それから急激に方向転換。相手も同じに来る。ここで決着をつける。相手も同じ気持ちだったのだろうと思うと、笑みがこぼれる。
2回、3回とぶつかる。
いりす。お前は何なのだ。その小さな体に、若さに、いったいどんな力をため込んでいる。
そう問いながら斬撃を放った。それを拒むように、いりすは槍で跳ねのける。小癪な。思ったら、ますます楽しくなる。
並走した。そして剣と槍を打ち合う。
何合打ち合ったか。すでに周囲に敵はいない。味方もいない。ただいるのはいりす。彼女だけ。それでいい。それが今、この場で尽くす武というもの。
そしてそれは体を、命を燃やし、生を尽くすこの上ない幸福なことだった。
「楽しいな、いりす!」
声に出した。それでも斬撃は止まらない。
「んなわけあるか。さっさと出てけ!」
「つれないな! 私もお前も、この場でしか、戦場でしか生きられない。だからこそ、こうして戦っている!」
「山県昌景ってのは能吏だったんだろ! なら国を富ませろよ!」
「それは戦うための手段でしかない! 今、この場にいることが本義!」
「馬鹿野郎!」
突き出された槍。かわした。大きく相手の体勢が崩れる。とった。いや、まだもう一本来る。だが狙いが甘い。弾いた。2本の槍の間に入る。馬が頭からぶつかった。耐えろ。お前ならもう一歩行ける。馬が気力をふり絞る。そうだ。行け。
いりす。もう手を伸ばせば届く。剣を振れば首が飛ぶ。その美しい顔が。
その顔が吼えた。
そう感じた途端、体が止まった。なんだ。これは。なぜ体が動かない。あと少し。あと少しでいりすの首を取れる。なのに、動かない。この感覚。動けない。いや、動かない。体が意志を受け付けない。
それは、恐怖か。
いりすの気迫に押されたのか。
恐怖を感じたことなど、ほとんどなかった。それほどに、戦場はありきたりで強敵ほど心が踊った。だから戦場における恐怖は、お屋形様の命にかかわることであり、そしてそれは守られてきたのだ。
まさかそれを。こんな少女に感じさせられるとは。
刹那の時間。
けれど感覚としては永劫ともとれる果てしない時間。
右腕に激痛が走った。
いりすの槍。最初にかわした槍。それが剣を持つ右腕を、その肘をしたたかに殴りつけたのだ。
耐えられなかった。それほどの衝撃。なんて馬鹿力。同時、バキッと何かが折れる音がした。枯れ木を踏みつけたような、軽い、空虚な音。
自らの右腕。それがおかしな方向に曲がっていた。剣が落ちた。自分の腕も、肘から下がぶらんと垂れ下がっている。
折られた。
そう思った瞬間には、左手で脇差を抜いた。西洋の剣はそれなりに使いこなすようになったが、やはり日の本の武士には刀だ。無理言って鍛冶屋に作らせた脇差。左手で操る、それで相手を殺すくらいなら容易い。
痛みは奥歯に持っていき、左手を動かす。
喉。そこは守られていない。だからこれで突く。それで終わり。突いた。跳ね飛ばされた。左腕の脇差。したたかに手首が打たれている。本当に、憎らしいほど小気味よく槍を使う。
左右の手が使用不能。だがそれでも自分はまだ死んでいない。死んでいなければ、戦える。腕がなければ足がある。足がなければ歯がある。それで喉をかき切れば勝ちだ。
組みつこうとした。それでも、相手の方が速い。胸を突かれた。バキッと、再び何かが折れる音。次いで視界が回る。上も下もない。宙に浮いていた。
永遠とも言えるその浮遊感も、背中に痛みが走り止まった。どうやら馬から叩き落されたようだ。動けない。そしてそれは、自分も敗北を意味していた。
晴れた青空。
そこにいりすの顔が、現れる。槍をこちらに突きつけて。
これで終わりか。そう思ったが、いりすは槍を引っ込めて、
「どうして、スキルを使わなかった……」
「すきる……異能、か。さぁな。なんとなくだ」
本当は面白くなりすぎて、その存在を忘れていたのが真実。だが、それを言う必要はない。再戦はないのだから。
「……そう」
それだけつぶやいて、いりすは馬を走らせ視界から消えた。
死に損なった。その想いだけが支配した。屈辱感が心を満たす。だがそれでもいい。生きていれば、再戦の機会がある。最後に勝てば勝ちなのだ。
それはお屋形様から学んだ生き方。
「将軍! 大丈夫ですか!?」
部下が心配そうに群がってくる。全員が馬を降りて自分に寄り添うようにして。その一番近くにいるのは、自分の副官を務める男だった。
それを嬉しいと思いながらも、激しい怒りがこみ上げた。戦場で馬を降りるのは、馬を休ませる時か野営地に入った時だけだ。そしてそれは自分が命じた時だけ。それ以外は死。そう教えたはずなのに。
しかもこの男は、私が死んだら指揮を引き継がなければならない。そして今必要なのは、死んだかもしれない元指揮官の安否ではなく、敵の追撃。そして撃滅だ。
「無事か、だと? そんなことを聞いている暇があったら、敵を追え! 何のためにお前を次の指揮官に任命した!!」
「は……ははっ!!」
兵たちが慌ただしく動き出す。
その中。青い空を見て一息つく自分は何だろうと思う。まだ戦闘は続いている。こうして負傷退場している場合じゃないはずだ。
自分は確かに負けた。
だが戦場では負けない。
それにしても今の一騎討ち。そしてあの少女。
最後の助命を除けば、なんとなしにさわやかな気分に満たされるものだった。これほど自らの武を出し切った戦いもあるまい。
もう一度、傷が治ったらやり合いたい。
だが軍を指揮するものとしては、部下の犠牲を減らすためにここで討っておきたい。だから追走させた。
相反する思いが胸に去来する。それが良いことなのかどうかはわからない。
ただ、人生はままならない。
そうじゃないですか。お屋形様。
そう心の中でつぶやいたのは確かだった。