挿話37 山県昌景(デュエン国軍先鋒)
敵、いりすの軍が動いた。
左から右。つまり東から西へ。
大筒による砲撃が始まった西門の方へ行こうというのだろう。
まったく、知盛の策は大したものだ。敵にいたして敵にいたされず。孫子の教えを忠実に実行している。
西門の大筒を破壊するためには、損害覚悟で打って出るか、外にいる部隊を急行させるしかない。
だが前者は即陥落の可能性をはらむ、危険な賭けだ。まさか初日からそんな賭けをすることはないだろう。
だから敵は外の部隊を急行させた。
この私の部隊とにらみ合っているにもかかわらず、後ろを見せて進まなければならなかった。
この世で一番難しい戦いは撤退戦だ。
そしてこの世で一番簡単な戦いは追撃戦だ。
撤退する敵。それを後ろから襲うのは、羊の群れを襲うに等しい。敵は反撃もできずに後ろから討たれていく。
今の敵は撤退とは異なるが、味方を守るためには背後を見せなければならない。
こちらはその一瞬を逃さなければよいだけのこと。
あのいりすとの勝負がここでついてしまうことは残念だが、戦いの勝敗は兵家の常。こちらがやらなければ、相手にやられるのであれば、手加減などできようはずもない。
だから敵が動くと同時、馬腹を蹴った。背後に部下が続く。
この者たちは、自分がいちから鍛えなおした者たちだ。鍛えた年数が違うからか、死生観が違うからか、元の赤備には及ぶほどではないが、それでも満足している。
馬も可能な限り良いものをそろえているこの部隊は、“でゆえん国”で最強だ。
兵たちもその気概を持っているから動きは速い。すでに自分が合図をしなくても、動きを合わせてくれる。それを率いるのはとても気持ちの良いものだった。
敵の最後尾を捕捉した。
馬の速度はこちらの方がいい。なら決着はすぐだ。
こちらが加速する前に敵が加速した。馬を潰す気か? それでもいいと考えているなら甘い。そのような速度なら、こちらが追いつけないはずがない。
最後尾。見た。いりすの姿。あの少女との出会いは衝撃的だった。
これほどまでに前線に出る女性――しかも少女だ――を見たことがなかったから。自分は女ではない。お屋形様に身を捧げた時に、すでにそうなった。
だから物珍しいという思いと、それでいて部隊を掌握して戦う彼女の姿は美しかった。
何より強かった。技も、心も。
私の炎にも屈せず乾坤一擲の勝負を仕掛けてきた時。あの時は自らの死を予感した。だが彼女は命を取らなかった。その甘いともとれる彼女の心境。だが、それでこそと思ってしまったのは確か。
あの時に助けてもらったこの命。そのお返しとして、全身全霊をもって彼女の国を滅ぼし、そして首を取る。それが戦人の礼儀というものだ。
剣を抜いた。
相手のあの槍。穂先はない分、速い。先ほどもそれで機会を損じたのだ。
ならそれより速く、そして遠くから先手を取る。
左肩が痛んだ。だがすぐに消えた。
これ以上ない戦いの瞬間。痛みを感じている暇などない。
「燃えろ、炎災如火・迦楼羅」
剣が炎を巻く。原理は分からない。あの死神と名乗った男が教えてくれた力。
それだけでよかった。使えるものは親でも使う。それが武田流。
炎が渦を巻いて大気を切り裂いていく。いりす。彼女の元へ。火の如く、燃やし尽くせ。
同時に駆けた。いりすが炎に巻かれたところを、あるいは、左右に避けたところを叩き切る。そのために。
だがいりすは炎に巻かれることも、左右によけることもしなかった。
馬上で振り返ると、なんとその場で後ろ向きに体を回す。足を大きく旋回させ。左手は手綱を握ったまま。体を後ろ向きにしてしまった。そして、右手に構えた彼女の槍。穂先もない、なんともふざけた武器だ。
それを、一閃した。
自分ですらわずかしか見えなかったその動き。この私の炎を斬った。いや、この炎は鉄をも溶かす。なら槍も溶けるはず。なのに彼女の槍は元の形のまま、彼女の手に収まっているのだ。
本当に斬ったというのか。炎を。
分からない。その迷いが、わずかに速度を落としたらしい。
「カタリア!! 逆落としで一気に勝負を決める!」
いりすが先頭――彼女にとっては背後――に向かって叫び、槍を空で振った。どうやら先頭で指揮を執っている兵に指図をしているようだ。
その間に、もう一度くるりと馬上で回転したいりすは、元の騎乗状態に戻っていた。
彼女が示した方向。先頭の部隊が向かう方向。
逃げた。いや、登った。丘の上。敵の先頭はすでに頂上付近にいる。逆落とし。一瞬、考えた。その時には距離を取った。丘のふもとから、部隊を引き離す。
やはり素直に西には向かわないようだ。先ほどいりすが叫んだ内容。こちらの追撃を承知で追わせ、引き込んでおいて逆落としで打撃を与えるつもりだ。
面白い。
敵が動く。丘の向こう側に姿を消す。撒くつもりか。いや、それはない。丘の向こうは南側。そして丘があるとはいえ、西に向かうにはこちら側の見晴らしの良い大地を進まなければならない。だからすぐに敵が姿を現した。頂上の左方向。ぐるりと回り込むようにして、左から右、つまり西へと馬を走らせる。丘を駆け下りることで加速を得るように。
逆落としじゃない? ならばそれは嘘か。いや、その嘘に紛れ込ませて急激に進路を変えることはありえる。方向が違うとはいえ、今からでも方向を変えれば十分に下り坂の加速は得られる。
だが敵の部隊はこちらに向かわず、そのまま斜面を下るようにして西へと走っていく。
無意味なことを。西に向かうといっても、目指すは西門。つまり今ここからいる位置から北西に向かわなければならない。いりす達は丘に登るということで一時、利を得たが、そのために少し南に膨らんだのだ。つまり西門の大筒に向かうためには、十数メートル北にいる私たちより距離を走らないといけない。
だから無意味。いや、失策だ。
ここで逆落としで決めようとしたのか、あるいはこちらを足止めしてその隙に西に向かおうと思ったのか。どちらでもいい。すでに相手の策は看破した。
少し残念だ。このような幼稚な策にすがろうとは。そこまで彼女らは追い詰められているといえばそうだが。もう少し、手ごたえのあることをしてくれると考えていた。
いや、相手にそれ以上を期待しても仕方ない。
これは戦。面白さを追求することは大事だが、勝たなければ面白いもなにもない。そして今、勝ちつつある。だがこの勝ちつつある状況こそ、気を引き締めなければならない。あと少しで勝ちを目前にして、敗れ去った事案はことにかかない。信濃の村上との戦いではどれほど辛酸をなめさせられたか。
だからこそ、今は心身を澄ませながら敵を追う。
敵にこれ以上の策はない。そうとは知りながらも、用心しながら近づく。距離は縮まっていく。慎重になるのはいい。だが、勝負を決める時は一瞬。火のように襲い掛かるのだ。
手をあげる。それを振り下ろせば、部下たちは一斉に敵に襲い掛かる。
それを振り下ろす――刹那。
その時。気づいた。
いりすは、どこだ。
最後尾にいた。今はいない。あの黄金色の髪が、どこにもいない。
背筋が、凍った。
何かを見落とした。あのいりすがいないなんて。それが何を意味するのか。
途端、背後からとてつもない圧力が来た。