第207話 義勇軍
「っ!!」
と、僕の体の上に乗っていた重量が消えた。
見れば、ラスがものすごい俊敏な動きで僕の上から消えて、距離を取った。猫、いや、豹みたいな身のこなしだ。
「誰、その女の人?」
ラスがジッと僕を見て――いや、睨んでくる。
なにその浮気相手を見るような視線。違うからね。
けどとりあえず助かった。
重しの消えた体を起こし、改めて振り返って見る。
やっぱりトーコだ。西地区の居酒屋の姪っ子で、そこで琴さんと出会った。
もともと僕らのいた学校に通っていたけど、金銭的な理由で退学したというのは聞いた話。
僕はそれをかいつまんでラスに話すと、
「あ、トーコさんって、あのトーコさん?」
ラスが思い出したように手を打って、目を見開いた。
そうか、同じ学校にいたなら名前くらい知ってるか。トーコも平民の出で、あのお坊ちゃま学校にいたのだから、別の意味で有名なのだろう。
「あんたも、か」
トーコは苦虫を100匹くらい噛み潰したような顔をする。
前にカタリアとやりあっていたことを見ても分かったように、彼女は貴族とかお偉いさんというのを嫌悪しているらしい。
彼女の居場所とも言ってもいい、飲食店を巻き上げようとされたというのだから無理もないけど……。
その子供である僕もその嫌悪の対象だから憂鬱だ。
こないだの別れ際も、結局カタリアのせいでぐだぐだに終わったわけで、何ら誤解も解けていない状態だ。いや、もちろん彼女の嫌いな貴族側にいるのだから誤解も何もないんだけど。それでももっと話しておきたかった。
「あのトーコ――」
「おーい、トーコー!」
と、その時だ。向こうからガシャガシャと鎧――といっても鉄板や鎖帷子みたいなもの――を鳴らして男女の集団が走ってくるのが見えた。
「何かあったか……って、誰だ、その子らは?」
先頭の年かさ――と言っても僕らからすればで、おそらく20代後半から30代前半だろう――の男がトーコに聞く。
「別に、ちょっとした知り合いに会ったってだけ」
「ん、そっか。そんなことより、もうすぐだぞ。奴らが来る」
「分かった。先行ってて」
「おぅ、俺たち義勇軍の力、見せてやろうぜ!」
ふてぶてしく笑った男たちは、またもガチャガチャと鎧を鳴らして去っていく。
「トーコ、義勇軍って……」
「別に、あんたらを守るためのものじゃないから」
そう。退去勧告を受けたうえで、ヨルス兄さんたちは国民を逃がしつつ、協議のうえで布告した。
つまり国都に残る人には戦闘に参加してもらうと。
それが義勇軍。
もちろん、前線で戦うことを期待されているが、それだけとは言わない。
籠城戦には色々やるべきことが多い。食事の準備だったり、怪我人の手当て、武器防具の補修、放火に対する水の確保、治安の維持、さらに死者の運搬など多岐に渡る。
ただ、トーコたちはどうやら前線で戦う方に志願したらしい。そうでなければああも仰々しい鎧などつけない。
もちろん国から報酬が出るが、敗ければ確実に殺される。いや、その前に戦闘で死ぬことだってある。金銭面が辛いからと志願するようなものでもないのだ。
志願するのに必要なもの。それはこの場所を守りたいという愛国心。
けど、貴族嫌いのトーコが志願する理由は……。
「太守とか貴族とか心底どうでもいい。けどここはあたしの国。これまで短い人生が生まれ育った場所だ。そこを不利だからっておいそれと逃げ出すのは違うでしょ」
「トーコ……」
「ふん」
少し顔を赤らめながらも、僕から視線を外し鼻を鳴らす。これまできっぷのいい姉御肌という感じの彼女に増して、覚悟を決めた人間の姿に見えた。
「それに、信じてるから。タヒラ様、“キズバールの英雄”が、この国を救ってくれるって」
「え、姉さん?」
「あ……そっか、あんた。グーシィンだったな」
誇らしげに語るトーコは、一瞬で気まずい、というより気恥ずかしい感じに頭を掻く。
「姉さんを知ってるの?」
「……ああ、たまにここら辺でぐだをまいて酒飲みに来てるよ。別に偉ぶった風でもなく、気前のいい人だよ」
そんなことしてたのかよ、あの人。
まぁ、姉さんらしい。
「それに風の噂じゃあ、すげぇ軍師が入ったって話だろ。ザウス国の侵攻といい、トント国の奇襲を追っ払ったっていう天才的な軍師が」
「ぶっ……」
「あのー、それってイリ――」
「ラス! あー、ちょっとそこまでにしておこうか?」
慌ててラスの口を塞いで、それ以上の発言を封じる。
別に隠すようなものじゃないけど、いや、やっぱり知ってる人にそれを知られるのは恥ずかしい。だって天才的とかさ。
それに、トーコにはあまり積極的に知ってほしい気はしなかった。彼女とはそういったものなしで、対等に付き合いたい。そんな思いが僕の中には芽生えていた。
「あぁ、イリスちゃんのお手て……」
「なにやってんだ、あんたら……」
恍惚とした表情でもがもが言うラスと、完全に脱力して肩を落とすトーコ。
決戦直前だというのに、何をしてるんだろうな僕。
「しかし、そんな格好してるってことは。あんたも出るのか?」
「当然! そしてイリスちゃんが行くから私も」
「……ま、どーせ後方の安全なところだろ。あたしらと違って、国の重臣の娘様だからな」
「そんなことは……」
はっきり否定したかったけど、実際父さんからはそれを言われたことが頭をよぎり、言葉をしぼませた。
「はっ、やっぱりそういうもんだ。分かってたことだ」
やっぱりどこか壁がある。彼女と僕。年齢も、背格好も、国を守りたいと思う心も一緒なのに。生まれが違うというだけで、ここまで隔絶するものか。
それでも琴さんと一緒に食事をしたあの一瞬は、暴漢から店を守ろうとしたあの一時は。間違いなく僕らは同じで平等だった。
「ま、けど。万が一、億が一、あんたがあのタヒラ様と一緒に前線に出るなら――」
と、トーコはそこで一旦言葉を区切り、
「生きて帰ってきたら、コトと一緒にうちに来なよ」
「それって……」
僕が意味を取りかねていると、トーコはまた顔を真っ赤にして横を向き、
「まぁあれだよ。死ぬなってことだよ。貴族様だなんだって連中とはあんたは違うみたいだからな。特別なサービスって奴。それと、あれ。タヒラ様も来てもらって、構わないから」
この子は。本当に素直じゃないな。
けど嬉しかった。彼女もあの一瞬を、一時を、再び望んでくれていたことを。
もし、この戦いが終わってこの国がまだあったら。
いや、それはもしじゃない。確実にそうしてみせる。
けど……その後に自分が残っているのか。それは確約できない。
残りの寿命。それと延命の条件を考えれば、そんなことはほぼありえないと言っていい。
万が一。いや、億が一。
この国が生き延びたうえで、僕もまた、生を拾うことができたのなら。
彼女たちと一緒に飲み食いしたい。そう思えるのは確かで。
「ああ。約束する。トーコも、無事で」
「ばーか。あたしの剣技は学校でも上位の部類だったんだ。それに、近隣じゃあ大人の男でも負かすほどだ。
そう言ってトーコはニッと笑う。
その姿は、生気にあふれて、見惚れるほどに美しく見えた。
けど違うんだ。
腕に自慢がある者ほど先に死んでいく。それが戦い。
ましてや学生の中や、言ってしまえば素人の中で腕が立っても意味がない。平知盛や山県昌景に蘭陵王。ああいった化け物にかかれば、児戯に等しい。望月千代女みたいな人物からすれば、将軍だろうと殺される。
けどそれを言えばトーコを深く傷つけるだろうし、士気の低下でより命を落としやすくなるのは明白。
死なないでほしい。
いや、死なせない。
家族を守るだけじゃない。
国を守るだけじゃない。
戦いの中で、知った人を死なせたくない。
そして、僕自身も生きて帰りたい。
そんな贅沢な願いを胸に、いよいよ敵の侵攻が始まる。