第206話 イリスの涙
知盛の勧告があって、7時間。
あと1時間ほどで日没というころに、僕はラスと共に国都の中を見て回っていた。避難しようとしてまだ残っている人がいないかを見て回るためだ。
国都の治安維持を任されている琴さんはたちと手分けして、東から西へとしらみつぶしに見ていくわけだが、これがあの国都かと思うくらいに人の影がなく静かだ。
皆、勧告に沿って逃げているのだろう。
最初は罠だと警戒するよう見ていたが、敵が5キロほど陣を後ろに下げたことで、少なくとも約束の時間までは攻めてこないことが分かった。
そこに何か意図があってのことだろうけど、あちらが時間を浪費してくれるならありがたい。これ幸いに逃がすべき人は逃がし、防備を整える時間に当てた。
そんなわけで時間的余裕ができた僕は、気楽とはいかないまでも、息抜き程度にこうしてラスと散歩気分で歩いていれたのだ。
「イリスちゃんと、ふったり! イリスちゃんと、ふったり! うっふっふふふー」
なんかラスがスキップでもしそうな感じで変な歌を歌ってるけど……あまり触れないでおこう。
とはいえこうして何の緊張もせず、生前も今も数少ない友達と一緒に散歩することなんてここ最近なかったから、こんな状況でもどこか心が軽くなっているのかもしれない。
「ねぇ、ラス」
「とふったり……ん、なに、イリスちゃん?」
「…………いや、なんでもないよ」
咄嗟に呼んでしまったことを後悔。
何を聞くつもりだったのか。自分でもよく分からない。
「えー? なになにー? 気になるー!」
ラスが、横からギュッと抱き着いてくる。
これまでにないほどのハイテンションだ。
というかラスさん? こう見えて僕も男なわけで。そんなあざとい感じに来られても困るんですが! というか胸が……胸が! いや、今の自分は女子! ならばこんなところで興奮するなんてありえない! っていうか自分、男子高校生か! こんなことで! よし、心頭滅却空即是色。
とにかく、今はラスの質問に答えないとこの地獄からは解放されない。
えっと、くそ。そもそも何を聞こうとしたんだっけか。うーん、まぁいいか。適当で。
「じゃあ、そのあれだ。ラスは、怖くなかったのか? 色々なところに行って、僕についてきて、人が傷つくのをいっぱい見て」
逃げ出したいと思ったことはないのか。
僕はある。何度もある。
けど一応、逃げられない理由と情況があったわけで。
それに対してラスはどうなのだろう。そもそもそんな場面に出くわす必要もないわけで、僕についてくる理由もないのだ。
ましてや自分はこんなナリだけど、もう大人の男。対するラスはまだ少女と言ってもいい。
同じ学校のクラスメイトたちは、ほぼ退避をしている。そのほとんどがお偉いさんの子供だからある意味当然だけど(ただ、国が滅びればお偉いさんも何もなくなるわけだけど、そこは言わないでおこう。やる気がないのがいすぎても困る)。
それなのに、どうしてこうも危険な場所について来てくれているのか。今もこうして残って僕と同じ最前線に立とうというのか。
聞きたい。そう思ったから聞いていた。
「怖いよ」
「そうなのか」
随分あっさりとした答えに、少し拍子抜けする。ただ逆にそれがどうして、という思いもあるわけで。
「うん。怖い……けど、もっと怖いものがあるから」
「もっと怖い?」
「怖いよ。私の大切が、私の知らないところで傷ついて。それで私は何もできない。そうなるのが怖いの」
「大切?」
ラスの大切なもの。なんだろう。家族とかかな。
「私の大切は、今も昔もずっとそうだよ」
と、ラスが体重をかけてくる。
その動かし方が絶妙で、思わず態勢が崩れる。にもかかわらず、ラスは構わず寄り添ってきて、
「ちょ、ま、待――うわっ!」
何かが足にかかって、そのまま後ろに転倒した。
なんとか頭は打たずに済んだけど、ラスの体重をもろに受ける羽目に。まぁラスが無事ならいっか。
けどまだ危機――そう、危機だ。それは脱していない。
「私の大事はね、変わらないんだよ。イリスちゃん」
ラスが身を起こし、僕に馬乗りになったまま怪しく目を光らせる。
「初めて見た時ね。雷が落ちたくらいに衝撃的だったの。こんな可愛い子がいるんだって。しかも可愛いだけじゃない。先生にも、カタリアちゃんみたいな人にも、誰にも媚びず、自分を貫く強い人。カッコよかったんだよ」
「え……」
それって、要は僕の知らない頃のイリスってことか。
それじゃあ僕じゃなく――
「私はこう、引っ込み思案だから。話しかけることもできなかったけど、ずっと見てた。カタリアちゃんと一緒になった時も、いじわるばかりして、本当はとても心苦しかったの。ごめんなさい。謝っても許してもらえないと思ってたんだけど、それでもイリスちゃんは私に手を差し伸べてくれた。友達になろうって言ってくれた。あの時は本当に嬉しくて死んじゃいそうだった。一緒に放課後に遊んだ時も、助けてくれた時も、本当に本当に嬉しかったんだ」
――僕だ。
これは、僕のせいだ。
あの時は周囲に味方がおらず、仕方なしに切り捨てられたラスを利用しようとして手を差し伸べた。ラスのことも考えずに。
それがラスにとって、嬉しかったんだろうけど、ある意味呪いとなってしまって、ここまで来ることになったとなると。
心苦しいのはこっちの方だ。
1人の少女の運命を、この世界とは関係ない人間がかき乱すなんて。
「イリスちゃん、泣いてるの?」
「え……」
自分では気づかなかったけど、何かが目元を濡らしていた。涙。泣いているのは僕か、あるいはイリスなのか。
「いいんだよ。イリスちゃんは悪くない。悪いのは、私。だから何も気にしないで。
それは聖母のような、心安らぐ言葉。自分の中に芽生えた罪悪感を浄化してくれる聖なる炎。
だが、その時の僕は、彼女の中にある狂気の光を見落としていた。
「うふふ」
ラスの指が僕の目元に伸びる。
つっ、と目元の涙をぬぐったその指を――
「え?」
「あぁ、美味しい」
舐めた? この子、舐めました?
人の、他人の涙を? 美味しいって? どういう意味?
突然のことに頭がパニックになる中、それでもラスの顔は笑みを崩さず、僕を見つめてくる。
「ウフ……ウフフ……イリスちゃん……可愛いよ……イリスちゃん」
「ラス、ちょっと落ち着こう?」
「落ち着いてるよ? 頭はこの青空みたいにすっかりクリア。イリスちゃんと一緒になれる、そんな想いで胸が溢れかえってるの」
「待った! なんかいろいろ違うぞ! だから待とう!? てか今はそんなことをやってる場合じゃ――」
「ウフフ……逃がさない」
怖い! めっちゃ怖い!
戦場以上に、僕は今、このラスが怖い!!!
もがく。だがどうやってるのか、ラスはこちらの力を上手く逃がしてマウントポジションを譲らない。そういえば武道を習ってるとか言ってたっけか!
ヤバい、このままだと……何かが終わる! 決定的に! てか決戦の前なんですけど!!
あるいはこれまで抑えていた軍神の力を最大解放しようとした、その時。
「何やってるの、あんたら」
「え?」
聞きなれない声が頭上から響く。いや、この声は――
首を上に持ち上げる。さかさまの視界に、鎧を着こんだ総髪の少女が見える。
「トーコ?」
この世界で出会った友人の顔が、夕陽に照らされそこにあった。