挿話33 山県昌景(デュエン国軍先鋒)
蘭陵王。確か北斉に仕えた将軍。圧倒的軍才と勇猛さで、彼が生きている間には北斉が滅ばなかったとか。
厄介な相手がいるものだと舌打ち。
我々としても“とんかい国”にいる、他の異能持ちの存在は把握していた。
高祖劉邦の知恵袋・張良。三国志の英雄・関羽。そして蘭陵王。その3人がいることは確認されているから、関羽か蘭陵王のどちらかが来るとは思っていた。
その誰もが古今稀に見る英傑。いや、関羽が来ないだけマシと思おう。
敵は完全に逃げを打つつもりだが、その殿軍に大将自らとはおかしなものだが、伝記に聞く彼の性質からすればそれも当然なのかもしれない。
自らの境遇に屈することなく、常に最前線で戦い連戦連勝。最期は従兄弟の皇帝に疎まれて死を命じられる。それにも粛々と従い、死に際して借金の方をすべて焼き捨てたという清廉潔白な完璧な人物。
そう聞いていたのだが、今、目の前にいる人物はどこか違うような気がする。
気が荒く、獰猛なさまは勇猛といえばそうだが、それ以上にどこか命を投げ捨てるような無謀さが見える。
まぁいい。こちらが本来の蘭陵王だろうが、伝記の方が脚色した姿だろうが。今、この場で倒すことに変わりはない。
「火の如く、焼き尽くせ!」
部下を叱咤激励し、自分は蘭陵王に挑みかかる。
部下の方は、こちらが逃げる敵を追撃する立場ということから、心理的には有利になっている。さらに数の差も大きい。あちらは500もないのに対し、こちらは騎馬だけで1千。さらに後続には歩兵が3千もいる。
だがそれでも互角。
蘭陵王の異能らしき見えない壁に、私の異能が防がれ、さらに突撃を敢行した部下がそれに激突したことが痛い。
さすがは北斉の英雄。
だが、ここまでしておいて。知盛に汚名をかぶらせておいて、
「負けるわけには!!」
見えない壁があるなら、力ずくで押し切ってやる。
折れた刀に炎を集め最大出力。壁ごと燃やしつくす。
かち割る。
その勢いで振り下ろした。
だが手ごたえがない。壁。どこへいった。炎の刀が空を切る。目の前。蘭陵王。仮面をかぶっている。その仮面の奥底にある瞳が、まっすぐにこちらを射抜く。
そしてその手には、先ほど見た木の枝。それが一直線に向かい――
「ぐっ!!」
咄嗟に身をひねる。左肩に熱。貫かれた。歯を食いしばらい、悲鳴を抑え込むと同時に剣を横に振った。炎が巻きあがり、悲鳴があがる。炎だから手ごたえはない。ただ、蘭陵王の声ではないと思った。はっきりと分からなかったのは、視界が回ったため。落馬していた。
「将軍!」
部下がすぐに盾となった。その間に馬上から引きずられ後方へ。
「まったく、何やってんの」
聞き覚えのある声がした。女性。そしてあまり起伏のない口調。
「千代女か……」
「無様に死ぬところを助けたんだから、感謝して」
「感謝、か……」
殺されていた。
確かに彼女らの助けがなければ、間違いなく死んでいた。そう覚悟させたのは、あの仮面の奥底にある漆黒の闇。情を排除した、圧倒的な死の瞳。
その瞳が見たのは、私の死か、兵の死か、それとも――
「馬を借りる」
「わたしのじゃない。勝手にすれば」
千代女の横に空馬があったので、それに乗った。
死の瞳を宿した人物は、今なお血しぶきを生産する。圧倒的な武によって。
だがその周囲にいた彼の部下たちは、数の差もあり、1人、また1人と落馬していく。
歩兵が左右に回り込んだことからも、その勢いは加速していく。
けれどその中。あの仮面をかぶった男だけは、今なお力戦し、死を周囲に振りまいている。
その姿。鬼神のごとく。
もはや人間には討ち果たせない、死の化身とも言える存在。
それを討つのは、やはり私だろう。そう感じた。
「行くの? 放っておけば、いずれ死ぬのに」
「だがその間に部下が死ぬ。そして、あの者には幕引きが必要だ」
「分からない感覚。勝手にすれば? だから嫌いよ、あなた」
ああ、分からないだろう。おそらくお屋形様にも分からない。こればかりは、戦場で実際に刀を交える者でなければ。
あの川中島で出会った、花も実もある勇士のように。戦場で狂い咲くあだ花。
部下に剣を借り、再び前に出る。
そこは少しした広場になっていた。といっても人工的な広場だ。
馬と人の死がいが折り重なってできた広場。その中心にいる仮面の男が舞台の上にいるかのように錯覚させる。
もはや誰も近づくものもいない。近づいたものは、次から次へと地面に転がされたのだ。
対する蘭陵王は返り血を全身に浴びて鎧を赤黒く染めている。ただ鎧はボロボロで、全身に傷を受けているが、致命傷はないのはさすがというべきか。
前に出る。部下たちが道を開けた。
蘭陵王は両手をだらりと下げ、馬上で屹立として微動だにしない。
「もう良いだろう、蘭陵王殿」
「…………ああ」
何かに気づいたかのように、ハッと顔をあげる蘭陵王。もしかしたら寝ていたのかもしれない。そう思えるほどに、意外な反応だった。
「貴軍はすでに撤退を完了した。殿軍として残った貴公および部下たちの武に敬意を表する」
彼の守った“とんかい軍”はすでにはるか遠くに。知盛が指揮する別動隊に襲われたようだが、そこでも殿軍を切り離して本隊は被害を出しながらも撤退したようだ。
「そうか…………そうだな」
顔を下げ、横に振りながらそうつぶやく蘭陵王。
投降しろ。
そう言おうとして、ぎりぎりで止まった。
否、と答えるに決まっているからだ。
これほどまでに死を量産した男だ。味方にすれば部下たちが納得しないだろう。それに我々は彼らをだまし討ちしたのだ。そうそう簡単に身を許すとは思えない。
何より、あの蘭陵王が我が身大事さに屈辱にまみれるとは考えられないことである。
「言い残したいことは?」
「名を聞いても?」
「武田家臣、山県三郎兵衛尉昌景」
「そうか。お前が、私の死か」
意味が分からなかった。
それでも、それでいいのだろうと思った。
馬を走らせる。蘭陵王は動かない。距離が詰まる。蘭陵王は動かない。剣を振りかぶった。蘭陵王は動かない。
突く。
同時に、突かれた。
肉に食い込む剣の感触。
剣が蘭陵王の鎧ごと胸を貫き、蘭陵王の枝はこちらの頬を傷つけるに終わった。
「良き、戦いだった」
それが彼の最期の言葉だった。
力を失った彼の体は、馬の背に倒れ、そしてなお落ちなかった。
彼は最期に何を思ったのか。その顔を隠した仮面に手を伸ばそうとして、やめた。
周囲はしんとしている。
誰もが勝ったことへの喜びも、仲間が散ったことの悲しみも、何もない。あるのはただ寂寥のみ。
おそらくこの場にいた誰もが感じていただろう。
蘭陵王の圧倒的な武を。
蘭陵王の圧倒的な力を。
蘭陵王の圧倒的な死を。
それを心の奥にとどめるのは、たやすいことだが良いことではない。彼の最期は、おそらく部下を同じような死に引き込む。それはよくないことだ。そう感じ取った私は、剣を胸の前に置くと、こう叫ぶ。
「全軍、名高き英雄に礼!」
全員が剣を掲げて礼を示す。騎兵は鐙から足を外した。
遠く、前方から軍が来る。知盛の軍だろう。追撃を切り上げて戻って来たようだ。
これでもう後戻りはできない。
“とんかい軍”を叩きのめし、その将軍を討ち死にさせた。
以降、二度と“とんかい国”とは国交が回復することはなく、同盟も停戦も共闘もできないだろう。
あるいは“でゆえん国”の不義を鳴らして、他の八大国の総攻撃を画策するかもしれない。
そうなれば、いかに最近上り調子の我が国といえども崩壊は免れまい。
そのためには必要だ。
かの4国の土地が。
そのための第一歩がこの戦いだというのだから。
不意に左手で喚声があがった。
あちらは“いいす”の軍がいる方角。この戦いの真の目的の国。
「あちらも始めたか……」
遠目にも巨大な何かが見える。それは人型。足元に見える人間と比べると数倍の大きさの違いがある。
そんな人間、存在しえない。だからこそ、それはあの風魔の異能に違いない。
再び馬上でこと切れている蘭陵王の亡骸に目を向ける。
一瞬の感傷。
だがそれを振り切るように、剣を振り上げて叫ぶ。
「“とんかい軍”の掃討は切り上げ、本命の討伐に向かう! その先には我ら“でゆえん国”の天下が待っているぞ!」
天下。それは嘘ではない。
元の領地に“でゆえん”“ざうす”そこに“いいす”と“とんと”を加えれば、この大陸に乱立する八大国の中で抜きんでた勢力になる。
そうなれば、ちょっとやそっとでは崩れない。そして、お屋形様の遺命を果たすことができる。
『源四郎(昌景の仮名)、明日は瀬田(滋賀県)に旗を立てよ』
そう言い残して逝ったお屋形様の言を、この世界で遂げる。
そのためには、悪鬼羅刹と評されようとも、私は私の道を行く。
それが英雄などではない、ただの武士である私が決めた覚悟だった。
彼に貫かれた左肩が痛んだ。
それでも、私は歩みを止めない。
そう、自らが命を絶った蘭陵王の亡骸に、私は誓った。