第197話 僕の覚悟、彼女の覚悟
空気が澄んでいた。
朝だ。
この世界ももはや10月を過ぎ、気温も下がっている。
砦の南門の上。
小高い位置から見下ろす世界は、見たことのないほどに自然に包まれている。
この世界に来たのが6月ごろだから、もうすぐ半年経つわけだ。
早い。
時の流れというのは、これほどまでに僕の心を突き動かしてきたのか。
半年。
結局、ここまで1国すら制圧できていない。むしろ滅亡の危機に瀕して東奔西走してきたと言っていい。
そりゃそうだ。大陸中央の小国。滅亡を回避するので精いっぱいで、他国を制圧なんて夢のまた夢。
この世界における生存計略としては、初手から間違っていたわけだ。
――けど。
この世界、この国に来なければ、イリス・グーシィンとしていなければ。出会うことはなかった。
父さん、ヨルス兄さん、タヒラ姉さん、トルシュ兄さん。カミュ、トウヨ、ミリエラさん、ゴーン叔父さん、執事のワイスさん。ラス、カタリア、ユーン、サン、ショカ、トーコ、カーター先生、クラーレ、馬鹿太守に爺さん。小太郎に琴さん。
どれもいい人で、僕がここに来なければ知り合うこともなかった人たち。
手前みそだけど、僕がここに来なければおそらく死んでいただろう人たち。
そう考えると、この出会いは、僕がここに来たという初手の躓きは。実はすごい意味があったんじゃないかと思わないでもない。
むしろ誇りに思う。
皆を守るために戦えることを。
まぁ、そんな風に綺麗に思っても、僕の寿命が延びるわけでもないんだけど。
そんなオチがついて、今日だ。
デュエン軍が敗走して、あとはトンカイ・ザウスの連合軍を追い払えば目が見えてくる。
ザウス、あるいはトント。この勢いに乗って降伏に追い込むことが。
僕の寿命、残り44日。
それだけあれば、なんとかどちらかの国は陥とせる。そうすれば残るもう一国を手中に収めることは容易。
ザウスとトントを支配下に置ければ、次の国を制覇するための時間と軍備が整うだろう。
だからそのために今。今日というこの日を、しっかりと勝ち切ることが大事。
未来を見過ぎて、足元の石ころに気づかないなんて愚かすぎて笑えない。
しっかりと、そして犠牲を少なくして勝つ。
それが今日の僕に課せられた命題。
大きく息を吸って、吐き出す。
胸の中の空気がクリーンアップされた気分だ。
「緊張してる?」
タヒラ姉さんだ。すでに準備は整っているらしく、髪の色と同じ赤を基調にした鎧姿。いつもの飄々とした雰囲気とは異なる、真面目くさった態度。これがキズバールの英雄か。
「少し、ね」
「少し、か。イリリはすごいね」
凄い? 僕が?
かつて国を救った英雄に言われるとは思ってもいなかった。
「だってそうでしょ。こんなこと、考えつかないわよ。ましてや初陣を飾ったばかりの子には」
「考えただけだよ。実際に戦ってるのは兵士の皆だ」
「何言ってんの。前回の迎撃戦ではクラーレをボコった敵将と一騎討ち。凱旋祭ではトルルと悪漢を鎮圧して父さんを助けた。トント軍との戦いでは先頭切って突撃。デュエンとの戦いでも八面六臂の活躍だって聞くし、こないだもあの仮面の男とやりあったって聞いてるよ」
あぁ、確かに今までやったことを振り返ると滅茶苦茶やってるな。今生きてるのが不思議なくらいだ。
軍神というスキルがなかったら、ここまではできなかっただろう。
「聞いてるわよぉ。兵の中にはあんたのこと、軍神って呼んでるって」
タヒラ姉さんの声に、若干からかいの色が混ざった。
「え……?」
「デュエンとの戦いの時? あんた軍神って自称したんでしょ。やるわねー」
そういえばそんなことも言ったっけか?
うぅ、いざそう呼ばれるとこれはえらい恥ずかしいぞ。
「ま、いいんじゃない。わずか半年足らずでこの実績。そして今日の戦いが終われば、あんたはそう呼ばれても不思議じゃない戦績を出してる。あたしなんかより、よっぽど英雄よ」
「英雄……」
自分がそんな風に呼ばれるなんて思ってもみなかった。
会社の歯車として、他者の足を引っ張り、弾劾し、追放してきた自分だ。そんな者が英雄であるわけないし、今後、二度と呼ばれるようなことはないと思っていた。
ましてや、あの蘭陵王を間近で見ている以上、英雄なんておこがましい限りだとも思っていた。
そして英雄と呼ばれるということは、それだけ他人の死を産んできているということの証左でもあるのだから。
「浮かれんじゃないわよ。そうゆうときに、あっけなく戦死ってのはありえるからね」
「じゃあ言わないでよ……」
「馬鹿ね。その前にあたしが死ぬかもしれないでしょ。だから言っておくの、あたしの妹はすごいんだよって」
死か……。
死ぬ。今日、この決戦とも言える戦いで。
タヒラ姉さんが死ぬなんて考えたこともないけど、絶対はありえない。
歴史ものではその戦いの勝敗と戦死者は分かるから、そのことを覚悟して読み進められるけど、今この時は。この戦いの結末は、まだ歴史になっていない未来の話。
タヒラ姉さんが死ぬかもしれないし、僕が死ぬかもしれない。ラスやカタリアもあるいは、と考えると途端胸が苦しくなる。
「安心しなさい。イリリは、あたしが死なせない。そして、あたしも死なない。約束する」
「姉さん……」
「だから精一杯やりなさい。大丈夫。あたしがついてる」
あぁ。この人は。
いや、この家族は。
本当にお人よしというか、真っすぐというか。
なんでここまで他人のことを思いやることができるのか。信じることができるのか。
他人なんて利用して蹴落として切り捨てるものだったのに。
家族なんて結局他人で支え合うことも助け合うこともなかったというのに。
それが、家族なのか。
視界がぶれる。泣いているのか。
でもなんで泣いているのか分からない。分からないままに、涙は止まらない。
「イリリ、出陣前の涙は禁物よ」
「……うん」
袖で顔をこする。止まった。けど、やっぱり涙の理由は分からなかった。
「っと、来たわね」
クリアになった視界に、敵がぞろぞろとこちらに向かっているのが見えた。
これから僕は彼らを殺す。僕自身は殺さないにしても、僕の策によって間接的に殺す。
その罪。人を死なせる罪が、今後僕を捉えて離さないだろう。
あぁ、そうか。これが英雄になるということなのか。
人を死なせ、そしてその罪を背負って生きていく。
あの蘭陵王みたく、自暴自棄になるのもちょっと分かった気がした。
けど、今は違う。
支えてくれる人がいる。待ってくれている人がいる。
それだけで、幾分か心は救われるのだ。
だから進める。
「トンカイ軍、ザウス軍に告ぐ! 降伏せよ! すでにデュエン軍は敗走した! イース国は全軍をもって貴軍を迎撃することを決めたぞ! ゆえに告げる! 投降せよ! さもなくば――」
だから言える。
「皆殺しにする!」
だから戦える。