第196話 決戦前夜
「デュエンが……負けた!?」
カタリアが珍しく――もないか、驚愕に目を丸く見開く。
「っす。“うえるず”の残党が国都を強襲、あっけなく国都から叩き出されて逃げ帰っちゃいましたよ」
レイク将軍のお兄さんの宰相がやってくれたのか!
けど――
「本当、なのか?」
信じられない。
あの平知盛が、山県昌景が、望月千代女が、そうも簡単にやられるものなのか?
「疑ってるんすか?」
「あ、いや、そういう……」
小太郎が眉間にしわを寄せてこちらを睨む。
まずいな。さすがに露骨すぎたか。
彼との関係は信頼で成り立っているところがある。それを疑うのは、その信頼を崩すものだったか。
「ま、そりゃそうっすよねー。何事も鵜呑みにするお屋形様なんて、期待できないですし。これにはちゃんと理由があるんすよ」
小太郎はからからと笑う。
よかった。杞憂で。
彼も戦国を生き抜いた猛者だ。誤報や虚言といった危険性は十分に理解してくれている。
「国都を攻められた時、内側から“のする”が裏切ったんすよ。それに“うぇるず”の国民が呼応。城門が開いて、“でゆえん”軍は逃げるしかなかったんす」
小太郎が語るその理由は僕の疑問を氷解させるに足りるものだった。
確かにそれならどうしようもない。
数が多くても外だけじゃなく内側、しかも国民に歯向かわれたら何もできない。ここで国民を虐殺でもすれば、二度とウェルズを占領できなくなる。
それに、あのノスルの姉弟はやってくれた。その土壇場で裏切るとは。
僕に何も知らせてくれなかったのはいただけないけど、それも情報漏洩を避けるためだとすれば分からなくはないな。
「なるほど、それは確かに。となると――」
「来たわね、薄汚い侵略者どもを皆殺しにするチャンス!」
「さすがタヒラ様! ええ、ええ! その通りですわ!」
物騒なことを言い放ったのは我らがお姉さま。
そしてそれを猛烈に支持するのは我らがカタリア様。
まったく、単純というか純粋というか。
けど、これは好機に違いない。
僕らは西と南から挟み撃ちにされる状況だった。しかも兵数差はざっと2倍以上、それも少なく見積もっての場合だ。
それが片方からの脅威がなくなった。
挟撃に遭うという危険がなくなったうえに、敵の兵数も半分以下になったということ。
ほんの数日前まで。圧倒的な絶望の中にいた僕たちからすれば、九死に一生、光明を見出した思いだ。
あるいは滅亡と死が渦巻く最中に見出す未来の展望。ここにいる皆も、国都にいる人たちも安穏とした明日を迎えられるという希望。
これに乗らない手はない。
そうなればあとは“どこまでやるか”だけど……。
「小太郎、この報告を兄さんには?」
「部下を1人、向かわせたっすけど、待つつもりです?」
待つ。
もちろん、援軍だ。
この報告を聞けば、腰の重い兄さんやインジュイン・パパも、全兵力をこちらに向けることは違いない。
デュエン軍という圧倒的な外敵がいなくなった今。ザウスとトンカイという、頭の痛い問題を解決するチャンスなのだ。
ここで徹底的に打ち破って、それこそザウスを降伏させるところまで行けば、イースの国土は増えるし、南の脅威も和らぐし、何より僕の寿命も伸びるという、一石三鳥の結果になる。
もちろん、大国トンカイと直に国境を接することになるけど、西と北は同盟国。東のトントは徹底的に叩いたし、今は内乱の兆しがあるためしばらくこちらに手出しはしてこない。
だからここのトンカイ軍を徹底的にたたけば、しばらくはこちらに触手を伸ばすことはできないだろう。
デュエン国と同盟を結んでいたとしても一時的なもの。今回の失敗を受けて、デュエン国の不甲斐なさに、今まで以上に敵対する可能性は十分にある。なかったら僕がそうさせる。
だからここで連合軍を叩きのめすためにも、援軍があるのはありがたい。
のだが――
「イリリ。ここはうちらだけでやろう。逃げられる前に、ぶちのめす」
タヒラ姉さんが僕の心を読んだようにそう伝えてきた。
そう、ここで問題なのが敵がこのことを知った場合のこと。
連合軍側にとって、一番有利なことはデュエン軍による同時侵攻であること。それである以上、僕らとしては軍勢を二手に分けなければいかず、どちらかが負ければ国都を守るために撤退しなければならない。
だがその有利が崩れた。
デュエン軍が撤退すれば、僕らは連合軍側との闘いにすべてを集中させる。それを望んでいない――少なくとも蘭陵王がそうなのは、この状況を見れば明らか。
彼はデュエン軍を待つために、この砦を無理に落とさず、不利と見るやデュエン軍を待つかのように、こうして小競り合いレベルの対陣を仕向けたのだから。
となると、デュエン軍が撤退して有利がなくなった以上、無理にこちらの全軍と戦うだろうか?
先ほどの気質から見るに、デュエン国の方が主力で、あわよくばデュエン軍が手間取ったら横からぶん殴ってでも手柄を独り占めにしようという、漁夫の利の気質が見て取れる。
それはあの伝説に聞く蘭陵王とは遠くかけ離れた性質だけど、僕が直に見知った彼と、おそらくは太守に命じられたことに逆らえないという理由があるのではと思う。
だから退く。
おそらく今日――いや、もう日が暮れるから明日だ。
逃げるなら夜の方がいいけど、そこは天下に覇を唱えるトンカイ軍。
こそこそと夜逃げしたように陣を払えば、トンカイ軍弱しと世間にとられる可能性がある。
世間がどう思おうがかまわない、と現代人の感覚ならそう思うかもしれない。
けどこの時代――いや、大国を統べる者としては、それすらも致命的。以前、大義名分もなしにトンカイ国はザウス国を攻められないと見切った時と同じ。
信用があってこその大国。重臣は大国であるからこそ己の春を謳歌し、下の者は大国であるからこそ安全を謳歌する。それが崩れた時、大国は足元から瓦解するのだ。
だからしない。伝説でも実際でも、蘭陵王の性質上もそれはないだろう。
あとは、覚悟を決めるだけ。
「明日、早朝に打って出る」
「そうこなくっちゃ!」
「え? タヒラ姉さんも出るの?」
「当然でしょ? こんな傷、もう治ったし」
絶対うそだ。
けどこうなった時の姉さんは、もはや説得不可能というのは、この短い付き合いでも分かる。
「それに、お返ししなきゃいけない相手がいるでしょ」
ぞっと背筋が凍った。
姉さんが見せた顔は、暗く、いびつで、かつ喜びに満ちたものだったから。
これが、キズバールの英雄、か。
「イリス・グーシィン! あなたは姉であるタヒラ様の言葉を疑うの!? タヒラ様ができると言ったら、できるのです!」
いや、心配とできるできないは関係ないだろ。
てかカタリアはどんだけ妄信してるんだよ……。
ま、いっか。
明日はおそらく一方的な戦いになる。タヒラ姉さんが出ても問題はないだろう。
あとはそれをどれだけ実現できるようにするか、だな。
「小太郎、ないとは思うけど、相手がこのことを知らない可能性がある。今夜、それを相手の陣、特にザウス軍に信じさせられるか?」
「流言による情報操作。さすがいりす殿。承知、行って来るっすよ」
よし、下準備は万全。あとはこちらの配置と地形。それで十分なはずだ。
小さく深呼吸。
そして顔をあげ、声を発した。
「勝とう、皆。そして僕たちの国を守るんだ」
皆が一様に頷く。
勝てる。いや、勝つ。
それしか僕が、僕らが生きる道はない。
だから勝つ。
勝つんだ。
その時は――――そう思えたんだ。