第189話 激情の暴走
その報告を受けた時には、ヨルス兄さんやインジュイン・パパたちを突き飛ばして走り出していた。
「イリス、待つんだ!」
「衛兵! 彼女を止めろ!」
止まるもんか。
止められるもんか。
焦燥と困惑と罪悪と後悔と絶望が一気に襲って来る。ひどく気持ち悪い。
タヒラ姉さん。
彼女にザウス・トンカイ連合軍の足止めを命じたのは僕だ。
6倍以上の敵。
普通に戦えば勝てるはずもなく、足止めもかなり難しいはず。
それなのに命じた。
お願いした、という表現が正しいけど、イリスを溺愛している姉さんなら絶対に断らないと思ってのことだから、命じたと言っても過言でもないだろう。
あの人の性格なら、こうなることも考えられたのに。
一体、僕は何をしていたのだろう。たった数十日とはいえ、ともに過ごした人のことを何もわかっちゃいない。
後悔があふれ出る。泣き出したかった。けど泣いても何も起きない。こうして走っても、何も意味がない。タヒラ姉さんは蘇らないのだから。
けどそうしたかった。確かめたかったのかもしれない。
事の真実を、自らの目で確かめるまでは。たとえそれがどんな辛いものであっても、きちんと確認するまでは真実とは受け入れたくなかった。
だから走った。
政庁を飛び出し、入り口にいた、先ほど乗り捨てた馬に飛び乗って走り出す。
「イリス・グーシィン!?」
「イリスちゃん!」
誰かが僕の名前を呼んだ。
けど振り向いてもいられないし、止まりもしない。
馬を走らせると、道行く人が慌ててどく。少し騒ぎになったけど、避難のために国都に人が少ない状況だから問題ない。
そのまま国都を出て南へと走る。緑の続く平原。数日後には、ここを敵が埋め尽くすのだろうか。
あぁ、父さんに会うことなく出てきてしまった。お風呂に入る余裕もなかった。それでもいい。今、父さんに会っても何を言っていいか分からないし、お風呂なんて悠長なことをしている場合でもないのだから。
だから走る。
ひたすら走る。
馬が走る。
僕が行く。
姉さんのところへ行く。
ただそれだけのために。
どれくらいそうして走ったのか。
陽はすでに傾き、夕闇の帳が降り始めたころ。ずるり、と僕は馬から降りた。いや、落ちた。大事にならなかったのは馬がスピードを落としていたから。
「おい、どうしたんだよ。もっと走ってくれ。走れるだろう。だから」
馬に語り掛ける。けど、馬はぶふんと息を吐いた後に嫌々をするように首を横に振る。
くそ、なんて馬だ。
そう思ったのもつかの間。それが彼の優しさだったことに気づく。
走れない。いや、足は動く。けど重い。遅い。こんなもの、走っているとは言えない。競歩とも言い難いし、歩くのでもない。ただ体を引きずるだけ。
思えば朝に王都に馬を走らせてから今まで。ほぼ一日中、動き続けていた。途中で食事もしなければ、水を飲むのも忘れていた。そんな暇もなかった。
そんな無茶な行動が僕から体力を奪っていて、それを馬は気づいて気遣ってくれたのだ。なんてことだ。馬にそれが分かって、僕にはそれが分かっていなかったなんて。
それでも。
僕のせいで起きたことは、僕が責任を取らなければいけないわけで。
なにより今は一歩でも一秒でも早く、姉さんの元へとたどり着きたかった。
だからこそ、一歩を踏みしめ、さらにもう一歩を踏みしめたところで、
「イリスちゃん!!」
衝撃。
後ろから誰かに抱き着かれた。
「邪、魔……」
上手く口が回らない。喉がカラカラで声も出ない。それでも前へ。一歩でも、一秒でも前に、進もうとして。
「…………」
目の前に、カタリアがいた。
「無様ですわね」
何が、と言い返そうと思った瞬間。視界がはじけ飛んだ。
殴られた、と思ったのはくらくらと揺れる視界が定まってからで、体が吹き飛ばなかったと気づいたのは誰かが後ろから支えてくれたから。
「ちょっ!? カタリアちゃん!?」
ラスだ。ラスが僕を後ろから僕を支えてくれていた。
けど、なんでこの2人が?
「あなたは黙っていなさい。ふん、イリス・グーシィン。無様ですわね。その見苦しい姿をさらして」
「……何しにきた」
ようやく声が出た。
それはねばつく液体が口内に潤いを与えてくれたからかもしれない。その不快なそれを、ペッと地面に吐き捨てる。
「あなたを笑いに来たんですわ」
「なんだと」
「たかが1人、将校が死んだだけの報告を聞いて七転八倒。自分の体のことも分からず暴走するお馬鹿さん。これを笑わずにどうしろというんです?」
「お前……」
怒りが沸く。
なんでそんな風に言えるんだ。お前だって、タヒラ姉さんのこと。あれだけ慕っていたのに。あれは嘘だったのか。あの想いはは、あの熱量は。
「僕のせいで死んだんだ、タヒラ姉さんは。なのに僕がのうのうと生きてちゃいけない。だから事の真実を解明するために、こうして急いでるんだ。さぁ、どいてくれ」
「どきませんわ。この物分かりの悪いお馬鹿さんを叩きのめすまでは」
「どけ、と言ってるんだ。頼むから僕をこれ以上怒らせないでくれ。ラスも僕を放して。僕は君たちを傷つけたくない。それでも邪魔するなら……さもないと――」
軍神が、怒る。
体の奥底にあるスイッチ。それを誰かが押そうとしている。そしてそれが押されたら、もう見境なくすべてを傷つけるまで止まらない。そんな予感がする。
だから頼む。僕にそのスイッチを押させないで。
けどカタリアはどくそぶりも見せず、あざけるような視線を僕に向け、
「いい加減にしなさい。先ほどから“僕は”“僕は”“僕は”。あなたはそればかり。一体、何様のつもりですの? ああ、見苦しい。自分のことしか考えられない愚か者。ふん、わたくしは自分が恥ずかしいですわ。こんな者を目の敵にしていたなんて。わたくしの目も濁っていましたわね」
「言わせておけば……」
「言わせているのはあなたの行動でしょう。なんなのです、あなたの無茶苦茶な行動は」
「お前に何が分かる! タヒラ姉さんが死んだんだぞ! なのにそんな冷静に、お前は悲しくないのかよ!」
「悲しいに決まっているでしょう!!!」
「っ!」
まっとうに反論されて、一瞬、言葉に詰まる。いや、その後の言葉が出ない。
泣いてる。
カタリアが目から涙を流して、それでも泣き声1つあげず、僕を凝視してくる。
「悲しくないと誰が言いました。胸が張り裂けそうだとなんで思わないのです。タヒラ様が亡くなったと聞かされれば、それも当然。けど! わたくしは一軍を預かる者。そしてあなたはその軍師! それが一時の感情で持ち場を放棄して暴走するなど言語道断! トントを退けて状況は改善したものの、まだ厳しいのは変わらないのに! なのにあなたは“自分だけ”しかないのですか! その末に独断専行など、恥を知りなさい!」
あぁ、そうか。なんでカタリアがこんなに怒っているのか。それが今、分かった。
彼女だって悲しい。あれだけ姉さんを崇拝していた。
けどだからと言って自分の職分を離れていいわけじゃない。それをわきまえていた。
それに対して僕は、名目上はカタリア隊の軍師という立場なのに。2千人もの人間をほったらかして、姉さんのことだけ考えて飛び出した。
仕事に対する責任。
それを彼女は言っているのだ。
おかしいな。これまで10年以上、会社に勤めていたっていうのに。仕事についてを僕の半分しか生きていない相手に叱られるなんて。
ははっ、人生ってままならないよな。
体から力が抜ける。
そうだよ。悲しいのは皆一緒。それを僕だけが、僕が僕がとわめいて暴走して。これじゃあ子供と変わらない。
僕の変化を悟ったのか、僕を背後から抱きしめるようにしているラスが口を開く。
「あのね、カタリアちゃんは心配してるんだよ。さっきも追いかけてる時ずっと言ってたもん。なんで体を大事にしないのって」
「ラス! お黙りなさい!!」
カタリアが? 心配した? 僕を?
「ふ、ふん。心配なんてしていませんわ。その……あなたはわたくしの軍師なのでしょう。それを心配するなんて、逆じゃありませんこと? まったく世話のやける軍師に、悪態をついても仕方ないでしょうに」
しどろもどろに、よく分からないことをつぶやくカタリア。
ぷっ。少し笑ってしまった。
それで、なんだかすべてに余裕が生まれた。
そうすれば周囲の様子が分かる。
陽は落ちて辺りは夕闇に包まれている。その平地の真っただ中で、僕は100騎ほどの騎兵に囲まれている形だ。一頭だけ誰も乗っていないということは、これがカタリアの馬か。いや、そうなるとラスがここにいる説明がつかないから、一緒に乗って来たってことか。
「じゃあ、戻らないとな」
「いえ、それには及びませんわ」
「え?」
でもさっき持ち場を放棄するなとか言ってなかった? なら帰還の報告をして、次の手を打つなり体を休めるなりすべきだと思うんだけど。ネイコゥの手配する火器もどうなるか気になるし。
「ふん、わたくしをそこらの凡人と同じされては不本意ですわ。あなたを追いかける前に、すでに本部から次の命令を受けてますのよ」
「命令?」
「そう。カタリア隊は、すぐに南進し、タヒラ将軍の軍と合流。タヒラ将軍の安否を確かめよ、と」
「……それって」
「そう、確かめるのよ。タヒラ様の生死を。死ぬものですか。あのお方が。そして死んでいないのなら、敵に襲われている可能性がある。その場合は至急速やかに救助するのですわ!」
切野蓮の残り寿命58日。