第187話 太守の策謀
「今、なんて……?」
逃げる? 逃げるって?
どこに? いや、どこでもいい。
こいつが、太守である男が、逃げる?
「いや、だってこれもう無理っしょ。だから囲まれる前に脱出できるよう、このネイコゥに手引き……あ、やば」
と、太守が慌てて口をつぐもうとしたのにはわけがある。
振り返ればそこには、ヨルス兄さんとインジュイン・パパ、その他大勢が部屋の入り口に立っていた。
その顔は茫然としていて、彼らが今の太守の言葉を聞いていたことは一目瞭然だ。
「どういうことですか、太守様。逃げる、脱出するとは?」
インジュイン・パパの声がする。その声色にあるのは当惑、そして怒り。おそらく彼も聞かされていなかったんだろう。
「では、私はこれで」
「動くな!」
インジュイン・パパの怒声に、ピタリ、とネイコゥの体が止まる。
さすがは元軍人とか言ってたか。その迫力はすさまじいものだ。
その声に押されて、僕は太守に聞く。
「今、言いましたよね。逃げる、と」
「え? さぁー、言ってなくね? そんなこと。あ、分かった。イリスちゃんの聞き間違いだよ。イクね、ってことじゃん? ほら、もう俺様エクスタシーだし!」
そんな聞き間違い嫌だわ! 何を聞かされているんだよ、僕は。
「無駄ですよ。その後に脱出と。それからのそこのネイコゥに手引きをと言ってましたよね?」
「あー……それは」
まだしらを切ろうとしているのか、必死に言い訳を考えている太守。
だがそれを遮ったのはあろうことかネイコゥ。
「太守様、残念ですがこれ以上は無理かと」
「え、ネイコゥ!? なに言っちゃってるの? えっと、ほら! もっと言い訳考えないと!」
もう言い訳って言ってる時点で黒確定なんだけど。
けどそこはツッコまない。その前に、この女が何を考えているのか知りたかったから。
「皆さま、私が太守様に脱出を提言しましたのは確かでございます」
認めた!?
まさか。それがどれだけこの太守の――何よりネイコゥ自身の立場を悪くするのか分かっているのか? いや、分からないはずがない。なら、なぜ?
そのネイコゥは悲し気に、だが一瞬笑みを浮かべたように見え、
「それもこれも。このイース国を思ってのことであります」
「しらじらしいことを」
「いえ、本当でございます。なぜならこのお方はイグナウス様でございます」
イグナウス? 確か太守の姓だけど、それが――まさか!
「その通り。アカシャ帝国建国の功臣の末裔。イース国の経営を一手に任された名門中の名門。そのお方を、このようなところで失ってはいけません」
「そ、そう! そうだぜ! 俺様もそれが言いたかった! 俺様はあのイグナウス家のまつえー! 帝国いちの名門の俺様が、こんなところで死ぬわけにはいかんでしょ!」
そういうこと、か。
確かにそういうことなら大義名分は立つ。
「ぐ、ぬぅ……」
その証に、インジュイン・パパから苦悶の声が漏れる。
太守、言ってしまえばこの戦いの総大将だ。それが一番に逃げ出す。そんなことはあってはならない。だからこその、インジュイン・パパですら怒りを覚えた。
だがそこに正統性が生まれた。イース国というこの大陸で特別な地位にある国の主を、そうおいそれと死なせてしまってはいいのか、というものだ。
インジュイン家とうちのグーシィン家は、このイグナウス家を盛り立てることで代々力を得てきた家だ。
それが君主でもある太守を生き延びさせないとは、口が裂けても言えないのだ。
けどそれは理念。
対する感情は、戦いの前に逃げ出すなど卑怯千万、言語道断と思っているに違いない。だからこそ苦悩しているのだ。
というわけでインジュイン・パパは動けない。ヨルス兄さんも、まだそこまで発言力があるわけじゃない。その他大勢は言わずもがな。
こうなればもう反論はできない。
そうなると……まぁ、そういうことだ。
「な、俺様はイース国が滅びたとて必要な男なんだ。だからここから落ち延びなければならない! 分かるよな? よし、ここはインジュイン、お前に太守代行を任せよう。そうなればお前もイグナウス家と対等になれるぞ。うん、そうしよう。だから俺様はお先に――」
太守の顔が横撃に弾けた。
僕がぶったからだ。平手で。
「な、ななな、何をするかイリス!! 俺様を誰だと思って――あぶっ! に、二度もぶった! あ、あぁ、そうか! そういうことか。すまないイリス。お前も一緒に逃げ――だばっ!? な、なんで?」
まだ分からないのか、この馬鹿は。
僕の怒りが。皆の失望が。
だから僕は彼の胸倉をつかんで、
「あんたもそろそろ立場というものを分かっておいた方がいいと思ってさ。ねぇ、イース国が滅んで、本当にその後も太守面できると思う?」
「そ、それはそうだろう? だって、俺様はイグナウスだぞ? イース国を治めるべき、選ばれた血統。ましてやアカシャ帝国建国の英雄のまつえーを、帝国の部下である奴らが手を出すはずが……」
「悪いけど、そんな血統。デュエンとかトンカイに大事にすると思う? ザウスが裏切って、グーシィンの一族を殺したのはなんでだと思う? もう血統もの、外の世界では意味をなしてないんだよ」
伝統や血統。
そういったものが悪いわけじゃない。
けどそういうものは必ず後から出てくる新興勢力に駆逐される。そしてその新興勢力も歴史を重ねると伝統や血統といったものが生まれて、そこからまた新興勢力がとってかわる。
それが人の歴史。
悲しいけれどなくならない、人類の争いの血脈だ。
日本でいえば室町時代。中国で言えば後漢時代。
すでにある権威は失墜し、そこから新たな力が胎動して世界を変えていく。
それが戦国乱世。
今、この時代もそうなのだ。
「嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ! だって、ネイコゥは! 言ったんだ! 俺様は生き残るべき人間だと! この帝国において、皇帝陛下に次ぐ地位にある男だと! そんな崇高なる権威高き者が、こんなところで死んで――」
「ならその権威とやらで、迫りくる賊軍を蹴散らしてみろ!!」
「ひっ!」
太守が肉食獣を目の前にしたように、怯えて椅子から転げ落ちる。
まったく失礼な。こっちは美少女だぞ。
「おのれ、イリス・グーシィン! これは問題だぞ! 我らが太守様に手をあげるなど」
インジュイン・パパが、ようやく状況を飲み込んだのか、声を荒げて僕を叱責しにくる。
ったく、さっきまで理念と感情で揺れ動いていたくせに。政敵の娘が国のトップに手をあげたという、これ以上ないスキャンダルを前に、感情を押し殺して理念と打算を取ったわけだ。
けどここまでくれば引っ込みはつかない。
「国を捨てて逃げる者のどこが太守だ!」
「っ!」
「それに、この国がなくなれば、問題もなにもなくなる。そうじゃないか?」
「な、なんと恐れ多いことを……。誇り高きイース国臣民は玉砕覚悟で国を守る! 守れなければ我らは散華して果てるのが臣民の忠義というものだろう!」
「そう! それ! それは俺様が言いたかったこと!」
思わぬ助っ人の出現で、勢いを取り戻したのは太守。椅子にしがみつきながらも我が意を得たりと叫び倒す。
ちっ。ここで盛り返してくるか。
インジュイン・パパ。なんでそんなことを。もしかしてここで太守に恩を売って、グーシィン家を潰すつもりか。そして自身が政権を奪取するという。
敗ければ権勢も何もないというのに。そこまで目が狂ったか。
「太守様、我らは決死の覚悟でこの国をお守りします。私自らも陣頭に立ち、戦いますので」
「うんうん、さすがインジュイン。分かってるー」
「ゆえに、太守様にはご安心してここでお待ちください」
「おう、ここで待つ……え?」
「もし負ければ、我らが散華するだけのこと。太守様には危害は加わりません」
「えっと、いや。それって……その……」
「臣民がすべて朽ちて後、降伏すれば命までは取られないでしょう。あるいは太守に返り咲くことも可能かと。国民のいない、ただ1人の国ではございますが。イグナウスの血脈は残ります」
「え……えっと……え? 1人?」
「はい、ですので太守には心安らかにここでお待ちいただければよいのです。どちらに転ぼうとも、太守の座と命は約束されているのですから」
「あ………………うん」
はっは! やりやがった、インジュイン・パパは!
ここまで意地の悪い返しはないだろう。
勝てば今まで通りに過ごせる。負けても命は取られない代わりに、誰1人国民のいない太守に返り咲く。
これまで好き放題やって来た男だ。1人では何もできずに、永遠の孤独を味あわされることだろう。
味方かと思いきや、究極の選択を迫らせる。
しかも自分のうっ憤を晴らすだけでなく、政敵である僕らにもしっかりと優位を取るというのだから。
なるほど。父さんと長年争ってきただけはある。そしてこの親にしてあの娘があるわけだ。
「皆、聞いたな。太守様はここに残り、最期まで我らの戦いを見てくださる。さぁ、太守様をお部屋にお連れしろ。なにせ我らの主だ。敵の暗殺者などに触れられないよう、しっかりと鍵のかかった窓のない部屋だぞ。そこに監き――いや、お隠れになってもらうのだ! 調度品は全部外せ。何かのはずみで太守様がお怪我をされたらどう責任を取るつもりだ!」
今、監禁って言おうとしたよな。絶対。
てか鍵がかかって、窓がなくて、調度品も何もないって、独房じゃん。
「そ、その。インジュイン? 俺様、そこまでは……」
「たった1つしかないお命。どうか粗末になさいませんよう。我らがしっかりとお守りしますので、どうか心安らかに」
「そんなの安らがねーーーー!!」
太守の聞き苦しい悲鳴が響く。
インジュイン・パパの悪意と宿意が混ざった説得で、卑劣なる男のちっぽけな作戦は失敗したのだった。
ちゃんちゃん。
「イリス、君の用はこのことだったのかい?」
っと、これで終わるわけじゃなかった。ヨルス兄さんに言われるまで忘れてた。
今までが蛇足。長すぎた蛇足。
「逃げなかったんだな」
僕は壁際に佇むネイコゥに視線を向けた。
今のコントのごたごたで、逃げ出すかと思ったけどそうしなかったのは、何かたくらみがあってのことか。
「逃げ場を塞がれていましたからね」
「逃げる気はあったわけだ」
「いえいえ。なにせまだ商談の途中でしたから。ただ、その商談も今、目の前で破談にされてしまったようですので、どうしましょうかと途方にくれているのですよ。よよよ」
しらじらしい泣き真似を。こいつにとっては太守との商談も、僕たちとの商談も何も変わらない。
つまり、取引を行うつもりはあるということ。
「なら僕らと商談だ」
「お金さえあれば、なんなりと」
「金は、ない」
「なら、商談は打ち切りですね。私も暇ではありません。払うお金がない人を相手にしている時間こそもったいない」
「金はない。その代わりに、出せるものがある」
「ほぅ、それは?」
これは賭けだ。
分の悪すぎる賭け。
それでもここで彼女から引き出さないと、本当にこの国は終わる。
だから僕は。これまでのコントが子供のお遊びに見えるくらいの爆弾を、放り投げた。
「…………国だ」