挿話19 ワイス・カーケン(グーシィン家執事長)
グーシィン家の朝は早い。
旦那様らの予定の確認および準備、屋敷および庭掃除の差配、それらを終えた後に皆さまの起床をお手伝い。そうなれば旦那様らの起きる1時間以上前には起きていないと間に合わない。
ただ、その生活も30年続ければ慣れるというもの。グーシィン家の皆さまが気持ちよく過ごしていただくために、身を粉にして働いてまいりましたので。
アカシャ帝国建国の功臣であるイグナウス家が支配するイース国。その国の重鎮として国政を担うグーシィン様のお屋敷を差配させていただくなど、昔はそれはもう恐れ多いことでした。
しかし、旦那様はそんなわたくしをしっかり見ていてくださった。
『ワイス。長年、この家を見てきたお前が適任だ。この家のすべてと息子たちの世話を任せた』
ああ。そのようにおっしゃっていただけるなんて。
その旦那様が、今は怪我をなさって家で療養なされているのがおいたわしいこと。わたくしがいれば、こんな目に遭わせることなどなかったのに。
「ワイス、すまないな。いつもならこんなことは……」
「いえ、旦那様は働き過ぎたのです。天が休めと命じたのでしょう」
「ふふ……そうか」
そう言って再びベッドに横たわる旦那様。
少し顔色が悪いようで心配です。明後日が確か定期健診の日程だったかと思いますが、明日に早めてもらいますか。一流の執事は、状況に応じて雇い主の最善を行うのです。
さて、旦那様のお世話が終われば……ほぅ、階下から香しい匂いが漂って来ますな。
この家で旦那様の次に働き者の夫婦が目覚めているようです。
「これはヨルス様、ミリエラ様。おはようございます」
台所では、ヨルス様とミリエラ様が何やら鍋の前で話し合っているようで。
そう、この家では他家とは異なり、メイドが食事の準備をしないことになっています。いえ、メイドが準備しているというのは合っているのですが、そのメイドというのがなんと当主嫡男の奥方様だというのだから。
「おはよう、ワイス。父さんはどうだった?」
「はい、お元気でございます。後ほど朝食をお持ちいたしますので」
「お義父様が食べやすいよう、パンをシチュー漬けにして出そうと思っていますの」
「それは良いことかと、ミリエラ様」
「朝の掃除は済んだかしら?」
「はい。申し分なく」
「そうですか。ありがとう」
ミリエラ様は言葉とは裏腹に少し残念そうだ。一応、メイド長という立場にいていただいていますが、我々の仕事は仕事のうち。
さすがにミリエラ様に一から十までをお願いするわけにはいかない。
よって、ミリエラ様が関与する前に、こちらの仕事を終わらせるのが我々の間で暗黙の了解のようになっていた。むしろミリエラ様が動いたら負け、という勝負をしていて、緊張感もあって良い。
食事の準備は、ミリエラ様の中で一番優先度が高いようなので、それ以外の掃除、洗濯などは我々がこの朝の時間にさっと済ませてしまうのだ。
それから今夜の献立についてヨルス様とミリエラ様と話をした後に、再びホールへと戻る。
次男のトルシュ様はまだ出てきていません。きっと遅くまで本を読んでいたのでしょうから、あとで温かいミルクを持っていくことにしましょう。
長女のタヒラ様は、今も南での警備に出ており不在です。
いつ戻っていらしても問題ないよう、部屋の掃除と、好物であるイチゴのストックは欠かさないようにしなければ。
さて、あともう1人ですが……。
「ふわぁぁぁぁ」
朝食の用意がほぼ出来上がったころ。
大きなあくびと共に、イリス様が降りてきました。
「おお、これはイリス様。おはようございます」
「あ、えっと……カーケンさん? おはようございます」
「そんな他人行儀な。前のように“お前”とか“おい”とか“それ”とか言ってくださいまし」
「うわぁ……イリス、本当に色々ヤバかったんだな」
「いかがされましたか?」
「あ、いや。なんでもないよ!?」
以前の刃物の切れ味を思わせるイリス様もお仕えするに値する人でしたが、今のどこか飄々としてつかみどころのないイリス様も素晴らしい。
「しかし変わられましたな、イリス様は」
「そ、そう? たーぶん気のせいじゃないかなー?」
「いえいえ。以前はこんなことをお話すれば『うるせーよ、このクソ爺』と蹴りが飛んできましたから」
「あーもう、イリスー。頼むよ……」
何やらショックをお受けの様子。
それにしてもお美しい。亡くなった、アイシャ様によく似ておられる。あぁ、アイシャ様というのはイリス様のお母さまです。
さらに優しくなられた。アイシャ様は我々使用人にも良くしてくださりましたが、最近のイリス様も使用人に『やぁ、元気?』とか、庭師に『庭を綺麗にしてくれてありがとう』とか気さくに声をかけてくださるようになった。
何より変わられたのは、
「ちょっと朝食のあと、一手指南してくれない?」
わたくしめにそんな声をかけていただいたのだ。この時の驚き、躍動、感動をどう伝えれば良いか。わたくしには語る言葉がありませんでした。
「では、お願いします」
朝食後、中庭の広場でイリス様と向かい合う。イリス様の手には木の棒。どうやらここ数度の戦いで棒術を習得しているらしい。
リーチの短い彼女にとってはベストな選択だと感じます。
お互いに構える。
イリス様は木の棒を左半身に構え、こちらは木の棒を剣に見立てて相対する。
(これは……)
イリス様の構え。……隙だらけだ。我流なのだろうか。得物の方に意識が向きすぎて背中が隙だらけ。
これは打っていいものか。思ったら体が動いていた。
「いっ……」
「失礼。隙だらけなので打たせていただきました」
「いや、それでいいよ。真剣の立ち合いをお願いしてるから。手加減はいらない」
「では」
再び対峙する。今度は背中に意識が行き過ぎて胴体がおろそか。だから撃った。
「ぐっ……次!」
次は正面で棒は大上段に。横への動きに弱い。だから打った。
「がっ……次!」
再び左半身。ただ構えが低い。振り上げる前に、棒を足で踏んづけて隙だらけの胴を打った。
「ぅっ!! さすがに、強いね」
「いえ、イリス様も我流の割にはなかなか」
「それ、褒めてないよね」
「そ、そうですか。申し訳ありません」
「ま、いいけど。本当に強い。タヒラ姉さんが言ってた通りだ。『楽隠居の皮をかぶった狼』だって言ってた」
「それは――」
過大評価だと苦笑しようとしたところに、棒が来た。完全に油断していたわけではないので、それを払い飛ばす。
「ちぇ、いい策だと思ったのに」
「嘘でしたか」
「一部だけね。タヒラ姉さんに聞いたのは本当。ただ言った言葉が違う。『あの人は怖いよ』だって」
「ほ、なるほど」
確かにタヒラ様は筋がいい。かつて戦場で鬼と呼ばれたわたくしが、面と向かっても気後れしてしまうほどに。
イリス様はタヒラ様と似ている。しかしタヒラ様にある猛々しさを、戦場に置き忘れたかのようにイリス様はどこか大人しくなってしまったように思えた。
それが悪いとは思えない。
だが、このお方がこれから戦う未来を考えると、それは必要不可欠と思えてしまいます。
「どうかした?」
「いえ」
言えない。それは。
「じゃあ、最後に一本も取れないまま終わりたくないし」
イリス様が構える。それは最初と同じ。少し独特だが、これといって特徴のない基本の構え。
何のつもり――寒気がした。
このわたくし――俺が、幾多の戦場を駆け抜け、数多くの敵を屠って来た百戦錬磨の俺が。こんな小娘に気おされた。
じり。
下がる? 俺が? 論外だ。ここは前に出て叩きのめし、二度と歯向かえないよう――馬鹿な。相手はイリスお嬢様だ。そんなことは許され――
「ほい、一本」
と、見ればわたくしの右肩に棒が当てられていた。
「あ……」
ホッと力が抜ける。
それは何の安堵か。
圧倒的な力を持つ者の前に立つことから解放された安堵か、あるいは旦那様のご息女をこの手でたたき殺さずに済んだという安堵か。
どちらにせよ、ですね。
「まいりました。つい昔を思い出してしまい、年甲斐もなく熱くなってしまいました」
「熱くね。いや、おっかなかったよ」
「イリス様こそ、最初からあれを出していれば……。いやはや、寿命が縮みましたぞ」
「いや、寿命が縮んだのはこっちね。本当に」
それにしても今の気迫というべきか、このわたくしが背筋を凍らせるほどだとすると、末恐ろしい。そう思えてしまう。
それ以上に、あれはいったい何だったのか。あまりにイリス様の性質と異なる、どこか禍々しささえも感じさせる何か。触れたくない、見たくもない何か。あるいはそれが死というものなのだろうか。
「イリス様。差し出がましいかと思いますが」
「ん、どうしたの?」
「今しがたの。あれは、あまり使わない方がよろしいかと」
「……分かってるよ。けど、あれがなきゃ守れない。それも確かだから」
悲し気な表情でうつむくイリス様。その悲痛と悲哀と苦悩に満ちたお顔は見ているこちらが痛々しく、辛く、重苦しく感じてしまう。
そのどこか儚げに見えたこのお方は、一体何をその小さな胸に秘めているのか。
いや、そんなことをわたくしが考えることではない。
旦那様のお子。それだけでこの自分が身を投げ出すだけの価値がある。
お守りしなければ。
そう心に誓った。