挿話1 ヨルス・グーシィン(イース王国外務次官補佐)
国というものは不思議なものだと思う。
子供のころに思い描いた国の姿と、成長して国政にあずかる身となってから見た国の姿が全く違うのだ。
子供のころ、学校で習ったこの国の姿勢に、何を弱気な、と憤慨していた。
国の重鎮でもある父へも、その怒りは向いて何度も衝突した。
だが齢二十歳を超えて、父の元で政務の補佐をするようになって初めて知った。
この国は、まさに累卵の危うさの上にギリギリ成り立っていたということを。弱気と見ていた土下座外交でもしないと、すぐに滅ぼされてしまうということを。
豊富な鉱物資源でアカシャ帝国から一帯を任されていたイース国。
それが5つに分割されてしまったのは100年も前の話。
それから離合集散を繰り返し、今の形になっていくのだが、それにしてもうちは弱小国だ。
もはや限界の見えた鉱物資源。田畑の面積は狭く、大陸の中央ということで要衝ではあるが、街道が整備されておらず交通の便も悪い。
極めつけは旧イース国から独立した4国に周りを囲まれているということ。
彼らに少しでも野心があれば、イースは滅んでいたかもしれない。
いや、野心がなかったわけがない。
ただ4か国が同時に野心を持ったおかげで助かっているのだ。
どこか1国が抜け駆けでイース国を支配しようとすると、それをよしとしない他の3国が全力で止めていたに過ぎない。
言わば腹を空かせた虎狼に投げ込まれた子羊。その虎狼がけん制し合っているので何とか生かされている。
それが現状のイース国だ。
だから虎狼たちの機嫌を取り、他方に攻められようとすれば他方にすり寄る土下座外交がこの国の基本姿勢なのだ。
それを弱気と見るか、何が何でも生き延びるという覚悟と取るか。
立場、そして年齢で見方が180度変わるというのだから不思議なのだ。
幸いにして今は4国の平衡が保たれて平穏無事の生活をできているのだが。
これを未来永劫続けさせるのが、この国の重鎮の長男として生まれた自分の責務だと思っている。
「そういえば妹さん。今はザウスでしたっけ? 勤勉ですねぇ。わざわざ他国の大使館に行くなんて」
書類を整理していると、同僚が話を振って来た。
同世代だが、父親の立場のせいか敬語で話されることが多い。それももう慣れた。
「ああ。下の妹だな。叔父さんのところに行っているよ。ただ勤勉というのは違うな。あいつは子供なんだ。もうすぐ16だというのに、いつまでも遊び歩いて」
「あぁ、少し歳が離れていたんでしたっけ?」
「私が今22だから……そうだな。7つ違いだ。上の姉のタヒラが20、弟のトルシュが18だから、そこまで大きく、というわけではないが私からすれば子供だな」
「下手したら娘みたいな心境で?」
「さすがにそこまでは……いや、分からないでもないか。確かに危なっかしい娘だよ、イリスは。母親も違うしな」
「あぁ……」
「そう遠慮しなくていいさ。母は違えど、あいつは大事な妹だよ」
そう、大事な妹だ。勉強が嫌いで、いつも遅くまで遊び歩いて、学校での評判もそう良くはないとしても。
上の妹のタヒラも、少し考えたらずな猪突猛進なところもあるけど軍部で頑張っているし、弟のトルシュも頭でっかちではあるが学校で好成績を収めていると聞く。
美点も欠点も含めて、大事な弟妹であり、家族だ。
その家族を守るためには、たとえどんな手段を使ってでもと思うこともある。
まぁ今はまだそこまでの状況にはならないだろうけど。
そう思った時だった。
「ヨルス様、国境からの早馬です!」
係官が執務室の扉をたたき割るんじゃないかという勢いで入って来た。
「早馬? どこの国境だ?」
「はっ、ザウス方面です」
言いながら係官がこちらに歩いて来て、一片の紙片を渡してきた。
「ザウス……? これは」
書いてあったのはザウスの国境守備隊がにわかに動き出しているという話だ。
ただこちらに対しての様子ではない。ザウス国内で何かが起こったのだろう。
「このこと、父上には?」
「すでに伝達済みです」
「そうか……なら私たちにできることはないな」
「ヨルスさん!?」
同僚が驚いた声を出す。
その理由も分かっている。
「イリスが、妹が向こうにいるというのだろう。なのになぜ何もすることがないのかと聞きたいんだろう?」
「い、いえ。そこまでは……」
「今はザウスと事を構えることはできない。あれももう15を過ぎた大人だ。ならば国の大事と個人。秤にかけられないことは分かっているだろう」
「しかし……」
「私を、冷血だと思うか」
「はっ、いえ、その……」
「これでも妹を愛しているんだ。心配しているんだ。母は違っても、あいつは妹だ。できるなら助けてやりたい」
「はぁ……」
「だが私は今、末端とはいえ政治家であり、国防を担う人間でもある。私情で動いて国を亡ぼす愚か者にはなりたくない。父上もそうだっただろう?」
視線を同僚から係官に移す。
すると慌てた様子で、
「は、はい。確かに、同じようなことを……」
「なら今は待つしかない。いや、私はイリスを信じている。あいつには、どこか可能性がある。その可能性が、彼女を生かす。そう信じている」
「そ、そうですか」
「ああ、だが……そうだな。動かせることは動かしていこうか。周辺国――トント、ウェルス、ノスルの3か国にこのことを伝えよう。それから国境警備隊に伝令。自らの持ち場を守り、絶対にこちらから手出しはするなと」
「は、はい! あ、しかし国境警備隊といえば……」
「なんだ?」
「言伝を預かっておりました。もうおひとりの、妹殿からです」
「妹……? まさか、タヒラか!?」
今、軍の将校となって部隊を率いている上の妹タヒラ。
一体、何の言伝だ?
嫌な予感しかしない。
「は、はい。タヒラ殿より、『ちょっと行って来る。上手くやるから安心して』とのことです」
一瞬、立ち眩みがした。
座っているのに、倒れそうになった。
「あ、あの、ヨルス様?」
同僚が心配で声をかけてくるのが分かる。
だがそれに答える気力がない。
いや、気力自体はある。
だがそれは同僚に対してでも係官に対してでもイリスに対してのものでもない。
ただ1人。
何も考えずに飛び出す、タヒラに対しての怒り。
だからそれを声に表した。
「あの馬鹿者が!」