挿話17 平知盛(デュエン国軍師)
撤退。
それを決めても、さほど悔しくはなかった。
そもそもが本国の太守のわがままによるものだったのだ。
“ほるぶ国”を滅ぼして、気が大きくなったのか以前に奏上していた“うえるず国”の攻撃を実行に移させたのだ。
太守は“うえるず国”の滅亡を望んでいるようだったが、そんな夢物語りに付き合う身としてはこれ以上ない苦痛だ。
私が献策したのは“とんと国”による“いいす国”の騒乱に乗じて攻め込むというもの。だがそれは完全に機を失っているし、何より攻める兵は想定の3分の1というのだから目も当てられない。
だから兵や将たちの思惑は別にして、私自身の士気はかなり低かった。
もちろん出陣するからには、敗けるつもりはないし、無駄に兵を死なせるつもりもない。
だが本気で国を1つ、まだ滅ぼせるとも思っていないので、適当なところで勝利を得たら兵を退かせるつもりだった。
そしてその通りに勝利を得たのだ。
だから退くことに問題はない。
はずだった。
敵の頭脳と認めらる将は討った。だがその後に起きたのは、それを上回るだろう策の胎動。
いつの間にか私たちは包囲され、孤立させられ、撤退を余儀なくされた。
撤退するのとさせられるのは全く違う。兵の士気だけでなく、周辺の豪族の風評が悪化する。
しかも相手は、あわよくば勝利を得て負けを挽回しようとしているのだから厄介極まりない。
そんな状況での撤退を、上手く兵をまとめて素早く成功させるのは、世界広しといえど、私くらいのものだろう。
だからできる。
問題なく対処可能だ。
そう思っていた矢先のことだ。
敵の一部と遭遇したのは。
といっても100名ほどの小部隊。すべてが騎馬で機動力に特化された部隊だ。
遭遇したと言っても、それはまさに言葉通りで、相手はこちらを見つけただけで逃げて行ってしまった。
その逃げっぷりが作為的に見えて、きな臭い印象を覚えた。
しかもそれが何度も続けば、さらにきな臭い。
下手に追撃を出すと、見えない3千の伏兵に襲われる。そんなこともあり得る。
まだ千代女が本調子ではないのが痛い。
一応偵察は出しているが、それでも見つかったという報告はない。
だから今は動かない。こうして大軍で固まっているのが最善。
それにこの後の難所を考えると、下手に兵を消耗させることは許せなかった。
「全軍、停止!」
部隊を止めた。
一番の難所に差し掛かったのだ。
山の一部が陥没したかのように、そこが唯一の通り道になっている狭路。
幅は20メートルほどあり、距離は100メートルほどしかない。
だが伏兵を配置するには絶好の場所。
あの100騎のせいで行軍は遅れている。敵が先にここに罠を張っていてもおかしくはない。
叶うならこのような場所は通りたくないが、4千もの人間が通れるのはここ以外知らない。敵地ゆえに、下手に回り道をしようとして道を失っては笑えない。
「知盛」
殿軍の山県が馬を飛ばしてきた。
彼女もここが危険だと分かっているのだろう。
「いると思うか?」
主語がないが、何を聞いているのかはわかる。
伏兵の有無を考えているのだ。
「いる。いないはずがない」
「なら一気に突っ切るしかないだろう」
山県らしい、強気の策だ。
だが得策じゃない。あるとすれば両側の斜面上からの挟撃。
幅は20メートルあるとはいえ、密集すれば良い的だ。
「危険すぎる。ここは部隊を割って順次渡るしかない」
まずは先発で1千を向こう側に渡す。
それから中軍の主力を進め、最後に殿軍という風に。
そうすれば、どこかで敵が襲撃してきても、被害は抑えつつも反撃に転じれる。
「分かった。なら後ろは赤備に任せろ」
「300でいいのか?」
「下手に増強されても、動きが悪くなるだけだ」
「そうだな。頼む」
本来なら左右の斜面の上に人を出して伏兵の有無を確かめるべきだろう。
だがこちらから見る斜面は急で、登るところを探そうとすれば大きく回り込まなければならない。
今、時間はない。
砦の抑えに残していた1千が敗退すれば、完全に退路を断たれた形になる。そうなれば退くも進むも出来ず、帰国するにしても大きな損害を出すことになるだろう。
だから間に合わないと思っても、ここで時間を損ねるわけにはいかず、出す犠牲ならばここの方がまだ少ないと判断できるのだ。
「私が行く」
ふと声がしたと思ったら、千代女がいた。
まだ顔が青白い。あの将を討ち取ったのは大戦果だが、その代償として血を失いすぎた。
だから彼女を行かせて、何もなければ問題ないが、あの軍神を自称する輩がいればいかに千代女とてもたない。
「いや、万が一のことがある。千代女は待機だ」
「知盛に心配されるとか……心外」
「普通に受け止めてくれないかね。昨日から働きづめだろう?」
「そんなことない。お屋形様のところなら3日3晩、働いてたこともあった」
どんだけ過剰労働だよ。これだから源氏は。
「なに、その目は」
「いや、さっさと休んでろ。では、先陣を出すぞ、山県」
「ああ、やってくれ」
こうして、まず先陣の1千が狭路を渡り始める。
先陣に対し奇襲をかける愚か者はいないだろう。やるなら中軍、本隊が動いた時。つまり私が狙われる。
その念が通じたのか、先陣は何事もなく渡り切った。
よし。ならば私が行くだけのこと。
「本隊、進むぞ。左右に警戒!」
本体の歩兵が進み始める。
2度の戦いで、盾をまだ失わずにいる兵は多くはない。だから誰もが恐る恐るといった様子で狭路を進んでいく。
本隊の先鋒が中ごろに差しかかったころ、私は馬を進めた。
来ないのか。いや、来るはずだ。
これほど絶好の機会はない。だから来る。来るなら、来い。
左右の斜面の上。それを睨みながら進む。
そして道の半ばを過ぎたころ。
それを発見した。
斜面の上から飛び出した一本の矢。敵襲か。すでに戦闘は行った後、弓矢ならば相手にそれほど予備はないだろう。
だから来るなら斜面を下っての逆落とし。それさえしのげば、勝てる。
「全軍、襲撃に備え――なに?」
だが違った。
その矢は、矢であって矢でなかった。攻撃を目的とした矢ではなかった。
笛を鳴らすようなか細い高い音が中天に響く。
鏑矢だ。
音を出すことに特化された矢。それが意味するのは、戦闘の開始、そして合図――
「全軍、退避!」
鏑矢に続いて、響くコーン、コーンという何かを叩きつける音に、全身の神経が警報を鳴らす。
何かが来る。何かが起こっている。
それは逆落としなんて生易しいものではない。
何が来るかは分からない。だがその何かは脅威であると分かる。
それが声になって叫ばせた。
だが退避といっても前に進むしかない。左右は斜面。後ろは味方で充満しているのだ。
その刹那の迷いが、勝敗を一気に決めた。
「うわぁぁぁぁ!!」
兵の悲鳴。自分も悲鳴をあげそうになった。
バキバキ、と激しく何かが壊れる音がしたと思った次の瞬間。左右の斜面から巨大な何かが落ちてきたのだ。
いや、確かに自分の目はそれを認識していた。
落ちてきたのは大木。直径は2人が抱えてなお余るほど、高さは10メートル近くの巨大な木が丸ごと、倒れ込むようにしてこちらに落ちてきたのだ。
この狭路の幅は20メートルほど。だから片方からならば木が倒れても反対に逃げれば済む。
だが左右から倒れてくれば逃げ場はない。
しかも倒れてきたのは1本や2本じゃない。距離にして30メートルの空間を埋め尽くすように倒れてきたのだから。
兵たちは矢や逆落としには備えていたが、まさか人間の数倍もある大木が落ちてくるとは思いもよらず、まともにその倒木の一撃を受けた。
とはいえ木の高さにはばらつきもあるし、兵は兜をかぶっているから、よほどに打ち所が悪くなければ即死はしない。
いや、敵にとってはこれで十分なのだ。
こちらは予想外の事象に恐慌をきたしているし、木々に邪魔されて上手く動けない。
そこを少ないとはいえ矢で狙い撃ち、そして逆落としをかければ、こちらはろくに反撃もできずに数を減らすのみ。
あと数瞬後にでもその攻撃が始まるだろう。
だがそれを無関心に眺めているだけの私ではない。
「先頭! 倒木の先端と枝を斬り落としながら進め! 敵の襲撃が来る前にここを抜ける!」
この落ち着いた、そしてよく通る、美しい声。それが戦場に響けば、兵たちは士気を取り戻し、適切な行動をする。
これこそが私、平家の総大将にして平相国最高の弟子がすべきこと。
矢がパラパラと振って来た。そして喚声。斜面の上から、数百人の敵が姿を現した。その誰もがこちらに視線を投げている。そう感じた。
「そんな大声出せば、自分のいる位置教えてるようなものでしょ」
千代女が冷めた口調で言う。
分かっていない。そうやって総大将が危険を冒してでも、存在を誇示しなければ、兵は戦えない。
だから剣を抜き、飛んできた矢を打ち払って叫ぶ。
「ふん、このような気の抜けた矢で私が倒せるか!」
「簡単に殺されそうだけどね。こう、ぶすっと」
「私の敵は味方か! まぁいい、ここに総大将がいるぞ! この平知盛の首、取って見せよ!」
自らを危険にさらしてでも兵の損耗を抑える。それこそ総大将の役目。
とはいえ前がつっかえて行軍が進まない。
このままでは被害が大きくなってしまう。
苛立ちと焦りに身をつままれながら、斜面を降り始めた敵を睨みつけている。
その時だ。
左右に倒れる木々。それが急に燃え始めたのは。
「これは……!」
油の臭いもない。ただ、そこに火が現れたと思えるほど、突然の火災。
「三郎ちゃん?」
千代女が背後を気にしながらつぶやく。
三郎。山県の異能か。
確か火を操る異能と聞いていたが、実際に目にしたのはこれが二度目。赤備にふさわしいといえばふさわしいが、これを素直に援護ととっても良いのだろうか。
木々が燃えたことにより、斜面を駆け下りてくる敵はたたらを踏んで停止した。そのまま行けば、自らが焼かれに行くようなものだからだ。
対してこちらは左右を炎に包まれた形になっている。いつまでもぐだぐだしていると、蒸し殺されてしまう。
とはいえ、益か不利益かといえば前者の方が圧倒的に多い。炎にじわじわと殺されることはあっても、敵に即死させられるのは避けられたから。
ならば。
「この炎は我が軍を救う天祐だ! 倒木を排除して脱出せよ!」
一気に前が動き出す。
それにつられてこちらも前進。
ただ、進みながらも背後が気になった。
背後。つまり殿軍の山県だ。
おそらく今頃、敵の攻撃にさらされているに違いない。
この斜面。騎馬隊がいなかった。当然だ。こんなところを馬で降りてくるのは、あの馬鹿くらいしかいない。
騎馬隊が輝くのは平地。そして前方に見える先陣はしっかりと陣を組んで動いていない。となると、敵が襲っているのは殿軍。
今、先頭中にもかかわらず、山県はこちらに助太刀の炎を送ってくれたのだ。
そんな余裕なのか。あるいは……。
「あいつ、死ぬつもりじゃないだろうな」
「それはない。三郎ちゃんは死なない。これまでも、そしてこれからも」
それは何かを確信しているかのような物言い。
いつもの言い合いとはまた違った雰囲気に、なんとなく羨ましいものを感じながらも、すぐに現状の打破のために2人のことを意識から締め出した。