第145話 勝敗の流転
「始まった!」
前方で喚声があがるのが聞こえてきた。
鉄炮らしき轟音も聞こえた。
さすがに5千もの人間が何段にも別れているので、先頭の状況は見えない。
けどこの叫び、悲鳴。おそらく前衛がぶつかった。
いや、どこか変だ。
敵は撤退し始めているという。それなら敵とぶつかるのはもっと奥。先ほど偵察に出た時に登った丘よりも先にないといけない。
今はその丘の手前といったところだ。
敵が迎撃に出たのか?
それにしては早すぎる。もしかしたら。あるいは……。
だが思考を中断するようにして、カタリアが声をあげた。
「戦況は?」
「そこまではさすがに……」
「まったく、それぐらい見てくるのが副官兼軍師兼雑用の仕事でしょうに」
「無茶言うなぁ!」
一応これでも軍事行動中。しかも他国の人間だから援軍としてここにいるだけだから好き勝手出来るわけじゃない。
ここで勝手に前方の様子を見に行ったら、それだけで敵味方の注意を引いて趨勢が変わってしまうかもしれない。勝手なことはできなかった。
「まったく、せっかく殿軍はできるようになったというのに……使えませんわね」
どの立場から物を言ってるんだ、こいつは。
あの涙ながらに僕の無事を喜んでいたやつと、本当に同一人物か?
「仕方なかろう、かたりあ。そういう時は、心を研ぎ澄まし、神羅万象の気配を感じるんだ。それが法神流気伝・円の陣。むむ……どうやら味方が優勢の模様」
最近思ってるんだけど、琴さん、適当言ってないよな? なんかその法神流とかいうの、怪しく思えてきたんだけど。
「なるほど、むぅぅぅ……あ、わかりましたわ!」
「お前はやるな。てか何も感じないだろ」
「分かりますわよ! あんたには感じられないだけで。ほら、今にも味方が敵を崩し、追い討ちを始めるところですわ」
「まさか、そんなはずが――」
と、戦場に動きがあった。
それは僕らの前方にいるレイク将軍の軍団が、移動を始めたのだ。
それも前に。
それはつまり、味方が優勢で敵を押しているために、後軍のレイク将軍も追いかけるように移動を始めたということ、なんだけど……。
…………マジで?
本当にカタリアや琴さんが言ってるように、味方が優勢ってこと?
「ふふん、やっぱりイリスはイリスね。コトさんのホーシンにかかればこんなものよ」
なぜお前が得意げなのか。
「慌てることはない、いりす。君にも北辰にきらめく星のごとき素質があるから、数年の修行を積めば、我が暗黒邪眼法神流をすぐにマスターできるはずさ」
いや、もう何を言ってるのか分からない琴さん。てか修行しないし。
とはいえこれは予想外だ。
まさか勝つとは思ってもみなかったわけで。もしやウェルズの脳筋軍団が、平知盛や山県昌景を上回るほどの強さを発揮したということか。「くっ、私の計算が!」とか言っちゃってるのか?
分からない。分からないが、こうなると……。
「確か負けるとか言ってましたわよね?」
「ぐっ」
「得意げに、自信満々に」
「ぐぐっ!」
「おーほっほ! 所詮はやはりその程度だったということですわね!」
「お前だって負けると思って茫然自失してたくせに!」
「それはあなたがそんなことを言うからでしょう! あーあ、騙されましたわ! こんな性質の悪いデマを流すなんて、さすがはグーシィンの人間ですわね!」
「家は関係ないだろ!」
何やってんだ、まったく。
一応、イース軍のトップとしている2人が、こんなことで言いあいをするなんて。
けどここで負けられない。
このまま引き下がれば、カタリアは一生、このネタでいじり続けるに違いない。なんとか戦況を打開しないと!
だが、それ以上にどうしようもない戦況になっていたことに、この時の僕は気付かなかった。
「二人とも、御霊の交差はいい加減にするんだ。このままだとおいて行かれる」
琴さんに言われ、気づく。
レイク将軍との間がすでに十数メートルできてしまっていた。
そんな馬鹿な。言い合いをしていたけど、僕らは同じペースで馬を走らせていた。それは間違いない。
なのに、この差はなんだ?
いや、もしそれが味方の速度が上がっているというなら。
それが敵の追撃に躍起になっているならいい。後ろから討つ敵はたやすい。このまま敵を国境まで追い返すことができるからだ。
だがもし。
この速度が意図的につくられたものだとしたら。
ひたすら追い討ちをする前衛と、ただ勝利に乗って走る中軍。そして訳も分からずひたすら走らされる後軍。
前にも言ったとおり、軍というのはまとまっていてこそ強い。
それぞれがてんでバラバラの動きをすれば、それだけつけ入る隙があるということで、その時点の軍はひとえに弱い。
その時には理解した。
この戦い。主導権を握っているのは、優勢な僕らではない。間違いなく敵側――平知盛の手のひらのうち。
だとすると次に来るのは……。
「カタリア、ここは任せる! 兵をまとめてレイク将軍の元へ!」
「イリス!?」
「伏兵が来る! すぐにレイク将軍と――」
だが遅かった。
前方から地の底から発せられる重苦しい波動――後から思い出せば、ほら貝だった気がする――と、それに呼応するように左右から『じゃーんじゃーん』と鉦を鳴らす音が響く。
見れば左手は例の僕が登った丘の部分、そして右手は兵が隠れられるくらいの小さな林。そこから敵兵が飛び出てきたのだ。
やられた。
きっと前方では、逃げていた敵が反転していることだろう。
急に敵の攻撃を3方向から受けることになるウェルズ軍は一転、苦境に陥るに違いない。
それこそ怒声と悲鳴が混じる阿鼻叫喚の地獄。それが今、始まった。