第143話 懸念と疑念
「注進、注進っすーーーー!」
その時だ。
テントの外で聞き覚えのある声が騒いでいるのが聞こえてきた。
あれ、この声は……。
「あ、すみません。失礼します。ああ、いりす殿。怪我をされたと聞いて跳んで戻ってまいりましたよ、あなたの小太郎です」
レイク将軍の脇から、テントの入り口を開けて顔を出したのは、重苦しい雰囲気を一気に粉砕する、チャラけた感じの風魔小太郎だった。
「小太郎、どこ行ってたんだよ」
「おお、これは泣いていい奴です? いりす殿に命じられて敵陣を探っていたというのに」
あれ、そうだった。
そういえばウェルズの国都を出るときに、先行して出てもらったんだ。
「……もしかして、自分忘れ去られてました?」
「い、いや! そんなことない! ちょうど小太郎のこと思い出してたところだから! 帰りが遅いなぁって思ってたところだから!」
慌ててフォローするも、逆に忘れてましたとアピールしているみたいだ。
「イリス、あなた人の心がないんですの? 命じておいて忘れ去るとか」
「ふっ、暗黒に魅入られしいりすは、放置遊戯も好きということか。この中沢琴、いつでもその恥辱にも受けてたとうじゃないか」
「あ、やっぱそういう系すか、まさかとは思ってたっすけど……ちょっと悲しいです」
「いや、そうじゃないから! 本当に!」
なんか僕の評価が違う方向に行ってしまいそうだ。
「そ、それで! 小太郎、何か掴んできたのか?」
「あー、それなんすけど……ちょっと休ませてもらっていいすか?」
「え?」
よく見れば、小太郎は少し息が荒く、額にはびっしり汗をかいている。
一体何が、と思った次の瞬間、ふらりとテントの中に入って来た小太郎の体がゆらめいて、そしてそのままこちらに倒れ込んできた。
先ほども言った通り、このテントはとても狭い。
だからちょうど僕の方に倒れてきたわけで、小太郎の体を受け止める形になった。その際に左腕が痛んだけど、ぐっと我慢。
なにせ、それ以上に衝撃的な光景が飛び込んできたのだから。
「小太郎、この傷……!」
「へへ、どじっちまいました」
苦し気に小太郎がつぶやく。
うつぶせに倒れる小太郎。その背中が、ばっくりと斬り裂かれていた。
「衛生兵! すぐに治療を!」
「消毒のためにお湯を沸かしなさい! それから清潔なタオル! あるだけ持ってきて!」
「ボクは外に出よう。医療の心得はないから邪魔だろう」
狭いテントの中がにわかに騒がしくなった。
3人が外に出て行き、僕は小太郎をゆっくりとうつぶせに横になるようにして、自分はその場からどく。
さすがに僕の方が軽傷だから、いつまでもこの場を占拠しているわけにはいかない。
「いりす、殿」
「喋るな、小太郎。くそ、なんでこんな……」
「いやぁ……参り、ました。敵陣を探ってたら、いきなり女の子に声、かけられましてね……」
「望月千代女か」
「あぁ、どこかで見たことがあると、思ったんすよ。思わず、声、かけちゃって。どこから来たの? ちょっと僕とおしゃべりしないって。そうしたら、斬りつけられて」
小太郎、なに戦場でナンパしてんだよ。こいつ、やっぱりいい加減じゃないか?
「あ、いや。やっぱり、現地の、女の子と、仲良くするのは……諜報の常道ですから。やましい気持ちは……」
「あったんだろう?」
「……まぁ、ないとは、言い切れなくも、ないような……」
「もういいからさっさと倒れてろ」
頭を軽く叩いて小太郎を黙らせる。
「あぁ! イリス! なに怪我人に暴力振るってるの! この暴力男女! どきなさい!」
カタリアがお湯の入ったボウルを持ってきた。さらにハサミやら糸にナイフといったものもあるから、ここでこいつが処置するつもりだろう。
確かに僕も医術の心得はないから、琴さんと同様に外に出て行くべきだろう。
だが、
「いや、これは、いりす殿に伝えないと」
小太郎が、無理に声を荒げる。
「喋らないで! 血が……」
「いや、これは……いりす殿」
今にも起き上がってきそうな小太郎。
それ以上無理はさせられないと、僕は狭いテントの中を移動して、小太郎の口元に耳を傾ける。
「敵は、撤退します」
「な!?」
その報告に、その場にいたカタリアとと共に言葉を失った。
敵が撤退?
なんで?
「それは、分かりません。ただ、敵の一部が、西に向かい……本陣もなにやら、慌ただしい感じです」
「それは、本当?」
「風魔に誓って」
そうはっきりと頷く小太郎。
だが妙だ。なぜここで
「いりす殿の懸念は分かるっすよ……。偽装……疑ってるっすよね」
「そういうわけじゃ……いや、あるかな」
それはつまり小太郎の言っていることが嘘じゃないかと言っているのに等しい。
彼の努力と、これまでの関係疑っているのと同じだ。
『フウマコタローヲシンジルナ』
それはこの言葉を思い出したからかもしれない。
あのザウス国との戦いの後、帰国した僕を襲った謎の襲撃者の放った言葉。
それが心にしこりとなって、何かを訴えかけてくる。
「正直、それ以上は分からねっす……。本国で何か起きたとか、総大将が急病とか……。実は調べようとした時……巫女姿が現れて、調べられなかったんす」
なるほど。撤退を気取られないよう、偵察隊を狩る人物がいる。それが望月千代女ってことか。
だから筋は通っている。疑う余地は、ない、か。
違うな。疑う余地がないのではなく、疑いたくないんだろう。
出会いからなんとなく距離の近さを感じ、ザウス国との戦いでは機転に助けられ、お屋形様と呼ばれたことはちょっと嬉しさもあり、さながら忠犬のごとく働いてくれた。
そんな彼を疑うようなことはしたくない。それが僕の甘さだろうと、偽りのない真実だ。
「いや、よく生き延びてくれた。さすが風魔だね」
「本当生きた心地がしなかったですよー。なんなんすか、アレは。大小さまざまな巫女が襲って来て、それはまた極楽でしたけど……いててて!」
「はいはい、いつまでもうるさいの? 怪我人は大人しくしなさい。それとイリス、関係ないなら出てってくださる?」
カタリアが小太郎の傷口を強引にお湯で消毒した。死ぬぞ?
それと小太郎の俗物すぎる発言は聞かなかったことにしよう。
小太郎の悲鳴が続くのはとりあえず無視してテントを出る。すぐそこにはレイク将軍がいた。
「レイク将軍」
「はい、すぐに真偽を確かめます」
聞いていたのか。そりゃそうか。まぁ説明する暇がはぶけて助かる。
ともあれ、敵が撤退するならこれ以上ない好機。
あるいはこちらを嵌めるための罠か。
分からない。
本来なら相手が動いた時には、よほどの勝機がない限りは動かない方がいいに決まってる。なにせ今回は国土防衛戦の意味がある。しかも不意を突かれた形で防衛の準備もできていない。
相手が勝手に帰ってくれるなら万々歳だ。
けど、やっぱり気にはなる。
総大将の急病は仕方ないにせよ、本国が危険なんてこと、あの平知盛がやらかすか? 無二の決戦を挑んできたわけでもないのに。
本当にそうだとしたらあまりにお粗末すぎる。
歴史上の英雄とはいえ人間だ。あまりに呆気ないポカをすることもあるだろう。
けどこれはあまりにも……。
懸念が雑念を呼び、想念が邪念となって疑念を巻き起こす。
あるいはこの情報を聞かなければよかったとも思う。それすらも相手の罠か?
分からない。
分からないことが、ここまで苛立たしいことなのかと非常に腹立たしい。
軍師のスキルがあるからといって、あまりに情報が断片的すぎて結論を出せない状況のようだし、結局何かが分かっても決定権は僕にはないのも悔しい限り。
「…………はぁ。辛いな」
晴れ渡る陽気と兵たちの活気に反し、心の中は暗雲たちこめるすっきりしない空気が立ち込めていた。