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挿話12 望月千代女(デュエン国間諜総括)

 遠く記憶にあるのは荒れ果てた土地と、黒く立ち上る煙、そして人々の悲鳴。


 それをこの世の地獄というのなら、この世はなべて地獄ということか。

 まだ幼子おさなごだったにもかかわらず、そんな風に世界を、現実を、自分を諦めてしまっていた私は、今から思えばひねた餓鬼だったのだろう。


 けどそれも仕方ないのではないか。

 祖父母は病で死に、父が殺され、母は連れ去られ、残った幼い姉弟の2人でどうやって生きて行けばいいのか。

 そして日に日に激化する他国との争い。


 そんな世の中に救いもなければ希望もない。

 だからこのままただただ朽ちるように死んでいく。それだけの人生に意味はなく、そう達観したように考えても仕方ないのではないか。


 唯一の気がかりは幼い弟のこと。

 自分が死ねば、この無垢むくにて無力なる存在は1日も経たずに御仏の元へ送られてしまうだろう。


 だからあるいは。

 自分が死ぬ前に、この子を先に送ってしまった方が良いのではないか。


 そう考えるのも自然の結末だろう。


 だからその日。

 弟を手にかけ、自らもいずこかへ身を投げようと決意したその日。


 最期のご馳走と、これまで残しておいた腐りかけの獣肉の燻製くんせいに、山で採った木の実らを弟に食べさせていると、


「これ、ねぇねぇにあげるから、げんきだして」


 不意にそう言われ、涙が出た。

 弟が差し出したのは、一凛の花。蜜が溜まっていて吸うと甘いというのを覚えてからは、それを探して舐めているのをたまに見かけていた。

 それほどの好物を私に差し出す。その弟の優しさが、胸をえぐった。


 これから私はお前を殺そうというのに。

 それを知ってか知らずか――いや、知らないだろう。なのにこうして無垢むくに笑って見せる。


 決意が揺らいだ。

 それでも、これ以上こんな地獄にいるよりは。父や祖父母、あるいは母もいるだろう浄土に行った方が弟も幸せだろう。


 そう思いなおし、食事を終えた私は弟を連れて丘を登った。

 これまで10年も生きていないけど、育った場所が見渡せる丘。そこを最期の場所にと思ったからだ。


 丘から見渡す景色は見事なものだ。

 山に囲まれ、平地は少ないものの、それが逆にこういった景観を際立たせる。

 その光景を前に、弟は無邪気にも走り回っている。


 今から、私はお前を殺そうと言うのに。なぜそう無邪気になれる。どうして。なんで。分かってくれないの。


 あわよくば湧き出しそうになる、弟への憤懣ふんまんを頭を振って打ち消す。

 そして隠していた小さな刃物を取り出し、弟の背後に立った時だ。


「やめなさい。弟を思う涙を持つのなら、それだけは決してしてはならん」


 声に振り返れば、そこには藍色の袈裟を来たお坊さんがいた。いや、頭は剃っていないからお坊さんというのは間違いだろうけど、どうでもいい。

 誰かは分からなかった。

 ここらでは見たことのない男。年齢は20代、いや30代か。涼やかな目元に口ひげを生やしたお坊さんは、ふわりという表現がぴったりな様子でこちらを見て笑みを見せていた。


 ただその瞳の中は、どこか決意を込めたように鈍い光を放っているように見えて、少し怖かった。


「……誰?」


「おっと、すまないね。警戒させてしまったかな。いや、怪しい者じゃないよ?」


 わざとらしく大きく手を広げて肩をすくめて見せるお坊さん。

 警戒するしかない。大人からしたら、こんな幼児2人なんて格好の獲物。捕まえて売り払うには手ごろなのだ。


 そこまで考えて、内心苦笑する。私は今日、死のうと思ってたのに、なんで未来の心配をすることがあるのか、と。


「そんな身構えないでもいいさ。これでも甲斐の……あー、いや、うん。名僧。名僧だから」


「変な人」


「そうかな? これでも自分は至極真っ当な常識人だと思っていたけど。特に親父よりは」


「自分で自分を名僧って言うの」


「あ、そっち」


 一本取られたね、とからから笑うお坊さん。いつの間にか体の力が抜けていた。

 あるいは、こんな人に最期を看取ってくれるのならいいかもと思ったからかもしれない。


「あの、会っていきなりすみませんが、お願いがあります」


「うん、なんだろうか。なんでも言ってくれて構わないよ。あぁ、ただし――君と弟くんの命を保証した上でならだけど」


「っ、なんで……」


 なんでわかったのだろう。私がこれから死ぬつもりだと。


「この国はね……本当に、もう。なんというか酷いもので、作物は育ちづらいわ、隣国から略奪に来るわ、洪水は起こるわ、戦いが起きるわでね。いや、これも全部クソ親父のせいなんだけど……こほん。ま、とにかく明日も知れないってところで希望を失いかけてる人っていうのが多いんだ。それを俺はずっと見てきた。君は、そんな彼らと同じ瞳をしている」


「瞳……」


「そ。だけど君の弟くんはそうじゃない。辛いけど、まだこの世が素敵なものだと信じている」


「そんなの。まだ弟は幼いから」


「うん。だけど幼いからといって、彼の希望も聞かずにその未来を摘み取ってはいけないよ」


「……あんたに何が!」


 不意にどうしようもない怒りが湧いてきた。

 どの口がそれを言うのか。この坊さん、体躯も立派で、肌の艶もよい。袈裟もよく見れば虫食いもつぎはぎもない完全な新品。どこぞの名刹めいさつの裕福な弟子に決まっている。

 その日その日を生き抜くために必死に山を駆けまわり、川に潜り、山賊や盗賊を避けて生きていく私たちの辛さなんて知ったことじゃない。


「うん、わからない。君たちがどうやって生きて来たのか。どれだけ辛い思いをしてきたのか。それは正直、申し訳ないと思っている。俺の力不足のせいで」


「救えると思ってるの。ただ、毎日祈って、食事を食べてるだけのあんたなんかに」


「そうだね。それは否定しないよ。それでも、分かってることは1つある。自分から命を絶つのは絶対にダメだ。どんなに苦しくても、生きて、生きて、生き抜いていかないと。そして、年端も行かない弟を手にかけるなんて、それも絶対に」


「だから、それを、あんたが!」


「希望だからだよ」


「え……」


「君が、弟くんの希望だからだよ。それは分かる。というか先ほど、見かけたんだ。本当に、楽しそうに食事をする弟くんを。君に喜んでもらいたいと、花びらを渡した弟くんを。そんな弟くんを、裏切るようなことは絶対ダメだ。だから俺は言う。君と弟くん、2人の命を保証するならばお願いを聞こう」


「…………なん、なの」


「だから言っただろう、名僧だって」


 私が希望?

 この子の?

 意味が分からない。いや、分かっているのかもしれない。けどそれを認めてしまったら、頷いてしまったら。私はいったいなんのためにここまで生きて、ここで死のうとしたのか。


 分からないじゃないか。


 つと、涙が頬を伝った。

 嬉しいからか、悲しいからか。その原因は分からない。

 けど、何かが変わった。私の中で。それははっきりとした。


「どうだ、俺と一緒に――」


「こら! ねぇちゃんをいじめるな!」


 その時だ。弟の声が大きく響き渡ったのは。

 私の前に、手を広げて立った弟は、お坊さんに対して噛みつきそうなほど大きく口を開けて吼える。


「ねぇちゃんを泣かせたな!」


「ふふふ、勇敢な武士がいるじゃないか」


 それをお坊さんは、まるで我が子でも見るかのように微笑む。


 と、そこへ影が舞い降りた。

 白の小袖と赤い袴の若い女が、お坊さんを守るように身を盾に前に出る。


「お屋形様! こちらに! このガキ、何を!」


「いい。よせ。この立派な武士に失礼だぞ」


「はっ!」


 不意にお坊さんの声色が、威厳高く厳しいものへと変化したのに気づいた。


 この人は一体何者なのか。

 先ほどから混乱している私の頭では何もわからず、ただそのお坊さんが弟に近づいて腰をかがめるのを茫然と眺めているしかできなかった。


「よぅ、弟くん。君のお姉ちゃんとは少し話をしていただけなんだよ」


「ほんとう?」


「ああ、本当だとも。俺は女を泣かせるのは嫌いでね。いや、違う意味なら泣かせるのは大好物、もとい大得意だが……いや、言っても分からんな」


「よくわかんない」


「うん、わからなくていい。君にはまだ早い。ところでどうだい? お姉ちゃんを守るために、うちで働かないか?」


「いく!」


「おお、いい返事だ。はっは! 信繁のぶしげみたいな、聞き分けのいい元気なやつだ」


「お屋形様、いい加減になさいませ。これ以上、お館に人を増やしては成り立ちません」


「いいだろ。彼らが甲斐を守り、発展させる力になってくれるんだ。人は石垣だよ」


「……はぁ」


 自分が混乱している間に、何やら話は終わっていたらしい。

 よく分からず奉公が決まったらしい弟に、それを満足そうに眺めるお坊さん。女の人は深くため息をついている。


「というわけで君の弟くんは俺ん家で預かることになったけど。君はどうする?」


「あなたは……一体」


「あ、そっか。そういえば名乗ってなかったな。俺は武田晴信たけだはるのぶ。えっと、甲斐の守護やってる」


 それが私とお屋形様の出会いだった。

 あまり綺麗な出会いじゃなかったけど、今でも鮮明に覚えている。


 お屋形様。

 私の命を救い、生きる意味を与えてくれたお方。


『姉ちゃん。お屋形様は天下を狙える人だよ。だから、いつまでも仕えたい。俺は、あの人に救われたんだから』


 弟は、4回目の川中島の戦いで、典厩てんきゅう様(武田信玄の弟)とともに討ち死にしてしまったが。それでも最期まで、お屋形様のことを思って散っていったのだろう。

 そしてそれは私も同じだった。


 武田家の諜報機関、“歩き巫女”に自ら志願し、そして先代の望月千代女を受け継ぎ千代女となった。

 それもすべて、私と弟を救ってくれたお屋形様に恩返しするためだ。


 それはこのヘンテコな世界に来ても同じ。

 山県の三郎ちゃんがここにいるなら、あるいはお屋形様もいるかもしれない。いや、あるいは他の国にいて、すでに天下へとまい進しているのかもしれない。

 それを知るために、私はこうして“でゆえん国”のために働いている。


 お屋形様を探し、お迎えする。その時のために。


 そして、あるいは。

 源平合戦の人物である平知盛たいらのとももりが存在することで、あるいはと思ったことがある。

 平知盛など数百年前の故人だ。だがそれがいる。ということはこの世界に死者が現れることもあるのでは。

 私の弟が、この世界に、あの元気な姿で現れるのでは。そう期待してやまない。


 だから“でゆえん国”に仇なすものは排除する。

 非常に不本意で歯がゆく苛立ちが抑えられないけど、知盛と一緒にいるのはそのためだ。あんなやつ、お屋形様がいれば一瞬で兵卒に落としてやる。

 たとえ源平の英雄だろうと、嫌いものは嫌い。それが私の生き方だ。


 今、“うぇるず国”に“いいす国”からの使者が向かっている。

 それによって2国の同盟が強くなれば、いずれ“でゆえん国”の脅威となる。知盛が言ってたのが気に食わないけど、それは十分にうなずけるものだ。

 だからここで、その繋がりを断ち切る。


「さて、皆さん準備はいい?」


 振り返り、聞く。

 そこには頭も顔も悪い男たちがずらっと勢ぞろいしていた。彼らは服装もばらばら、武器もばらばら。だがその中で1つだけ共通のものがある。それは圧倒的な品のなさ。

 誰もが醜悪な顔をして、髪はぼさぼさ、髭は伸び放題、肌にはあかがたまって臭ってくる。中には裸の男も相当いて、今すぐ殴り飛ばしたくなる。


 だがぐっと我慢。

 これがあの使者たちを滅ぼす力となるのだから。


「ああ、たかが30くらいだろ。俺たちは200だぜ。それで成功報酬は100万と、略奪したものは全部もらえるんだよな?」


「それで構わない。こちらとしては物資に興味はない」


「へへ、欲がないねぇ。ま、こっちとしてはありがてぇけどよ。いいかてめぇら! 獲物は分取り放題だ!」


 ふん、まぁせいぜい派手に暴れて派手に死ねばいい。

 こんな教養も覚悟もなく美しくもない下品な連中。お屋形様の軍に入れることすら許されない。


 どうせ後でここに呼んだ“うぇるず国”の正規軍に討ち滅ぼされる未来なのだ。今のうちにいい夢を見させておこう。


 まず勝ちて、のちに戦いを求めよ。

 お屋形様の好んだ孫子そんしの兵略。さほど学のない私でも、それくらいは分かるようになっていた。


 すでに勝ちは決まった状態。

 さて、“いいす国”の哀れな使者――いや、死者のために。私が1つ舞でもたてまつろうか。

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