第97話 勃発
屋根の上を走り、飛び、登る。
そんなことはもとの世界ではありえないことで、このイリスの身体能力も手伝って爽快だった。
そういえば競技として、そんなのが紹介されていたのを見たな。
えっとパン、マル、パク…………そうだ、パルクールだ。
引きこもりで運動嫌いで体力何て全くない僕としては、思い切り体を動かして飛び回るのが、こうも気分がいいものかと感激したくなる。
「しゃらぁ! 落ちろ!」「あんたが落ちな!」「っざけんなっての!」「ぎゃああああ!」
この周囲を包む、阿鼻叫喚さえなければ。
屋根の上で走りながらも相手を妨害する面々。
妨害といっても、それは今や殴る蹴るという直接的な暴力はないが、引っ張り、組み合い、投げ飛ばすという柔道の見本市みたいになっていた。
一応、僕にもつかみかかってくる連中はいたけど、軽くあしらっておいた。
落下地点には丈夫そうなマットが敷かれているため、落ちても怪我はしないだろう。
コースとしてはそろそろ市街地に入り、残り半分くらいといったところ。
そろそろカタリアを追い抜いておきたいところだけど、当の本人が、
「ふっ、ふふっ! この……わたくしに、ここまで、ついてこれるとは……こふっ、やりますわね!」
「いや、めっちゃ息切れてるけど」
「な、なにを……わたくしは……まだ、30%しか、出して……いませんわ!」
なんつーか。子供か。
僕の体力的には、ここで追い抜きさってしまっても問題ないわけなんだけど、ここまで真剣で本気で頑張っている彼女を見捨てていくのも忍びない。
一応、トップ集団にいるから、最後まで付き合って、ラストスパートしよう。
「なんか、変なこと、考えてません?」
「いーえー別に」
やれやれ、なんだかんだ甘いなぁ僕も。丸くなったか。
こんなの昔なら即カットで終わりなのに。
「ふ、ふふ。あなた、顔色が悪くてよ?」
いや、今にも吐きそうな顔してるのはどっちだよ。強がりもここまで来れば見事の一言。
「はいはい。顔色悪いから。てか足元みないと怪我するぞ」
「ふっ、余裕をかまして……圧倒的に、勝利する。それがインジュインですわ」
それで負けたら超恥ずかしいの知ってるんだろうか。
もうあまりしゃべらない方がいいかも。
なんてことを思っていると、
「いいこと、わたくしはあなたを――きゃ!?」
カタリアの体が倒れた。屋根のへりにつまづいたのだ。
普段ならどうということのないこと。だが場所が悪い。屋根のへりということは、それは家屋の壁ぎわということで、そのまま倒れれば頭から地面に落ちる。
カタリアの体が視界から消えた――瞬間に手が伸びていた。
ぐっ、っと手に重さが加わる。なんとか落ちきる前に彼女の右手を空中キャッチできたようだ。あー、あぶな。
「ったく、言わんこっちゃない!」
「は、放しなさい! あなたなんかに助けられたとあっては、末代までの恥辱! ゴールで待つお父様に顔向けできませんわ!」
「はいはい。分かったから暴れないでよ。今引き上げるから」
「くきぃぃぃ! その見下した視線! 万死に値しますわ! 放しなさい! 放せ! はーなーせーーーー!!」
なんか最後は駄々っ子みたいになってしまっていた。可愛かった。
暴れるカタリアとそれを引き上げる僕というドタバタを繰り返して、ようやくカタリアを引き上げた時には、すでに先頭ははるか向こうに。
この遅れはちょっとまずいな。
「なんで……」
屋根の上に座り込んだカタリアがつぶやく。
「え?」
「なんで、わたくしを助けたのです? わたくしなんて、放っておけばよかったのに」
なんかいきなりしおらしくなってしまった。
まぁ、なんでって言われてもな。
「別に、助けられたから」
「なんなの! わたくしは気まぐれで助けられたということですの!?」
まぁそう、というか咄嗟に手が出てたんだよな。
けどそれをそのまま言うのも気恥ずかしい。
「別に理由なんていらないだろ。友達が危ない目にあって、手を伸ばしたら届いちゃって。それだから助けた。それだけだよ」
うぅ、なんかこっちの理由も恥ずかしいな。
「とも、だち……」
カタリアも呆れたように目をぱちくりさせてるよ。
「とにかく、いいだろ。そんなことより勝負だよ。ここで終わりじゃないだろ。まだまだ、こっから挽回する」
「…………」
数秒の間。カタリアは目を閉じてゆっくり深呼吸する。
そしてすぐに目を開けると、
「ふん! これもいいハンデですわ! ここからの圧倒的な逆転劇、そしてあなたにも圧倒的な差で勝つ! それがインジュインの者としての責務ですわ!」
おお、なんか復活した。
けど、いい。こっちの方が。しっくりくる。
だから――
「いや、勝つのは僕だ。理事長との賭けに負けるわけにはいかないからね」
「その賭け、わたくしが潰してさしあげますわ!」
そんな感じで熱いスポ根みたいな展開に、僕も、少し浮かれていた。
その時だ。
地面――じゃない、建物を揺らす爆音が響いた。
大砲? いや、違う。そういった何かを発射したものじゃなく、本当に何かが爆発したような、そんな衝撃。
「あ、あれ……」
カタリアが指をさす。そちらの方向。
国都の西の端にある屋根の低い地区。そこから火柱が上がった。しかも1か所じゃなく、2つ、3つ……合計5つだ。
何が起きた。
なにか、祭りの催しか。
けどその楽観は即座に消えた。
風に乗って声が聞こえる。
悲鳴だ。
人々の悲鳴。それがあの爆発の下で飛び交っている。
それを聞いた途端、体が熱くなって、居ても立っても居られなくなった。
「ちょっと!」
カタリアが何かを感じたのだろう。制止の声をあげた。
「何かあったんだ。行ってくる」
「行ってくるって……レースは!?」
レース。そうだ。それも大事。勝たなければ、あの図書館も開けられないし、罰ゲームも待っている。
けど――
あの爆発の下で、これまで楽しそうに祭りを楽しんでいた人たちが苦しんでいるのなら。
ラス、トウヨ、カミュ、セイラ、4人とともに回った時のことを思いだす。
そして……初陣で見せつけられたこの世の現実。
あんなことが、ここであっちゃいけない。
だから――
「行くよ」
そう宣言した。
そしてその一歩を踏み出そうとした時、
「待ちなさい!」
カタリアの制止が入った。
何を。今は1分1秒が惜しいというのに。
だが――
「わたくしも行きますわ」
「え?」
「下々の者たちの安心と安全を保障する、それが我々貴族の責務ですわ。あなただけに任せていたら、インジュイン家の顔に泥を塗ることになります!」
そう決意する瞳には、燃える炎と、一筋の怯えが見える。
けど、そのノブレスオブリージュの概念を本気で信じていて、実行しようとする意志。
それが分かりすぎるほどに伝わってきて、なんだか僕は嬉しくなった。
「じゃあ、行こうか」
「ええ、足手まといにならないよう」
どっちが。そう言いたかった僕の口は弓なりになっていた。