第030話 悪寒と噂話
「実験素材の入手に失敗した。それだけを伝えに来たわけではあるまい?」
大きな屋敷の書斎。その中央に置かれた机に向かっている男が、読んでいた書物から、ゆっくりと顔を上げて言った。
後ろへと流された長い白髪と、深く刻まれた皺が、老人の齢に差し掛かっている人物であることを知らせている。だが、しっかりと伸ばされた背筋と、ローブの上からでもわかる筋肉質な体格が、壮年であるかのように錯覚させるのであった。
「父上から言われていた期限までに、間に合いそうになかったから。それだけ伝えに」
デガンは青ざめた表情で、机から数歩離れた場所に立っていた。ぱたりと閉じられた本の音に、デガンは肩を震わせる。
窓のない部屋は薄暗く、魔法による照明だけが、幾重もの影を床や壁に浮かび上がらせている。中央の机に対して放射状に設置された本棚には、びっしりと難解な書物が並べられていた。
椅子に座ったまま、デガンを無表情に見据えているのは、レイロゲート家の当主であり彼の父であるザレデス・レイロゲートだ。
人払いを済ませた書斎には二人以外の人影はない。
「報告であるならば、口のきき方を考えて発言しろと教えたはずだが」
「は、はい。失礼しました、最高顧問。実験素材が期限内に準備できず、成果発表に多少の遅れが発生してしまいます」
直立不動の姿勢で、天井に向かって声高に報告するデガンを見て、ザレデスは「で?」と低い声で聞き返す。
「い、一刻も早く、実験が行えるよう――」
ザレデスは、デガンの言葉を手で制して黙らせる。
「己がしでかした事も、報告できんのか」
とんと机を指で叩き、ザレデスは呟いた。聞き取れなかったデガンは困惑の表情を浮かべている。
「人目の多い場所で騒ぎを起こしたらしいな」
ザレデスの鋭く冷たい視線がデガンを射貫く。
デガンのしでかした一連の内容は、騒動の場に居た警備隊員から既に聞いていた。
「条件に合いそうな子供が、ぶつかってきたので、警備隊に捕えさせれば、いつものように犯罪者として……」
「いつものように?」
デガンの言い訳を、ザレデスが低い声で遮った。だが、デガンは取り繕う様に言葉を続ける。
「前も、借金男が凶器を振り回してたのを、警備隊に押さえさせて上手くいったから、同じように」
「周到な準備と、単なる思い付きでの行動を、同じレベルで語るんじゃない」
ザレデスは眉間の皺を深くする。
「その前の、女の時だって」
「勉強させたつもりだったのだがな」
床に目を落とすデガンを見て、ザレデスはため息とともに言った。
手伝わせるにしても、一から十まで手取り足取り説明しなければならなかったのかと、ザレデスは気が重くなるのを感じた。
だが同時に、学べないのであれば、これ以上関わらせるのは危険だと結論付けてもいた。
「期限も迫っていたので、ちょうどいいかと」
「それで、ゼーブ家の者に『ちょうど』鉢合わせてしまった、とでも言うつもりか?エルダジッタにまで首を突っ込ませるとはな」
淡々とした口調で言われ、デガンは黙るほかなかった。
悔し気な表情を浮かべるだけとなったデガンに、ザレデスはこれ以上なにも言う気が起きなかった。解決策の提示も無ければ、意見を求める殊勝な姿勢も見られないのだから。
「暫くの間、謹慎していろ。下がっていい」
時間の無駄と判断したザレデスは、デガンから視線を外して言い渡した。
踵を返して部屋を出て行こうとするデガンに、ザレデスは思い出したかのように声をかける。
「一つ伝え忘れだ」
ザレデスは、振り向きもせず立ち止まっただけのデガンへ向けて、構わずに続ける。
「ゼーブ家とエルダジッタが、お前の身辺を調べるかもしれん。問題無しと分かるまで勝手な動きはするな、という理由での謹慎だと肝に銘じておけ。以上だ、行っていい」
言われたデガンは、何か思うところが有るかのように、握り拳をぶるりと震わせる。しかし、一言も言い返さず、デガンは書斎を後にするのだった。
ザレデスは、椅子に深く座り直すと、右手で顎先の髭を何度か撫でつけた。
「ゼーブ家。当主となったのは十代の小娘であったよな」
すっと目を細めたザレデスは小声で呟く。
(実験の条件にも、かろうじて合致するか。死亡させた場合、少々面倒となれども、事故や急な病として片づけることも不可能ではない。研究に使用した後、魔力適性があるだけに、生存する公算は高い。なれば、脳を開いた際に、思考を誘導する認識改変の術式を埋め込んでおけば、私の有用な手駒となるな)
では、とザレデスは具体の策を考え始める。
(我々を調べているのならば、おびき出す餌は、レイロゲート家の情報とでもすれば良いだろう。デガンに付き従っている下位貴族を、此度の件を理由に破門として、話を持ち掛けさせればよかろうか。北東の街セルカに呼び寄せれば、エルダジッタの目も届くまい。愚かであろうとも『嫡男』を持っているのだ、婚姻によってゼーブ家を手に入れることも視野に入れておくべきだな。もし、嗅ぎ回っていないのであれば、無理に手を出すといったリスクを負う必要はないだろうがな)
それからしばらく、ザレデスは書斎で事の詳細を詰めて行く。表情一つ動かす事も無く、ただ淡々と思考を働かせる様は、おおよそ悪巧みをしている者のそれではなかった。
***
ミシルパは、背筋にぞわりとするものを感じて、肩をすぼめて身震いをした。
「どうしたのですか?」
様子に気付いたシャポーが首をかしげた。
二人は、シャポー研究室の丸机に座っている。シャポーは研究データに基づく術式の検証を進めており、ミシルパは魔導研究院地下にある書庫から持ち出してきた魔導書を片手に、紅茶を傾けながら目を通しているところであった。
研究員のウォーペアッザは、二人から離れた場所で、特殊なガラスで作られた術式の保持管を用いて、魔導術式の試行を重ねてデータを集めていた。
「少しばかり背中が、ぞくりとしましたの」
ミシルパは両肩をぎゅっと寄せて見せた。
「夕方になってくると、冷えるようになってきましたので、そのせいかもなのですね」
窓の外は、ちょうど日が落ちた頃であり、冬季に入ろうかというクレタスの風も冷気を帯び始めている。
「室内でしてよ?環境調整も働いているのですから、外気温の変化は、あまり関係無いと思いますわ」
「そう言われれば、そうなのです。シャポーも快適に感じてますので、環境系術式に不具合があるとは考えづらいのでしたね。師匠の所では『自然の変化を感じるのが肝要』と言われてですね、環境調整も最低限しか行っていなかったのですよ」
シャポーは懐かしむような表情を浮かべた。
クレタスにおいて、住環境を快適にするための術式は、一般家庭にも普及しているインフラの一部となっている。
技研国と呼ばれるカルバリでは、他国よりも優れた環境調整の術式が、建築魔法に組み込まれているのが通常となって久しい。
ましてや、魔導技術の最高峰と呼び声の高い魔導研究院で、室内環境を維持する機能が不具合を起こすなど、よほどのことが無い限りあり得ないといえよう。
「大魔導師ラーネの教えなのでしたら、深い意味があるのですわね」
「いえ、後から分かったことなのですけれども、あれはエネルギー結晶の消費を抑えるためだったのです。師匠は、誰にも負けない程、とーっても面倒臭がりさんでしたので」
「エネルギー結晶を交換するだけですわよね?」
「交換も面倒、エネルギー結晶を買いに行くのも面倒、結晶を作るのも面倒、労力は研究だけに注ぎたい、そういう人なのです。自分で言っていたので、間違いないのですよ。ですので、シャポーが、通常のエネルギー結晶の三倍くらい長持ちする物を、練習で作っていたのです」
神妙な顔で言ったシャポーの言葉の最後を聞いて、ミシルパは「へ?」と目を丸くした。
「三倍ですの?」
「ですです」
「どうやりましたの?」
「がんばったのです」
鼻息も荒く答えるシャポーを見て、ミシルパは(この子、天才肌でしたわね)と額を押さえた。
遠く離れた、さる大魔導師の家で「ふえっくしょーい」と大きなくしゃみが鳴り響いたのだった。
次回投稿は4月21日(日曜日)の夜に予定しています。




