みどりの石
鮮やかな緑色のものが見えた気がして目をやると、年端もいかない少女が道端で遊んでいた。
おや。王は思う。
新緑ではない、草の実でもない、まして農民が輝くボタンなどつけるわけもない。
王の目を釘付けにしたのは、少女が小さな手でころころと遊んでいる握りこぶし大の石だった。
王は馬から降りて、ふたことみこと話しかける。
少女は真っ黒な瞳を見開いて王を見上げていたが、やがて素直にうなずくと、王の手の平に緑色の石をのせた。
──これは。
王は思う。
ガラス玉などではないことは、手に持つ前からわかっていた。
これは、明らかに宝石の原石だ。
なぜ、こんな田舎の少女がこんな石を?
どこで手に入れた?
疑問が次々と沸いてくるが、それよりも、目の前の石に王は釘付けになっていた。
翡翠ではない。透明度がまるで違う。エメラルドでもないことは、傷ひとつない硬質な輝きで明らかだ。
──ではこの石は一体。
王はにわかに高まってくる胸の鼓動と期待を押さえて石を検分していたが、やがて、じっと自分を見つめている少女の視線に気がついた。
「見せてくれてありがとう。本当にきれいな石だね」
そう言って石を返したのだが、少女は王を見つめることをやめない。
はてなと思いながら王が膝を折ってその子と視線を合わせていると、なにを思ったか、少女は王に自分の石を差し出した。
「これ、どうじょ」
「えっ、くれるのかい」
少女がこくりと頷いたので王は狼狽した。
「いや、もらえないよ。これはお嬢さんの大事なものだろう」
そう答えて石を彼女に握らせたのだが、少女の黒目がちの瞳はみるみるうちに涙がたまりだすではないか。
えっ、なぜ、泣く。
王の内心をよそに、少女はぽろぽろと大粒の涙をこぼしたかと思うと、石をぎゅっと握りしめて、くるりと背を向けて駆け出した。
えっ、どうしたどうした。
王はわけがわからなかったが、かといって捨て置くこともできず、馬のたずなを部下のひとりに預けると、少し離れて少女のあとをついていった。
少女の家は少し離れた山の際に寄り添うように建っていた。家の前には小さな畑がある。
オーランガワード王国の民ならば誰でも知っている王家の紋章が縫い取られたマントを見て、少女の親ははじめのうちこそ驚いたものの、王が穏やかに事情を説明するとすぐにほっとした顔になり、農作業をやめて王を家の中へと招き入れた。
「粗末な家でございますが……」
「いや、仕事の邪魔をしたのはこちらの方だ」
狭い家の片隅で、少女は母親のスカートをぎゅっと握って隠れている。
「娘御を泣かせてしまって済まなかった。しかも、私の至らなさゆえに、なぜ娘御が泣いたのか、さっぱりわからないのだ」
「そうでございましたか」
母親が娘に顔を寄せてこしょこしょと話を聞いている。
それからその内容を夫に話して聞かせると、農夫の顔がゆるんだ。
「王様」
「うん」
「どうやらこの子は、王様に自分の持っている一番きれいなものを差し上げたかったようでございます」
思いもよらない言葉に、王の目がまたたく。
「王様に拒まれたので悲しくなり、同時に、自分が失礼なことをしたと思って怖くなったようで」
見ると、少女はまだ母親のスカートにしがみついている。
王はその前にそっとしゃがみ込むと、できるだけ優しい声で言った。
「そのきれいな石はそなたの大切なものだろう」
母親が優しく娘を促そうとするが、娘は顔を出さない。王は続けた。
「とてもいい石だと思うから、ずっと大切に持っていなさい。代わりと言っては何だが……それを見つけたところを私に教えてくれるかな」
少女の肩がぴくんと動き、スカートからおずおずと顔を出す。
そうして、王が怒っていないのを目にすると、小さくこくんと頷いた。
少女が王を案内するかたわら、父親と母親が交互に説明した。
妻は身体が弱く、子供がひとりしかできなかったこと。ここは村の外れで、娘が気軽に遊ぶ相手もいないこと。家の裏手で遊ばせていたら、石と石をぶつけて割る遊びを覚えたため、それならと小さな金づちを与えたこと。この緑色の石はその中から出てきたこと。
「同じようなものがいくつもございます」
案内されて王が石を手に取ると、確かにそこには武骨な形の緑色の石がいくつも転がっていた。
割った石の隙間から顔を出している硬質な石は、小粒でも陽光にきらめいている。
──これは、もしや。
王が調べさせたところ、それは、グリーンダイヤの鉱脈だった。
◇◇◇
さて、昔話はこのくらいにして。
私の名前は、ビビ。
年は四十から五十の間と言っておこう。
私はこの街でただひとりの女性の宝石研磨士だが、それよりは、かの有名なグリーンダイヤの産出地で生まれたものとして、狭い業界ではそこそこ名前が知られている。
大陸的にも希少価値の高いグリーンダイヤの鉱脈は思っていたほど大きくなく、わずか数年で採掘が終了した。
だがその質は群を抜いてよかったらしく、今ではあの石はめったに市場に流通しない幻の石として扱われている。
鉱脈を土地ごと買い上げるかわりに、私たち親子は王都に屋敷を一件賜り、死ぬまで安心して暮らせる額の売却料を頂いた。
今までとは比べ物にならない裕福な暮らしができるようになり、その気になれば、私は富裕市民層の社交界に出入りして幸せな結婚をすることもできた。
だが私は石を削る技術を学び、宝石の研磨士になる道を選んだのだ。
『やあ、ごきげんよう』
『きれいな石だね。本当にきれいだ……』
『私にも見せてくれてありがとう、小さなお嬢さん』
あの時の王様の表情が忘れられなかったからだ。
目の前のものに心から魅了されている時、人はああいう顔をする。
当時即位したばかりだった王は、そのダイヤを外交に有利に使ったらしいと後で聞いた。
だけど私にとってそんなことはどうでもいい。
そんなことより大切なのは──。
「ビビねえさん、ちょっといい?」
その時だった。
小さな店の入り口で若い男の声がした。
顔をあげなくても声だけで誰かわかる。砂漠の砦を束ねる三代目の狼、アスランだ。
「紹介したい人がいてさ」
私が下を向いたまま作業を続けていると、アスランはもうひとり誰かを伴って店に入ってきた。
私は少しだけ目線をあげてそちらを見る。
「あのっこんにちは、はじめまして。ヘイゼルです」
肩のあたりに緊張をにじませて、すらりとした若い娘が立っていた。
──ああ、この子か。
私は作業の手を止めて彼女を見つめる。
ヘイゼルと名乗ったその娘は、今や王都で絵姿が売られるほどの有名人だ。処刑されようとした乳母を自ら火刑場に乗り込んで取り戻した話は庶民たちに大人気で、そこらじゅうで語られているから噂話に疎い私でも名前くらいは知っている。
──オーランガワード王国の第五王女。
──生まれてすぐに棄てられたけれど、砂漠の狼と出会って結ばれた姫君。
市井の人々の大好きな、不遇な王女が運命の相手と出会って幸せになる物語だ。
姿絵にはきりりとした美人として描かれていたけれど、こうして見る限り、絵姿よりもあどけない。
愛想笑いをしないところも、私には好印象だった。
私がものも言わずに見つめているので、彼女は緊張しているように見える。
そんな彼女にアスランが言った。
「この人めったに笑わないけど、大丈夫。みんなにだから」
「そうじゃなくて、お仕事のお邪魔をしているんじゃないかって思ってるの」
「平気。この人が仕事してない時なんてないから。ねっ」
アスランは気安く言って目を細める。
「こっちを見てるだけでもご機嫌がいいよ。この人、興味ない相手には目もくれないから」
なにやら好き勝手なことを言ってくれているが、私が見ているのは別のものだった。
アスランが娘を見つめるその表情は、あの時の王様と同じだった。
相手に心底魅了されている時の、密度の高いまっすぐなまなざし。
私がこの世でもっとも好きなものだ。私が石を納品した時、お客がよく見せる表情でもある。
今日はいいものが見れたなと思っていると、アスランがさらに続けた。
「不思議だよね。この人が研磨した石は気高い美人な顔つきをしてる。腕のいい研磨士はもうひとりいて、そっちは高齢の爺さんなんだけど、その偏屈なジジイが磨いた石は、なぜか表情がかわいらしいんだよ」
私の前で他の研磨士を褒めるとはいい度胸だと思ったが、その老人は私の師匠だ。私はアスランをじろりとにらむにとどめておいた。
「だから俺は、何に使うか、誰に渡すかによって仕事を頼む相手を変えてる。ほら、ヘイゼルに渡した紫の王冠があったろう。あれはこの人が作ったものだよ」
「そうだったの……」
彼女はきれいな緑色の瞳を見開いて、まっすぐに私を見る。
おやおやと私は思う。
削った石を称賛されるのは慣れているが、私自身を尊敬のまなざしで見てくれる人は多くない。
なにしろ私は年がら年中工房にこもりっきりで、日焼けなどしようはずもなく生っちろい肌をしているし、指先は商売道具だからまめに油を塗りこむが顔にはまったく構っていないし、髪の毛だって伸ばしっぱなしのざんばらだ。
そんな人間をまっすぐ尊敬のまなざしで見つめるのは、私の知る限りひとりだけだ。
「あんな凄いものをおひとりで……なんて言ったらいいか言葉が見つからないわ」
「あれはね」
しゃがれた声で私が言ったので、アスランが横で驚いた顔をした。
「ひとつの大きな石を冠の形に彫り上げたように見えるだろ」
「はい」
「だけど実のところはそんなわきゃなくて、いくつかのパーツからできてるの」
彼女は目をぱちくりさせる。
「……そうなんですか」
「つなぎ目が見えないようにうまくつなぐのも技のひとつさ。それから、留め金が極力表に見えないようにもしてある」
「今度よく見てみます」
「じっくり見ても多分わからないよ。ところで、あの冠は髪に乗せた時にしっくりきたかい」
彼女はちょっと首をかしげて、きょとんとした表情になった。
それからすぐに、言いにくそうに言葉を続ける。
「その……冠を髪に飾ったのはあれが初めてなんです。だからよくわからなくて」
「そうかい」
「多分、大丈夫だと思うんですけど。私より慣れた女性がやってくれたので」
「ちょっと頭をこっちに貸してごらん」
「はい?」
素直に頭を差し出した彼女に、私は手を伸ばした。
髪質がまっすぐで柔らかい。量は多くなく少なすぎず。いくつも髪飾りを作ってきたので、この髪質に合う形はすぐに察しがついた。
「今度、暇な時にあの冠を持っておいで。もっとしっくりするように調製するから」
「はいっ」
「いいお返事だね。どんな高価なものでも、冠は髪に乗せた時に安定しないと意味がないから」
さあもうお帰りと言ってふたりを店の外に出す。
仕事に再び集中するかしないかで、もうひとりお客が入ってきた。
重々しい足音。
顔を上げなくても、店に漂う気配だけで誰かわかる。心なしか、店の石たちが喜んでいるようだ。
「ビビ、ちょっといいかな」
「陛下」
私は作業場の椅子から立ち上がると、その人の前で膝をつく礼をした。そういうのはいいからと言われることはわかっていても、やらずにいられないのだ。
本来ならば先王陛下と呼ぶべきなのもわかっているが、私にとってはこの人が今でもたったひとりの王様なので、そう呼んでいる。不思議と咎められたこともない。
「今日来たのは、この石を見てもらおうと思ってな」
陛下が差し出したのは、質のいいエメラルドだった。
粒ぞろいで、ふたつある。
私が加工するとしたら、なんだろう。ピアスだろうか。ふたつ並べてブレスレットでも悪くない。
とっさにそんなことを考えた時、陛下がすまなそうに言った。
「この石を加工しようと思うんだが、今回はビビではなく、もうひとりに頼もうと思う」
「──そうですか」
「孫娘に先日初めて会ったのだが、思いのほか愛らしかったので……普段使いにできるようにな」
確かに私がやっているのは、そこそこの身分の方に贈るような正統派で品格高い細工が多く、普段に使うものはあまり作っていない。
だから陛下の選択は正しくて、そんな断りを入れて下さる必要などないはずなのだが。
「それを言うためにわざわざいらして下さったのですか」
「そうだ」
「それはもう、陛下がいいと思われるようになさいませ」
孫娘のことを考えているのか、はにかんだ表情を浮かべる陛下を見ていると、心の中に温かいものが満ちてくる気がした。
ああ、やっぱりこの方が一番だと改めて思う。
なぜ結婚しないのかとか、これまで何度も言われてきたが、私はそんなものに興味はなかった。
だって、恋なら一生分しているから。
ふと私の頭に先ほどのヘイゼル王女の姿が浮かび、偏屈な師匠の性格が浮かんだ。
「あの、陛下」
「うん?」
「私の師匠は多分ピアスにすると思うのですが」
「うん」
「髪留めをご注文されてはいかがですか」
陛下は怪訝な顔になった。
多分このあたりのさじ加減は、男性にはわからないだろう。私は続ける。
「女性の実用品なら髪留めが一番です。そう言うと私の師匠はおそらく、揃いのものをふたつ作ると言うでしょうけど、是非大きめのをひとつとご注文ください」
「ほう」
「上等な飾り石の髪留めを左右につけると、田舎貴族の娘みたいですから」
陛下はそれを聞いて笑い声をあげた。
「本当にいいものは、さりげなく普段使いにするのが上品です」
「なるほど、そうしてみよう」
なんでもかんでもごてごてと身につけるのはセンスの無さを露呈するだけで石がかわいそうだと暗に言う私に、陛下はまだ笑いをおさめきらないままで言った。
「うん、やはり立ち寄ってよかった。ありがとう、ビビ」
「いいえ」
私はまっすぐ陛下を見上げて笑顔を作った。
「お役に立ててようございました」
店を出ていく陛下の背中を、私はずっと見送っていた。
そして今の私はきっと、さっきのアスランと同じ顔をしているに違いなかった。