8月21日は「バニーの日」その2 後編(風雅視点)
店に着いてみて驚いた。
てっきり複合商業施設の一角にそういうコーナーがあるのだと思っていたのだが、ビル一棟まるまるでイベント・コスプレ用品を扱っていたとは。
既成のコスプレ衣装だけでなく、自作するための素材、イベント用の装飾品、式典や催事のための用品やらなにやら、あらゆる行事を網羅したものが細かに取り揃えられている。
非常にざっくりとした、あまり当てにならない店内案内図のパンフレットを手に探して歩くが、三つのフロアが空振りに終わったころ、天音が疲れた様子を見せ始めた。もともと体力がないうえに、久しぶりに人の多い場所に来たせいで酔ったのかもしれない。
「天音、大丈夫かい?」
ちょうどよく近場にあったベンチへと導けば、くずおれるように座り込む。覗き込んでみると、ずいぶんと顔色が悪い。
「少しここで休もう」
そう声をかけると、力なくうなずきを返してくる。もう少し詳細に調べてから来るべきだった。こんなに歩き回らせる羽目になるとは思わず、かわいそうなことをした。
「風雅、ちょっとここで天音と待ってろ。俺が探してくる」
「うん、頼むよ」
足早に歩み去っていく凛人が人ごみにまぎれていくのを見送って、天音の隣へと腰を下ろす。
「ごめんなさい、兄さん。私がほしいって、言ったのに」
「気にしなくていいよ。それより、つらかったら寄りかかっておいで」
寄りかかりやすいようにと肩を差し出すと、素直に頭を預けてくる。よほどくたびれていたのだろう。
歴代の直系の女たちのように体を欠損させられない代わりに、天音には運動制限がされている。長い時間歩き続けることはできず、走ることに至っては十数メートルがせいぜい。全力疾走など、したこともないはずだ。
万が一の逃亡防止のために、あえて余計な体力をつけさせないよう図らわれているが、時々あまりの体力のなさに、近い将来に為さなければならない妊娠出産に耐えられるのかと心配になるほどだ。
「……凛人、嬉しそうだったね」
不意に聞こえた天音のつぶやきに、耳を傾ける。
「写真、見たとき。嬉しそうだった」
「ああ、そうだね」
写真を見ていたときの、凛人のなつかしそうな眼差しを思い出す。
花音の写真はすべて母に処分されたはずだったから、まさか今になって、また見ることができるとは思っていなかったのだろう。記憶の中にしか存在しないと思っていた花音の姿を、ああしてふたたび目にすることができたのは嬉しかったに違いない。
なにか思うところがあるのか、天音の愛らしいくちびるがわずかに開かれては閉じてをくり返す。
「凛人にとって、花音は『永遠』だからね。無理もない」
なんでもないことのようにそう言えば、天音が長いまつ毛を震わせる。うつむく頭を胸もとへと抱き寄せて、すばらしく指通りのいい髪を梳いてやる。
「大丈夫だよ天音。おまえは花音の妹だから、凛人はおまえのことも、ちゃんとだいじにしてくれるだろう?」
あえて『花音の妹』だからなのだと強調すれば、腕の中で天音がちいさく震えた。
凛人がとうに花音から天音に心変わりしていることは知っている。けれどなぜだか、彼は天音に対してだけはそれを認めない。花音への後ろめたさなのか、俺への気兼ねなのか、天音本人に伝えるにはまだ時期尚早だと思っているのかは知らないが、俺にとっては都合のいいことだ。
「おい。こんなとこでなにイチャついてんだ」
降ってきた声に顔を上げれば、いつのまに戻ってきていたのか、すぐ目の前に凛人が立っていた。天音が慌てたように俺から離れて姿勢を正したところへ、手に持っていたオレンジティーのペットボトルを差し出している。
「売り場は見つけた。移動する前に飲んでおけ」
天音が礼を言いながら受け取ると、ほれ、と俺にもウーロン茶のボトルが突き出された。売り場を探している途中で飲料の自動販売機を見かけて、買ってきてくれたらしい。
「きみの分は?」
凛人が持っていたのは天音と俺によこされた二本だけ。凛人の分はなかった。袋もなく持ちきれずに買えなかったのなら、俺のを分けようかと聞けば、不要だと言われる。
「天音はそれ飲みきれないだろ。残ったのをもらう」
三〇〇mlほどの小さめのボトルだが、一度にたくさんの飲食ができない天音には多すぎる量だろう。
「急がなくていいから無理せず飲めるだけ飲め」
凛人にそう言われた天音がうなずき、ゆっくりと飲んでいく。普段はペットボトルから直飲みなんてことはさせないのだが、この場では仕方ない。
案の定、半分も飲まないうちに満足したようで、凛人に渡している。受け取って一口飲んだ凛人が、かすかに顔をしかめてボトルから口を離した。無糖を好む凛人には甘かったのだろう。
気づいた天音が謝りながら引き取ろうとするのを、「いや。間接キスだな、って思っただけだ」と笑って一息に飲み干してしまう。
さっきまで青ざめていた頬を朱に染めてうろたえる天音を、軽く声をたてて笑いながらからかう凛人に、イチャついてるのはどっちなんだか、と毒づきそうになるのをどうにかこらえた。
凛人に先導されて辿り着いた売り場は、二フロア上階にあった。天音を連れ歩いたまま探していたら、見つける前に力尽きた天音を抱えて帰る羽目になっていただろう。
うさぎの耳のついたカチューシャだけでなく、バニースーツ、蝶ネクタイのついたカラー、カフス、しっぽ、網タイツまで揃っている。素材や色の違うものなど、種類も豊富だ。
着用例としてマネキンが着ているバニースーツの、その胸もとやハイレグのきわどさに天音が驚いて目をまばたかせている。
「せっかくだからバニースーツも着てみたい?」
そう提案してみるが、即座に首を横に振られてしまう。スクール水着さえ着たことのない天音には、こんなに肌の露出があるものなどは抵抗感しかないようだ。
聞いていた凛人が、ふっと笑いを漏らす。
「こういうのは凹凸のある体で着てこそだろう。お子さまの平坦な体に巻き付けてどうする」
凛人の物言いに少しばかりの苛立ちを覚える。こんなものを着させる気はもとより無いが、平坦な体とは聞き捨てならない。まだ十五歳で華奢には見えるけれど、天音はすでにそれなりの体つきだというのに。
だが裏を返せば、凛人がそれを知らないということは、体のラインがわかるほどの接触はふたりのあいだにはまだないということか。それはそれで喜ばしいことだ。わざわざ教えてやる必要もない。
天音がほしいのはカチューシャだけだったらしく、悩んだ末にオーソドックスな白くてふわふわとしたものを選んでいた。手にしたのは五つ。……五つ?
天音と俺と凛人と、三つならわかるとして、残り二つは誰の分だろう。
「天音、三つじゃなくて五つなのかい?」
念のために確認してみれば、うなずきを返される。梨実さんあたりにでもつけさせたいのだろうか。
「あのね」
天音に手招かれて身を屈めれば、耳打ちをされる。その内容に思わず笑いが漏れた。
「わかった。いいよ。じゃあ五つ、買って帰ろう」
天音の希望通りの数を購入する。天音にしてはずいぶんと珍しいことを思いつくものだ。
帰宅して俺の部屋に落ち着くと、天音がさっそくとカチューシャをつけて見せてくれる。少し恥ずかしそうにしながらも「どうかな?」と聞いてくる天音の、そのあまりの可愛さに、凛人とふたりして素直に褒めそやせば、はにかみながらも嬉しそうに微笑んでいる。
「兄さんも、つけてみて」
そう言って差し出されるのを受け取らずに、天音の前に腰を落とせば、察したようで俺の頭へとカチューシャをつけ、少し離れて眺めてから、満足げにうなずいている。
鏡に映る自分をちらと見て、やはりなんというか、二十四にもなった男がするのはどうかと思わなくもないが、天音が「似合う、似合う」と喜んでいるので、良しとしよう。
凛人はだいぶためらっていたが、天音が期待をこめて見つめてくるのに、やがて観念したようだった。うさぎの耳を生やしたしかめ面の凛人を見て、笑いそうになるのを懸命にこらえたのに、無言でどつかれた。
あれだけ抵抗を見せていたくせに、天音が「せっかくだから写真を撮りたい」と言うころには凛人もすっかりウサ耳に馴染んだようで、携帯電話のカメラだけでなくデジタルカメラまで持ってきての撮影会になった。
撮った画像は後日凛人がプリントしてくることになり、「絶対に、うっかりとか、間違えたとかで、消したりしないでね?」と天音にくり返し念押しをされるのを、そのつど律儀に応じている。
携帯カメラで三人で揃って撮ったものは待ち受け画面にするようだ。
おとなしく控えめな天音に、こういうことを楽しむ面があるとは知らなかった。性格はまるで違うと思っていたけれど、花音が生きていたなら存外、気の合う仲の良い姉妹になったのかもしれない。
花音が死ななければ、天音が生まれてくることはなかったのだから、ふたりが揃うことなどけっしてありえはしないのだが。
久しぶりに外をたくさん歩いてよほど疲れたのか、天音はずいぶん早めに眠りたがり、それに付き合って凛人も早々に床に就く。必然的に俺も就寝することになった。
ダブルベッドに天音を真ん中に、川の字で横になる。明かりを落とせば、そう経たないうちにふたりのかすかな寝息が聞こえてきた。
この家に来たばかりのころは不眠に悩んでいた天音は、凛人がそばにいると本当によく眠る。凛人の眠りも、ふだんより深いように思う。
今はこの部屋で俺をまじえて三人で一緒に寝ているけれど、いずれ状況は変わるのだろう。これまで通りではいられなくなるのは、もうそう遠い未来ではない。
よく寝入っているふたりを起こさないように、静かにベッドを抜け出る。
写真と、机の引き出しから取り出したそれとを手に、そっと部屋を出て、向かったのは、西の庭の片隅。
花音の死後、このあたりはかなり大幅に改造された。花音が落ちた池は埋め立てられ、その手にあった花をつけていた椿の木はすべて引き抜かれた。
池のほとり、氷の張る水の中から引き上げられた花音が横たえられたのは、このあたりだっただろうか。
持ってきた写真を見やる。灯籠のほのかな明かりに、戻ることのない過去が照らし出されている。取り戻したいとも思わないが。
愛おしかった。大切だった。楽しげにはしゃいで笑うさまも、癇癪を起して怒る姿さえ。どんなわがままだって可愛いものだった。これほどに愛せるものなどほかにないと、そう思っていた。
だがそんな気持ちは、雪のように白く冷たくなった死に顔を見たときに、すべて溶けて消えた。
どれほど嘆き悲しもうとも、戻ることのないもののためになぜ心を痛め続けるのか、わからなかった。もう二度と取り戻しようのないものを、なぜ愛しむのか。どれほど悼み偲ぼうともかえりはしないのに。
いまだに花音を心に留めている凛人のことも理解できない。
なつかしいと思う気持ちはあっても、ただそれだけだ。あのころ花音に抱いていた想いはもうどこにもない。
部屋から持ってきたオイルライターの蓋をはじいて、火をつける。写真をかざせば、すぐに燃え移った。小さな炎が八歳の俺たちを焼いていく。八歳の、花音を。
あらかたが燃えたところで熱を感じて手を放せば、わずかに残っていた部分は地面に落ちる前に燃え尽きる。
細く立ちのぼっていく煙に、なにか言葉をかけようと口を開いたけれど。なにも浮かばないまま、ただ夜の空に消えていくのを見届けた。
あの二つのうさ耳カチューシャを、天音は祖父と門叶に手渡したらしい。ふたりがどんな顔でそれを受け取り、つけてみせたかは、天音だけが知る秘密だ。