8月2日は「バニーの日」その1 前編(梨実視点)
8月2日の「バニーの日」、梨実視点のSSです。
活動報告にて8月3日に載せたものを加筆修正し、28日に再録したものの再再録版。
本編21話から数ヶ月後の未来の話なので若干のネタバレを含みます。
「うーん……、んー……」
季節は夏の盛り。七月も半ばを迎えるその日、私は冷房をガンガンに効かせた居間のソファに寝転んで、悩みに悩んでいた。
「どうしたのよ梨実。って、だらしないわねあなた。ソファは座るものよ?」
居間に入ってくるなり口うるさいことを言う姉を見やれば、その両手には、わざわざ作って持ってきてくれたらしいアイスコーヒーが一つずつ。
慌てて起き上がって姉のために場所をあけながら、差し出されたそれを、礼を言いつつ受け取る。
よっこいしょ、なんて言いながら目立ち始めたおなかに手を添えて隣に座った姉を見て、ふと気になった。
「あれ、お姉ちゃんコーヒー大丈夫なの?」
大きなおなかが示す通り、姉はいま妊娠中だ。妊婦はカフェイン摂取を控えたほうがいいのではなかっただろうか。
「少量なら平気よ。でも念のためこれはノンカフェだけどね」
ストローを回して氷をカラカラ鳴らしながら、姉が言う。その言葉に安心しながら、私もアイスコーヒーに口をつけた。
ほどよい苦味に、頭がすっきりとしてくる。
「それで、なにを唸ってたのよ?」
「うん……あのね」
思えば姉にも少なからずかかわりのあることだ。私は昨日、誠言おじさんに呼ばれて出向いた先で言われた内容について、姉に打ち明けることにした。
天音さんが今年の三月はじめに凛人さんと結婚して、もう四ヶ月になる。
ふつうは結婚して四ヶ月なんて新婚も新婚、まだあと数ヶ月から一年は夫婦ふたりの生活を楽しんでもおかしくない時期だろう。けれども神門の直系の女である天音さんにとって、結婚とはそんな甘やかなものではない。
『相手』を定めて結婚したのならば、一日も早く子を身ごもってもらわなくてはならないのだ。
とくに当主の風雅さんが失踪し、半年が経とうという今になってさえ行方が掴めない状態が続いているなら、なおさらのこと。
結婚して四ヶ月も経ったなら、とっくに妊娠が判明しているだろうと見込まれていた時期のはずだった。現に姉は、天音さんの子の乳母になるべく、彼女の結婚が決まってすぐに備え始めて、見事に妊娠してみせたのだから。
つい先日、天音さんのもとを訪ねた際に妊娠検査薬を使ってもらったけれど、結果は陰性だった。いや、天音さんが言葉を濁しながら言うには、おふたりはそもそも……。
「することしないで、できるわけないわねぇ」
ため息まじりの姉の言葉に、苦笑しつつうなずく。
あんなことがあったのだから、無理もないとは思う。凛人さんだって慎重になっているだろうし、なにより天音さんの体を気遣ってもいるのだろう。
「誠言おじさんには言ってないんだったわね?」
「うん。お姉ちゃんも絶対言わないで。おじさんにも誰にも。お願いだから」
「もちろんわかってるわよ」
天音さんの子の乳母になるには、姉の出産時期はすでにズレてしまったと考えていいだろう。姉の子自体は神門に仕えるために育てられるのだから、無駄になるわけではないけれど。
まぁでも、あれから四ヶ月は経ったわけだし。おふたりにはそろそろきちんとご夫婦になっていただかないといけないわけで。
おふたりが子づくりに励めるようなきっかけを作ってせっつけと、そんな難題を誠言おじさんからはふっかけられてしまったのだ。
「天音さんて、小柄なわりになかなかアレよね」
そうなのだ。もともと素材がよかったのに加え、私の功績も多少はあると思いたいが、華奢に見えて彼女の体つきはなかなかにアレなのだ。
そんな天音さんと結婚して同じ家に四ヶ月も、いやそれ以前を含めれば半年も一緒にいる凛人さんが、いまだに致していないというのがまず信じられない。
同居を始めたその日の夜に、早々に手を出しかけたくせに。
「ちょうど夏なんだし。おふたりに海にでも旅行に行ってもらうのはどう? 日常とは違うシチュエーションで、天音さんの水着姿なんか見ちゃったら、凛人さんもその気になるんじゃないかしら」
天音さんの水着姿をほかの人の目に晒すようなことは、凛人さんがしないだろう。あの人は女を自慢げに連れ歩いて見せびらかすよりは、誰の目にも触れさせずにだいじに大切に仕舞い込むタイプだし。
神門の所有する別荘にプライベートビーチ付きのものがあるにはあるけれど、天音さんはこれまでの境遇もあって外に出たがる人ではない。なにより白く透き通るようなあの柔肌は、夏の日差しなんかに晒したら日焼けを通り越してひどい火傷を起こしてしまいそうだ。
「じゃあ透け透けのベビードールでも着せるとか」
「凛人さんはそういう、あからさまであざといのはちょっと……」
イギリスにいたあいだ、あちらの家訓に従ってそれなりの女性経験を積んだ(積まされた)らしい凛人さんだけど、その反動なのか、閨事に積極的な女性というのをじつはあまり好んでいない。
もちろん天音さんは別格なのだろうけど、そもそも風雅さんによって丹精こめて育て上げられた彼女は、そういう面ではおそろしく奥手でウブなのだ。自ら肌もあらわな格好など、してはくれないだろう。
「手詰まりねぇ……」
「うん……」
ああまったく、どうしたものか。
グラスの底に残った、だいぶ薄まったアイスコーヒーをズゴーッと吸い上げて、ため息をつく。
それにしても。天音さんのことは彼女が中学に上がるよりも前から妻にすると決めていて、大人になるのをひたすら辛抱強く待っていたくせに。
年齢もクリアして、天音さんの合意もあって結婚までしたのに、いまだに致していないとはどういうことなのか。凛人さんも存外、意気地がない。
いや、想いを秘めていた期間があまりにも長すぎたのかもしれないけれど。
姉もいい案が浮かばなくなったのか、手持ち無沙汰にテーブルの上にあった回覧板を眺めはじめた。
「夏祭りにでも参加させて、天音さんに浴衣を着せるとか……、あら」
「ん、どうしたの?」
言葉を切った姉に問いかければ、開かれたままの回覧板がこちらへと差し出される。八月に町内で行なわれるイベントの案内だ。
「今年も『バニーの日』やるのね。しかも二日、二十一日、二十三日と三回も。この町内どんだけうさぎ好きなのよ」
姉がくすくすと笑いながら言う。
去年までは八月二十一日の一回だけだった気がする。開催し始めたころはうさぎ型の風船を配るとか、自治会のおじさまたちがうさぎの全身着ぐるみで芸をするとか、ついでにちょっとした屋台が出されるとか、そんなささやかなイベントだった。
それがいつしか、バニーガールのコスプレをした若い女性の参加者が増えていったから、調子に乗って開催日を増やしたのだろうか。
ちなみに去年を含む過去の数回、私も姉もノリノリでバニーガール姿で参加したクチだ。
「今年もバニガやろうと思ってたけど、お姉ちゃんは無理そうね。残念」
「このおなかじゃあ、さすがにね。まぁでも年齢的にもそろそろどうかなと思い始めてたことだし、これを機に引退かしらねー」
三十路近いとはいえ、姉のプロポーションはなかなかのものだ。バニーの日には姉のバニーガール姿を楽しみにしていた町内の面々も多かっただろうに。姉の魅惑のボディラインに鼻の下を伸ばしてる男どもがどれだけいたことか。
「……あ」
ベビードールほど露骨ではなく、かつ体のラインがはっきりと出る衣装。
「そうよ! いいんじゃない、バニースーツ!」
「え、なに、どうしたのよ?」
「バニースーツよ、お姉ちゃん。バニーガール姿の天音さんとか、どうよ?」
バニーの日にかこつけて、天音さんにバニースーツを着せて。当然その格好で外に連れ出すなんてことはできないけれど、普段は清楚な天音さんのそんな姿は、凛人さんの目にはどう映るだろう。きっとインパクトは絶大に違いない。
「バニーガールねぇ。いいんじゃない? それにほら、うさぎって年中発情期だって聞くし。さりげなくアピールしてるみたいで、ね?」
そういえばうさぎは多産なイメージ。縁起もいいかもしれない。うん、我ながらすごく良いアイデアな気がしてきた。
私はさっそくこの発案を実現すべく、動くことにした。