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息を潜めて、怪しい人物の出方を窺う。
……しかし。
「アンナ。俺だよ俺」
最近、とてもよく聞いていた声が、私の名を呼んだ。
「……セイン?」
呼びかけると、黒ずくめはフードを取った。現れたのは予想どおりの顔だった。
私はほっと息をついて、握りしめていた箒を手放し、玄関へと向かう。扉を開けるとセインは「やあ」と悪びれることなく軽く手を上げた。
私も「こんばんは」と挨拶するものの、ちょっと戸惑ってしまう。何となく、シルヴィアと一緒にいた姿が思い起こされ、胸がざわざわとして落ち着かない。
でも、それは私個人の事情だ。セインには何の責任もない。私は気を取り直して、口を開いた。
「お城の舞踏会はどうしたんですか?」
仮にも騎士なら、何かしら役割があるのではないか。しかしセインは、
「下っ端は暇だからな。抜け出してきた」
と言って、おどけたように軽く肩をすくめた。そして「そんなことより」と続け、
「月がとても綺麗な夜だよ。少しだけ、外に出られないか?」
と私に手を差し出した。
「君の母親の看病は、連れがする。……ダメか?」
尋ねながらも、彼の手はそっと私の手を握る。その肩越しに、セインと同じようなフード姿の人物が、ひっそりと佇んでいるのが見えた。
私の家族の事情に配慮してくれたセインの心遣い。そして、こんな夜に私の元へ来てくれたこと。私の胸に優しい温もりが灯った。
「少しなら」
私はそう答え、しっかりとセインの手を握り返したのだった。
☆
「いい場所があるんだ」
そう言われて案内された先は、公道ではなかった。
その道に踏み込もうとするセインに、私は躊躇の声をかける。
「ここって私有地じゃないですか?」
確か、王族の遠縁の家柄で、長男が最近若くして騎士団長を任じられたとかなんとか、そんな噂を聞く。
しかしセインは笑って答えた。
「今日は特別に開放されているんだ」
今日は舞踏会の日。
王城ですら開放されるのだから、そんなものかもしれない。私は納得して、彼に導かれるまま、歩みを進めた。
程なくして、開けた場所に辿り着く。
「わぁ……」
私は思わず感嘆の声を上げた。
静かな湖畔に、白く美しい鳥が数羽、羽を休めている。柔らかな月の光に照らされた景色はとても穏やかで、心が凪いで行く。
近くにはボート用の小さな船着場もあり、その周辺は少し開けている。湖畔を眺めるためらしき東屋もあった。
絵画のような美しい風景に、私の心が柔らかく溶けて行く。
きっとこういう時は、素直な気持ちを口にして良い時だろう。
「連れてきてくださって、ありがとうございます。とっても綺麗な場所ですね」
するとセインは、すごく優しい瞳で私を見つめてくれた。
「そう思ってくれたなら、俺も、とても嬉しいよ」
彼の顔が近づいてくる。
……そっと私の額に唇を寄せた。
以前に手に口づけをされた時、すごくびっくりしたけれど、今度は驚かなかった。むしろ、そうなるのが当然と思えるほど、自然だったから。
唇が離れると、向かい合った目が合う。少し照れたような表情のセインは、
「踊ろうか」
と、そう言って手を差し出す。私は自分の手を重ねた。
豪華なシャンデリアの代わりに、柔らかな月明かりに照らされて、私たちはくるくると二人で踊る。
綺麗なドレスもガラスの靴もないけれど。
今の私は、お城で王子様と踊っている誰よりも、きっと幸せだ。