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Master Glagueis  作者: 加賀アスナ
7/8

英国人の誇り

 カーディフ郊外に聳えるヴィクトリア霊堂を前にMUO、アルビオンの魔術師が今まさに攻め込む直前で待機していた。援軍と合流し戦力も整っている。作戦開始の号令が掛かるのをすべての魔術師が待っていた。カーディフ攻略においてもウィリアム・ブレイキーが総指揮官を務め今もMUOからの連絡を待っている。

 レムドゥーサ帰還の報は本部も重く受け止めているらしい。中々戦闘開始の号令を送らない。ピヨーテはこれをMUO内部で魔導省側に組する者たちによる妨害だと考えていた。当然ながら各国の組織に使節を送るレムドゥーサがMUOに手を入れないわけはない。魔導省下にいるロビイストを有用に使っていると見える。

 ブレイキーとMUOとの通信は二十分を要したがカーディフ攻略を中止することには至らなかったらしい。連絡を終えたブレイキーは援軍も加えた総勢二百四十三人の混成軍に突撃の号令を下す。

 魔術師達はそれぞれの最強の秘儀を持って魔導要塞へと突撃を掛ける。だがその先頭に立っていたのはアルビオン本部の時と打って変わって豪腕の魔女ことピヨーテ・シャルレスだった。その後をローザス・ブラックが続く。

 ヴィクトリア霊堂には強力な結界が幾重にも張られている。だが魔術師が張る結界と違い魔術陣を用いての結界であることはすぐに看破できた。魔術師の結界は受けた攻撃に応じて魔力を動員し削られた部分を瞬時に修復することでその強固を維持できている。しかし魔術陣の結界は基本的に行使された後の維持魔力を世界魔力を吸収することで賄っている。つまり結界の強度を越える負荷を与えれば魔術陣結界は比較的楽に突破できるのである。単純な魔障壁から結界内にいる者へ無差別に魔力波を照射する攻性結界、また魔術を行使する際に発する魔力に反応して召喚魔――――狼のような獣型、鷲のような鳥形、ムカデのような虫型――――が襲ってくる多様な結界が張られている。それに加え、魔導省魔術師が迎撃に出張っている。数は未知だが相当数になるだろう。

 混成軍が大攻勢を掛け結界を次々に突破し魔導省本部敷地への侵入を達成させる。しかしここから先は四方八方から魔術を放たれ瞬きの時間を要するよりも早く死地へと変わっていた。

 ピヨーテはバーミンガムで生成した新たな魔水を用いて物理的攻撃を全て防ぎ、黒炎にて霊的攻撃を相殺していく。さらにその背後でローザスが魔導服と交戦している。

 ローザスは魔術戦において攻めるよりも守りの方に才能があった。それは学生時代、菫との結界破り勝負の際には既に現れていた。もっとも当時は戦闘魔術に優れていた菫に破られていたのだが今は違う。ピヨーテに挑んだ時には彼女の猛攻を一時的にとはいえ防ぐほどの障壁を展開しているのだ。その力はこの場でもいかんなく発揮されている。

 ローザスの心配をする必要はないだろうと判断したピヨーテは心の内に引っ掛かっていた悪い予感を確かめるために混成軍の誰よりも先にヴィクトリア霊堂に足を踏み入れた。

 正面扉を力任せにこじ開けてエントランスに侵入すると空間、内装、どこかへ通じる扉の数、エントランスに構えている魔術師を把握し菫の捕らえられている牢――――おそらく地下にあるはず――――を目指す。

 ――――――――が。

 悪い予感は当たった。それも良くない形で。エントランスは吹き抜け構造になっており二階のテラスから一階を見下ろせる。

 テラスの手摺部分に器用に腰掛ける美女にピヨーテの視線は釘付けになる。無論、予想していただけに動揺の類は一切なかったが、やはりという気持ちが込み上げる。

「いると思ったのよねぇ。――――――――イングリッド!」

 吼えると同時に魔力波を放出する。それはイングリッドの座っていた金属の手摺を吹き飛ばし局所的な暴風が通り過ぎたようになっていた。それと時を同じくしてエントランス内にいた魔導服達の魔術がピヨーテに放たれる。

 ピヨーテは黒炎を放射し相殺する。残滓魔力が舞い床や壁を抉ったことで漂う土煙が上がる中ピヨーテの視線はイングリッドを捉え、イングリッドもまたピヨーテを見据えている。

 放出していた魔水を体内に戻しピヨーテは床を踏みしめて――――その際に床に亀裂が入るほどの膂力で――――イングリッドに突貫する。対してイングリッドもピヨーテに肉薄していた。数舜後両者の激突によって生じた風圧が衝撃波となりエントランス中に打ち付けられる。元より魔導省が復活するまで放置されていた建物だがさらに酷い様相になる。

 エントランスの中心で衝突した両者の魔術――――ピヨーテは両腕の黒炎を、イングリッドも右腕に視認できるほど濃密な暴風の如く吹き荒れる魔力の奔流を展開し――――その膨大な魔力故に相殺されることなく残滓魔力を撒き散らしながら削り合っている。青紫に輝いて散っていくピヨーテの残滓魔力に対してイングリッドは赤橙の残滓魔力を散らしている。

 二人の衝突にエントランスに待機していた魔導服達は今なお波濤の如く打ち寄せる衝撃波にただただ耐えるのみである。

「いい反応だ。即呪殺とは腕は鈍ってないな……!」

 軽口を叩くイングリッドに買い言葉で返す。

「貴女もね。腐っても英国魔女は伊達じゃないわね!」

 空間が歪むほどの衝突によって圧縮された力が暴発し伸張するまで時間はかからなかった。互いに暴発する前に飛び退き、圧縮されていた空間が元に戻ろうとし轟風の如く再びエントランスを襲う。台風が過ぎ去ったかのような被害をもたらした。しかし二人の魔女は何事もなかったかのように対峙する。

「もしかしたら魔女を引き連れてくるかと期待してたけどどうやら当たってたみたいだな。まあ貴女だとは思ってなかったけどな婆さん。あとなんだ、そのだらしがない身体は。随分と肥えたな、え? ピヨーテ? 糞フランス人(フロッギー)は自称美食家が多いが限度ってもんがあるだろう」

 イングリッドの挑発にピヨーテは溜息を吐く。

「あー、まぁ、その、なんていうのかしらね。貴女の飼い主のレムドゥーサが帰還したっていうからきっと貴女もいるだろうとは思ってたのよね。だから相手をするならわたしになるだろうなぁって考えてたんだけど」

 ピヨーテは目を眇めてイングリッドを見る。

「魔導大戦以来になるけれど相変わらず口が悪いわねぇ、貴女。分かってたことだけれど。まあ婆さんってのもわたしの方が年上だしいいでしょう。肥えてるってのもこの姿じゃ仕方ないしまあ許しましょう。でもね。――――糞フランス人(フロッギー)だけは許さない。フランス魔女をやめてもね、フランスはわたしの愛すべき祖国なのよね。だからそんなことをいう若造の糞イギリス人(ライミー)にはちょっとばかりお仕置きが必要かなぁ……!」

 膨れ上がる闘気にイングリッドは目を見張って喜んだ。命が掛かる戦いができると。胸が熱くなる。興奮する。濡れる。

「結構! オレは英国(British)魔女(Witch)、イングリッド・エヴァンジェリスタだ! オレこそが英国魔術の体現者だ! つまるところ、この戦いはオレを倒すかオレの飼い主であるレムドゥーサを倒すしかないわけだ! 単純明快でいいだろう。さあ始めよう。この素晴らしき魔女の夜宴(サバト)の時間を!」

 イングリッドの開幕宣言にて魔女対魔女の戦いが始まった。この時既にエントランスには二人しかおらず待機していた魔導服達は二階や地下、外へ脱出していた。また本部の敷地内で戦闘をしていた混成軍、魔導省軍双方の魔術師はエントランスにて魔女同士の戦いが勃発したことを把握しており誰も近づけずにいた。

 外から見て半壊状態ではあるエントランスがさらに崩壊するまでさして時間はかからなかった。





 エントランスで魔女同士の戦いが始まったことにいち早く気づいていたローザスは本部正面から離れた所で魔導省魔術師と交戦していた。

 菫を救出に向かうためには霊堂の内部へ侵入しなければならない。霊堂は大きく三棟の建物から構成されている。現在ピヨーテとイングリッドが陣取って戦っているのが主棟であり天井が尖塔になっているのが特徴である。その両翼に東棟と西棟が建っておりこちらはドームを戴いている。三棟は副棟と呼ばれる渡り廊下で連結している。副棟自体も内部に蔵書室や瞑想室を備える大規模な連結棟となっている。

 ローザスは東棟から建物内に侵入するべく動き出していた。また混成軍の魔術師達も主棟からの侵入が不可能になったとみるやローザスのように正面から離れた東棟、西棟、副棟に向かい本部内への侵入に動いていた。

 東棟の外廊へ向かい採光窓と思しき箇所に目星を付ける。破壊し侵入を試みる――――が。

 物理的攻撃を防ぐ魔障壁が張ってある。周囲を確認するに悠長に結界破りを行っている暇はなさそうだ。どこか侵入できる所を探さなくてはならない。

 東棟の入口へ回り込むと魔導省の東棟防衛部隊と味方の部隊の熾烈な攻防が繰り広げられていた。数で勝る味方部隊がいくつかのグループに分かれて入口の結界を破る部隊と魔導省魔術師と直接戦う部隊と役割を分担していた。この様子だと東棟の入口を突破するのは時間の問題だろう。ローザスは彼らに合流し魔導省魔術師を相手取り数を着実に減らしていく。

 三人ほど下したところでどっと歓声が上がった。見れば東棟入口の重厚な扉が解放されていた。障壁を突破したようだ。味方の軍勢が雪崩のように侵入していく。その流れに乗じてローザスも内部へ踏み入った。

 入ってすぐのロビーには奥から迎撃に当たる魔導省の魔術師がわらわらと沸いてきていた。彼らの相手をしている場合ではないのだが、まずはロビーを制圧しなければ菫を探すこともままならない。絶えず味方が入口から入ってくる中、ローザスは一人の魔術師を引き留めた。アルビオン派の中年の婦人術師だった。彼女に『もし日本人の女を見つけたら保護して欲しい。おそらく牢に捕らえられているはずだ』と告げるとその会話を聞いたらしい若い男がローザスに歩み出て言った。魔導省の牢は地下二階にあるのだという。地下へ降りる階段は主棟にしかなく東棟からは行けないらしい。まずは主棟に向かうことを提言された。

 彼らは東棟を制圧するようでもし牢に向かうのなら囚われているアルビオン派の魔術師の解放をして欲しいと乞われた。ローザスは固く頷くと主棟に繋がっている副棟へ向けて足を向ける。

 連結棟と言われるだけあって規模は大きく流石魔導省本部といったところだった。

 そしてやはり渡り廊下にも魔導服達が防衛の任についていた。その数、六名。

 ローザスは舌打ちをして魔障壁を展開しその場に屈みある魔術の詠唱をした。

 魔導服達はローザスの侵入を察知すると容赦なく魔術を放ってきた。魔障壁を通じて凄まじい衝撃を受ける。六人もの魔術を受けることは相当な負荷が掛かりローザスの魔力を消費していく。けれどそれに苦痛を感じている場合ではない。先ほど詠唱した魔術は浮遊術と飛翔術だった。魔導服達の直前で浮遊術により高く飛び身体を浮かせ飛翔術で空を蹴り魔導服達を飛び越える。

 そもそもローザスは魔導服連中と魔術戦をする気は全くなかった。広範囲を対象とした戦闘魔術でないのなら逃げればいいのだと言わんばかりに放たれる魔術を躱して魔導服を飛び越えていく。ローザスの目的は菫の救出であり魔導省本部の制圧ではない。戦闘魔術で構える魔導服達の前に躍り出ても最小限の戦闘で突破していく。副棟にはあまり迎撃部隊を配置していなかったらしく多勢に無勢ということもなく駆け抜けていく。

 主棟側の渡り廊下にはエントランスから逃げてきた傷ついた魔導服達が負傷者の手当てを行っていたがローザスの姿を見て立ち上がってきた。見るに魔女の戦いに巻き込まれた連中だろう。彼らには気の毒な事だが立ち向かってくるのなら容赦はしない。躊躇なく魔術を炸裂させる。雷めいた閃光が走り、光に貫かれた魔導服が絶命していく。小競り合いを制したローザスはふと微弱な揺れを感じた。エントランスで戦っている魔女同士の影響らしい。建物自体を揺るがしているのかもしれない。爆音、衝撃音、轟風音が絶え間なく響く。

 ピヨーテには全幅の信頼を置いている。心配などはしていない。今はただ菫を救出する事だけを考える。地下へ向かう階段を見つけなければならない。

 背後には殲滅しなかった魔導服達が迫っている。ローザスは前を向き地下を目指した。





 地下十五階のセンターホール、縦三〇メートル、横三〇メートルの大ホールにレムドゥーサと菫はいた。ホールといえど家具や調度品などはなく唯一ホールの中心に口幅の広い大甕(おおがめ)が安置されている。床に大甕を中心とした大魔術陣が刻まれている。大甕にはたっぷりと水が入っているもののその水は重力に逆らって宙に薄く広がって浮いている。水でできたスクリーンに地上にレムドゥーサが放った使い魔――――怨霊が見ている光景が映し出されている。

 地上は既に大混戦を極めている。混成軍も魔導省軍も甚大な被害を出し敷地内の地面は穿たれ抉られ、主棟は正面扉をはじめ崩壊し壁が剥がれ天井が崩落し炎上、結氷、雷撃、轟風が各地で起こっている。呪いが飛び交い、肉体を蝕まれた魔術師が果てていく。魂を削られた魔導服が絶命する。爆炎に巻き込まれた者が消し炭になり、凍結を受けた者の体が凍傷を起こし肉体が壊死していく。落雷に打たれた者が人体の耐久度を超えて感電死を迎え、暴風に殴られた者がその衝撃に圧死する。身体の一部が欠落してもなお立ち上がり、魂が損傷してもかろうじて機能する魔術器官を励起させ魔術を振るう。屍山を積み上げ血河を作ってなお互いの信念を胸に殺し合う。

 惨憺たる光景を前にレムドゥーサは眉一つ動かさず眺める。レムドゥーサが指を鳴らすと映し出された光景は本部内に切り替わる。エントランス――――だった場所で古の魔女同士の戦いが映し出される。二人だけの戦闘は敷地内で行われている戦闘に引けを取らない凄惨さを見せていた。双方とも呪いを受けて肉体が赤黒く壊死している箇所が散見でき、ピヨーテは体中に風穴が空き、イングリッドは両腕が既になかった。その上で軽口を叩き、ピヨーテは()()()()()腕を振るい突撃し、イングリッドはなくなった腕に代わって足に魔力を纏わせて疾走する。衝突し穴という穴から血飛沫を上げるピヨーテと両腕があった箇所から血霧を上げるイングリッドは互いに表情には笑みが浮いている。愉しんでいるのだ。

 魔女同士の戦いに関してレムドゥーサは心配など一切なかった。殺しても死なないような女だ、と知っているからだ。それよりも各地で繰り広げられる戦闘にレムドゥーサは満足していた。

「見てみろ女。この惨状を! 劣悪な状況を! 凄絶たる戦場を! いいぞ。これはいい! はははッ! こいつは最高だ! これが英国魔術の力だ! 世界を相手に戦える力! 素晴らしい! 素晴らしいぞ! 我らを相手にするということはこういうことになるのだと思い知るだろう! 我らは地の底より戻ってきた! 懐かしき戦場に戻ってきた! 全盛の力を蓄えて戻ってきた! 各国の使い魔共よ! この光景をよくとらえておけ! 指を咥えてガタガタと震える事しか能のない輩にしかと見せつけろ! そして、畏れ敬うがいい! 我が国こそ、七つの海に君臨したグレートブリテンだ!」

 水のスクリーンに映しだされた光景を見ながら高揚した感情を隠しもせずに聴衆のいない演説めいた声を上げる。

 魔眼の効果で力が入らない中、菫は水のスクリーンを眺めるでもなく眺める。なんという事だろう。おお、なんという事だ。

 ――――死が、広がっている。

 ――――血が、溢れている。

 ――――肉が、大地に還っている。

 歴史に残らぬ争いが繰り広げられている。

 一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字だといったのはヒトラーだったかスターリンだったか。それともどこかの反戦家の言葉だったか。圧倒的な死の前に菫の脳裏にそんな言葉が過ぎる。

 スクリーンの映像はさらに切り替わり東棟の戦い、西棟の戦い、主棟の戦い、地下の戦いへと移り変わる。どこもかしこも死が満ちている。地上の建物は大方制圧されたも同然になっていた。というのも徐々に魔導服達が地下へと後退し籠城し始めたからだ。多大な犠牲を払い主棟地上一階エントランス跡以外を攻略した混成軍は地下へと向かう。

 映像はさらに切り替わる。そこには菫の見知った人物が映し出されていた。戦闘を回避し地下二階の通路を疾走するローザス・ブラックだった。

「…………なんだこのふざけた格好の男は。戦う気がないのか」

 怪訝そうに呟くレムドゥーサが思案する。何が目的なのだろうと黙考するが見当がつかなかったらしくしばらく映像を見続けるとローザスの目的に気付いたようだった。

「…………牢……。なるほどそうか。この男、誰かを助けに来ているのか」

 納得がいったレムドゥーサは映像を牢の前に切り替える。そこにはさらに菫の見知った顔が映し出されていた。





 地下二階の牢の前。石造りの無骨な様相はアルビオン本部と似通っている。鉄柵に囲まれた牢にはやはり魔術封じの結界が張られている。が、通路にはかかってないらしい。ローザスは走るのをやめてゆっくりと牢に捕らえられている者達を確認していく。しかしいくら声を掛けても返答はなく、死んでいるのだとすぐに悟った。

「魔術師として誇りも名誉もなく果てるとは……さぞ無念だったろう……」

 そう呟いたローザスは背後から近付く魔力の気配に身構える。高まった魔力は戦闘を仕掛けてくるであろうことを物語っている。ローザスは奥の牢も調べるべく素早く奥へと移動する。だがどこまで行っても菫らしき人物はおらず牢の中は絶命したアルビオン派の魔術師しかいなかった。全ての牢を確認したがやはり菫はいない。行き止まりになり背後を振り返る。ゆっくりと近付いてくる足音が反響している。

 足音は一人分。魔障壁を張れば強引にでも突破できるか、と思った矢先ローザスの前に現れたのはキャロル・ド・ゴドウィンソンだった。

 面倒な奴が現れたな、と内心思い、眉を顰めた。

「とうとうここまで来ましたのね。呆れた執念ですこと。いえ、褒めていますのよ?」

 戦う気があるのかないのか分からない態度――――それでも一〇メートルは離れている――――で、キャロルはローザスの前に立ち塞がった。

「御託はいい。黙って道を譲るか、かかってくるかさっさと選べ」

 にべもなく言い捨てるとキャロルは肩を竦めて溜息を吐く。そして退く気はないようで交戦の構えを取る。

「もう一度だけ訊いておきますわ。ローザス・ブラック。貴方、魔導省に忠誠を誓う気はありませんか? その気があるならわたくしが便宜をはかって差し上げますわ」

 この期に及んでまだ勧誘をしてくるとはよほど実力を買ってもらっているのだな、と思う一方、不愉快でもあった。菫を連れ去っておきながらのこの態度に苛立ちを覚えざるを得なかった。

「寝言は寝て言えキャロル。魔女科の次席。虚言で手に入れた主席の座はさぞ座り心地がよかったろうな」

 鼻を鳴らして挑発を返すと癇に障ったようで眉を吊り上げて目を見張った。

「残念です。本当に残念です。かつて同じ学び舎で肩を並べた仲ですがせめてもの手向けにわたくしが引導を渡して差し上げますわ!」

 言い終わると同時にキャロルの背後に魔術陣が展開される。交渉決裂となれば即座に放つ算段だったのだろう。一瞬後魔術陣より赤黒い呪いの風が襲い掛かる。ローザスは魔障壁を展開し防ぐもののこのまま魔術の撃ち合いになれば逃げ場がないローザスの方が不利になる。しかしこのキャロルの真の恐ろしさをローザスは知っている。菫を学院から追放するまで次席だった女だ。得意にしている戦闘魔術は――――肉体を強化した上に魔力波を纏い戦う近接格闘だ。キャロルは打撃技を得手としているトータルファイターだ。呪いを放った直後に肉体強化術を行使したキャロルが呪いを防いだローザスの元に地面を蹴って飛び掛かる。魔術で強化され魔力を纏っている殴打は霊的、物理両方の属性を持ち当然威力は生身の体なら、いとも簡単に粉砕できるほどである。キャロルの殴打は容赦なく魔障壁を削る。ピヨーテの一撃にも耐えうる強度があれど、こうも一方的に攻められては突破されるのも時間の問題である。

 ローザスは壁際までほんの僅か空いた距離を詰めてキャロルから離れる。魔障壁を解除したことを確認したキャロルはローザスを見据えて着ていたスーツを脱ぎ捨てる。レスリングのシングレットのような服装を露わにし構える。

 ローザスとキャロルの距離は三メートルあるかないか、そして後ろには下れない背水の陣。この距離にして接近戦を得意とするキャロルが相手では魔障壁の展開は間に合わないだろう。となれば不利を承知の上で近接格闘で対処するしかない。

 肉体強化の詠唱を素早く行いキャロルに対抗する。

 意識を切り替えたところでキャロルが突撃してくる。踏み締めた地面はやや抉れている。振り被った右拳がローザスの顔へと迫る。それを紙一重で避ける。空ぶったキャロルの拳は行き止まりの壁を粉砕し小さなクレーターを作る。間髪容れず体を捻り、蹴りが迫る。ローザスは体を低くし躱す。そのままキャロルと立ち位置を変える。だが、さらに振り向き様にキャロルの回し蹴りが襲う。

 こうも懐に入られては思うように戦えず防戦一方になる。蹴りと殴打が流れるように打ち出される。全てを躱し受け止めることなど不可能であり肉体に打ち込まれる拳はローザスの体力、気力を奪っていく。これはボクシングの試合ではないためナックルパートではないオープンブローでも打ってくる。受け止めた拳の圧が肉体を貫通し地面、壁、天井に亀裂を入れていく。牢の鉄柵を叩き折る拳を受け止めきれず、打ち込まれるとその度に脳が揺れて意識が飛びそうになる。強化していなければ内臓は破裂していたかもしれない。

 魔術戦ならばキャロルはそこまで脅威ではない。ローザスはどうにかキャロルと距離を取ろうともと来た廊下に引きながらキャロルと戦っているものの彼女も距離をあけられては己が不利になることを理解しているために差はまったく開かない。彼女のペースのまま戦闘は続く。

 ――――――――と。

 頭上から大きな衝撃が届く。ローザスとキャロル、双方が一瞬ほど衝撃に気を取られる。だが目の前に意識が戻ったのはキャロルの方が刹那だけ早かった。躱す事叶わぬ拳が目前へと迫る。手の平で受け止めるように瞬時に構えて一撃をもらう。しかしその膂力を御しきれず受け止めた体勢のまま殴り飛ばされ壁に激突する。

「性根が腐っていても伊達に魔女科の次席だったわけじゃないな…………!」

 などと軽口を叩くものの劣勢であるのはローザスの方だった。

「この状況でよくそんな口が聞けます事。自らの立場が分かっていて?」

「そっくりそのまま返すぞその言葉。直に魔導省は制圧される。聞こえたはずだ。先ほどの衝撃を。すぐにここにもやってくるぞ」

 キャロルは目を眇めてローザスを見る。

「…………だから何だというのです? 偉大なる英国魔術師、レムドゥーサ様さえいればどうとでもなります」

 わかっていたことだが名門血統派の彼女は魔導省、ひいてはそのトップである魔導大臣レムドゥーサを心酔している。魔導省本部が制圧されたとしても彼女はレムドゥーサさえいればなんとかなると本気で信じているのだろう。混成軍による制圧もまじかに迫っているこの状況で退避という選択肢は全くないらしい。

 このまま戦っていても埒が明かないとローザスは内心嘆息し密着しているキャロルを蹴り飛ばす。

 埒を明かすために今以上の被害を受けても構わない。常にローザスの身体にキャロルの手が触れているようなこの距離では劣勢になりざるを得ない。廊下ではキャロルの方に地の利がある事もローザスを劣勢にしている。だがやるしかない。ローザスとて格闘術は心得ている。蹴り飛ばし、壁に背を預けるキャロルに組み付く。腰回りに腕を回し――――暴れるキャロルから猛烈に頭を殴られ、顔を殴られ、膝を腹に打ち込まれ――――持ち上げて後ろに倒れるように叩き落す。そのままキャロルに上に覆いかぶさるようにのしかかり首に手を回し締め上げる。キャロルが魔力を纏っている所為で常に魔力波を受け続けているローザスは体力の消耗が激しく技を仕掛けているのに被害を受けるという状況だった。

 ローザスの締め上げを力ずくで振りほどいたキャロルは逆にローザスにのしかかり猛打を放つ。恐るべき拳圧によって皮膚は切れ、身体の至るところから外出血し――――だがキャロルもまたローザスからの反撃に体内の血管が破裂し内出血を起こしていた。

 互いに強化した肉体による壮絶な拳の打ち合いで息は上がり目は掠れ体は動かすたびに軋む。キャロルを押し退けて四つん這いになりながら壁に手を付き立ち上がるとキャロルもまた壁を背に立ち上がる。鼻血と吐血と吐瀉物でとてもみれた様ではなかった。

「……いい加減御死になさい! 魔導省を受け入れぬ愚か者め!」

 啖呵を切ると同時に胃からせり上がった血の混じった吐瀉物を吐き捨てる。キャロルも相当な損耗をしているようだが、鋭い視線は今だ闘気が宿っている。

「…………愚か者はお前だキャロル! 魔導大戦を引き摺ったままの魔導省に、レムドゥーサになんの意味がある? アルビオンとして歩き始めた英国魔術界の何が悪い!?」

 アルビオンから出奔した身なれど、グレアムの言っていた戦後に生きる魔術師としての矜持はローザスも共感できるものがある。ローザスの英国人として誇りが叫ぶのだ。

「魔術ってのは昔から受け継がれてきたものだ。俺が生まれた時には既にあり、あるのが当たり前の魔導社会で生きてきた。魔術は変化する時代に合わせ進化してきた歴史がある。今だってそうだろう! 過去を目指すお前たちは退化しているんだぞ! これを愚か者と言わずしてなんという!」

 ローザスが放った言葉の刃はどんな魔術よりもキャロルの心を抉った。目に見えて狼狽し闘気が揺らぐ。

「…………ならば今の英国魔術の惨状はどうなのですッ! 栄光に満ちていた過去に劣っているではありませんか!」

「劣ってなどいない! それはお前たち名門血統の腐敗が招いたことだろう! 血が全てだと肯定し権威主義に走った者の当然の末路だ! しかし一心不乱に英国魔術を学ぶ術師達はいつだって日進月歩で前に行っている! 目に見えた進化ではないかもしれん。だが! 魔導の技術は常に前に! 前に進んでいる! キャロル・ド・ゴドウィンソン! 名門と血に拘って紫園菫を学院から追放したお前は! お前は学院で一体何を学んだのだ? 英国魔術の叡智であり魔導社会の秩序を学んだのではなかったのか? どうなんだ?!」

「それは…………!」

「お前が英国魔術師を名乗るなら過去に劣っていると口が裂けても言えぬはずだ。違うか!」

「……………………!」

 とうとうキャロルは言い返すことができず一瞬視線がローザスから外れる。その瞬間をローザスは見逃さなかった。軋む体を動かしキャロルの顔を掴み、足を払って床に押し倒す。そのままキャロルの胸を踏みつけて肺を圧迫する。

「……俺の目的は菫だ。あいつをどこにやった?」

 苦しげに顔を歪ませ酸素を取り込もうとするキャロルにもう一度だけ問う。

「俺の菫をどこにやったかと訊いている。さもなくばこのまま肺を潰す」

 言った直後から体重を掛けさらに圧迫する。激しく顔をしかめてキャロルは一言だけ答えた。

「…………五階……」

 掠れた声でキャロルが言うとローザスは圧迫していた力を緩めて――――思い切り踏みつけた。肋骨が折れる音がして声なき悲鳴をキャロルが上げる。その直後大量の血を吐き出す。既に肉体強化の術は解けていた。

「かつてのよしみで殺しはせん。それに肋骨が折れたぐらいでは死なんさ。その傷が癒える間考え続けろ。英国魔術の誇りをな。本当に劣っているのかどうか答えを出すには十分な時間だろう」

 ローザスの肉体強化も既に解けていたが勝者のみが手にする余韻をもって満身創痍の体を引き摺り五階へと足を進めた。





 キャロルの言葉を頼りにローザスは地下五階まで下りてある一室に入っていた。ベッドにサイドテーブル、アームチェアがあり家具や調度品を見てもここが客室もしくはそれに準じた部屋であることは一目瞭然だった。だがこの部屋は本来の使われ方をされていなかったのだろうとローザスは思っていた。栗の花のような臭いが充満し何より無残な形になってはいたが見覚えのある銀縁の眼鏡を拾ったことでここで何が行われていたのかに予測がついた。レンズは既に割れ落ちてしまってもう使えない眼鏡のフレームをローザスは懐に仕舞い部屋を出てその場に座り込んだ。救出が間に合わなかったのか、それともどこかに移動させられたのか。死体がない以上まだどこかにいる可能性はある。

 ――――しかし。

 客室の惨状から菫は十中八九魔導服達に暴力暴行凌辱の限りを尽くされたとみて間違いないだろう。それは彼女がもう魔女にも聖母にもなれないことを意味している。

 なんということだ。この世で最も穢れてはならない女が汚された。地に落とされた。ローザスが磨き上げるべき穢れなき聖母になるはずだった唯一の女が、ローザスが心奪われた唯一の女が何もかも失ってしまったのだ。今日まで続けてきた彼女の努力が全くの無駄になったのだ。

 不思議な気持ちだった。無常感とでもいうのだろうか意識が何もかもを超越しすべてが空しく儚く起こるべくして起こったことを受け入れている。府抜けているわけではない。

 これは――――なんだ。なんなのだ。息をしていることも忘れるほどの衝撃。

 ――――ああ。憤怒だ。そして憎悪でもある。ローザス自身の許容を越えた感情が今の無常感をもたらしている。肉体の損傷も忘れていたほどの意識の支配。

 ローザスは自身が今、何を望んでいるのかを意識する。冷静に理知的に思考しなければならない。魔術は気合でどうにかなるものではない。無論肉体に作用する魔術なら多少は気合で何とかなる場合もあるが、魂の魔術器官に作用する事は全くない。むしろ魔術を掛けた肉体に対しての根性論であり魔術そのものに変化はないのだ。今、怒りに任せて菫を凌辱した輩を鏖殺(おうさつ)しに向かってもうまく対処されるのが関の山だ。

 周囲に魔術師の気配がないかを今になって確認し、いないことに安堵する。

 そういえばキャロルを下してから魔導服連中には出遭っていない。おそらく地下一階に攻め込んできた混成軍の迎撃に回っているのだろう。ローザスにとっては好都合だった。一階下りるたびに魔力が濃くなる魔導省の地下宮はローザスの体力と精神を地味に削いでいるのだ。ここで万全の態勢の魔導服達と戦うとなるとキャロル戦の損害も相まって非常に苦戦する事は容易に想像できる。

 最もそうなっても魔術戦に持ち込めば何とかなるだろう。キャロルの時は場所と相性が悪かったのだ。

 体感時間で十分は休んだだろうか。常に魔力波を浴びているためあまり意味はなかったが気分的にはだいぶ楽なったのがせめてもの救いだろうか。

 それからローザスはまた一階ずつ地下に下りていく。各階の部屋を調べ菫の有無を確認していく。かつて魔術研究に使われていた研究室、臨床室、実験室、資料室、講堂、会議室、戦闘ルームなどなどなどを通過していく。ここでどれだけの時間を使い研鑽を重ね血を流してきたのか想像するに気の遠くなる思いだった。

 地下十階まで下りてきたところでローザスは眩暈を起こした。壁に手をついて数回頭を振る。一段と魔力が濃くなった気がする。それにこの階から雰囲気が変わった気がするのだ。表面は壁紙などでコーティングされている為、見ただけでは上の階との違いはないが壁や天井、床の材質が違うように感じた。幸運なのは魔導服達がいないことだ。地下二階から階下は誰もいないらしい。その理由はこの濃い魔力であるとローザスは思った。十階まで下りてきただけでも相当な負荷が掛かっているのだ。敵が攻めてくるのを伏して待つだけでも無意味に体力、精神を削られるとなると伏兵として待機しているのか分からない。

 ローザスは再び肉体強化の術を行使する。ただし強化するのは腕力ではなく耐魔力だ。生身の耐魔力でも動けるには動けるが敵がいないと決まっているわけではないのだ。耐魔力の強化によって掛かる負荷は大幅に和らぐ。気を取り直して十階の部屋を調べるべく動き出す。この階も研究室、臨床室などがいくつもありかつて使われていた面影を残していた。

 いくつか目の扉に手を掛け敵の有無を瞬時に把握する。魔術師が発する魔力の気配はない。だが終始警戒したまま部屋の中に入る。そこそこの広さを持ち奥にまだ扉がある。

 埃を被ったロングテーブルが二台に椅子が乱雑に配置されて――――中には倒れているものもありいかに使われなくなって久しいかを物語る。部屋中に書類が散乱し――――おそらく魔導書であろう――――研究室の一つとして使われていたのだろうと推測できる。

 ――――――――と。

 ローザスの耳が微かに鳴った物音を捉える。地下十階となれば地上の音や衝撃波は全くと言っていいほど聞こえない。そして届いた物音はローザスが発したものではない。ローザスは耐魔力を強化している為にもし近くに魔術師がいるのなら勘付かれていてもおかしくない。だがローザスに攻撃を加えるといった気配は皆無なのだ。何らかの罠か、それとも捕らえられた菫の可能性も否定できない。ローザスは魔障壁を詠唱しいつでも展開できるように待機させておく。何かあるとするなら間違いなく奥の扉の部屋だろう。魔力波も放てるように準備し奥の扉を勢いよく開け放つ。魔障壁を展開し魔力波を放とうと構える。

 ――――そこにはローザスが思っていた通り魔導服達が待機していた――――はずだった。

 奥の部屋は研究室の半分ぐらいの狭さだったが魔導服達が構えている、といった様子ではなかった。本来なら待機していたはずであろう魔導服達が床に倒れている。近場にいた魔導服を確認すると生きてはいるようだが完全に意識がなかった。どうやら地下に漂う魔力を浴びすぎて失神したらしい。一種の魔力中毒だろう。しかし部屋の一番奥の壁側で動く人影を見つけてローザスは魔障壁を張りながら近づく。

 その人物は壁に背を預けるように座り込み大事に抱えるように本を持っていた。ローザスを見るなり恐怖なのか動揺なのか目を見開いた。

「…………ローザス……ブラック……」

 そういったのは血色の悪い顔をしたフリーマン・クロムウェルだった。手にしている本はどうやら魔導書のようで魔力波を軽減する結界を張っているようだった。

 現れたローザスにフリーマンは勝手に言い訳をし始める。

「ま、まま、待て、待ってくれ。私は……お前と戦う気はないのだ……。本部がここまで魔力に侵されていたとは知らなかったのだ……頼むッ! 私を助けてくれッ! そうすれば大臣にも取り計らってやる。十分な地位をくれてやる。だから――――」

 憐れにもほどがある。とローザスは思った。地上で戦っている魔導服達を差し置いて彼らの上に立つこの男は安全な場所に隠れていたのだ。しかし魔導省本部地下は魔力が漂い生半可な魔術師では抵抗すらできない魔窟だ。十階まで下りてきたはいいが既に戻る事叶わないくらいに衰弱してしまったのだろう。となると既に倒れている魔導服達はフリーマンの警護だろう。きっとここまで下りてくるまでフリーマンに魔力を遮断する障壁を掛けていたに違いない。けれどいつから待機していたかは分からないが耐魔力では耐えきれなくなり一人、また一人と倒れていったのだろう。

 聞いてもいないのにべらべらと語るフリーマンの弱弱しい結界をいとも簡単に破り――――破った瞬間魔導書が燃えた――――フリーマンの襟を掴みローザスは言った。

「菫をどこにやった?」

 フリーマンは忙しなく目を動かし取り繕うように早口に答える。

「大臣! 大臣が地下へ連れて行ったのだ。ほ、本当だ! 地下の十五階だ間違いない!」

「そうか。ではもう一つ訊く。菫に何をした?」

 そう問うとフリーマンはあからさまに悪かった顔色がますます悪くなり口ごもった。その態度で菫を汚したのだとローザスは確信し待機させていた魔力波をフリーマンの腹に撃ち込んだ。生身の肉体に魔力波は慈悲もなく突き刺さりフリーマンの肥えた腹をずたずたに引き裂き穴を開けた。汚らしい鮮血が飛び散る。

 フリーマンが逆流した血を吐き出してその場に崩れる。けれど即死とはいかなかったようで縋るようにローザスを見上げる。言葉にならない言葉を上げて助けを乞うている。伏臥しているフリーマンの背中にもう一度魔力波を撃ち込んでこの場を後にした。

 おそらくまだ息はあるだろうが地下宮の魔力にさえ耐えられない奴では数分もすれば絶命するだろう。もっともその数分は地獄の苦しみを味わうことになろうが。

 しかしフリーマンはありがたい言葉を残してくれた。

 地下十五階。そこに菫はいる。大臣が連れて行ったという言葉が気になるが考えても仕方がない。ローザスは床に伏している魔導服達にも止めを刺して踵を返し研究室から出て行った。





 地下十五階まで一気に下りてきたローザスはいくつかの部屋を巡った後、ほかの部屋の扉とは違う両開きの部屋の前に立った。階上でも両開きの扉はあったがその大体が会議室や戦闘ルームのような広い部屋だった。となるとこの部屋もそうなのだろうと想像できるが、唯一違うのは中から声が聞こえるのだ。それも歌だった。しかもローザスには馴染み深い旋律だ。

 聞こえるのは英国の国歌である女王(ゴッド・)陛下(セイヴ・)万歳(ザ・クイーン)だった。間違いなくここにいる。ローザスは躊躇うことなく扉を開け放つ。

 そこは広い空間で中央に大甕が安置されており水が宙に浮いていた。そして水には地上で行われている戦いが映し出されている。大甕の傍らには男が一人立っていた。すぐ傍に床に仰臥する菫の姿があった。ようやく見つけた彼女の姿に思わずローザスは叫んでいた。

「菫!」

 しかし反応はない。代わりに佇む男がローザスに向いた。

「ようこそ魔導省へ。よくぞここまで辿り着いた。誉めてやろう。俺が魔導大臣のレムドゥーサ・ヴィドラークだ」

 乾いた拍手を送られローザスは目を見開いてレムドゥーサを睨んだ。

「お前たちはやってはならんことをした。未来の聖母を穢し辱め地に落とした。たとえ那由他の死をくれてやってもまだ足りん。冥界の深淵にて魂を冒涜され続けながら死んで行け!」

 怒声とともにローザスは魔力波を放つ。さらに魔障壁を展開し菫の元へ駆ける。放たれた魔力波は大甕を粉砕し床を穿ちレムドゥーサに直撃する。轟音を立てて土煙が舞う。

 菫は弱っているが意識はあるようだ。何らかの呪いを受けているようでうまく言葉を発せられないらしい。ローザスは菫を抱きかかえて扉まで飛び退く。解呪を試み――――これを成功させると菫は大きく咳き込んでその場に崩れる。急に呪いが解けた所為で体に力が入らなかったようだ。

 ――――と。

「魔術の精度と威力は悪くない。なるほど凡百の魔術師というわけではないらしい。――――面白い。現代の魔術師の力を見てみるのも一興か。よかろう。相手をしてやる」

 土煙が晴れると全く無傷のレムドゥーサが悠然と佇みローザスを見据えてくる。魔力を高め闘気を露わにする。こうして対峙すると魔導大臣という肩書が伊達ではないことを知らしめられる。

 ――――強い。

 と、ローザスは評価を下す。しかし退くわけにはいかなかった。菫を穢した極罪を許せる訳がない。魔導省の制圧やアルビオンの大義などもはやどうでもいい。全ての元凶足るレムドゥーサを滅しなければ気が済まない。そうともただの私怨だ。それだけで奴を撃滅するに値する理由となる。すでに手を下した実行者であるフリーマン・クロムウェルは殺した。フリーマンの配下も息の根を止めてやった。後は元凶のレムドゥーサだけだ。

 レムドゥーサと対峙するローザスに床に膝をついていた菫が声を掛ける。

「…………ローザス……」

 弱弱しく儚げな表情を浮かべている顔を見てますます怨嗟の念が膨れ上がる。

「菫。悪いが君は先に逃げろ」

 菫を守るように前に立つとレムドゥーサは低く笑った。

「いいとも。逃げたまえ。フリーマンに嬲られた壊れかけの女を相手にしても何の意味もない」

 余裕の態度でいちいち気に障ることを言う。だが見逃してくれるのなら好都合だ。奴の真意は不明だが今はそれに甘えさせてもらう。

 ローザスは衰弱する菫を促しホールから脱出させた。足元が覚束ない彼女が心配ではあるがその不安を振り払い目の前のレムドゥーサに意識を向ける。

「直に混成軍が乗り込んでくるぞ。魔導省はもう、終わりだ」

「だから何だというのだ? お前も見ただろう。地上の戦いを。英国魔術師はあそこまで戦えるのだ。この戦いでそれを世界に見せつけた。我が願いはほぼ完遂されているのだ。無論完全に成就させるためには先の魔導大戦にて奪われた秘術を取り戻さなくてはならないが、これだけの力を有している事はあらゆる組織にとって脅威に映っただろう。この戦いが終わればすぐにでも秘術を奪い返す案を立案しなくてはならない。俺にはやるべきことが多くある。本部を制圧したくらいのお前たちなど恐れるに足らん」

 よほどの自信があるのか全く動じない。さらに戦いが終わった後のことを語るレムドゥーサにローザスは鼻を鳴らした。

「お前一人で何ができる? お前はすでに過去の遺物だ。大人しく過去に留まっておけ!」

「ふむ。現代の魔術師というのは誇りも矜持もなにも持ち合わせていないらしい。嘆かわしい事だ。それだからこそ魔導大戦が終わってなお魔導省を越える存在になれなかったのだ! 貴様らなぞ存在する価値もない!」

 吼えたと同時にレムドゥーサの中心に魔術陣が発現する。赤い残滓魔力が漂う。赤い魔術陣より呪いが溢れ出す。黒い泥土のような呪いがホールに広がり触れている床を壁を腐食させていく。

 ローザスは魔障壁と結界を展開し呪いを防ぎ泥土を切り裂くように旋風を起こす。泥土が割れたところに踏み込んでレムドゥーサに拡散追尾する閃光弾を放つ。放射状に広がった光の弾丸は確実にレムドゥーサを捉えた。しかし放ったはずの弾丸は一部が打ち消されていた。そこからレムドゥーサが躍り出る。ローザスとの距離を詰めて殴打を放つ。しかし二人の距離はまだ二メートルは離れていた。空を打ったレムドゥーサの拳は強烈な拳圧を届かせる。否、拳圧ではなく魔術で作られた暴風だ。先ほどローザスが泥土を旋風で割ったのと同じだった。だがその威力は桁が違った。魔障壁で防いでなお魔障壁ごとローザスを吹き飛ばすのに十分な威力を持っていた。

 レムドゥーサからローザスを狙った轟風が次々に放たれる。まともに受けていてはただ消耗していくだけだ。そう判断し受け止めるのではなく受け流すように対処する。

 間隙を縫ってレムドゥーサへ呪いを――切るという情報を持った流水のような猛毒を浴びせる。

 だが、その悉くを相殺し、封殺し、完封しローザス以上の威力を持った魔術で撃ち返してくる。さらにローザスの周囲の空間の重力を操作し浮かせた空間ごと力任せに壁に投げつける。単純な物理的損害ではあるが、それゆえに衝撃はかなりのものだった。激突した壁が凹むくらいには。

 ――――力量が違う。

 認めたくないがレムドゥーサの方が格上だ。しかしローザスの攻撃が全く効いていないわけではないようで、呪いを放てば確実に魔障壁で防ぎ時として結界を張ることもあった。

 皮肉を込めてローザスは軽口を叩く。

「人間をやめた割には堅実に戦うんだな」

 魔導大戦時に魔導大臣だった男が今でも若々しい肉体を維持しているはずがない。不死者になったか吸血鬼になったか、ともかくこんな地下深くにいるのならその可能性は高い。

 軽口にレムドゥーサは食いついて言い返した。

「勘違いしてもらっては困る。俺を不死者かなにかと思っているのなら見当違いも甚だしいぞ」

「半世紀以上も前の人間がその外見のわけがない。そんな奴が英国魔術の誇りを説いたところで説得力の欠片もないな!」

 ローザスは後へ飛び退いて魔力波を放つ。レムドゥーサは慌てることなく魔障壁を展開し防ぐ。

「いいことを教えてやる。俺は魔導省が消滅することになったとき日本へと渡ったのだ。かつてシンガポールで敗れたことを思い出してな」

「一体何の話だ?」

「俺は不死者などではない。俺は日本に伝わる、西洋の魔女と同等の存在である鬼となるべく日本へ渡ったのだ。鬼になるまで半世紀掛かったがそれだけの時間をかけた甲斐はあった。人間でありながら人間を超越した力を身に宿す事はどんな魔術を学ぶより価値のあるものだった」

 なんという事実だろうか。仮にレムドゥーサの言葉が真実ならローザスは魔女と同等の力を持つ者と戦っていることになる。ピヨーテに勝てなかったローザスが鬼となったレムドゥーサに勝てるのか。

 今、ローザスは脅威ではなく畏怖を感じていた。

 ピヨーテとはブルー島で七日七晩戦ったがほとんど逃げていたようなものだ。ゲリラのような戦い方で粘ったのだ。けれどここはブルー島ではなく魔導省地下十五階のホールだ。逃げながら戦うという事は出来ない。

 ローザスは地上に上がることを考えたが瞬時にその考えを否定する。地上ではピヨーテが英国魔女、イングリッド・エヴァンジェリスタと戦っているのだ。混成軍も疲弊しているだろうし、そこへレムドゥーサを引き摺り出すのは愚策だろう。

 ローザスが菫奪還の為に魔導服連中を相手にせずに地下に潜ったのはある意味僥倖だったと言えよう。いかにレムドゥーサを地下に留めておけるかが魔導省制圧のカギになるはずだ。ピヨーテとイングリッドの力が互角と考えても魔導省魔術師達を破り組織として機能できなくなればイングリッドも戦闘をやめるかもしれない。いや果たしてそうなるか、ローザスは希望的な思考を捨てる。

 イングリッドがレムドゥーサの為に動いているとするなら例え魔導省魔術師が全滅しても戦い続けるだろう。それはつまりどう転んでもレムドゥーサをどうにかしなければこの戦いは終わらないということだ。せめてイングリッドをピヨーテが破ってくれれば話はだいぶ変わってくるのだろうがそう都合よくはいきまい。仮にイングリッドを破ったとしてもピヨーテも甚大な被害が出ているはずだ。その状態でほぼ十全なレムドゥーサと戦い勝つにはいくらピヨーテでも無理だろう。となれば混成軍の応援を待つことになるが魔導服達と戦い、やはり疲弊している彼らに期待はできない。となるとなんとしてもローザスがレムドゥーサをどうにかしなければならないのだ。

 となれば第一にレムドゥーサを地上に出しては駄目なのだ。

「鬼、か。他国の秘術に頼ってまで英国魔術界の頂点に立っていたいのか。憐れだな」

 なるべく敵意を己に向けさせて意識を地上に向けないようにしなければならない。ローザスは挑発じみた言葉をくれてやる。

「なんとでもさえずればいい。真に英国を思うからこそ俺はまだ死ねんのだ。回帰ではない。過去を越える存在に押し上げる。今の堕落した者どもにはわかるまい! 過去を知っているからこそ凡庸の烙印を押されている今が情けなく! 見下す多くの組織に見せつけねばならんのだ! だがそれを行える者が今の英国魔術界にいない。なればこそ俺がやるのだ!」

 何を言ってもやはり過去に囚われたレムドゥーサには声の届く余地はないらしい。ならばもう話すことなどない。菫を苦しめた元凶ではあるが――――レムドゥーサは掛け値なしに強い。で、あるならばローザスが今やるべきことはレムドゥーサを地下に留めておきとにかく時間を稼ぐことだ。無論撃破する事ができるのならそれに越したことはないがどう攻略するべきか見当もつかない。

 ローザスはホールから飛び出て廊下に躍り出た。この地下宮はまだ下がある。逃げる体でレムドゥーサをさらに地下に引き込む。

 十六階へ下りただけで漂う魔力はさらに濃くなる。背後に迫るレムドゥーサに脅威と恐怖を感じつつローザスは応戦しながらさらに下を目指した。





 実のところ地上の戦いはほぼ終わっていた。地下一階に籠城していた魔導服達も軍の体裁をなさず壊滅に等しい状況であった。そして唯一地上で行われている戦いは魔女同士の戦いだった。主棟はエントランスを中心に全壊し床は底抜けて地下一階に崩落していた。

 ピヨーテとイングリッドの戦いは膠着状態に入りしばらく睨み合いが続いていた。牽制として魔術を放つものの悲惨になった床や壁をさらに悲惨にしただけだった。

 互いに死に体で生身の人間ならば既に絶命しているが魔女である彼女たちは地球からバックアップを受けているため体に穴が開こうが両腕が落ちようが生かそうとする。殺すには心臓を潰すか魂を滅亡させるしかない。だが彼女たちもそこが弱点と分かっている為、一番鉄壁頑強にして堅固な防御を敷いている。体中に穴が開いているピヨーテも左胸は無傷である。しかしこれだけの肉体的損害と魂の霊障は彼女たちの戦意を、体力を、気力を、確実に削いでいた。苦痛がないわけではないし魔術の行使にも影響が出ている。それでもなお彼女たちの闘気は今だ沈静化の兆しはない。

 ピヨーテは内心で何度目かの舌打ちをしてイングリッドを見据える。肩で喘鳴する息を吐いている。彼女の方もいい加減限界が迫っているはずだ。いやそうでなくては困る。このピヨーテが相手なのだから、と嘆息する。

 ――――と。

「はははッ! 最高だよ。ここまで戦えるなんて思わなかった。――――だけど」

 イングリッドが立っている地面を足で払う。僅かに土煙が舞う。

「レムドゥーサの元へ誰かが辿り着いたようだ。どうやら魔導省の魔術師はやられたみたいだな。名残惜しいがそろそろ終幕と行こう」

 そういうとイングリッドの周りに円筒状の魔術陣が展開される。さらにそこからイングリッドの背後に円状の魔術陣が幾重にも重なり合いながら出現する。一人の魔術師が展開するには無理がある巨大な魔術陣だった。

「…………今日まで英国が築いてきた夥しい死を内包した呪いだ。オレがずっと死を迎えた者の情念を蒐集し作り上げたものだ。この重みに耐えられるか?」

 なるほどこれがイングリッドの秘奥なのだろう。万全な状態ならいざ知れず激しく消耗している今、耐えられる自信はない。しかして逃げられる術でもないだろう。イングリッドが勝負を決しようとしているのは明白だ。ならばイングリッドを上回る力を衝突させ打ち消すほかない。

「貴女にはもったいないけどその術を防げそうもないしわたしもとっておきを出すしかないわねぇ……!」

 ピヨーテの周りに星形のような魔術陣が浮かび上がり人の形をしたモノが現れる。黒炎と同じく黒い人形はピヨーテを介して世界魔力で作り上げられた魔神である。

 イングリッドの魔術陣に比べれば高さは三メートルぐらいしかないが世界魔力で作られているだけあって無限に近い魔力を秘めている。しかしイングリッドの秘奥もまた膨大な時間をかけて蒐集した死の力だ。果たして打ち勝てるかどうか。

 互いに奥の手を出し勝負を仕掛ける瞬間を計っている。地上は恐ろしいくらいの静寂が包み、東の空が白み始めていた。徐々に日の光が二人を照らそうとする。陽光が二人の間に差し込むと示し合わせたかのように二人は攻勢に出た。

 イングリッドの魔術陣より溢れ出る呪いという呪い。それは炎、風、水、雷、泥土、霧、音、光、魔力波と、ありとあらゆる形態をもってピヨーテを飲み込もうとし、呪いに覆われる中ピヨーテは魔神の力をもって呪いを切り裂いていく。呪いが肌に触れるたびそこから肉体を蝕まれ魂を冥界へと連れ去ろうする訃音を鳴らす。

 ピヨーテの視界に死が広がる。あらゆる時代のあらゆる死がピヨーテの意識を塗りつぶそうとする。

 ――――これはローマとの戦いで作られた死――――これは――――ゲルマン人との戦いで作られた死――――これは七王国時代の戦争で作られた死――――黒死病の猛威で作られた死――――時を越えてあらゆる死が立ち塞がる。

 ――――これは第一次世界大戦の死――――米英戦争――――ナポレオン戦争――――百年戦争――――表の世界の死だけではない。魔導社会の死も圧し掛かってくる。

 ――――魔導大戦――――組織間戦争――――数々の死が冥界へ引き摺りこもうとする。

 意識が、記憶が、魂が、肉体が、精神が塗り潰されていく。黒く深い闇の底に沈むような形容のできない感覚。立っているのか浮いているのか分からない。時間の感覚も不安定になる。聞こえるのはただ己の心音のみ。

 ――――生きている、らしい。イングリッドの秘奥とは冥界へ転送するものだったのか。手足の感覚はなく今考えている思考がどこで行われているのかも分からないがまだ存在している事はわかる。

 ――――幻覚ではない。始めに受けた肉体を蝕む痛みは本物だった。なればこれはイングリッドの秘奥に屈してしまった結果なのか。

 まったく笑えない。あんな糞生意気な小娘に舐められたままで終わることは認めない。

 イギリスが築いてきた死だって? そんなもの耐えて切って見せよう。魔女歴はわたしのほうが長いのだ、とピヨーテは嘯く。イングリッドが見せた死の中で最も古かったのは紀元前五十五年のローマとの戦いだった。

 ――――――――なんだその程度か。

 その程度の歴史の重みで圧し潰そうというのか。

 ピヨーテは笑った。腹の底から。イングリッドの見せる死の時代をピヨーテは歩いてきているのだ。後から蒐集した死如きで圧し潰されかけるとは片腹痛い。歴史はもっと重いものだ。死だけでなく生もあり喜びもある。それらを排除した歴史の重みなど屁でもない。

 塗り潰されている感覚を取り戻す。確固たる意識を持ち、記憶を繋ぎ、魂を励起させ、肉体に力を宿し、精神を保つ。

 ここは冥界などではない。イギリス、カーディフにある魔導省本部だ。そこでイングリッドの秘奥に呑まれているだけだ。

 ピヨーテは呪いを弾いて大地に立つ。魔神はまだ存在している。視界を覆う呪いを振り払って現実へ帰還する。そこには驚嘆の表情を浮かべるイングリッドがいる。何かを叫んでいるようだが聞くべきことは何もない。その代わり言うべきことが一つだけある。魔神で呪いを吹き飛ばしイングリッドの前に立つ。

「今のわたし。なんて呼ばれてるか教えてあげるわ」

 イングリッドは魔女のプライドからか防ごうとも逃げようともせず立ち続ける。その彼女に魔神が腕を振り被り強烈な拳を叩きこむ。

「豪腕の魔女って言われてるのよ……!」

 イングリッドは地面に崩れ落ち、動かなくなる。心臓を潰したわけではないので死んではいないだろう。だが動かすべき肉体が機能しないのであればもう戦闘は不可能だろう。

 イングリッドを倒した直後ピヨーテもその場に片膝をついた。魔神も消滅しさらに横に崩れる。彼女も肉体機能の限界を迎えていたのだ。

 痙攣を起こしながらも土を握り地下へ向かったローザスの元へ行かなくては、と思うものの体は満足に動かなかった。





 地下十八階まで応戦しながら下りてきたもののローザスは限界が近いと内心焦燥を感じていた。受けた被害から脳裏に点滅している勝てないという事実。地力が違いすぎる。元より優秀な魔術師であった上に鬼の力を持っている。残念ながら日本秘術に疎いローザスは鬼になることでの恩恵がわからなかったが、魔女が不老となるように鬼も不老であるのだろう事は外見から見出せる。しかし分析すればするほど弱点という弱点は見出せない。放つ魔術こそ防ぐことができているがローザス自身の魔力は無限ではないのだ。かといって世界魔力を運用する結界を張ったところでその強度はローザス自身が張る結界、魔障壁に遠く及ばない。それでもないよりはましであるという現状に頭を抱える。

 通路を駆け抜けながら壁に魔術陣を出現させて結界を張っていくもののその悉くを破られていく。

「どこまで逃げようというのだ? つまらぬ結界ばかりでは何の面白みもないな」

 背後から聞こえるレムドゥーサの声に焦燥感が増していく。

 認めよう。大英帝国魔導省魔導大臣レムドゥーサ・ヴィドラークは紛れもなく怪物であると。

 通路を曲がるとそこから天井がアーチ状になった幅が広い廊下になっていた。柱が左右に立っており柱廊のようだ。神殿めいた作りに一瞬の驚きを受けるものの戸惑っている場合ではない。

 柱廊の先はこれまで以上に堅牢で分厚く魔導施術で強化された観音開きの大扉があった。押しても引いても頑として動かない扉を前にローザスは歯噛みをした。つまりここが魔導省の最深部というわけだ。

 柱廊の壁には他にどこかへ繋がる扉もなく廊下としての意味しかない。

 開かない大扉を殴る。もう先がない。逃げる事は不可能。後ろからレムドゥーサがゆっくり迫ってくる。

 魔術師としての力量には明確な差がある。魔障壁と結界を張ったとしても一撃、二撃防いだところでいずれ破られる事は目に見えている。打つ手なし。ローザスは再び壁を殴りつける。

 ――――――――と。

 柱廊の入り口にレムドゥーサの姿が見える。

 距離にして二〇メートル。

「よく逃げたものだがここが終点だ。地上の戦いは終わったらしい。地下にお前の仲間が入り込んできているようだがお前を始末した後で冥界へ送ってやろう」

 無駄だと思いつつローザスは言い返す。

「こちらには豪腕の魔女がいる。彼女はここへ辿り着くぞ」

 英国魔女を破りピヨーテが救援に駆け付けてくれる、そんな希望を僅かに胸に抱くものの可能性は低いと分かっている。案の定レムドゥーサは僅かな希望を打ち砕いた。

「魔女を頼みとしているのなら残念だったな。豪腕の魔女はイングリッドと相討ちになったようだ。ここへ助けには……来ない」

 相討ち、とレムドゥーサは言った。英国魔女の力を侮っていたわけではない。それでもピヨーテならば倒せると心のどこかで思っていたのだ。それが勝ち切れず相討ちになるとは。流石に動揺を隠せない。

「やられたのか!? ピヨーテが!?」

 レムドゥーサは低く笑いローザスの思惑が外れたことを嘲笑った。しかも相討ちとなったのならイングリッドも倒された筈なのだがレムドゥーサは彼女の心配する素振りは一切ない。

「同じ魔女が相手ではさしもの豪腕の魔女も苦しめられたようだ」

 レムドゥーサは一歩ずつ歩いてくる。響く足音にローザスは弾かれたように動揺していた意識を切り替えた。

 ――――魔障壁、防御結界で耐えられる相手ではない。魔術師としての力量は奴が上だ。しかしだからこそそこに可能性を見出す。

 ――――距離が狭まる。一五メートル、一〇メートル。レムドゥーサの正面に魔術陣が出現する。呪いを放つつもりなのだろう。逃げ場もない万事休す。だが唯一希望はある。

 ローザスはレムドゥーサより早く魔術を行使した。それは結界魔術。ただしレムドゥーサも結界内にいる。しかしレムドゥーサが展開していた魔術陣が霧散していく。

 ――――これは魔術封じの結界だった。魔術を封じた今、お互いに素の人間の力で対峙している。ローザスはそこに掛けたのだ。

 魔術陣が魔術封じの結界によって打ち消されたレムドゥーサは瞬時に状況を理解していた。ローザスはレムドゥーサが結界外に出る前に駆け出していた。腕力で打ちのめし決着をつけようと考えたのだ。

 ――――しかし。

 その考えは甘かったと一瞬後に思い知らされる。

 勢いをつけたままレムドゥーサに殴りかかったローザスの拳は確かにレムドゥーサの顔を捉えた筈だった――――が。

「追い詰められて魔術を捨てる策に出るとは思わなかったぞ」

 ローザスの右拳はレムドゥーサの顔面を殴ることなく彼の右の手の平に受け止められていた。

「魔術封じの結界の発動のタイミングは見事だった。魔術師は魔術に傾倒するあまり純粋に肉体を鍛えないきらいがある。故に魔術を封じられたとき手も足も出なくなる」

 右拳を掴むレムドゥーサの右手に力が籠る。

「だがらこそ相手が俺でなければ希望はあっただろう。いや仮に肉体を鍛えていた者が相手でも可能性は大いにあった。しかし鬼となった俺に生身で挑むのはいささか無謀だったな」

 そういったレムドゥーサは掴んだローザスの右手を引いてローザスが前につんのめりそうになったところに左拳を打ち込んだ。左拳はローザスの腹にめり込み、力のみで吹き飛ばした。

「鬼の力の本質は不老であることではない。肉体一つで全てを壊し得る怪力こそ鬼の本質なのだという。故に腕力勝負に出ることは愚策だったな」

 殴られただけだというのになんという膂力だろうか。四つん這いになりながら立ち上がろうとするも腹を殴られたことで胃や内臓の動きが明らかに本来の機能を果たせなくなっていた。

 せり上がる嘔吐感に耐えられず血混じりの吐瀉物を吐き出す。どこかの臓器が内臓破裂を起こしているらしい。大扉を背にして何とか立ち上がる。キャロルに受けた損傷も相まってまともに戦える状態ではない事はローザスは嫌というほど理解していた。それでも結界は解かない。魔術の勝負は結果が見えている。だが怪力なら当たりさえしなければまだ可能性はある。息を整えつつレムドゥーサを見据える。悠然と佇みこちらを見る姿は半死人など放っておいてもくたばるだろうと憐れんでいるのか。

 既にローザスの意識はレムドゥーサを倒す事からどうやって逃げるかに変わっていた。脳裏に死という文字が見え隠れしている。死んでしまったら元も子もないのだ。いかにこの場を切り抜けて生き延びられるかを考える。

「戦いは終わりだ。お前を殺した後、英国魔術の再興をしなくてはならないのでな」

 レムドゥーサが腰を落とし両手の拳を構える。

 どう来る、と冷静に見極める。一秒、いや一瞬、否、刹那でいい。レムドゥーサに隙ができれば逃げ切って見せよう。そう決意した瞬間、レムドゥーサが地面を蹴って肉迫してくる。振り被るは右拳。それさえ避けられれば今、感じているすべての痛みなど無視して逃げる。そうしなければ本当に死んでしまう。拳はローザスの頭を狙っている。当たれば首ごと吹き飛ぶだろう。近付く右腕をローザスは下から左手で弾こうとする。それと同時に身体を逸らして躱そうとする。

 ――――が。

 右腕を弾こうとした左手は確かにローザスの頭から狙いをずらし後ろの大扉を粉砕した。しかし粉砕されたのは大扉だけではなかった。左腕があらぬ方向にねじれて破裂していた。その痛みをローザスの脳は受け取るのを拒否するように全身の痛覚が麻痺していた。

 拳を躱すことはできたが変わりに左腕を失い逃げるタイミングを失したローザスはレムドゥーサにとって格好の標的だった。体を翻し強烈な蹴りをローザスの胸に放つ。肋骨が砕ける音が聞こえてなお、その威力は背にしていた大扉を崩壊させるほどであった。

 崩壊した大扉の部屋の中でローザスは目を疑う光景を目の当たりにしていた。

 大扉があれほど強固だったこと。その理由がローザスにはすぐわかった。

 そこにあったのは――――。

「メテオ…………マテリアル……」

 山のように積まれた大量の宇宙魔力を秘めた魔石であった。

 なるほど確かにこれだけの魔石があるのなら、潜在的な魔導省の力はかなりのものになる。レムドゥーサとイングリッドのみでも多組織に対する脅威を見せつけることができるわけだ。

 メテオマテリアルを目にしたローザスにレムドゥーサは誇らしげに言った。

「見事だろう。これだけのメテオマテリアルを持つ組織は存在しない。これはいずれ魔導省の大きな力として運用されるものだ。――――思わぬ冥土の土産となったな。さあ心置きなく逝くがいい!!」

 這いつくばるローザスの前に立つレムドゥーサは今一度拳を振り被り今度こそ止めを刺すべく振り下ろす。

 ――――この瞬間。

 ローザスは魔術封じの結界を解き同時に魔障壁を展開した。魔障壁の中心にレムドゥーサの拳がぶち当たる。怪力はただの物理攻撃でしかないのに魔障壁を削っていく。それでも、数秒は待つと確信していたローザスは一つの賭けに出た。

 事ここに至ってメテオマテリアルが現れたことで一つの可能性が生まれた。

 宇宙魔力を秘めたメテオマテリアル。それを使用したのが宇宙魔術だ。それを今この場で行使する。ローザスはもともと第二聖杯の製造を目指していたのだ。当然魔導省が第二聖杯を発現させる為に実験を行っていたことも知っている。その技術はわからないが独自に研究し、ある程度ものにはなっている。だからこそピヨーテにメテオマテリアルを入手してきてもらったのだ。

 ローザスは魂にある魔術器官を励起させて取り込むべき魔力を生物魔力でも世界魔力でもなく宇宙魔力に切り替える。

 器官に流れる宇宙魔力はローザスの魔術行使のプロセス――――術式の許容を超えていた。人間は宇宙に生身で生きられる生物ではないのだから宇宙魔力を取り込めばこうなることは目に見えていた。それでもこの場を打開するためにはこれしかない。

「貴様、メテオマテリアルから宇宙魔力を取り込んだのか! 愚かなことを!」

 焦燥感の孕んだ怒声をレムドゥーサが上げる。彼にとっても宇宙魔力を取り込むというローザスの所業は予想外だったらしい。

 ローザスは宇宙魔力を取り込んだ瞬間から身体の内側が爆発しそうな感覚に囚われる。取り込んではいけないものを取り込んだ時のような、脳が危険を知らす警鐘を鳴らしているのだ。単純な魔力波を撃つだけだったのだがレムドゥーサに照準が合わず、というより取り込んだ宇宙魔力が術式の許容を超えているせいでローザスの肉体から溢れ出ているのだ。意識が途絶えたり戻ったりを繰り返し――――戻る度にまだ生きていることを確認するものの体がいう事を利かないためにレムドゥーサを確認できない。

 暴走にも等しく放たれた魔力波はその実、強力なエネルギーが爆発したような状態になっていた。メテオマテリアルの保管庫を破壊し地下そのものを揺るがし始めていた。

 確実にレムドゥーサにも届いているはずだが、鬼となったレムドゥーサにどこまで通用するかは皆目見当もつかない。

 地面に伏しながら爆心地の中心にいるローザスは顔を上げてレムドゥーサを探す。奴は柱廊に下がって暴走し飛んでくる魔力波を防いでいた。宇宙魔力を取り込み引き起こした爆発は驚くべきことに鬼であるレムドゥーサを圧倒していた。

 不味いのは宇宙魔力に対応しきれていないローザスの魂、肉体がともに異常をきたしてきている事だ。このままでは自滅してしまう。取り込む魔力量を絞ろうとするがそれすらも制御できない。

 暴走する魔力波は保管庫を崩壊させ、柱廊や他の部屋、上階をも破壊しつくしていく。

 その中で耐え続けるレムドゥーサはやはり規格外と言える。

「メテオマテリアルを不完全ながら行使した事は称賛に値しよう。しかし自ら身を滅ぼすその行いは愚蒙極まりないぞ!」

 口惜しいがレムドゥーサの言葉を否定することはできなかった。このままでは本当に自滅してしまう。万策尽きて何もできない。肉体がいう事の利かない中、憤懣をぶちまけるように力を振り絞って吼える。

「ぐうぅぅぅぉおおおおおお! 俺は……俺はこんなところでッ! 認めんッ! 認めんッ! どあぁあぁあぁぁぁーーーーッ!」

 肉が裂けて身体中から鮮血が噴き出る。体が炭のように黒くぼろぼろと崩れていく。これでは愚蒙と言われても仕方がない。だが、最後の暴走は保管庫だけでなく魔導省本部そのものを揺るがした。

 地上より一〇〇メートル以上の深さを持つ本部が崩壊していく。柱廊の柱が重みに耐えられず倒れていく。壁に亀裂が入り天井が次々に崩落していく。轟音を立て、粉塵を撒き散らし何もかもが破壊しつくされていく。

 しかしてローザスが巻き起こしたこの災厄はたとえ鬼となったレムドゥーサとて耐えきれるものではなかった。地下深くに為す術なく生き埋めになるだろう。この致命的な状況にレムドゥーサも取り乱し怨嗟の声を吐き出す。

「馬鹿な……! ありえんッ! ありえんぞッ! お前如きに魔導省が! この俺が! このレムドゥーサ・ヴィドラークが! 敗れるというのかッ!? ――――貴様ぁあああぁぁぁッ!」

 その声を最後にレムドゥーサは崩落に巻き込まれ、粉塵に紛れて見えなくなった。体が黒く朽ちて人間の機能を維持できなくなってなおローザスから溢れ出る魔力波の勢いは止まることを知らずすべてを壊していく。

 ――――ここに。

 魔導大臣レムドゥーサと彼にとっては有象無象の魔術師でしかなかったローザスの戦いは終幕した。その結果は魔導省本部の壊滅を伴い、引いてはアルビオン、MUO混成軍と大英帝国魔導省の戦争に終わりを告げたのだった。

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