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Master Glagueis  作者: 加賀アスナ
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バトル・オブ・ブリテン

 ピヨーテがMUOで二日ほど滞在している間に事態は動いた。

 大英帝国魔導省魔導大臣、レムドゥーサ・ヴィドラークが現在ルーマニアの魔術結社を訪れているという情報が入ったからだ。そして現地のMUO職員を通じてルーマニアの組織と渡りをつけ、しばらくルーマニアに留めておくように命令を送った。その間にピヨーテ含む魔導(Magic)統一(Unified)(Organi)(zation)(Forces)が組織されアルビオンの魔術師達も加わりMUOFはアメリカを発ちイギリス、スコットランド第二の都市エディンバラへと向かった。

 ジェット機を数機チャーターしアメリカからイギリスへ移動する。団体旅行客を装い、エディンバラ市街のあらかじめ予定していたいくつかのホテルに分かれて宿泊する。

 MUOから派遣された魔術戦闘員は六十七人。アルビオン魔術師五十八人。総勢百二十五人の軍勢だ。対する魔導省もゆうに百人を越える人数がいる。しかし現在最も警戒すべき大臣レムドゥーサは不在でグラスゴーのアルビオン本部とカーディフの魔導省本部の警護に人員を分けているはずで脅威のレベルはやや下がる。さらに第一目標であるアルビオン本部奪還により拘束された実力統血派と中立派の魔術師を解放することで戦力の増加を見込める算段でもあった。

 それと並行してMUO本部ではグラスゴーより逃走した魔術師および魔術学院生の保護に動き出している。保護した魔術師がある程度揃い次第援軍として参戦してもらうように交渉もしている。何よりあと数時間もすればMUOから正式に公式介入宣言が出される。それに合わせてアルビオン本部へ進軍する。速やかに奪還することが要求されるが最悪レムドゥーサが帰陣するまでにどうにかできればいい。アルビオン本部の奪還ができれば魔導省も捨て置けない脅威となる。他の組織に戦争を仕掛けることを躊躇わせる事もできるだろう。その後、魔導省の本拠地であるカーディフへ進攻する。どの程度の戦力を揃えているのかは分からないが最終的に無力化することが最大の目的となる。

 ピヨーテはアルビオン本部か魔導省本部に囚われているローザス達の救出を優先する。罪人として捕らえられているなら牢に収監されているはずだ。つまり目指すべきは牢となる。

 エディンバラのホテル一つ、地上三十五階のホテルゲストハウスエディンバラにピヨーテを含む部隊は泊まっていた。公式介入宣言が出るまで刻一刻と過ぎる時間を待つ。

 ピヨーテが配属された部隊の隊長はグラッドストンの計らいもあってシークレットサービスにいたウィリアム・ブレイキーだった。彼はおよそ十人を収容できる部屋をオーダーし三十三階のエグゼクティブルームを指定した。そして団体客を装った彼らは服装こそ一般人だが、その佇まいは異様なものだった。リビングスペースの上質な革のソファに座るブレイキーを見据える。ブレイキーはMUOとの通信を行う機器を耳に装着し宣言を待っている。ピヨーテは他の隊員たちと違い隣のベッドルームの窓から眼下に広がる光景を眺めていた。

 魔水を飲ませた二人は今のところ無事だ。五体満足であるのは間違いない。それを鑑みるに牢に捕らえられていると考えていいだろう。二人を連れて行ったフリーマン・クロムウェルの言動からいずれは罰するのであろうがまだその時ではないのか、あるいはもう迫っているのか。

 外面は余裕のある態度をグラッドストンやブレイキー、バルフォア達には見せてきた。しかし内面では徐々に焦燥感がじくじくと彼女の心を支配しつつある。それはさらに怒りへと転じていく。

 ――――舐められた、虚仮にされた。支配下にあるローザスと菫を連れ去った。それは許されざる侵掠だ。

 奪われたなら奪い返す。誇りを汚されたならそれを上回る冒涜をもって地に貶す。それが魔女ピヨーテの矜持だ。

 彼らが犯した罪の清算を告げに行く。

 窓から見える光景には夜の帳を下した街並みが広がっていた。人々の営みを現す人工の光に照らされていく。忙しなく小さな光が動く。自動車のライトだろう。

 一つまた一つと建物に光が点る。誰かの家なのかそれとも夜の店の明かりなのか。なべて世界は事もなく進んでいる。だがそれは表の世界の話。今から裏の世界は動き出す。夜の闇に紛れて表の歴史に記されることのない戦いを始めようとしている。

 胸が苦しくなる感覚をピヨーテは覚えて一つ息を吐く。心の臓が早鐘を打つ。妙な高揚――――否、興奮だった。戦を前に身体が疼いている。

 水平線に見える北海が荒れている。世界もまた記録されない戦いなれど戦地に赴く者たちを鼓舞しているのかもしれない。

 ――――――――と。

 隣の部屋からピヨーテに声が掛かる。十人強の人間がいるリビングスぺースは高級エグゼクティブルームとは思えない密度であるが皆厳粛な表情を浮かべている。そんな中ソファに座っていたブレイキーが立ち上がる。

「たった今、MUOから正式にアルビオンと大英帝国魔導省の抗争終結に向けて公式介入宣言が出された。もちろん魔導省にも通告されている。魔導大臣レムドゥーサの耳に入るのも時間の問題だろう。奴がイギリスへ帰国する前にアルビオン本部を奪還する。――――作戦開始だ」

 冷静に告げてピヨーテに向き、自身についてくるようにいい先陣を切って部屋から出ていく。その背中にピヨーテが続きさらに魔術師達が規律よく続いていく。

 フロントでチェックアウトを済ませてウェーバリー駅へと向かう。近場のホテルに滞在していた部隊も次々に駅へと向かっていく。

 鉄道でグラスゴーに移動しアルビオン本部に最も近い駅で下車し徒歩で乗り込むことになる。だがおそらく魔導省の尖兵は駅を含めてイギリスのあらゆるところに潜んでいるだろう。すでに介入宣言が出されているため魔導省も厳戒態勢を敷いているに違いない。

 グラスゴーまではおよそ一時間。グラスゴーへ近づくに従って強力な魔力の波を肌で感じつつある。迎え撃つ準備は相手も万全なようだ。もっとも一般人の目がある場所で事を起こすことはないはずだ。つまり列車に乗っている今が唯一、無事を保証された時間になる。

 怪しまれないように各車両に分かれて乗車しているがお目付役のブレイキーは一人分離れてピヨーテを監視している。顔色はピヨーテの知るいつもの表情で別段変わった様子はない。視線を他の隊員に向けるとMUO魔術師は冷静であるがアルビオン魔術師は僅かだが高揚した気持ちが態度に表れていた。それは自分たちの所属する組織を取り戻す事への奮起の念と袂を分かち裏切った魔導省に追従した英国魔術師達と戦う事への憎悪の念が高揚感へと繋がっているからだろうか。

 列車はグラスゴー・セントラル駅を過ぎて直に下車する駅に着く。にわかに緊張の色がMUO魔術師の顔にも表れてくる。

 目的の駅に到着しMUOFは下車して郊外に聳えるアルビオン本部へ進軍を開始する。

 郊外へ続く道に人気はなかった。それどころか駅から出て一分も歩けば異様と思えるほど周囲が静かだった。旧市街の街並みと風景の残る郊外はもともと人気の多いところではない。都市開発から外れた事も相まって古いだけの地域となっていた所為もあるだろう。しかしそれを鑑みても今の様相は奇妙であった。言うまでもなく人払いの術が広範囲にかけられている。さらにアルビオン本部に近付くにつれて人払いの結界、範囲内の音を遮断する防音の結界、同じく範囲内の光景を遮断する不可視の結界が何層にもかけられてあった。もはや陸の孤島と化している。結界内の出来事は決して外に漏れることはなく一般社会の人間が知るのはすべてが終わった後になるだろう。

 前方にアルビオン本部の敷地を囲む柵と大門が見える。その前にMUOFの迎撃に当たる魔導省魔術師が列を作り並んでいた。全員が魔導服を纏い魔術に対する耐魔力を底上げしている。

 先頭を歩くブレイキーが足を止める。大門までの距離は一〇〇メートルは離れているだろうか。魔導服からもMUOFの姿は見えているはずだ。二つの勢力は対峙し今まさに会戦が行われようとしていた。

 ブレイキーは振り返り言った。

「我々は魔導社会の秩序に挑戦する大英帝国魔導省を制圧する! そして、アルビオンの誇り高き英国魔術師達よ、大義は我らにある! 今よりアルビオン本部を奪還する!」

 MUOFの咆哮が沸き上がる。ブレイキーは踵を返し魔導服達に向けて掛け声と共に手を振り下ろす。

「行けぇッ!」

 それと同時に待機していた者たちが走り出す。隊員たちに追い抜かれピヨーテは出遅れる。しかしもう一人出遅れている者がいる。ブレイキーだった。あくまで彼はピヨーテのお目付が本分らしい。突撃に遅れたピヨーテに合わせて彼も残っていたのだ。そんな彼を呆れた表情で一瞥した後、ピヨーテはゆっくりと歩き出した。

 魔水を体から放出し頭上高く打ち上げる。歩きながら魂の魔術器官を意識し魔力を高め詠唱し魔術を行使した。それはピヨーテ自身に作用するもので効果は彼女の両腕に現れていた。目に見えるほどの濃密で煌めく魔力が両腕に纏わりついている。まるで燃え盛る炎をそのまま腕に張り付けたような魔力の奔流。その色は中心ほど黒く外に流れていく魔力は青紫に輝いていた。

 彼女に気づいた彼らが見逃すはずもなく二人の魔導服が距離にして一〇メートルに迫ったところから魔術を放ってくる。質量のある呪いであり、肉を焦がす熱量を持った風であり、魂を蝕む霊障を起こす苦痛の波だ。どれもまともに受けては一溜りもない威力を秘めたもの。間違いなく相手はピヨーテを殺しに来ている。呪いは肉体になんの損傷も与えないが意識を混濁させ二度と正常になることはないし熱量を持った風は受けただけで全身に大火傷を負わすものだ。そして霊障を起こす波は肉体でも精神でもなく魂そのものを破壊しに来ている。

 肉体、精神、魂。どれか一つでも欠損すれば人間として正常に生きるのは不可能になる魔術だった。

 ――――が。

 ピヨーテは迫る魔術へ向かって走り出す。両腕の黒炎を振るい襲い掛かる魔術を一つ残らず相殺する。

 魔術の強さは術師の力量に比例するが魔術戦の場合、魔術の相性と術師の戦闘員としての練度も重要となる。一概に魔術師として優れているのみでは魔術戦ではその力を発揮できない。

 ピヨーテは両腕に纏わせた黒炎――――それは単純にピヨーテの魔力に質量を持たせただけの魔力波であり襲い掛かる魔術に対する相性など全くないものであったがその悉くを相殺して見せた。ただの魔力波が物理的、霊的問わず死に至らしめる威力を秘めた魔術を打ち払った事は魔導服の一瞬の動揺を誘うのは十分だった。一瞬の虚を突いて鋭い槍状に変化した魔水が天より降り注ぐ。魔導服そのものの耐魔力を持ってしても魔水の刃は防ぎようがなく二人の魔術師は串刺しにされ絶命した。槍は一度魔水に戻りピヨーテの周囲で再び槍に変化した。

 地面に倒れる二人を一瞥もすることなくピヨーテは大門に向けて走り出した。





 アルビオン本部地下五階の牢獄でローザスは戦闘が始まったことを感じていた。数時間前からアルビオン本部で異常なほど高まった世界魔力。幾重にもかけられた結界が原因であることにローザスは気づいていた。結界の効果は不明だが人払い、防音、不可視、魔術封じ、特定の魔術の威力上昇、異界化、幻影、耐魔――――想像するだけでこれだけはあげられる。厄介なものは魔術封じと異界化だろうか。

 結界は必ず結界を発動させている術師か魔術陣がある。この牢にも目の前に魔術陣が地面に彫られている。

 術師か魔術陣が結界に発動と効果を維持する魔力を供給しているのだ。そして厄介な魔術封じと異界化の結界の場合、ともに術師と魔術陣を探し無力化するのが難しいのだ。

 目の前にある石床に彫られた魔術陣を無効化させるには地面を掘り起こし魔術陣を壊さなくてはならない。魔術を封じられた結界内で自力で地面を掘り返すのはほぼ不可能に近い。穿孔機や切削工具類、つるはしやピッケル類がなければ難しい。 異界化の場合、単純な話巨大迷路に迷い込むようなもので術師、魔術陣を探すのが困難であるからだ。だが魔術封じ結界には唯一の欠点がある。当然であるが魔術封じ結界の中では魔術は使えない。つまり広範囲に魔術封じ結界を掛けることは魔術での勝負を放棄することになる。

 しかし例えば人除けの結界内で魔術封じの結界を内側に展開する事はできる。その範囲だけ人除けの効果はなくなる。その事からわかるように魔術封じの結界は使い勝手が非常に悪い。だからこそごく狭い範囲で行使する事なる。

 ローザスは階上に神経を向ける。行使した魔術が地面や壁を穿ち、抉るたびに届く衝撃と音に意識を傾ける。相当な魔術戦を繰り広げているらしい。

「ひぇッ!」

 アミラが破砕音が届く度に仰々しい悲鳴を上げる。

「ローザスさ~ん…………私たちって大丈夫なんでしょうか?」

 怖がっているのかわざとやっているのか判断がつかないがローザスは反応してやる。

「アルビオン派の魔術師達かあるいはピヨーテが攻めてきたのは間違いない。どこが主戦場になっているのかは分からないがここまで音が届くほど派手にやっているなら牢にいる俺たちのことなど気にすらしてないだろうさ。俺たちが気にするべきは今戦いを仕掛けている者が俺たちをここから出してくれるのかどうかだ」

 ローザスに賛成するようにグレアムが言葉を加える。

「そうだぞアミラ君。焦ったところで我々は無力なんだ。助けが来ることを祈るしかないわけだ」

 しかしアミラは緊張感があるのかないのか分からないほどに起こるかもしれない嫌な想像をやはり仰々しく一人語る。

「でもでも、人質にならないと判断したライネック派の人たちが下りてきてこの柵の前から私たちを始末しに来たらどうしよう。いやそれ以前に本部が戦いの余波で崩れちゃう可能性だってあるし、あ~んもうやだぁ」

 ヒステリーを起こしているわけではないのだろうが喧しくて敵わんとばかりにローザスはアミラを放置してグレアムに喋りかけた。

「グレアム。どう思う? 攻めてきているのはおそらくアルビオン派の魔術師達だと思うんだが」

「そうだな。ここまで届く衝撃にしても一か所から届くものじゃない。君の期待している助け人ではなくきっと私が期待しているアルビオン派の魔術師達だろう」

 グレアムと意見が一致してローザスの推測は信憑性が増した。とはいえローザスが頼みの綱にしているピヨーテは何をしているのか。それともアルビオン派の行動の方が早かっただけなのか。どちらにせよアルビオン派の魔術師が牢を制圧下に置けば脱出は可能だ。ここから出ることさえできればいつでもピヨーテと合流できる。問題は菫がカーディフへ連れていかれたことに何か対策を立てなければならない事だが。

 ――――――――と。

 先ほどより衝撃と破砕音が近くなった。エレベーターホールの方に意識を向ける。もっともこの非常時にエレベーターが動いているとは思えない。ローザス達はエレベーターで連れてこられたがおそらく階段があるはずで助けが来るとしたらそちらから来るだろう。

「さて。我々の救世主が来るか、やぶれかぶれになったライネックの魔術師が来るか。今しばらくの辛抱だな」

 そう呟くグレアムに内心逸る気持ちを落ち着かせてローザスはベッドに腰掛ける。

 静かになったローザスにグレアムが言った。

「上の階で魔術戦が行われていると思えばさすがに緊張してしまうな」

「ああ。魔術を封じられただけでここまで無力になるとは人間とは脆いものだ。この鉄柵一つで何もできなくなる。今ライネックの魔術師が来ると思えばさすがに恐怖を覚える」

 思わず弱音を吐くとグレアムはからからと笑った。

「その恐怖は大事だぞ。人間であるからこそ感じられる感情だ。不死者や吸血鬼にはないものだからね」

 こんな状況でありながら講釈するとはさすが学院で講師を務めているだけはあるとローザスは思った。

「まあ、待とうじゃないか」

 グレアムはそう締めくくって階上で行われている魔術戦に耳を傾けた。ローザスもそれに倣ったが、なおもアミラのぶつくさ文句を垂れる声がローザスの耳に入ってきた。





 アルビオン本部地下三階の廊下では熾烈な魔術戦が繰り広げられていた。優美な壁紙、高価な絨毯は抉り、穿たれ、炎上している箇所すらあり悲惨極まりない。天井に等間隔で備え付けられた洒落た照明はほとんどがその機能を失い天井そのものが崩落している部分もある。

 ピヨーテを含む部隊は地下の牢を目指し進軍していたものの牢へと続く廊下と階段に魔導省魔術師が陣を作り徹底抗戦の構えを見せたことで膠着状態へと戦況が動きつつあった。そしてピヨーテ自身はやや面倒な状態にされていた。

 ピヨーテが放出する魔水はおよそ八リットル。魔術により水そのものの強度を増すことで刃、銃弾、盾と自在に変化させて物理的攻撃と防御を成立させている。しかし強度が増したところで性質は水である。熱を加えられると蒸発現象を起こし気化してしまう。故に炎を主体においた魔術を行使され、さらにピヨーテを含む範囲に気圧を下げる結界を展開され常温で沸騰するように仕向けられて持参した魔水八リットルのうち六リットルが蒸発。残りの二リットルは辛うじて体内に戻すことができたが蒸発した六リットルは込めた魔力ごと霧散してしまったため肉体、魂ともに損傷はないが思わぬ痛手を負ってしまっていた。『無駄に機転を利かすわね……』と内心愚痴って便利な攻撃手段を失ったことに歯噛みする。

 膠着状態になって得をするのは魔導省側でありMUOFとしては首尾よく進軍したいところだった。すでにMUOFは三十人余りが戦死し負傷者は半数を超えている。甚大な被害が出ているものの魔導省側もそれに匹敵するくらいの被害を出していた。外にいた大門と柵を守っていた守備隊は壊滅しそのほとんどが戦死を遂げている。

 MUOFが本部内に進攻して一階を制圧してから魔導省陣営は二階を死守する部隊と地下一階を死守する部隊に分かれてアルビオン本部の防衛を続けていたものの地下一階の部隊は地下三階まで押し込められていた。だが、ここにきて互いの力が拮抗し膠着に至っている。

 魔導省陣営とMUOFは一〇メートル強の廊下を挟み牽制の魔術を互いに放つものの進展は全く見られない。埒のあかない状況にピヨーテは隣にいる魔術師に状況確認をさせた。牢を目指す地下制圧部隊は二十人弱。全員がまだ戦闘可能の状態ではあるが軽度だが肉体的損傷を負い、魂の損壊である霊障を負っている――――と報告を受ける。ピヨーテも魔水を失って痛手を被っている。ブレイキーでさえ息遣いが荒く表情は険しい。貴重な時間は刻一刻と過ぎているというのに。

 廊下の角から顔を出し魔導省陣営を観察する。魔術を防ぐ障壁を幾重にも展開しとにかく時間を稼いでいる。レムドゥーサの帰還まで耐える腹積もりとみていいだろう。

 アルビオン本部の制圧後の事を考えるとこれ以上MUOFの犠牲は避けたいところだ。となるとピヨーテは己が出張るしかないと結論付ける。今この場において力の温存は宝の持ち腐れと大差ない。

 廊下は直線、正面突破しかないが魔障壁を展開されておりそのすべてを破り魔導服連中を倒さねばならない。

 通常、結界と障壁は行使している魔術陣もしくは魔術師を無力化することで突破するものだが今回の場合障壁自体を破らねばならない。一度展開された障壁を破るには障壁の強度を上回る魔術を衝突させ、障壁が消費する魔力量に対して供給が間に合わないようにするしかない。これは行使された障壁自体がすでに展開されたものであり魔力供給源さえ確保できれば半永久的に稼働できるからである。故に障壁が要求する障壁を維持する魔力と、攻撃を受けた際に損傷した箇所を修復する魔力の供給が間に合わないほどの被害を加えることで障壁を自壊に導き破ることができる。だがこれは純粋に術師同士の力量が出てしまうもので破る側は当然展開された障壁より強力な魔術を行使しなければならない。且つ障壁が自壊するまで攻撃を加え続けなければならない。対して防ぐ側は攻撃を受け続ける障壁の維持の為に魔力を動員し続けなければならない。

 ピヨーテは大門前の防衛隊を屠った黒炎を両腕に展開する。背後に振り返り突撃することを一方的に告げて廊下に躍り出て障壁へと肉薄する。

 魔導服達は格好の獲物が飛び出してきたとばかりに容赦なく致命傷になりうる魔術を行使してくる。その悉くを相殺し障壁へ黒炎を直撃させる。物理的、霊的の衝撃を加えられ障壁を構成している魔力が細氷の如く煌めいて舞い残滓となって散っていく。

 逆光となるほどの輝きを放ち、その実、強大な力が衝突しているため中心にいるピヨーテには魔力の奔流が容赦なく浴びせらせる。魔力の残滓はそれ単体では質量を持たないため奔流が彼女の肉体に当たるということは直接魂に攻撃を加えられているようなものだ。そして魂の損傷はたとえ軽微であったとしても肉体に反映される。五感が鈍り疲労、だるさを感じ、肉体を自壊させていく。毛細血管が破れ、内出血を起こし外部からの損傷もなしに血を滲ませ徐々に外出血にまで進行する。

 けれどピヨーテとて伊達に魔女として生き残っているわけではない。彼女の強靭な魂はちょっとやそっとの事では傷すらつかない堅強さを誇る。並みの魔術師であれば魂を守護する防御策を用意せねば残滓魔力の奔流に魂を削られてしまうところだがピヨーテには不要であった。

 時間にしてたっぷり一分は障壁を前にピヨーテは黒炎を当て続けていただろうか。魔術師としての地力の差が如実に表れ、障壁が自壊していく。しかしこれで一枚目の障壁だった。何層にも張られた障壁を破るべく続けて黒炎を振るう。

 先ほどの障壁を張った魔術師は障壁の強固さから、かなりの魔力を注いでいたとピヨーテは見ていた。障壁の自壊は術者にフィードバックする。魔術を展開していた術式が正常なやり方で終了したわけではないから当然なのだが、障壁が強力であればあるほど術者に戻る威力は増大になる。

 ピヨーテは手応えから先ほどの障壁を展開していた魔術師はしばらく動けまいと予想していた。よくて意識を保っていて悪ければ気絶ぐらいはあるだろうか。ともかく一人は無力化したわけだ。このまま障壁と結界の破壊に努めれば突破できるはずとピヨーテは黒炎を浴びせ続ける。

 そこに障壁一枚とはいえ破ったMUOFが勢いづき援護の魔術が背後から放たれる。

 頼もしいと感じつつ障壁の破壊に専念する。味方が勢いづいたことで膠着状態が破られてピヨーテを中心に障壁が次々に突破されていく。

 多少の負傷者こそ出したもののピヨーテ以下地下制圧部隊にこれ以上の犠牲は出ずに地下三階の死闘を越えた。





 階上で繰り広げられている魔術戦の衝撃と音が遠くなったことで階上の戦いの決着がついたのだとローザスは思った。それはグレアムやアミラも感じ取ったらしくあれほど喧しかったアミラも静かに様子を窺っているようだった。ローザス達以外の捕らえられた魔術師達も流石に異変に気付いており周囲に気を配っている。

 果たしてどちらの陣営が優勢なのか、まるで判断がつかないが階上の戦いが戦局を動かすのにどれだけ影響するのか。仮に魔導省側が制したのならアルビオン派はかなり苦戦を強いられるはずだ。

 遠くから微かに衝撃が届く。地上から届くものなのか判じ兼ねたがまだ戦いが終わっていないことを物語っている。戦況はどうなっているのか。

 ――――――――と。

 牢に響く複数の足音。エレベーターの方からではない。張り詰めたような緊張感に場が支配される。アルビオン派の人間か、それとも魔導省の人間か。

 ローザスは固唾を呑んで近付いてくる足音に耳を傾ける。しかしそれはすぐに上がった歓喜の声にかき消される。囚われた魔術師達が声を上げたのだ。喜びに満ちた声にアルビオンの魔術師が来たのだと直感する。

「上の階の戦いを制したのはどうやらアルビオンの魔術師だったようだね」

 安堵の声でグレアムが言った。

「そのようだ。どうやら俺の当ては外れたらしい」

 一つ息を吐いて鉄柵に近付く。アルビオン派の面々を確認しようとしたローザスの前に当てにした人物が現れる。

「あら悲しい。せっかく助けにきてあげたのに…………我が弟子ながら師匠を信じないなんて薄情者ねぇ」

 頬に手を当てて眉をハの字に曲げる。悲しみを表現しているのだろうがあまりにわざとらしい。 

 ローザスはピヨーテの登場に一瞬の動揺を見せたが頭を振って師匠のペースに合わせた。

「…………急激に痩せてしまうほど弟子を慮ってくれるのはありがたいがどうしてアルビオン派の魔術師と?」

 魔水を失って体型が変わった事を指摘してピヨーテに現状の説明を求める。が、彼女は後ろに控えていた黒人の魔術師に顔を向けた。

「魔術封じの結界が張ってあるから鉄柵を壊せるようなものってないかしら?」

 ブレイキーは顎に手を当てて思案したのち近くにいたMUO魔術師に何かを言いつける。言われた魔術師は奥へと足早に去っていった。きっと鉄柵を壊せるものを探しに行ったのだろう。

「にしても情けないわね。仮にもこのピヨーテの弟子が手も足も出ないとは」

 視線をローザスに戻し皮肉を言うピヨーテだがあくまで冗談であることをローザスはわかっていた。牢の結界の魔術陣は地面に彫られているものだ。結界を維持する世界魔力は地面から吸い上げている。

「わざわざ悪態を吐くために来たのではないだろう。早く開けてくれないか?」

「ちょっと待ってなさいな。すぐに助けてあげるから」

 そういったピヨーテにうらめしい声がかかる。

「ピヨーテさぁん。私も助けてくださ~い」

 緊張感のかけらもない声が響く。ピヨーテが奥の牢に近付くとそこには泣きべそをかいているアミラの姿があった。ピヨーテは髪を梳きあげてアミラに言った。

「貴女も無事みたいね。しぶとい子は好きよ、わたし」

 そういったところで牢に響く甲高い金属音。金属と金属がぶつかり合う衝撃音が耳をつんざく。鉄柵の錠を破壊しているようだ。

 不当に閉じ込められていた魔術師達が次々に解放されていく。ローザスとアミラの牢も破壊されて無事に脱出する。

 窮屈さを感じていたのが牢から出ただけで驚くほど晴れる。

 首を回して凝り固まった筋肉を解しながらローザスはピヨーテの前に立つ。

「助かった」

「じゃあ次は菫ね。彼女の牢を壊さないと」

 ピヨーテは脱出できたローザスとアミラを確認すると別の牢にいるであろう菫を探し始めた。しかしローザスはここに菫がいないことを知っている。神妙な面持ちで菫がカーディフへ移送されたことを述べる。その事実にピヨーテは溜息をついた。

「どうやら貴方達も面倒なことになってるようね」

「菫の安否が気になる。急ぎカーディフへ向かおう」

 カーディフに連行された菫が無事でいるのか流石にローザスも余裕をもって言えなくなっていた。一刻も早く救出しなければならない。しかしピヨーテは難しい、というより心底面倒という表情を浮かべていた。怪訝に思いその訳を訊ねるとピヨーテはアルビオン本部を制圧したのちにきちんと説明をすると告げて現状の立場をローザスに伝える。今はとにかくアルビオン本部を魔導省から奪還しアルビオンの占領下に置くことが優先される事を把握する。ともに脱出したグレアム達と合流し今だ地上で戦闘を繰り広げている味方の応援に向かう。脱出はできたが、まだ安心はできないとローザスは息を吐き助勢に加わった。





 地下牢に閉じ込められていたアルビオン派の魔術師の加勢は魔導省魔術師の戦意を削ぎ、逆転した戦力差で瞬く間にアルビオン本部の制圧に成功していった。勝敗の決まった戦いに魔導省魔術師も投降しはじめ夜明けとともにアルビオン本部奪還戦はアルビオン派による勝利に終わった。しかし被害は甚大だった。結果的に初期投入戦力の三分の二が死傷し占領下に置いた本部の防衛もままならない状態であった。

 ピヨーテ達は地上に出て一階のサロンだった部屋を小奇麗に片付けて仮の本営とした。ピヨーテ、ブレイキーをMUOの指揮官としバルフォアをアルビオンの暫定指揮官としてMUO本部に戦闘結果を報告した。アルビオン本部の防衛とカーディフの魔導省本部攻略の作戦を練る。アルビオン本部の防衛に関してはすでにMUOから援軍を派遣されたことが確認できたのでグラスゴーに入り次第防衛隊を組織することに決まった。問題はカーディフ攻略である。

 MUOからの情報によるとレムドゥーサは陸路でドイツ、ミュンヘンまで移動しているらしくMUO職員の工作による妨害も時間の問題でイギリスへの帰国を許してしまうとのことだった。レムドゥーサの帰還はカーディフ攻略に大きな障害になる。現在の戦力では心許ないどころではなく攻略に割ける戦力はない。MUOには逐次援軍派遣を要求しこれを承諾させアルビオン本部の防衛隊とカーディフ攻略戦力が整い次第で作戦を開始すると決議された。それまではアルビオン本部に留まることになる。

 アルビオンの人間ではないローザスはピヨーテの身内という事で客員魔術師の身分を与えられた。しばしの自由時間をもらうことができ、その時間を利用してピヨーテに今回の全容を聞いた。

 ピヨーテとブレイキー、それとバルフォアは本営であるサロンでMUOと逐一戦況状態の情報交換を行っていた。もっともブレイキーが一人でその役目を負っていたためピヨーテとバルフォアは立場上サロンにいるといった様子で戦いの最中ではあるが束の間の平穏に安堵した様子だった。

 牢から脱出できたアミラも寮監のバルフォアと再会できたことに心から喜んでいた。牢に囚われていた他の学院生とも合流できた。イギリスから脱出できた学院生はMUO職員が接触次第保護しておりその多くがアメリカのMUO本部に移動することができたようだった。

 すでに派遣されている援軍もほとんどが旧ライネック派の蜂起から逃れて対抗手段を取ろうとしたアルビオン派の魔術師達でありグレアムのいうアルビオン派の仲間たちだった。

 被害を受けなかった部屋からソファを運び込みローザスが腰を下ろし待機していると見知った顔がサロンに入ってきた。

「ここにいたのか。どうだい自由を満喫してるかい?」

 声をかけてきたのはグレアムだった。

「…………グレアム」

 ローザスの対面のソファに腰掛ける。腕を回し鈍っていた体を解すと一息吐き前かがみに気味にローザスに向く。

「やれやれ。本部は相当な被害を受けたみたいでね。二階、三階は天井が崩落している所もあったよ。壁も床もひどいありさまでね。こりゃあ大掛かりな修理になるなぁ」

 困ったものだ、とグレアムはまるで世間話でもするかのように告げる。ローザスはそんな話をするために来たのではないだろうと話題を変えた。

「……魔導省の動きはないのか?」

 グレアムは世間話をする雰囲気を一変させ、怜悧な表情を浮かべる。それは魔術師としての顔だった。

「本部周辺を何人かの若い奴に哨戒させている。それと本部の敷地に強力な結界を張ることで今のところ対策としているがね。まあ彼らが軍勢を率いて来たら厳しいだろうな。MUOから派遣された援軍が到着するまでは気は抜けないといったところだな」

「そういう割には余裕が見えるが」

 グレアムの態度を指摘すると彼は口元に笑みを浮かべた。

「そう見えるかな。ま、確かに楽観している所はある。一つは君の当てにしていた助け人が豪腕の魔女であったこと。二つ目は今だレムドゥーサがイギリス入りをしていないこと。アルビオン本部を奪還された今、カーディフの連中は慎重になっているはずだ。いつ敵が来るかとな。となると奴らはカーディフの守りを強化することに向くと私は思っている」

 なるほど確かに一理ある。レムドゥーサが帰還する前にカーディフ陥落は彼らにとってはあり得ないことだ。となるとグレアムが推測した通りカーディフの守りを固める方向に向く可能性は高くなる。

「ならば俺たちも奴らも今のところは手が打てない訳だ。レムドゥーサがカーディフへ帰還するのが早いか、援軍がグラスゴーへ到着するのが早いか」

 そこへブレイキーに役目を取られて手持無沙汰だったピヨーテがやってきて口を挟む。

「どっちにしてもよ。カーディフ攻略がわたしたちには課せられているからアルビオン本部奪還より相当苦しい戦いを強いられるわよ?」

 ピヨーテは苦しいと告げる。彼女は大抵の事は面倒ということが多いが苦しいという際、文字通り苦しい事が待っているときである。

「ピヨーテ」

 ローザスが名前を呼ぶとピヨーテは大きく溜息を吐いてローザスの隣にどっかと腰を下ろす。そのピヨーテにグレアムが恐縮するように居住まいを正した。

「これはシャルレス殿。まさか彼の言っていた助け人が貴女だとは思いませんでした」

「そう?」

「ええ。豪腕の魔女の弟子がまさか彼だったとは驚きました。しかし我々にとっては心強い」

 グレアムは心強いというがピヨーテはそれに同意はしなかった。

「さてねぇ。カーディフの魔導省本部はドイツですら落とせなかった魔導要塞だからねぇ。連合国側として戦ったわたしが攻めることになるとは思わなかったけれど大戦時の要塞を復元できているのなら苦しいわよ?」

 厳しい評価をするピヨーテだったがグレアムはその評価に同意し、しかし誇らしげに言った。

「でしょうね。我々も元は魔導省から独立した組織ですからどれほど強かったか、というのは聞き及んでいます。もっとも敵に回すとなると厄介なことこの上ないですがね」

「それを相手にしようというのにやけにうれしそうだなグレアム?」

 ローザスが呆れたように言うがグレアムは不敵な笑みを浮かべた。

「いつまでも過去の方がすごかった、とは言わせられないからな。この戦いに勝つことで過去を過去としなければいずれまた魔導省復活を企む第二、第三のレムドゥーサが現れてもおかしくない。これはアルビオンの体制を根本から変えることになる。だからもし魔導省に敗れることがあるなら、そもそもアルビオンのやり方は間違っていたことになってしまう。それは戦後に生きる魔術師として認めるわけには行かないんでね。必然、勝利しかありえないわけだな」

 グレアムにとってはもとより勝利のみを見据えているらしく敗北の事など考えていないようだ。だがアルビオンを出奔したローザスが持ち合わせていない英国魔術師としての誇りをグレアムは持っているのだと出奔した身であれど英国人であるローザスにはわかった。

 グレアムの言にピヨーテは感心したように驚いた。

「へぇ。それがアルビオン魔術師の矜持ってわけね。なかなかどうして悪くないじゃない。アルビオンも骨のある魔術師がいるのねぇ」

 上から目線の物言いではあったがグレアムは気を悪くすることはなくむしろ賛辞として受け取ったらしい。

「魔女にそう言ってもらえるとは光栄ですね。アルビオンも他の組織の多分に漏れず上層部は派閥の権力闘争、権威主義で腐敗していますからね。今回の事で自浄作用が働けばいいんですが。もっとも旧ライネックの人間はほとんど魔導省へ鞍替えしたようなので対立はなくなったのが皮肉というかなんというか」

 額を押さえてグレアムは苦笑した。彼にとっては今回の内部抗争はかなりの意味を持っていることは理解できた。これは外様であるピヨーテ、ローザスには関係のない事だったが腐敗に対する憤りの気持ちはわかる。

「そう。貴方みたいな魔術師がいるならアルビオンの立て直しはうまくいくでしょうね。少なくともあの、フリーマン・クロムウェルってやつよりはいいでしょう」

 ブルー島での出来事を思い出しピヨーテが悪態を吐く。確かにフリーマンでは、とローザスも内心同意した。

 フリーマンと比べられたグレアムは渋い顔をする。

「クロムウェル殿は…………魔術師の世界にいるより表の世界で政治家にでもなった方が向いている、と私は思うんだが名門の血がそれを阻むのだろうな。つくづく惜しい人だ」

 頭を振ってグレアムは溜息を吐いた。

 ――――――――と。

 そこへアミラとバルフォアがやってきた。アミラの表情は明るいがバルフォアは厳しい表情を浮かべている。

「マコール先生」

 バルフォアがグレアムに声をかける。

「ああ、バルフォア先生。いかがなされました?」

「すみませんが本部の見回りに協力していただけませんか?」

 バルフォアの言葉からやはり現人数での本部防衛は厳しいものと判断できる。協力を申しだされたグレアムはローザスとピヨーテに断りを入れるとバルフォアと見回りに行く。代わりに予備戦力に回されたアミラがソファに座った。

「私は正規戦力じゃないんでとりあえず待機ってことになりました」

「それにしてはやけに嬉しそうだが」

 ローザスが訊ねるとアミラは頬を掻いて苦笑した。

「やっぱり実戦ってなると怖いですし正規じゃなくてよかったかなーって思ってるんですよ」

「確かにね。貴女の実力じゃあ心許ないものねぇ。もうちょっと戦闘魔術の鍛錬は行った方がいいわよ?」

 遠慮なしにピヨーテが口を挟むとアミラは見るからに凹んだ。

「厳しいなぁ。ピヨーテさんは」

 凹んだ様相を見せつつも落ち込んだという風ではなかった。しかしそれとは違う要因でアミラは顔を曇らせた。

「ローザスさん。菫さん、大丈夫かな?」

 既に状況を知っているアミラがこの場にいない菫の身を案じる。が、それにはピヨーテが答えた。

「今のところ魂も肉体も損傷はないわよ。だから無事ではあるでしょうね。まぁおそらく貴方達みたいに牢に入れられているんでしょうけど」

 菫の現状を説明するピヨーテにアミラが不思議そうに尋ねる。

「なんでわかるんですか?」

 ピヨーテは菫に飲ませた魔水を通じて安否がわかると説明した。が、いつ無事ではなくなるのかがわからない今、一刻も早く助けに行くべきではあるのだが戦力を考えるとやはり援軍を待つべきと結論が出ている。ピヨーテは嘆息して今は時が来るのを待つと語る。第一援軍は日没にはイギリス入りができるとブレイキーは言っていた。それまで休息し万全な態勢にしておくようにとピヨーテは締めくくった。





 日没時を過ぎ援軍が合流し、アルビオン本部防衛隊を編成するとピヨーテ、ブレイキー、バルフォアを指揮官としたカーディフ攻略隊はグラスゴー・セントラル駅からウェスト・コースト本線でバーミンガム・ニューストリート駅へ向かった。

 およそ五時間の移動時間があるが逐次MUOから派遣される援軍との合流はバーミンガム、ロンドンの二つが用意されている。どちらかに援軍が到着するとすぐにブレイキーへ連絡が入る仕組みだ。

 ピヨーテたちは少しでもカーディフに近いバーミンガムを選んだ。援軍がイギリス入りをしているなら先発隊としてカーディフ攻略として突撃するのも作戦としてはあり、と判断されていたからだ。

 しかしバーミンガムへ向かう最中ピヨーテたちの元に最悪の通達が入る。ドイツ、ミュンヘンに足止めしていたレムドゥーサが既にイギリス入りをしているという情報が。

 MUO職員の目を欺き奴はドイツを発ちイギリス、ロンドン・ヒースロー空港で姿を確認された。さらに既にカーディフへ向けて移動を開始しているようでピヨーテたちがバーミンガムに着く頃にはレムドゥーサはカーディフに帰還するらしい。

 ブレイキーが冷静にレムドゥーサがどうやってイギリスへ移動できたのかを訊ねてその経緯を把握する。

 レムドゥーサは別人に見える変化術を用いて他人に成り済まし、尚且つ一般人に暗示をかけて一定時間、意のままに操れる状態にした上で自身の姿をかぶせてまんまとMUO職員の目を出し抜いたのである。変化術とは本来のものを誤って認識させる幻覚魔術の一種でそれ自体の修得はたやすいものである。だが魔術を行使し続けるにはそれだけ魔力を消費することになり、それが遠距離になればなるほど魔力の消費量は激しくなる。基本的に魔術は術者を中心に展開されるためである。故にどんな安易に行使できる魔術であっても距離が開けばその行使した魔術の効果を維持するのは難しくなっていく。レムドゥーサは海を隔てて術を行使し続けMUO職員を欺いたわけだ。言うのは容易いが至難の業である。

 レムドゥーサ帰還の報はブレイキーによってMUOFに伝えられる。魔導省制圧の大きな障害になると予想された。さらに迎撃態勢を整えられる前にカーディフへの突撃を敢行すると作戦の変更が通達される。バーミンガムからカーディフまではおよそ二時間。グラスゴーから合わせると七時間の強行軍になる。

 しかし悪い情報だけではない。ちょうどピヨーテたちがバーミンガムに着く頃に第二派遣隊の援軍も到着するらしく戦力の増加を見込めるのだ。

 連絡を終えたブレイキーはレムドゥーサ帰還に動揺する部隊を静めてバーミンガムで援軍と合流することを告げた。

 そんな中ピヨーテはレムドゥーサの帰還に他の魔術師達よりも事態は悪化しているかもしれないと内心思っていた。





 MUOの度重なる妨害を突破し魔導省本部、ヴィクトリア霊堂へ帰還したレムドゥーサ・ヴィドラーク。彼はMUOからアルビオンにおける内部抗争の公式介入宣言を把握していたが全面戦争に発展させるつもりはなかった。なぜならばアルビオン本部は既に魔導省が手中に収めており小競り合いはあれどすぐに魔導省の勝利とともに終結するものだと踏んでいたからだ。しかしイギリスへ帰国してみればアルビオン本部は奪還されカーディフ制圧部隊が直に攻めてくるではないか。なんという体たらくか。だが彼は別段魔導省魔術師を詰ったり謗ったりはしなかった。むしろ同じ英国魔術師がここまで力を持っていたことに歓喜すらしていた。

 レムドゥーサは霊堂二階のレセプションルームを戦況報告室として使用すると通達し現状の戦局を逐一報告するように命令を出した。

 命令を出してすぐに魔導省諜報員からの連絡が入りバーミンガムとロンドンにカーディフ制圧部隊が続々と集結しているとの報告を受けた。ほとんどがアルビオン派の英国魔術師とMUOからの戦闘魔術師で構成された軍だった。相手にとって不足はない。それどころかこの戦いが厳しく熾烈になればなるほど英国魔術師の脅威が各国の魔術結社に伝わるはずだ。そしてこう思うだろう。英国魔術師を敵に回すと恐ろしいと。そう思わせられるだけで英国魔術の影響は強くなる。

 いい舞台だ、とレムドゥーサは思いほくそ笑んだ。敗北するつもりは毛頭ない。

 すでに各国の魔術結社には赴きかつて奪われた秘術を返還するように交渉し組織間戦争も辞さない旨は伝えてきた。これで万が一魔導省が敗北したとしても英国魔術結社を脅威に捉える火種は蒔いている。

 レムドゥーサが想定していた時ではないが存分に戦い果てる覚悟はできている。

 彼は椅子に腰かけテーブルに広げられたイギリスの地図に目を落とす。世界に名を馳せた大英帝国の本土。かつては多くの領地が世界中にありそこから本土へあらゆるものが集まっていた。もちろん魔術に関してもだ。大英帝国魔導省に比肩し得る組織など片手で数えるくらいしかなく、まさに列強組織であった。それが魔導大戦で全て変わった。形のみの勝者。魔導大戦で最も得をしたのはアメリカとソ連である。魔導史の浅いアメリカはドイツが奪った各国の組織の秘術を接収し急激を力を拡大し、ソ連は衛星国とした東ヨーロッパ諸国の秘術を一つにまとめ上げ強力なソ連魔術結社を作り上げた。それはソ連崩壊後に誕生したロシア魔術結社に受け継がれている。この時には既に大英帝国魔導省は過去の遺物と化していた。だがそれもこの瞬間、この戦いをもって変わる。レムドゥーサはそう確信していた。そんな彼の後ろに長い赤毛の髪を持った美女が立っていた。黒いローブ、デコルテスタイルのドレスでまるで今から舞踏会にでも出席する婦人のようだった。

 彼女こそ、大英帝国魔導省が専有権を持ち、のちにアルビオンに権利が移ったが今再び魔導省が持つ、イギリス唯一にして最強の魔女、イングリッド・エヴァンジェリスタである。

 彼女は興味なさげにレムドゥーサから離れてソファに座った。彼女にとってはレムドゥーサの野望もこの戦いもなんら興味はない。英国魔女として英国魔術を紡ぎ続けるだけである。その点においてレムドゥーサの英国魔術の脅威性を世界に見せつける事は彼女も賛成だった。見下される事だけは彼女の魔女としての矜持が許さない。

 戦いが始まる前の時間をレムドゥーサとイングリッドは静かな高揚を抱きつつ過ごしていた。

 ――――が、静寂を打ち破るノック音がレセプションルームに響く。入室を許可すると扉が開かれフリーマン・クロムウェルと拘束具をつけられた、やつれて酷く痛めつけられた東洋人――――紫園菫――――が二人の魔導服に連れられて入ってきた。菫は魔導服に組み伏され床に這いつくばった。

「大臣。各組織を回っての外遊でお疲れの所申し訳ないのですが、私が学生派閥鎮圧の任の際に捕らえたこの女狐の処罰をお頼み申し上げたいのです」

 フリーマンは恭しく頭を下げて菫をレムドゥーサの前に突き出す。

 菫から発する鼻に着く臭いが気になったがレムドゥーサは眉を動かしただけで追及はせず菫の詳細について訊ねた。それを待っていたかのようにフリーマンはあることないことをべらべらと語り、最終的に菫は日本の魔術結社が大英帝国魔導省を調べるために派遣した諜報員であり不当に英国魔術を奪う役目を負っていたということになっていた。

 この時フリーマンは知る由もなかったがアルビオン本部に捕らえられていた際にローザスとグレアムが推測した事は大方正しかった事が判明した。

 レムドゥーサは興味なさげに説明を一通り聞くと席を立ち菫の前に屈んだ。

「…………日本人……か。つくづく俺は日本に因縁があるらしい」

 意気阻喪しているこの女は抵抗する素振りもなくさぞフリーマンに嬲られたようだ。

 フリーマンがいうには除籍こそされたが以前はアルビオンの魔術学院に籍を置き英国魔術について調べていたらしい。聞くだけならば相当優秀な諜報員に思える。そんな女が学生派閥鎮圧に出向く程度のフリーマンに捕らえられるのか疑問はあったが、戦いを前にしている今、この女を裁き断罪することははっきり言ってどうでもいいことだ。

 しかし菫が日本人であるということが唯一レムドゥーサの興味を引いた。戦いを前に彼はかつての魔導大戦を思い出していた。猿轡を噛まされた菫の顎を掴み頭を垂れる彼女の顔を自身に向かせる。辛うじて瞳には憎悪を湛える力が籠っていたが心はすでに諦観を受け入れているらしい。

「女。お前が我が魔導省に対して何を企もうとも既に事は動いているのだ。アルビオンと魔導省の衝突は英国の力を世界に見せつける舞台に相応しい。――――あの時とは違う」

 裁くつもりがないレムドゥーサの言動にフリーマンは苛立ちを隠さずに再三レムドゥーサに見せしめに断罪し大義を掲げるべきと進言するも彼の耳には入らない。戦局はフリーマンの予想を既に超えておりレムドゥーサの意識も諜報員一人など取るに足らないものになっていた。

「大臣閣下! なにとぞ決断を!」

 なおも食い下がるフリーマンにレムドゥーサは断言した。

「さがれクロムウェル。俺はこの女と話をしているのだ」

「…………ぐ」

 歯噛みをして黙るフリーマンに満足しレムドゥーサは視線を菫に戻す。

「あの日、俺は大英帝国が崩壊する瞬間を見た。そう、一九四二年二月十五日のあの日。俺はシンガポールにいたのだ」

 一九四二年二月一五日といえば第二次世界大戦における東南アジアを戦場に英国と日本の間で行われた戦闘の終わった日である。そしてイギリスのアジアにおいての植民地時代の終焉をもたらす出来事があった日でもある。かのウィンストン・チャーチルに英国軍の歴史上最悪の惨事とまで言わしめたほどだ。

 英国軍の敗北は魔導社会にも影響を及ぼしシンガポールに存在した大英帝国魔導省シンガポール支部陥落の原因の一因にもなった。そこにレムドゥーサはいたという。

「我が英国魔術の粋を結集し日本秘術と競い合い戦い抜いた。だが祖国の敗北は英国魔術師達に払拭できない動揺を与え、その力を十全に発揮することができなくなった。当然勢いづいた日本の術師達は勝機とばかり苛烈に攻めた。魔導省の敗北は決定的だった。俺はこの地を失うわけにはならないと分かっていたはずなのだ。だが敗北した。それは帝国の、大英帝国の崩壊に繋がった」

 レムドゥーサは怒る訳でもなく淡々と告げるわけでもなく誇らしげに語る。菫にとっては何が言いたいのかさっぱりわからない。

「しかしだ。俺は忌々しいとは思うが日本を恨んではいない。誇るべき術技を競い合い敗北したのだからな。俺が苛立たしいのはアメリカの思惑通りに焚きつけられたチャーチルだ。かつてロシアと日本の戦争で有色人種が白人種に肩を並べる力を持つようになると分かっていたはずなのだ。栄光ある孤立を捨て、すでに日英の同盟を結び友好を築くという先見の明があったにもかかわらずだ。狡猾なアメリカに目を付けられた。共に海洋国家であるイギリスと日本が対立する事はアメリカの望むべきことであったのだ。全てルーズベルトの描いた通りになったわけだ。戦後に生きるならわかるだろう。世界の覇権を握る大英帝国とアジアの盟主である大日本帝国という二つの帝国の崩壊はアメリカに史上最大の栄華をもたらした。表の世界でも魔導社会でもな。表の世界で英国が超大国にも戻ることはないだろう。アメリカが健在であるうちは。だが魔導世界ではそうはいかぬ。英国魔術の威信と脅威を再び知らしめる。これはその為の戦いなのだ」

 演説じみたレムドゥーサの高揚感を伴った物言いにいつの間にかレセプションルームにいる者たちが呑まれていた。レムドゥーサの並々ならぬ思いは嫌でも伝わった。だがこの場で唯一外様である菫は一つだけ疑問を持った。

 ――――アルビオンと魔導省。共に英国組織であり英国人同士の戦いだ。にもかかわらず歓喜しているのだレムドゥーサは。それがわからなかった。アメリカを恨むなら理解もできよう。アメリカの魔術師が敵ならばこの高揚感も順当であろう。なぜ英国人同士の戦いでこんなにも歓喜できるのか。猿轡を嵌められたままではまともに喋ることも敵わず疑問を唸ることでしか表現できなかった。無論唸ったところでレムドゥーサには伝わらない。

 彼はくっくと低く笑い、菫から手を離して立ち上がり口を挟めずにいたフリーマンに下がるよう告げた。渋い顔をしてフリーマンは魔導服とともにレセプションルームを辞する。

 ――――が、その際に沈黙を貫いていたイングリッドがソファから立ち上がり菫を連行する魔導服に待ったをかけた。彼女はゆったりと歩き菫に近付くと顔を見るなり不敵に笑った。

「へぇ。…………面白い」

 それだけ呟くと再びソファに戻った。魔導服は戸惑ったもののフリーマンに催促されて部屋を出て行った。

 再び二人になったレセプションルームでレムドゥーサはイングリッドに先ほどの行動の意味を訊ねた。

「どうしたのだ?」

 彼女は髪を梳きあげて口元に笑みを浮かべる。よほど彼女の関心を引くものがあったと見える。

「先ほどの東洋人。魔女の加護を受けていた」

「ほお? 日本人なのにか」

「極東の組織のたかだか諜報員が魔女の加護を受けられるとは思えない。フリーマンが語ったあの子の素性がどこまで正しいのかはわからないが、この戦いに関係あるとするならアルビオンは魔女を投入してくる可能性がある。オレが出張る価値があるかもしれない」

 婦人らしからぬ口調で、しかし冷静にイングリッドは告げた。仮にアルビオンが魔女を投入してくるなら彼女にとっても意味がある戦いになる。

「魔導大戦以来の魔女同士の戦いか。いいだろう。より派手に戦場を彩ってくれ。どうせ各国の組織が観戦使い魔を放っているはずだ。思う存分暴れろイングリッド。全ては英国魔術の脅威を見せつけるために」

 魔導大戦時の魔女同士の戦いはドイツ魔女との交戦であった。その結果は欧州を掌握するナチスの勢いも相まってドイツ魔術組織の勢力拡大をもたらし連合国側で参戦したイングリッドと当時フランス魔女だったピヨーテを大いに苦しめた。魔女であろうとも死を前にした戦いは魂を震わせ心を躍らし絶頂すら覚えるほどであったという。それは偏に生きているという実感があったからなのだ。

「興味が沸いた。オレは一階のエントランスに陣取らせてもらう。正面から来るのなら必ずオレに気付くはず。…………お前はどうするんだ?」

「俺は地下に籠る。地上が崩壊しようが消し炭になろうが構わん。魔導省の枢要は全て地下にあるのだ。地下十五階に俺は陣取る。もっともそこまで攻められる者がいるとは思えないがな」

 ヴィクトリア霊堂は地上三階地下十八階という巨大な空間を有した大英帝国魔導省の本拠に相応しい建物である。大戦前に着工され現在の形になった。当時の魔導省の強大さを物語っている。もっとも大戦後は魔導省の消滅とアルビオンの独立、そして本部の移転とともに封印されていたが。

 地下の広大な空間は英国魔術の研究拠点であり封印されていたとはいえ魔導施術をされた各階は魔術師でなければ入ることすらできない濃密な魔力に満ちている。耐魔力で抵抗していなければ濃い魔力に当てられて失神してしまう事だろう。それも地下へ向かうほど魔力は濃くなり一種の魔力波を浴びているのと同レベルになる。地下十五階ともなればその威力は相当なものだ。

「誰も来なかったらどうするんだ?」

「来なければ来ないで構わん。戦いの様子を眺めるだけだ」

 そういったところでレムドゥーサの脳裏に一つの考えが浮かんだ。

「いや一人で眺めるのも味気ない。クロムウェルが捕らえたあの日本人。外部の人間として特等席でこの戦いを見させてやるか」

 その言葉にイングリッドは呆れたように言った。

「物好きだねぇ。ま、アンタほどの実力なら出し抜かれる事はないか」

 イングリッドはソファを立つとレセプションルームのドアに手を掛ける。

「オレは先に持ち場に着くことにするよ」

 そう告げて部屋を出て行った。残されたレムドゥーサも遅れて席を立ちレセプションルームを後にした。





 レムドゥーサに菫の断罪を拒否されたフリーマンは憤慨を隠しもせずに再び菫を地下五階の一室に連れ戻した。額に青筋を浮かべて癇癪を起こす。必然怒りの矛先は菫に向き痣になっている頬を殴りつける。菫は呻いて床に這いつくばるが抵抗しようとは思っていなかった。

 先ほどの男――――魔導大臣レムドゥーサの言葉を聞くに事態はかなり切迫しているらしい。十中八九アルビオン本部にピヨーテかアルビオン派の魔術師が襲撃し――――これはおそらく両方だろう――――奪還を成功させたと見て間違いない。そして次の目標であるカーディフへ攻めてくる。そう捉えていいはずだ。口惜しいが何もできない今の状態で口答えしたところでフリーマンに殴られるのが落ちだ。今のところは大人しくしておく方がいいだろう。現に一度殴ったフリーマンは菫の事など既に頭になく従える魔導服に悪態を吐き始めた。思い通りに事が進まなかった事がよほど腹に据えかねたようだ。フリーマンは悪態を吐きつつ部屋から出て行った。部屋の前には魔導服を待機させているようだが室内は菫だけになり菫としては安堵していた。凌辱の限りを尽くしたフリーマンの顔など見たくもない。汚されてしまったことに歯噛みをし、だが絶望をするにはまだ早い。

 ――――もう魔女にも聖母にもなれないがフリーマンを殺すことくらいはできる。

 魔女への宿願も、聖母への挑戦もここまで犯し抜かれては笑いが込み上げるほど呆気ない終わりである。

 文字通り手も足も出ない状況で今はただフリーマンへの憎悪を滾らせていた。

 ――――その時、部屋の外で何やら口論が聞こえる。フリーマンだろうか、と思ったが喚き散らす奴に比べて冷静な声だ。と、思っていると部屋のドアを開けて入ってきた。凌辱と暴力で軋む体を動かし顔を向けるとそこに立っていたのはレムドゥーサ・ヴィドラークだった。菫を見下ろしている。怪訝な視線を向けていると彼は思いもよらぬ行動に出た。菫の猿轡と拘束具を外したのだ。猿轡を噛まされていた所為で外されてもうまい事顎が動かない。が、菫は驚くよりも先に手が伸びた。魔術を封じるこの部屋では純粋な腕力がものを言う。レムドゥーサを押し倒し脱出を図ろうとしたが、振りかぶった菫の手をレムドゥーサに掴まれる。

「いい反応だ。諜報員というのも強ち嘘ではないのかもしれんな」

 掴まれた手を後ろに回されて力を籠められる。それだけで身動きが出来なくなるほどの激痛が菫を襲った。顔をしかめて呻き声を漏らす。

 さらに押し倒されて伏臥した菫の上に馬乗りになり後ろから頭を掴まれ床に押し付けられる。

「そう暴れるな。お前は運がいい。英国魔術の神髄を特等席で見られるのだからな」

 押さえつけられているとは言え自由な両手で脱出を試みるもレムドゥーサを押し退けることは叶わなかった。だから皮肉を込めて悪態を吐いてやる。

「…………イギリスの男ってのは無抵抗の女を犯すのが趣味らしい。流石紳士の国だな、実に高尚な趣味だ。反吐が出るッ!」

 罵ったところで身動きが取れないのは変わらないが思いのほか効果があったらしくレムドゥーサが押し黙る。その態度にむしろ菫の方がやや呆気にとられ次にいう言葉に詰まる。

「…………クロムウェルか。奴はスターリンを矮小にして銃殺趣味をなくしさらに厚顔無恥にしたような男だ。奴に捕らえられた事は運がなかったな」

 憐れむような言葉に菫は胸が熱くなる。奴は殺したくなるほどの男だ。菫から何もかもを奪った男だ。もはや魔女にも聖母になれない体にした男だ。学生時代を含めても今まで憐れみも慰めの言葉などもらったことがない。それをまさか憎悪するフリーマンの属する魔導省の首魁からもらうことになるとはなんという皮肉だろう。憎悪で固めた彼女の心に取り返しのつかないやるせなさが込み上げる。

「黙れ! 英国野郎(ライミー)! 同情なんかするなぁ! 全部、全部ッ! 英国(お前ら)に関わったあたしがバカだったんだッ! でもッ魔女になれなくても、聖母もなれなくても必ずお前らを殺してやるッ!」

 レムドゥーサに吼える。こいつが直接菫に何かをしたわけじゃない。しかし憎悪を向けずにはいられない。

 ――――だが。

「そこまでだ」

 有無を言わさぬ声音でレムドゥーサは菫の憎悪を制止させ髪を掴み菫の上体を起こして無理矢理顔を向かせる。レムドゥーサの左目は真っ黒に変色していた。それを菫は魔眼であると理解できたものの見た瞬間に身体の力が抜けて意識も散漫になる。ぼんやりとした意識の中菫はレムドゥーサに抱え上げられる。

「クロムウェルの事なら憐れだったな。悲しもう。同情もしよう。だがそれを跳ね除けられなかったのはお前の力不足だろう。かつて俺が日本魔術師に敗れたように。故に俺は英国魔術を強くするのだ。それを見せてやろう」

 レムドゥーサに抱えられて菫は部屋を意図せず脱出することができた。そして向かい先は英国魔術の心臓部の一つである地下十五階。意識が散漫になっていても一階下りるごとに濃くなる魔力を肌で感じた。凌辱の次は地の底に向かうことになるのかと嘆息した。

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