嵐の前
ローザスが意識をはっきりさせた時そこはアルビオン本部の大門の前だった。
船での移動、航空機での移動はおぼろげながら記憶にある。強力な暗示をかけられてロサンゼルス国際空港からグラスゴー国際空港に移動したはずだ。そこからグラスゴー・セントラル駅に向かい列車に乗りアルビオン本部に最も近い駅で降りた事を思い出す。駅から徒歩で二十分は歩いただろう。
暗示が解け掛けてきて頭痛がする。暗示によって脳の動きを制限されていた所為で正常に動き出した反動が返ってきたのだ。
全身の筋肉はまだ暗示に従っている。ローザスは動く範囲で顔をしかめた。
――――ブルー島から連行されてきた。視界を覆う布と噛まされていた猿轡と自由を奪われていた鉄の手袋は外されている。暗示の効果は非常に強力で自らの意思ではまだ行動はできないようだ。何とか目を動かすとどうやら隣に菫とアミラがいるらしい。彼女達はまだ意識も戻ってきていないらしい。
ローザス達を連れている魔術師が大門前にいる門番と軽く会話をした後、扉が開き中へ連れられて行く。大扉を潜ると手入れの行き届いている広い庭があり奥に聳える本部聖堂まで石畳が続いている。
聖堂の重厚な扉を開き中へと入る。エントランスにはフロントがあり三人の受付嬢が座っていた。ローザス達が入ってきたことに驚く様子はない。そんな受付嬢の前に無遠慮な靴音を鳴らしてフリーマンが立った。何かを話しているようだがうまく聞き取れない。フリーマンと話をしたあと受付嬢の一人が席を立ち奥へ消えていく。また一人はどこかに電話をかけているようだ。フリーマンは用が済んだのかこちらに振り返ると下卑た笑みを浮かべたままローザスの視界からいなくなった。入れ替わるように英国魔導服に身を包んだ魔術師が視界に入る。言われるがまま地下へと向かうエレベーターに乗り込み地下五階で降りる。装飾などが一切ない無骨な石造りのフロアで部屋というよりは鉄柵で仕切られているだけの空間がいくつもある。空気の入れ替えなどは一切ないのか饐えた臭いがこの淀んだ空気の中鼻についた。監獄という言葉がもっとも当て嵌まるだろう。
各鉄柵の前には魔術陣が彫られていた。魔術を無効化する結界が張ってあるようだ。鉄柵の向こう側に入れば魔術師の力は封じられるわけである。
いくつかの牢には捕えられた魔術師が収監されていた。その誰もが新しく入れられるローザス達に同情の念を抱いた顔をしていた。
奥に通されてローザス、菫、アミラも牢に入れられる。その際にアミラへ向けて別の牢から男の声が掛かったがアミラは気付かず牢に入る。男の方は面識があるらしい。だがアミラの暗示が解けていなかったために返事はない。
牢に入れた魔術師も去り、幾分かするとローザスはようやく体に掛かった暗示も解けてきて耳もはっきりと音を認識できるようになってきた。体はやや痺れているがもうしばらく経てば完全に感覚を取り戻すだろう。
腕を回して自分の意思で動くことを確認すると鉄柵に近づき周囲を確認する。見張りの姿は見えない。もっとも怨霊のような使い魔の類がいるのかもしれないが魔術を封じられた今では分かりようもない。
鉄柵に触れてみるものの腕力でどうこうできる代物ではなかった。牢の中は簡易なベッドが一つに手入れされてなくて久しい旧式の便器。便器の横に手を洗うための蛇口が申し訳程度についていた。蛇口を捻るととりあえず水は出た。便器の様相を見るにヘドロでも混じった水が出るのではと思ったが以外にもきれいな水が出るようだ。可能性として何の食事も与えられず餓死させられることも考えられたが少なくともこれで飲み水に困ることはない。
一通り状況を確認し終えてローザスはベッドに腰掛けた。固いベッドだ。薄い毛布が備え付けてあったが暖かくはならないだろう。
ローザスが大きい溜息を一つ吐いてこれからどうするべきかを考え始めた時、近くから菫の慌てた声が届いた。ようやく暗示が解けたらしい。鉄柵を見て動かないことを確認しているようで出られないと認識すると『くそ……』と声を漏らしていた。
「…………菫」
ローザスは閉じ込められている菫に声を掛けた。
「ローザス? ここは?」
暗示が解けた菫は現在状況を知るべくローザスに訊ねてきた。現状を掻い摘んで説明すると菫は低い唸り声を出した。
「結局あたし達まで捕まってしまったみたいね。…………これからどうなると思う?」
「わからない。ここで餓死するまで閉じ込めておくのか、それともどこかのタイミングで処罰するのか。少なくとも今すぐ処刑ということにはならないと思うが」
「…………そうね」
冷静な菫の声が届く。そこに割り込むように男の声が入った。
「新入り君たち。君たちは何をしてここに来たんだ? 見たところアミラ君の知り合いらしいがアルビオンの人間ではないな?」
声はちょうどローザスの牢の向かいの右側から届いてきた。声を発した人物は鉄柵の前に立った。
ローザスも鉄柵の前に移動し声のする方を見るとそこにはやつれた英国魔導服を纏いやや肌が土気色になった――年の頃は三十後半ぐらいの――男が立っている。
「失礼だが、貴方は?」
「ああ、失敬。私はグレアム・マコールという。アルビオン所属で学院の講師を務めている。それから私は実力統血派閥でね。今回の騒動で拘束されてしまったのだよ。君たちは?」
「俺はローザス・ブラック」
「あたしは紫園菫です」
名乗り返すとグレアムが息を飲んだのが分かった。言い淀むように唸ってから口を開いた。
「…………驚いたな。なかなかオリエンタルな格好をしていると思っていたが、聖杯製造者だったとはな。しかも共にいるのは大淫婦か。一体何をしたんだ?」
ここでもその呼び名が浸透しているようでローザスはともかく菫は語気を強めて訂正した。
「失礼ですけど、大淫婦というのはやめてもらえますか。虫唾が走ります」
グレアムは一瞬戸惑い、軽口ではあったが菫に謝罪をした。
「すまないな。君たちの名前は悪い意味で広まっているからね。学院の方じゃあ魔女科と魔導史科の汚点として語り継がれているぐらいだ。それでだ。そんな君たちがなぜこんなところに? それにアミラ君も一緒に捕らえられて何があったんだ?」
グレアムに現状を伝えていいものかとローザスは思案し菫に訊ねると菫はあっけらかんと伝えてもいいと答えた。
捕らえられるまでの事をグレアムに伝えると彼は同情の念が籠った息を零した。
「…………よりにもよってクロムウェル殿に捕まったわけか。アレは他派閥の人間を目の敵にしているような人間だ。しかも権力を持つ事には貪欲な人種だ。重要参考人という体で君たちを拘束しここで罪人に仕立て上げて手柄を立てようという腹積もりなのだろう」
その言葉からは常々フリーマンに困っているということが窺えた。参ったものだと語るグレアムに菫が訊ねた。
「グレアムさん。アミラの話だとアルビオンで内部抗争が起こっていると聞きましたが、それはどういうことなんですか? アミラの話では唐突に始まったということですが」
問われたグレアムは言いにくそうに口籠ったが歯切れ悪くも語り始めた。
「何と言えばいいか。…………君たちは現在のアルビオンの母体となった組織を知っているかな?」
「――――大英帝国魔導省」
ローザスが答えると彼はそうだと肯定する。
「その大英帝国魔導省は先の魔導大戦を機に消滅し内組織であったアルビオンが独立する形で現在に至るわけだが、もともとアルビオンは大英帝国魔導省の中では野党のようなものでな、組織のかじ取りは別の内組織、ライネックと呼ばれる組織が行っていたんだ。ライネックは今でいうところの名門血統派、純血派が主流の組織だった。つまり大英帝国魔導省の消滅というのは事実上ライネックの消滅なんだ」
魔導史で学んでいたローザスにはグレアムの言っていることが瞬時に理解できた。しかしそれが今回のアルビオンの中の抗争にどう繋がるのか。
「それが今回の抗争とどう関係が?」
案の定、菫が訊ねるとグレアムは言った。
「アルビオンは独立後旧ライネック派の魔術師も受け入れたんだ。魔導大戦を経て弱体化した英国魔術結社を立て直すには派閥に拘ってなどいられなかったからな。それに海を隔てているとは言えドイツ魔術師の脅威はすぐ傍にあった。何が何でも戦力となる魔術師の数を揃える必要があったんだ。それは結果的に功を奏し英国魔術を守ることができたわけだがアルビオンはもともと実力統血派や中立派が主流だったこともあり脅威が去った今では組織のかじ取りをしているのは言うまでもなく彼らになる。組織内での待遇も表面的にはないが確かに格差があった。例えば旧ライネックの魔術師は運営陣では過半数を超える人数は採用されない、とかね。そういった小さな格差が彼らにとっては大きな不満になっていた」
ここにきてローザスと菫は今回の一斉蜂起に繋がる理由に思い至った。
旧ライネックの魔術師たちの不満はいよいよ限界だったのだ。
「というとそれが原因で今回の抗争に発展したわけか」
結論を口にするとグレアムはそれを否定した。ここまで語っておきながら旧ライネック派の魔術師たちが蜂起した理由ではないとするならば一体何が原因なのだ。
「それが…………うむ」
グレアムは先ほどよりも言い淀み唸りをあげた。口にするべきかどうかを悩んでいるようなそんな風に。しばしの沈黙が流れたのち待てなかった菫が急かした。それでもグレアムは言うべきかを迷っていた。よほど憚られる内容なのだろうか。そしてそれが今回の抗争の引き金になっているのは間違いない。
「ミスター・マコール。言えないのならいい」
無理に聞き出すこともあるまいとローザスが言うとグレアムは軽く息を吐いて言った。
「いや、こうして捕まってしまった以上君たちも知る権利があるだろう。それと私の事はグレアムで構わないよ」
「そうか。ではグレアム。何が原因なのか教えてもらってもいいだろうか」
もう一度グレアムは息を吐いた。今度は長く。
「旧ライネック派の魔術師たちが一斉蜂起したそのわけは一人の男が原因なんだ。その男の名はレムドゥーサ・ヴィドラーク」
「…………レムドゥーサ・ヴィドラーク……」
自然と口に出して反芻していた。しかしローザスはこの名前に聞き覚えがあった。
菫は心当たりはないようでグレアムの続きを待っていた。ローザス達が言葉を挿まない事を確認してグレアムは先を続けた。
「驚かないで貰いたいがレムドゥーサはかつて魔導大戦時に大英帝国魔導省の魔導大臣だった男だ。半世紀以上も前の人間だ。だが奴は現れた。そして奴は英国魔術結社の凋落を嘆き今再び大英帝国魔導省の復活を宣言した。それによって感化された旧ライネック派の魔術師達によるアルビオンの主権奪取の為の闘争が始まったわけだ。アルビオンを乗っ取り名実ともに大英帝国魔導省の復活を成し遂げる。それがこの抗争の大本にあるんだ」
なんという話だろう。グレアムが言い淀んでいた理由がはっきりとわかった。これは内部抗争などという言葉で括れる規模の話ではない。組織の主権を取る取らないではなく組織そのものの存続を掛けた革命だった。
「それだけじゃない。レムドゥーサは大戦で奪われた秘術や遺産を奪い返す為の準備を進めていると聞いた。私も含めて実力統血のアルビオン派はすぐに対抗手段を打ち出したが相手の方が一枚上手でな。まともに対抗する前にこうなってしまった訳だ。だが多くの仲間は散り散りになってしまったとはいえなんとか逃げきれたはずだ」
「どうしてそう言い切れるんです?」
菫が言った。
「簡単さ。私も含めて幾人かが捕まるのを覚悟で時間稼ぎに残ったんだからな。奴らは抵抗するものを容赦なく排除している。大人しく投降すれば拘束こそされるがこうやって命だけは助かる。とはいえ抵抗した私が生かされている所を考えるに人質ということでアルビオン派の投降を促しているんだろうな」
「投降を促す? 対立しているのにか? どうにも解せないが」
「私の考えだが。レムドゥーサはアルビオン派も戦力として考えているのではないかと思う。秘術を取り返すには他国の組織と交渉、もしくは組織間戦争を仕掛けて奪うしかない。どちらにしても我々はこれだけの戦力をもっていると誇示することには意味がある。しかしライネック、アルビオンと争ってはいるが他組織から見ればイギリスが勝手に揉めているようにしか見えないし下手をすれば共倒れて弱体化ということもあり得る。いや、すでに死傷者が出ているから大きな損害が出ている。だからこそこれ以上被害が広がらないうちにアルビオン派を吸収したいのだろう」
事は英国魔術結社の問題ではすまないとグレアムの話からは容易に想像がつく。もしレムドゥーサが本気で奪われた秘術を取り返すといったのなら一番始めに交渉するのはドイツの魔術結社だ。そして大戦後にドイツから秘術を接収した旧ソ連の魔術組織、中国、アメリカの組織が該当する。さらにイギリスの占領下にあったインドやシンガポールに存在した魔導省支部は秘術を回収する前に魔導省が消滅したためそれらの回収もある。しかもシンガポールは日本が攻め落としており日本の魔術組織に秘術の一部は回収されている。
その多くの組織からすべての秘術を取り戻すには最終的に組織間戦争で勝利し奪い返すほかない。
「…………すごい話ね」
息を飲んだ菫が素直にそう漏らした。ローザスも同様の念を抱いた。語ったグレアムも苦笑したが、だが決して一笑に付していい話ではない。現に死傷者が出ている大抗争なのだ。もしレムドゥーサなる人物が主導しこの抗争を牽引したとするなら他組織に攻める可能性は大いにある。しかも多数の組織を相手取ることになる。それはまるで魔導大戦の再来だ。
「とまあ、経緯としてはそういうことになるんだ。それでだ。問題はそんなことが起きるかもしれないという時に私たちがこんなところにいるということだ」
グレアムが説明の締めくくりにそういった。そしてそれは現状ローザス達が打開しなければならない現実的な問題だった。
魔術封じの結界が掛けられた檻は腕力ではどうにもできない。ローザスは今一度鉄柵を握りしめて無力であることを受け入れた。しかしただ諦観することはあり得ない。
「グレアム。貴方はいつからここに入っているんだ?」
「私か? ふむ。厳密な日にちは分からないが私が寝て起きてを繰り返したのは十四回目になる」
十四回。十四日と仮定するならグレアムのやつれも頷ける。だが一つだけ気になることがあった。
「それにしては貴方は…………なんというか楽観しているな」
ほかに収監されている魔術師に比べてグレアムはまだ希望を持っているように思える。
「はっはっはっ。そう見えるかな。私もそれなりに気が滅入っていてね。いつ処罰されるか内心では恐れているよ」
余裕のある声音に聞こえるがそれは強がっているからなのかローザスには判断がつかなかった。
――――――――と。
遠くの方で人の声が響く。男女の声だ。しかし声は男女の二つだが靴音はいくつもあった。声と靴音はどんどん近づいてくる。いくつかの牢の前を通り声の主はグレアムの前に立った。
「極上のスイートの居心地はいかがかな?」
そういったのはローザス達を牢に入れた張本人であるフリーマン・クロムウェルだった。相変わらず下卑た笑みを浮かべている。その隣にスーツを着た若い――二十代くらいの――女性と後ろに英国魔導服を着た魔術師を待機させていた。
「いやいやいや。私などにはもったいなさすぎますな、クロムウェル殿。私にはスタンダードな部屋で十分なのですが」
良い返しだ、とローザスは思った。こんなところにいるぐらいならスタンダードで十分だ。
「相変わらず口だけは達者ですな? そろそろアルビオン派の居所を吐いて楽になった方が賢明というものじゃあありませんか?」
グレアムは鼻を鳴らして空とぼけた声で言った。
「生憎と皆目見当もつきませんな」
その態度にフリーマンは舌打ちをして憎々しげに言い捨てる。
「いつまでその態度が持つかな」
そしてフリーマンは振り返りローザスと菫の牢を眺めるように短い首を動かした。その隣で姿勢正しくスーツに身を包んだ女性が菫の牢に訝しげな視線を向けていた。その様子を見て取ったフリーマンが下品な笑いを漏らした。
「感動の再会だなぁ。キャロル」
キャロルと呼ばれた女性は溜息を吐いて菫を見ていた。
「お久しぶりですわね。こんな形で再会するとは思いもよりませんでした。日本で大人しくしているものと思っていましたが、ここで魔術を学んだ恩を仇で返すとはさしものわたくしも驚きを隠せませんわ」
見下したような物言いにある種の懐かしさをローザスは感じていた。このキャロルと呼ばれた人物こそ、菫が学院から去る羽目になった原因を作った、名門血統派のキャロル・ド・ゴドウィンソンその人だ。かつて魔術学院で切磋琢磨した学友で旧知の仲である。もっとも友好関係と呼べるものは皆無だったが。
キャロルとフリーマンを前にして菫の憎悪を抑える堰は崩壊した。鉄柵に飛びつくように張り付き狂犬のごとく歯を剥き出しにして叫んだ。
「またか! またなのか! またあたしから何もかも奪うつもりなのか! この六年。あたしがどんな思いで生きてきたかお前たちに分かるかッ! キャロル! あたしはアンタを許さない! お前もだフリーマン! 殺してやる! 必ず殺してやる!」
牢に響く菫の憎悪の声を前にしてもキャロルとフリーマンは見下した面持ちで菫を見ていた。キャロルに至っては憐憫さえ抱いていた。フリーマンは口角を吊り上げて肥えた腹を抱えて一通り笑うと鉄柵に張り付く菫に顔を近づけて言った。
「殺すだと? お前が? 私を? 何をできもしない事を言ってるんだ貴様は。自分の立場を考えろ馬鹿者め! お前はこれから私の武勲になるというのにな」
にやにやとねちっこく語るフリーマンの顔に菫は唾を吐いた。気持ちよく見下していたフリーマンは突然の事で無様に後ろへ飛びのき何をされたのかを瞬時に理解して顔を赤くさせた。
「こ、こ、この売女め! 貴様なぞ、何年掛ろうとも魔女になどなれるものか! 忌々しい日本人め!」
フリーマンは後ろに待機させていた英国魔導服の連中に振り返った。
「こいつを牢から出せ! 大英帝国魔導省に盾突いた最初の人間だ。大臣直々にこの罪人を裁いてもらわねばな!」
フリーマンの言葉で菫の牢が開けられる。菫より大柄の魔導服連中が力任せに手錠を嵌めて身動きが取れない状態にしていく。布で視界を封じられ猿轡を噛まされる。菫の抵抗もむなしく自由を奪われる。猿轡をされてなお言葉にならない菫の憎悪の声が届く。
「全く。無様になりましたわね。魔女科の首席だったなど誰が信じるでしょうか。……ああ、失礼。貴女は魔女科になどいませんでしたわね。それに、わたくしとしたことが、首席はほかならぬわたくしでしたわ」
声を出せない菫に対してさらに神経を逆撫でさせるような言葉をキャロルは掛けた。菫はさらに言葉にならない唸り声を上げたが誰も相手にしなかった。
その光景を黙って見ていたローザスが静かに口を開いた。
「キャロル。菫をどこに連れていく気だ?」
相手の高揚した気に水を差さないように言葉を掛けて連中が何をしようとしているのかを聞くつもりだった。
問われたキャロルはそんなローザスの打算に気付くこともなく機嫌のいい面持ちでローザスの牢の前に移動した。
「ローザス・ブラック。わたくしはこれでもあなたの事は評価しておりましてよ。劣化品とはいえ第一聖杯を作るその才能は実にすばらしいですわ。学院卒業後に出奔したことは非常に残念でしたがいかがです? この機に大英帝国魔導省へ忠誠を誓うというのは?」
ローザスは肩を竦めた。
「一度飛び出したのだ。出戻る資格は俺にはない。それよりも菫をどこに連れて行くのだ?」
キャロルは魔導服連中に押しつけられている菫を一瞥してローザスに向き直る。その表情からは機嫌の良さは消えていた。
「カーディフへ連れていくんですの。クロムウェル学長がお決めになったことですからわたくしはそれに従っているに過ぎませんわ」
「そうか」
聞きたいことを聞き出してローザスはこれ以上反感を買う前に押し黙った。キャロルの方も興味がなくなったのか牢から離れフリーマンの隣に戻った。
ローザスはキャロルが喋った事とフリーマンが感情に任せて口走った事を思い浮かべる。武勲になるとフリーマンは言った。また大臣直々に罪人を裁くとも。
行き先はカーディフ。言うまでもなく大英帝国魔導省の総本山。
なるほどフリーマンが武勲を立てるために画策しているのは間違いないらしい。しかしなぜ菫だけなのだ。ローザス自身も同じく連れてこられたはずだが菫だけをカーディフへ連れていく理由が見えない。フリーマンはやけに日本人であることを疎んじていた。それが関係しているのだろうか。
「さっさと連れていかんか馬鹿者が!」
フリーマンが持ち前の癇癪を起こして魔導服に文句を言う。キャロルが間を取り持ち菫を連れていく。すでにローザスやグレアムの事などフリーマンの頭からは抜けているようで癇癪を起こしつつ牢から出て行った。
急に静かになった中、グレアムが言った。
「やれやれ。騒がしいものだ」
肩を竦めて溜息を吐いた。
「ところで菫君が連れて行かれたな。カーディフへ行くとキャロル君が言っていたが、これは少々まずいかもしれないぞ?」
「…………まずい、とは?」
「クロムウェル殿は盾突いた最初の人間と言った。これはおそらくイギリス人ではない彼女をどこかの組織の諜報員扱いとして裁きそれを大義としてそのどこかの組織に戦争を仕掛ける、ということではないかな? そういう筋書きをクロムウェル殿が描きレムドゥーサに進言する。運が良ければさらなる権力を持てる地位になれる。とそういう話になる」
良くできた話だ。しかしそれではローザスが共に連れて行かれない事に矛盾が生じる。
「だとするならば何故俺は連れて行かれなかった?」
グレアムは笑いを零した。
「何がおかしい?」
「いや。君は意外と自分の事が見えていないらしい。キャロル君も言ってただろう? この機に大英帝国魔導省に忠誠を誓ったらどうだと。君はその才能を評価されているんだよ。連中からすれば仲間にした方が得があると思ったんだろうさ」
グレアムの言葉をローザスは一笑に付した。
「笑わせないでくれよグレアム。第一聖杯などバチカンに行けば本物がある。その劣化品を作ったことを才能と言われるのは心外だ。あんなもの文献を漁る根性と製造用の窯を用意する執念があれば誰にだって作れるさ。劣化品で良ければな」
「だが結果的に製造した事は事実だ。彼らは結果でしか評価しない。従って君は彼らから見て有能な人間ということだ。第一君は英国人であるしな。英国人が敵組織の諜報員で英国魔術結社の秘術を奪うという図式はいささかインパクトに欠ける。むしろ組織から離反したというのがしっくりくる。それでは大義は生まれない」
冷静に語るグレアムの指摘は強引ではあるが一応筋は通っている。さらに言うならあのフリーマンが考えることだ。深く考えるだけ無駄なのかもしれない。単に菫が気に入らなかったという可能性もある。そもそも名門血統派閥であるフリーマンは英国至上主義的なきらいがある。その意味で英国人であるローザスよりも日本人であった菫を先に裁くのかもしれない。となると菫の安否が少々不安になるところだ。しかし大義名分のために裁くとなるとそれ相応の舞台を用意するはずだ。カーディフへ送られたからといってすぐ処刑となることはないだろう。
そう思案したローザスは一旦連れて行かれた菫の事を頭の片隅に追いやり自身がここから脱出する事に意識を回す。
ふとローザスはグレアムの余裕が気になった。先ほど気が滅入っているとは言ったがフリーマンとキャロルの視察に対しても怖じている気配は一切なかった。ただの強がりにしては説明に欠ける腰の据わりようである。
「…………グレアム。今一度聞くが何故そんなにも楽観していられる?」
首を振ってグレアムはなおも落ち着いた口調を崩さず言った。
「いやいや。怖いとも。いつ処罰されるとも分からないからな。もっとも私も同じことを思っていたぞ。牢に入れられてからも君は冷静に私なんぞと話をしていられる。…………彼らを見たまえ」
グレアムは隣の牢や別の牢で頭を垂れて意気阻喪している魔術師達を見るように述べた。
見れば見るほどグレアムが異質に思える。出られない事に全く悲観していない。その理由は分からないがグレアムは確実に何かを隠している、とローザスには思えてならなかった。
「彼らは牢に入れられてしまってこの有様だ。私が収監される前にいた奴はもとからこうだったし入れられた後に来た奴もどんなに威勢が良くても三日もすれば出られない事に絶望を抱いた。が、君はまるで人ごとのように思っているように見える。なぜだ?」
当然それはピヨーテが必ず助けに来てくれるという約束に基づいて冷静でいられる所が大きい。仮にそういった助力がなければローザスとて今以上に焦燥感を抱いていたのは間違いない。
「俺はいずれこの檻から出るつもりでいるからだ」
淀むことなく言い切るとグレアムはその回答を予想していたのか別段驚くことはなかった。
「一人でか?」
「…………」
沈黙で返す。自ずとそれが答えとなってグレアムはローザスが冷静でいる理由を把握したようだった。
「なるほど。よくわかった。希望はあるということか。ここにいる者とは大きな違いだな」
「そういう貴方はどうなんだ?」
「確約はない。だが君と同じく希望は持っているといったところだな」
なるほどグレアムも仲間が助けに来ると思っているからこそ絶望には至っていないらしい。
確か旧ライネック派が一斉蜂起した際、アルビオン派も対抗手段を講じたと言っていた。だが、ライネック派の方が一枚上手で仲間が散り散りになったとも語っていた。つまりグレアムはライネックに対抗したアルビオン派のチームの一人ということになる。そしてそのチームが助けに来ると信じているらしい。
「もっとも君が来るまでろくに会話できる相手がいなかったものでそれで気が滅入っていたのだよ。まあお互いに時が来るまで気長に待とうじゃないか」
グレアムはそういうとベッドに腰掛けたのかローザスからは姿が見えなくなった。どうやら気が滅入っていたというのは事実だったようだ。
――――その時、グレアムと入れ替わるように牢に間抜けな声が響いた。それは大きな欠伸をした時に出るような声だった。声の持ち主は己がどのような状況にいるのか把握できていないようで鉄柵に掴みかかり悪態をついた。
「ちょっとちょっと、何よこれぇ?」
ようやく暗示が解けたらしいアミラの声が牢を無駄ににぎやかにしていた。
◆
アメリカ合衆国ワシントン州に属する小都市アウタナ。太陽が天高く上りその陽光を容赦なく降り注ぐ時刻にアウタナセントラル駅から出てきたのはピヨーテ・シャルレスその人だった。
肥満が多いアメリカにおいてピヨーテの腹の膨れた姿はものの見事に溶け込んでいた。
ピヨーテはアウタナセントラル駅から見える地上三十三階のビルを眺める。パーソナル・トレード・タワーという名称だったか。貿易、流通事業を行っているゴールドウォーター社が所有しているビルだ。各国で取引された品を一時的に収容し管理している。その後然るべき人へ所望の品を届ける。それがゴールドウォーター社の――――表向きの事業内容だ。だが、このビルの真の顔は一般社会から逸脱した魔導社会の秩序を維持するための世界議会、魔導統一機関の本部である。
できるならMUO本部になど来たくはなかったというのが本音である。しかし今回のような事態には力を借りるほかない。
襲撃してきた英国魔術結社――――大英帝国魔導省。無論、ローザスがアミラを助けたことで巻き込まれただけのピヨーテであるが、かつて消滅した組織の名を名乗って道理も通さずに刃を向けてきた連中に舐められたまま終わらせるつもりは全くなかった。
まずはイギリスで何が起こっているのかを把握することが切要であると彼女は思い行動を起こした。アミラの話では内部抗争が起きているとの事だが詳細と今回の件の全容をきちんと分かった上でなければ話にならない。
ピヨーテが内部干渉に当たらない形で連中に報復する方法を導き出さなくてはならないからだ。さらに捕らえられたローザスと菫の救出もある。二人に飲ませた魔水玉の状態から二人が無事であるのは分かる。肉体的被害と魂的損壊があれば瞬時にピヨーテに伝わるようになっている。何か二人に被害が出る前に助けなくてはならない。二人の捕らえられている場所は大凡の想像はつくが万が一違う可能性もある。それも含めてMUOで情報を手に入れなくてはならない。
駅前の雑踏を越えてMUO本部ビルの前に立つ。ガラス張りの入口からはフロントが見える。もっとも行っている業務は魔導社会に関する事であろう。
ピヨーテは気持ちの片隅にあった億劫さを捨てて中へ入っていく。
フロントで用件を述べると一、二分待った後、奥から壮年の黒人男性がやってきた。紫のカラーシャツとダークスーツにネクタイもスーツと同じ色という服装。体格もアスリートと見まがえる良さ。髪はドレッドで後ろに束ねていた。彼はウィリアム・ブレイキーと名乗り軽く挨拶を交わすとピヨーテを奥へと案内した。
通された部屋は十六階にある会議室だった。中央にC字型の会議テーブルがあり壁に沿うように傍聴席が設けられていた。C字型のテーブルには一人の老人男性が席についており傍聴席には九人の老若男女がブレイキーと同じ服装で座っていた。
会議テーブルの中心に一席だけ椅子が置いてありまるで尋問でも行うかのような位置取りだった。
ブレイキーはピヨーテを尋問席に座るように促し自身は傍聴席に座った。おそらく残りの九人と合わせてシークレットサービスのようなものなのだろう。この場で何かが、主にピヨーテが事を起こした場合、鎮圧に当たる精鋭の魔術師たちだ。そしてこの十人の精鋭が護衛している人間こそ――――MUO事務局次長のジョージ・グラッドストンだ。
白髪に豊かな顎鬚を生やし深く刻まれた皺のある相貌の老人のブルーの瞳は齢八十に手が届くといえど険しく射竦められるほどの眼力だ。フロックコートにウェストコート、ブラックのドレスグローブ、コールズボンという装いは威風堂々たる風貌だった。
とはいえ外見上はグラッドストンの方が年長であるように思えるが実年齢はピヨーテの方が重ねている。
ピヨーテが席に座るとグラッドストンはテーブルの上で手を組んで口を開いた。
「まずはお久しぶりになりますかなシャルレス殿」
低く濁った、それでいて通る声が淡々と響く。
「最後にここを訪れましたのは六年前ですな。シャルレス殿が弟子を取るとのことで儂らも混乱したものです。各組織が素養のあるものを推薦してこられたがシャルレス殿はその誰も取らなんだ。結局弟子にしたのはアルビオンから出奔した小僧だった」
グラッドストンは深く息を吐く。過去の記憶からピヨーテがMUOを訪れる事に良い印象がないのだろう。
「…………今回は何が目的で御足労いただいたのですかな?」
ピヨーテはグラッドストンを前にして足を組み背もたれに体重を預けて腹の前で手を組んだ。事務次長を前にこうも踏ん反り返った態度は不遜極まりないことこの上ない。が、それも相手がピヨーテであるからこそ許されている。
「単刀直入に訊くわよ。今イギリスで何が起こってるのかしら?」
アルビオンもMUOに加盟している組織だ。何かが起こればMUOにもその情報は必ず入ってくる。知らないわけはないのだ。しかしグラッドストンは口を結んだままピヨーテを見据えるだけだった。真意を推し量っているのか。
たっぷり一分は沈黙が続いた。それを破ったのはグラッドストンだった。
「質問に質問で返すようで申し訳ないが、シャルレス殿。それを知って如何なさるおつもりかな? 仮にイギリスで何かがあったとしてそれに介入なさるなら残念ながら申し上げるわけには参りませんぞ」
余計な事をされる前に釘をさしておこうということなのだろうか。
内部抗争が起きていることはアミラから聞いている。しかしその程度の情報も開示しないとは余程の事が起きていると考えていいだろう。それもかつて消滅した大英帝国魔導省を名乗る一派が原因だ。
とはいえピヨーテも害を被っているのだ。安穏と暮らしていたところを襲撃されて泣き寝入りするほど魔女の心は寛容ではない。
「グラッドストン。少し歳を取ったからと偉くなったものね。わたしは何が起きているかを訊ねただけなのにこうも邪険にするとは思いもよらなかったわ」
「なんとでも。魔導社会に秩序を齎すMUOの最高戦力なんですぞ、シャルレス殿は。その貴方が自らの意思でどこかに敵対する事はMUOの沽券に関わる問題です」
グラッドストンの言い分は筋が通っている。けれど――――。
「結構。組織の体面は心得てるわ。その上でイギリスで、いえ、アルビオンで何が起こっているのかを知りたいのよ。…………内部抗争。大英帝国魔導省と名乗る者達がアルビオン内部で闘争を始めてる。ただそれだけならばわたしが好んで干渉するわけがない。けれど、奴らは――――」
ピヨーテは席を立つ。シークレットサービス達が瞬時に魔術陣を展開してピヨーテを拘束しようとする。陣から魔力の奔流がピヨーテに絡み付き動きを封じようとする。だが、ピヨーテは拘束魔術陣の中、グラッドストンの前に立ちテーブルに手を置いた。
「――――このわたしに刃を向けてきた。宣戦布告も何もなしにね。交渉も何もあったもんじゃない」
ピヨーテの剣幕に負けずグラッドストンは眉ひとつ動かさず言った。
「だからと言ってシャルレス殿が報復に動くことはMUOとしては許諾できん」
「そうでしょうね。奴らがMUOにわたしを訴えたら貴方達はわたしをどうにかする義務が生じる。そうなったら世界中の組織にわたしの討伐を命じるでしょうね。それはわたしだって御免被りたい」
「ならばアルビオンに介入しようなどとは思わぬことだ」
拘束魔術陣に抵抗していたピヨーテは不意に抵抗をやめた。その瞬間、座っていた椅子に押し戻されて幾重もの魔術陣に拘束された。無論、本気で抵抗してやろうと思えば脱出する事はできる。骨は折れるだろうが。
ピヨーテはやれやれと首を振るグラッドストンに冷静な声で言った。
「グラッドストン。わたしは介入するわよ。このままじゃあ気が済まないもの。ただし、きちんとルールに則ってね」
グラッドストンは怪訝そうに眉根を寄せた。
「何を言うかと思えば」
「簡単な話よ。今、アルビオンは大英帝国魔導省と名乗る一派と抗争しているはずよね? アルビオンはMUO加盟組織。反して魔導省は非加盟組織。ならアルビオンの魔術師にMUOへ救援依頼を出させればいい。彼らの要求に従ってわたしが援助介入する。どうかしら? 体面は充分保っているはずよ?」
思い寄らなかった提案にグラッドストンは目元を揉んで呟いた。
「…………馬鹿な。MUOが組織間戦争を煽るような真似は出来ん」
「無論、表立って頼むなんて事はしないわ。それとなく示唆させればいいのよ。…………グラッドストン。貴方がどこまでこの件の全容を知っているのかは分からないけどわたしが言った事は無理ではないはずよ?」
「だとしても危ない橋をわざわざ渡る必要もない」
MUOの立場からすればそうだろう。ならばピヨーテの要望を飲むことに何らかの利益がある事を伝えねばならないが、はたしてどうするべきか。グラッドストンの渋い顔を見ながら逡巡しピヨーテは口を開いた。
「結構。ならばこうしましょう。わたしの希望を呑んでくれるのなら一人、弟子を取ることにする。それならばどう?」
その言葉にグラッドストンは目を見張った。魔女が弟子を取ることは言うまでもなくいかなる組織で魔導を学ぶより価値がある。ピヨーテの希望を飲めば一人弟子を取るという。
グラッドストンは呻くように思案した。彼の中では将来有望な魔術師を一人確保する事とピヨーテの希望とを天秤にかけている。
ピヨーテの希望は危ない橋ではあるがMUOの体面を保つことはできている。
彼は大きく息を吐くとシークレットサービスに顔を向けた。
「聞いたな? ここで語った事は他言無用である。それからシャルレス殿の拘束を解きなさい」
シークレットサービス達は揃えて返事をする。次いで幾重にもピヨーテに絡みついていた魔術陣が霧散した。ピヨーテの体を締め付けていた感覚が消えて一息入れる。
「シャルレス殿。弟子を取るとのことだがそれはこちらが用意する人物でよろしいのかな? それと現在の弟子はどうするのだ?」
内心ピヨーテは弟子など取りたくない。現弟子であるローザスもいる。が、この際は仕方がない。それにローザスはすでに魔術師として成熟している。ピヨーテとも対等に接するようになって久しい。弟子ではなく魔女の眷属としてマスターの名を与えてもいいだろう。となると気に入った人間を弟子に取るのがせいぜいピヨーテにできることだった。けれどMUOが推薦する人物など気に入るとは思えなかった。ゆえに少し考えてピヨーテは言った。
「アイツにはわたしの眷属としてマスターの名を与えるから問題ないわ。MUOでわたしが弟子を取るって各組織に通達しておいて。それで自分から弟子になりたいって来た連中の中からわたしが選ぶから。推薦されて来る人より自分の意思で来た人の方がいい」
「…………まあ、よろしいでしょう。急ぎ加盟組織に通達しておきましょう」
少々思惑と外れたグラッドストンだったが許容できる譲歩だったらしくピヨーテの希望を受け入れた。
双方、合意に至ったとしてピヨーテは再び席を立ってグラッドストンに手を差し出した。その手をグラッドストンが握り返した。
「契約完了ね。じゃあさっそくイギリスの事を教えてもらえる?」
「うむ。では――――ブレイキー」
グラッドストンの呼びかけにブレイキーが返事をして席を立った。
「シャルレス殿にアルビオンの現状を詳しく説明して差し上げろ。部屋はそうさな…………下手に他のものに勘繰られても困るでな。人気のいない場所を選んでくれ。儂はシャルレス殿の希望に沿うように動かねばならん。他の者も追って指示を出すゆえ今しばらく待機しておいてほしい」
握った手を離しピヨーテはブレイキーに向き直った。
「じゃあミスター・ブレイキー。エスコートをお願いできるかしら?」
妖艶な笑みを浮かべてピヨーテが答えるがブレイキーは表情一つ変えずに付いてくるように告げた。会議室の扉を開けて出るように促してくる。
やれやれと肩を竦めてピヨーテはそれに従った。
◆
グラスゴーからカーディフまで列車でおよそ六時間の移動を終えて紫園菫は郊外に聳える地上三階地下十八階のロマネスク様式の建物に連れてこられた。名をヴィクトリア霊堂というこの建物はキリスト教における大聖堂とは一線を画すものである。そもそもが礼拝施設ではない。
大英帝国を象徴するヴィクトリア女王の名を冠したこの霊堂こそ大英帝国魔導省の本拠地である。かつて魔導省が消滅しアルビオンが独立した際に放置されていたものだ。しかし魔導省の復活に合わせて旧ライネックの魔術師達が終結しその機能を回復させていた。外観はひどく劣化しているがそれは見た目の問題でありすでに魔術的処置を施されている。魔導に携わる者が見たなら強力な要塞と化している事に気付くだろう。
フリーマン率いる魔導服連中に連れてこられた菫が放り込まれたのは地下五階にある一室だった。アルビオン本部の牢とは違い壁紙が張られ絨毯の敷かれた客室と言える内装。オーク製のサイドテーブルなど調度品も品がある。天蓋付きのベッドまで設えてある。唯一アルビオンの牢と同じなのは魔術を封じる結界が張ってある事だ。
菫はアームチェアに座らせられた。椅子の足と肘掛け部分に腕と足を固定される。拘束具は取り払われたがやはり自由は許されていないようだ。
フリーマンは部屋の外にいるようで配下へ無駄に喧しく命令を下していた。部屋の中には二人の魔導服が扉の前に立ち菫の監視の任に就いていた。もっとも彼らもこの部屋にいる以上魔術を封じられている。仮に菫が事を起こした場合、腕力にものを言わせて取り押さえるのだろう。
菫はゆっくりと視線を動かした。この部屋のどこかに結界を発現させている魔術陣をあるはずだ。ざっと見まわしてみるも魔術陣らしき物はない。床や壁に描かれている、あるいは絨毯や壁紙の下に彫ってあるのかもしれない。
嘆息して監視する魔導服を眺める。体型からして両方ともおそらく男だろう。魔術で強化できない菫の膂力で振り切れるだろうか。菫とて格闘術の覚えはある。学院時代に教え込まれている。その実力は首席になるほどであり、正直にいえば自信はある。だが二人をぶちのめしたところでここは敵陣だ。脱走はすぐに知れるだろうし入口もすぐに封鎖されてしまうだろう。
脱出のシミュレートをしていると部屋の扉が乱暴に開けられた。入ってきたのはフリーマンだった。
彼は菫の前に立つと右手で菫の顎を掴み顔を自身に向かせた。
「ぐふふふッ。断罪されるまで猶予が出来たぞ。ただいま大臣はドイツにて奪われた秘術の返還交渉に出向いているようだ。大臣が戻り次第貴様の事を報告し取り急ぎ裁きの準備に入っていただかねばな」
抵抗できないのをいいことにフリーマンは優越を絵に描いたような表情をしていた。まるでお前の生殺与奪は私が握っているのだと言わんばかりに。
しかし菫は全く別の事を考えていた。何故こうも顔を不必要に近づけ無駄に威嚇するように喋り汚らしい唾を飛ばすのか。だからこそ二度も同じ目に合うのだと。
菫はアルビオン本部でやったようにフリーマンの顔に唾を吐いた。対してフリーマンの動きもアルビオンでの再現だった。驚いて飛び退き瞬時に状況を理解し顔を赤くさせる。違ったのは魔導服の動きだった。一人が唾を浴びたフリーマンにハンカチを差し出しもう一人が菫の顔を――――口を覆うように――――掴む。
「貴様、隊長に何ということを!」
顔を掴む魔導服が吼える。が、顔を拭いたフリーマンが彼を退かし野太い丸太のような腕を振りかぶり容赦なく菫の顔を殴った。
短い悲鳴をあげて菫は椅子ごと床に倒れる。
脳が揺れて一瞬ほど意識が飛ぶ。そして刹那で意識が戻り自分が殴られたのだと把握する。頬からじんわりと痛みが伝わる。
殴られた際に鼻腔の中の粘膜が傷ついたらしく生温かい鼻血が垂れて絨毯を赤く染めた。
床に落ちた眼鏡をフリーマンが踏みつぶす。レンズが砕ける音がして愛用の眼鏡は無残な姿になる。
倒れた菫の襟に手を掛けフリーマンが菫をわずかに起こしもう一度殴る。
「馬鹿者が! 二度も私に唾を吐くとは恥を知れッ!」
さらにもう一度殴って襟を掴んだ手を離す。怒りに息を切らすフリーマンはまたもや菫に顔を近づけた。そして言った。
「スミレ・シオン。良いことを教えてやる。覚えているか? 六年前、貴様が我が学院にいた時の事だ。キャロル・ド・ゴドウィンソンの告発で貴様の姦淫が発覚し私がアルビオンを追放させた、魔女科の拭えん黒歴史だ。だがな――――」
フリーマンはさらに顔を近づけてゆっくりと言った。
「私はな、キャロルの言葉が嘘であると知っていた。貴様の姦淫罪などでっち上げだと知っていた」
菫は殴られて痛む顔をフリーマンに向ける。その瞳は驚きの色を帯びている。六年越しの真実。
「…………嘘……」
「嘘ではない。だがな私は東洋人なんぞが魔女になることをな、認めるわけにはいかんのだよ。お前たちが優秀であるということを証明されては困る。お前たちはいつまでも馬鹿でいてもらわねばな。西洋魔術こそ至上であり我々こそが選ばれた魔導の体現者なのだよ」
菫は歯を食いしばり絞り出すように言葉を吐きだす。
「この、糞野郎ッ! 傲慢な英国野郎めぇッ!」
怨嗟の言葉に気を良くしたのかフリーマンは満面の笑みを浮かべて最悪の言葉を放った。
「ああ、すまないと思っているとも。虚偽で追放されたお前に同情すら覚える。だから六年前の嘘を真実にしてやろう」
その言葉の意味を菫は瞬時に把握できなかった。
「豪腕の魔女とともにいたということは今だ魔女を目指しているのだろう?」
菫は言葉の意味を読み取り目を見開いた。フリーマンは背後の魔導服に振り返った。
「集められるだけ男を集めろ。この哀れな女を立派なレディーにしてやれ」
魔導服は返事をして一人が部屋から出て行った。命令通り男の魔術師を集めに行ったのだろう。
醜悪に嗤うフリーマンは菫から離れると残った魔導服に楽しめと告げる。
「初めてだろうから充分可愛がってやれ」
そう吐き捨ててフリーマンは部屋から出て行った。残った魔導服はゆっくり菫に近付いていく。
近付く一歩が菫には絶望が足を持って寄ってきているように思えた。魔導服は床に伏したままの菫を見下ろして言った。
「…………東洋人なんか好みじゃないが、そのケツと胸なら楽しめそうだな」
渾身の力を振り絞り椅子に拘束されたまま体の向きを変えて抵抗しようとするも意味はなかった。
魔導服は倒れた菫の体を弄り始める。無論拘束はそのままで。
やがて応援を呼びに行った魔導服が数人を引き連れて戻ってきた。その後も度々扉が開き結局何人の魔導服が部屋に集まったのか菫には分からなかった。
魔導服達に押さえつけられながら、口に詰め物を入れられ、椅子の拘束を解かれ、床に組み敷かれ、改めて後ろ手で縛られる。両足も足首で縛られ、衣服を剥ぎ取られる。男達に裸身を晒されてそれでも抵抗して声にならない唸りを上げる。見下ろしていた魔導服の一人が、そしてまた一人が手を伸ばしてくる。菫の絶望が始まったのだ。
◆
アウタナ市街のホテルの一室にピヨーテはいた。フリータイムでチェックインししばしの休息を取っていた。
MUO本部で現在のイギリスの事は知ることができた。後はグラッドストンの根回しが終わり次第ピヨーテに介入指令が来るのを待つだけだ。内部抗争の鎮圧という名目になるだろうか。
今回の件は一言でいえばアルビオンの名門血統派を中心に大英帝国魔導省の復活を目論む連中が起こした闘争である。
知り得た情報の中で何よりピヨーテの気を引いたのはこの闘争を起こした男だった。
――――レムドゥーサ・ヴィドラーク。
聞き覚えどころか過去に会った事もある。大英帝国魔導省の大臣を務めるほどの優秀な魔術師であり研究者としても戦闘屋としても英国魔術界最高クラスの人物――――だったはずだ。
ピヨーテの認識では彼は魔導大戦で死亡しているはずだ。もっとも生きていたとしても不思議ではない。不死者や吸血鬼化して存在し続ける事は珍しい事ではないからだ。となるとレムドゥーサも人間を辞して化け物になっているのだろうと推測できるが果たしてそうだった場合少々厄介な事になるとピヨーテは思った。
基本的に不死者や吸血鬼には死という概念がない。彼らは人間と違い命を奪うという事が出来ない。従って倒すには存在そのものを破壊し尽くすしかない。不死者にしろ吸血鬼にしろ不死の核となる部分が肉体あるいは魂にある。それを肉体の再生が追いつかない火力で燃やし尽くしたり魂そのものを消滅させるといった方法で彼らの息の根を止めることは可能だ。だが厄介なのは不死者や吸血鬼になっても人間であった時のあらゆる能力を何一つ欠落することなく引き継ぐ所にある。魔術師として優秀であったならば高い魔導技術をそのまま不死者化した肉体で使えるのだ。ゆえに彼らが自らを守るために魔術を行使するとなると倒すのは非常に困難になる。
しかし不死者や吸血鬼になる事での欠点もいくつか存在する。大きな点では太陽の光を浴びると能力の低下が起きる。五感が鈍くなりだるさや息苦しさ、眩暈などを感じ、とてもじゃないが全力で戦うということが困難になるという。その他にも元人間であるため体の機能は化物になっても引き継がれるが生物情報の変化により例えば人間と性行為を行っても子供ができることはない、という点がある。それは不死を得た代わりに生殖機能の喪失が起こるからだ。自身が死なないのなら子孫を残す必要がない。
そして戦闘においては死がない分それだけでも脅威なのだが肉体そのものの耐久度も人間のそれを遥かに凌駕している。その上本人の技量が加算されるために単純に防御が堅いという点においてやはり彼らはやはり人外と言える。
骨が折れるとは思うが勝てる勝てないで言うならばおそらく勝てる。それでも気を抜ける相手ではないし甚大な被害を受ける可能性は大きい。
ピヨーテは一息吐いてベッドに横になる。気が逸ったところで今は待つしかないのだ。瞼を閉じてここまでの強行軍の疲れを取ることにする。
だが――――。
「念には念を入れておかないとね」
そう呟いて肉体から自在に操れる魔水を放出し天井と床に張り付かせておく。
MUO本部があるアウタナは魔術師の出入りが激しい。彼らは自身が魔術師であることを感知されぬように魔力を潜める術をもって何食わぬ顔で街に紛れている。
既にピヨーテがアウタナ入りをしている事に感付いている魔術師はいるだろう。無論彼女がMUO本部でグラッドストンと交わした密約は漏れることはない。だが豪腕の魔女がアウタナに入りMUOに用があったという事柄はまず気付かれている。察しのいい魔術師ならイギリス絡みだと目星をつけている可能性は高い。ましてやそれが魔導省の魔術師あるいは息のかかった人間だった場合、このホテルを訪ねてくる輩がいる事も予想できる。それが穏便に済まされるとは到底思えない。余計な事をされないうちにお引き取り願おうという算段に間違いないだろう。
放出した魔水は彼女以外の魔力を感知した場合瞬時にピヨーテを守る盾になる防御策だ。
部屋に備えを施しようやく安心して休息に入る。
時間としては三時間は眠りに就いていただろうか、それを妨げたのは内線のベルだった。受話器を取るとフロントからで面会を求める外来者が来ているとの事だ。その外来者とはウィリアム・ブレイキーと教えてくれた。ピヨーテは礼を言って受話器を置くと部屋に巡らせた魔水を肉体へ戻しフロントへ向かった。
フロントのロビーでブレイキーが待っていた。ピヨーテはホテルマンにチェックアウトを告げてブレイキーとともに再びMUO本部へ向かった。
◆
MUO本部十階にある協定調印の間に通されたピヨーテはグラッドストンの手際の良さを感心していた。
協定調印の間はその名の通り個人間、組織間において何らかの合意を確認する部屋である。
入って縦長の部屋の中心に円卓テーブル、その奥に答弁台があり左右に調印テーブルがある。奥の壁には魔導統一機関旗が掲揚されている。調印の際には当事者の組織旗も左右に掲揚される。今回の場合アルビオンとピヨーテの旗が掲げられるのだがピヨーテには象徴する旗がない。こういった個人の旗がない場合、黒旗が掲げられる。これはアナキズムを起源としたものではなくどの組織にも所属していない独立した個人を意味している。
すでに調印テーブルの後ろにはアルビオンの旗と黒旗が掲揚されていた。
円卓テーブルにはグラッドストンを始めMUOの御偉方とアルビオンの魔術師達が席についていた。
ピヨーテは後ろの右の調印テーブルに着席する。
議長を務めるグラッドストンが今回の調印に至る過程を過剰に装飾して語る。『よく回る舌だこと』と内心ピヨーテは思う。面倒ではあるがこういったものにはそれ相応の約束事がある。己の出番に移るまでしばし各事務局員、アルビオン魔術師の話に耳を傾ける。
聞けば大英帝国魔導省と対峙する為にMUOからもそれなりの人数を駆り出すらしい。当然ではあるのだが『デカい話になってきたわねぇ』とどこか他人事のように思っていた。ピヨーテとしてはローザスと菫の救出――ついでにアミラも――をして気が済む落とし前をつけられればそれでいいのだ。
しかし状況は芳しくなくアルビオン本部はすでに大英帝国魔導省の手に落ちており魔導大臣レムドゥーサはカーディフを拠点にドイツを始めとした各魔術結社と交渉を開始している。使節を送り交渉が決裂したところでは組織間戦争の準備を進めているとMUOに加盟している組織からの報告も上がっているとのことだ。つまり遅かれ早かれMUOへ介入依頼が来たということだろう。表向きは穏便に講和交渉という体を取るだろうが間違いなく水面下では当事組織の暗闘が繰り広げられる。その経過を見つつ落としどころを探すのだろう。
具体的に宣戦布告が大英帝国魔導省から公式に宣言されていないがそれも時間の問題だ。時が来ればレムドゥーサは宣戦布告をするとピヨーテは思った。今はまだアルビオンの内部抗争という規模で済んでいるがレムドゥーサの宣言次第で一気に状況が変わる。それはまさに魔導大戦の再来となる。
かつて魔導大戦時ピヨーテはフランスの魔術結社の魔女としてドイツと戦った。もっとも一般社会でのフランス本国がナチスに占領されてからはフランス魔術界は混乱を極めておりピヨーテを契約で縛っていたフランス魔術結社の事実上の壊滅によりピヨーテは自由を手に入れた。そして混乱に乗じてフランスから逃走しアメリカへ渡った。MUOと新たに契約する為に。MUOとの契約はピヨーテを縛るものではなくかなりの自由がある。そもそも魔女の専有とは一般社会でいうところの核兵器の保有に近いものがある。魔女専有は組織間の戦争抑止の意味もある(同じ意味で日本では鬼の専有、中国では仙人の専有がある)。現存している魔女はピヨーテも含めてほぼ全員が怪物といっていい実力を持っている。一対一の魔術勝負では絶対に勝てないとまで言われている。その魔女を一組織が縛る事で組織を守る力として運用する。かつてフランスの組織がピヨーテを縛っていた契約は相当強力なものであり絶対服従、命令順守が基本であった。ドイツの占領によって壊滅に陥ったフランス組織は魔導大戦終結後組織を立て直したがピヨーテという抑止力がなくなってから立て続けに組織間戦争を仕掛けられて消滅した。
魔導大戦ではピヨーテも多くを経験した。屍山血河の激戦を超えてフランス魔女からMUOの魔女に鞍替えしMUOの立場から戦争終結に尽力した。
ピヨーテにとっては落とし前をつける事が最優先事項であるが再び魔導大戦を引き起こしてはならない事も重々承知している。内部抗争という規模である今、大英帝国魔導省を鎮圧しなければならない。
事務局員とアルビオン魔術師の議論が終わりいよいよピヨーテにMUOから介入する旨の合意文書の署名が求められる。左の調印テーブルにアルビオンの魔術師――――落ち着いた品のある婦人で、やや表情に翳りがある――――が座りピヨーテがサインした文書に名前を連ねる。答弁台を前にしてピヨーテと婦人は固く手を結ぶ。円卓テーブルに座った面々が立ち上がり拍手をもって合意を歓迎する。
ピヨーテの出番はこれだけだったので正直長かったという気がしてならなかったがこれで正式に大英帝国魔導省へ攻める口実ができたわけだ。無論、合意の後にもグラッドストン達による公式介入宣言がMUOより出されるだろう。それを経てようやくピヨーテが動ける。
合意が為されたところで具体的にどう攻略していくかに議題は移っていた。ピヨーテは合意文書を相手から受け取りMUOの局員に手渡す。その際、相手のサインにふと目が留まった。
――――マーガレット・バルフォア。
頭の片隅に覚えのある名前が引っ掛かった。局員が訝しげな視線を向けてくるのに気づきピヨーテは微笑みを浮かべて手渡した。そこへグラッドストンが近寄ってくる。
「これで采は投げられたわけです。後戻りはできませんぞ、シャルレス殿」
神妙な表情で告げるグラッドストンにピヨーテは不敵な笑みを浮かべて答える。
「後戻りなんか必要ないわ。落とし前をきっちりとつけるだけよ。それと貴方達としてはアルビオンの抗争が各組織に飛び火していない今のうちに潰しておきたい訳だしそちらも何とかしましょう」
グラッドストンは嘆息をもらし目元を揉んだ。
「結局シャルレス殿の希望通りに進みましたな。もしやこうなることが分かっていたのではありますまいな?」
ピヨーテは肩を竦めて溜息を一つ吐く。
「まさか。ミスター・ブレイキーに教えてもらうまでアルビオンの実情は知らなかったんだから。でもそうね。アルビオンの魔術師が介入依頼を出すくらいには事態が進んでてほしいとは思ってたけれどね。まあ、ここまでだったとはさすがに想定外よ」
グラッドストンは頭を振って眉根を寄せる。
「全く不謹慎極まりないですな。とにかく。事態は動き出しました。現代の魔導社会秩序に挑戦する大英帝国魔導省に武力制裁を行う合意は為されました。魔導統一機関の名誉にかけて敗北はあり得ません。そこのところをよく肝に銘じておいてください」
「わかってるわ。これでも魔導統一機関の魔女ですからね。それで、いつ制圧部隊を派遣するのかしら?」
グラッドストンは振り返り円卓テーブルの面々を見ながら言った。
「これから迅速に制圧部隊を組織してアルビオン魔術師と連携しアルビオン本部の奪還および大英帝国魔導省の本拠地であるカーディフ制圧の準備に取り掛かります。シャルレス殿には来るべき時に備えてしばし本部に滞在していただくことになりますが構いませんかな?」
「ええ。構わないわ。ただわたしは準備期間中は制圧の作戦立案に参加しなくていいの?」
「する必要はありますまい。現場で指示を仰げば大方シャルレス殿なら実行できましょう」
「そう。じゃあそれまでは自由に待機していればいいのね?」
「そうなりますな」
ピヨーテは円卓テーブルのアルビオン魔術師が話し合っている中から先ほど署名した人物に視線を向ける。
「なら早速自由にさせてもらうわ。ああ、そうそう待機する部屋はフロントで聞くからそのつもりでお願いね」
グラッドストンは渋い顔をしたが声には出さなかった。それを確認してピヨーテは署名した人物へ近寄っていく。相手がピヨーテに気づいて軽く会釈をする。
「失礼。バルフォアさん――――でいいかしら?」
「ええ。シャルレス殿を始めMUOの方々にご迷惑をお掛けしますが――――」
そこから先を遮ってピヨーテは言った。
「ああ、その辺りの事はグラッドストン事務次長に話してください。それよりもバルフォアさん。わたし、個人的に貴女と話したいことがあるのよ。少しだけいいかしら?」
バルフォアは話し合っていたアルビオンの魔術師に席を外すことを告げてピヨーテに振り返る。
「はい。構いませんが…………」
怪訝そうに伺う彼女を尻目にピヨーテはグラッドストンに言った。
「グラッドストン。どこか使える部屋はない?」
訊ねられたグラッドストンがまたも渋い顔をして右隣の部屋を使っていいと答える。
頷いてピヨーテはバルフォアを連れて協定調印の間を後にした。
廊下に出て協定調印の間の右隣のドアをノックして中に誰もいないことを確かめて入室する。中はテーブルとイス、キャスター付きのホワイトボードがある多目的部屋になっていた。
ピヨーテは近場の席に座りバルフォアにも座るように促す。やや遠慮しがちに席に着くバルフォアにどう切り出したものかと思案する。
「バルフォアさん…………マーガレット・バルフォアさんで、いいのよね?」
再び確認をするとバルフォアは訝しげに返事をした。
「貴女、魔術学院の魔女科寮の寮監よね?」
「え、ええ。そうですが、どこでそれを?」
ピヨーテはブルー島へアミラが来たことを語った。その際、アミラからバルフォアの事を聞いたとも告げる。さらにそのアミラは現在大英帝国魔導省に連行された事実も口にする。
バルフォアは口元に両手を当てて顔を青くする。
「それは本当なのですか?」
「そうね。わたしは立場上、あの時は退かざるを得なかったけれど。一応貴女には伝えた方がいいと思ってね」
表情に影を落とすバルフォアだが教え子の状況を伝えられて礼を述べる。彼女に何人の教え子がいるのかはピヨーテにはわからないが一人でも現状がわかるに越した事はないだろうとピヨーテにしては珍しく思いやりの心から伝えた。バルフォアはしばし難しい顔を浮かべていたが、そこはやはりアルビオン魔術師らしく現状に嘆くのをすぐに切り替えて毅然とした表情を浮かべた。
「わざわざありがとうございます」
「ただ今も無事でいるかは保証できない話だけれどね。余計なことだったかもしれないわね」
「いえ。助かりました。アミラがご迷惑をお掛けしました。寮監としてお礼申し上げます」
バルフォアは深く頭を下げた。
「わたしはあるがままを伝えただけだからそこまで感謝されることはないのだけど。まあ悪い気はしないけどね。それじゃあ伝えたいことは伝えたから。時間を取らせて悪かったわね」
ピヨーテは席から立ち上がり部屋のドアを開けてバルフォアの退室を促す。バルフォアはそれに従いもう一度頭を下げた。その際ピヨーテは柄にもなく言った。
「こういう言い方は違うと思うけれど、互いに頑張りましょう」
バルフォアは一瞬驚いたがすぐに頷いた。
「ええ」
バルフォアは再び協定調印の間に戻っていった。ピヨーテはその後姿を見送ってフロントへ向かった。