豪腕の魔女
東京港で入国管理官と海上保安官の審査と確認を終えて無事出航したローザスと菫はまずはハワイ島を目指した。
海は比較的穏やかで突然のスコールに襲われる事はあったがそれでも九日目の日没にはオアフ島に着くことができた。接岸前に入国管理事務所に派出を要請し海上で入国手続きを行い、水や食糧の購入する旨を報告しホノルル港に寄港した。
近場のスーパーマーケットで買い物を済まし船内に戻ろうとした時だった。ノース・ミニッツ・ハイウェイを歩いていたローザスと菫は肌にちくちくと痛みを感じた。痛みは三度ほど繰り返した。二人は顔を見合わせる。痛みの正体に心当たりがあったからだ。
「気付いてるローザス?」
菫が周囲を確認しながら言った。ローザスもまた素早く周囲に気を配った。
「魔導救難信号だな」
魔術師が何らかの救助を求める際に発する救難信号をローザスと菫は受け取ったのだ。救難信号は魔導統一機関で定められた信号であり、あらゆる魔術結社に所属している魔術師の唯一の共有魔術でもある。しかし魔導救難信号は発したとしても必ず助けてもらえる訳ではないのだ。シグナルを受け取った魔術師はシグナルを発した魔術師を助ける義務はない。その代わりシグナルを受け取った魔術師とシグナルを発した魔術師の交戦が一時的に禁じられるのだ。シグナルを受け取ると七十二時間の交戦禁止法が定められている。この時点でローザスと菫は受け取ったシグナルを発した魔術師との交戦禁止の義務が生じていた。
「どうする? 助けるの?」
菫にどうするのかを訊ねられてローザスは顎に手を当てて唸った。
「そうだな。どのみち交戦禁止の義務が生じているし話だけでも聞いてやろう。何が原因で助けを求めているのかは分からないが組織同士の抗争の類ならどことどこの組織が争っているのかの情報が手に入る」
ローザスの意見に菫も賛同した。それから魔導救難信号をキャッチした事を知らせる応答信号を発した。
「これで相手が気付くでしょ。あたし達はホノルル港で待ちましょう」
ローザスは頷き菫と共にホノルル港へ向かった。
◆
ホノルル港で待つ事二十分。ローザスと菫の前におっかなびっくり周囲を警戒しながら歩いてくる白人の少女がやってきた。救難信号を発するだけあって顔色は芳しくなかったが顔のつくりは美少女と言っても差し支えはなさそうだった。髪はセミショートのブラウンでここまで来るのにいろいろあったのかややくたびれた雰囲気が見て取れた。服は袖を捲ったジャケットにTシャツ、ショートパンツという身軽だが重そうなボストンバッグを引き摺るように持っていた。
少女はローザス達の前に立つと張り詰めていた気が解けたのか大きな息を一つ吐いて安堵の表情を浮かべていた。
「あの…………私の信号をキャッチしてくれた人ですよね?」
菫が警戒しながら一歩前に出た。
「その前に名前と所属を言いなさい。それから現在状況をできるだけ詳しく報告するように」
強い声音で菫が言うと少女はボストンバッグを地面に置き慌てて居住まいを正した。
「あ、えっと私はアミラ・レーヘム。所属はアルビオン魔導省立魔術学院大学部魔女科に在籍してます。救難信号を発したのはアルビオンの醜態を晒すようで気が引けるんですけど、今アルビオン本部で内部ゲバルトが発生してるんです。私達学院生は本部からは学生派閥として見られてるから協力して立ち向かってこないように狙われているんです」
アミラの説明を聞き菫が言った。
「それでハワイで何をしてたの?」
「私はアメリカのワシントン州にある魔導統一機関の本部に行って保護してもらおうと思ってたんですけど主な空港には既に手が回してあるみたいで近付けもしなくて何とか目を掻い潜ってハワイまで来たんです。ちょうど三日前に。ホノルル国際空港はまだ使えてたので。でも入れ違いでアルビオンの魔術師がやってきて身動きがとれなくなってしまったんです」
「魔導救難信号を発したのはどうしてなの? アルビオンの魔術師に見つかってしまうと思うのだけど」
「救難信号を受け取ってしまったら七十二時間は交戦が出来なくなるので私の居場所がばれてしまっても向こうも身動きは取れないと思ったんです」
「なるほどね。状況は分かったけれどあたし達が貴方を助ける義務はない事は分かっているはずよね?」
冷たい言い方だったがアミラもそれを分かっているようで俯きながらも頷いた。菫が嘆息しローザスに顔を向けた。どうしたものかと表情にはでていた。
「アルビオンの学生か……さて。学院の後輩である彼女を助けてやりたい気持ちはあるが、俺たちはアメリカ本土に行く訳ではないからな。どうする菫?」
ローザスが菫に相談するも菫が答える前にアミラが口を挟んだ。なんとか会話の糸口が見つかったかのようにアミラは言った。
「後輩? っていうと貴方達は学院の卒業生?」
「そうなるな。もっとも俺は卒業後、出奔したからアルビオンの魔術師ではないし彼女、菫は卒業前に除籍されたからそもそも卒業生じゃあない」
ローザスの言葉に菫が口を尖らせた。
「余計な事を言わなくていいわよ」
そんな菫をアミラが訝しげに見据えて何かに気付いたかのように目を瞠った。
「除籍ってもしかして魔女科の大淫婦、スミレ・シオン?」
アミラの言葉に菫は心底嫌そうな表情を浮かべて呆れたように髪をすきあげた。
「そんなふうに言うのはやめて。心底腹立たしい」
「あ、ごめんなさい」
厳しい菫の言葉にアミラも失言だったと態度を改めた。それからローザスに顔を向けた。
「じゃあえっと貴方は?」
「俺はローザス・ブラック。魔導史科の卒業生だ」
ローザスが名乗るとアミラはまた驚いたように目を瞠る。
「ローザス・ブラックって…………えぇ?」
信じられないモノを見ているように彼女はローザスと菫を交互に見た。
「なんだ。俺も好き勝手呼ばれてるのか?」
「は、はい。魔女落としの変態聖杯製造者ってもう伝説ですよ!」
聞けば大淫婦と魔女落としは揃って伝えられているようで自らの評判が学院で面白おかしく後世に残っている事にローザスはからからと笑った。
「すごい尾ひれがついてるもんだ。なあ菫」
同意を求めるようにいうが菫は拗ねたように鼻を鳴らした。そんな彼女をしり目にローザスはアミラに向き直った。
「面白い話を聞かせてくれた礼だ。アメリカ本土には行かないがそれでもいいなら助けてやる。どうする?」
ローザスの提案にアミラは驚いたが改めて安堵したような表情を浮かべた。
「いいんですか?」
希望を湛えて確認するようにアミラは言った。ローザスは菫に構わないなと了解を取ったが菫は勝手にして、とまた拗ねたように答えた。
「と言う訳だ。しばらくよろしく頼む」
ローザスは手を差し出した。アミラはそれを力強く握り返した。
◆
翌日、再び審査をし、アミラを乗せて無事にハワイを出航することができた。流石に菫もこれほど長い海上での寝泊まりは初めてのようで心身共に疲れた表情を浮かべていた。またホノルルで久方ぶりに地上を踏みしめた事を思い出してそれが余計に堪えているようだった。ローザスは早ければ後二日、三日でブルー島へ着くと菫に話したが菫の返事は生気の抜けたようなものだった。アミラにはブルー島という無人島に向かっていると説明し、さらにそこが魔女ピヨーテの根城でもある事を告げると異様に興奮していた。英国魔女以外の実在する魔女に出会うのは初めての様だった。
結果的に三日目の太陽が高く上がっている時にブルー島へ接岸する事ができた。早く地上に下りたがっている菫とアミラを一足先に陸地におろしクルーザーから指示を出してローザスは隠してある港へ移動した。隠し港は島の絶壁にある割れ目から入る事が出来る。無人島でありながら船が係留できる設備が整っていた。大規模に人の手が入っている事を菫とアミラは口にした。
面積2.1㎢、アメリカ合衆国の非自治未編入領域になり第二次世界大戦時に物資補給拠点の一つとして米軍が港湾施設などを建設した島の一つだったが、戦争終結と共に打ち捨てられた。一九五〇年までは沿岸警備隊の警備範囲に含まれていたが一九五〇年以降警備範囲から外れ本格的に無人島になった。ピヨーテが島に住み着くのはその十年後の一九六〇年からだとローザスは言った。
三人は桟橋から島の内部へと進み、ローザスが住居として使っている建物へやってきた。鉄とコンクリートで作られた外観は無骨でナツメヤシやモンステラが傍に生えている光景は廃墟にしか見えない。少なくとも人が暮らしている雰囲気は皆無だった。
ローザスはモンステラとクサトベラを押しのけて木製の扉を開けた。菫とアミラを先に行かせて自身も最後に入り扉が草木に隠れるように丁寧に閉めた。
建物内部は入ってすぐに出口が見える通路になっていた。外観とは裏腹に手入れが行き届いており小奇麗だった。通路の天井には驚くべき事に照明が付いており電気ケーブルが剥き出しになっている。通路を進むと円筒状になった広い空間になっており天井は吹き抜けで天然の照明が差し込んでいた。天井はガラス張りになっているようだ。円筒状の壁に沿うように緩やかな階段が下に続いていた。地下から地上まで吹き抜けの構造で床まで見えていた。いくつか扉も見えており部屋かあるいは何処かに通じる通路もあるようだった。
天井を見上げる菫とアミラに声を掛けてローザスは階段を下りていく。下りはじめてすぐ地下側で扉の開く音がした。音の方向に三人が顔を向けると妙齢の女性が立っていた。
「帰ってきたのねローザス。なにやら余計なものが二つもくっついてきているけど」
女性が階段を上がってくる。
彼女はノースリーブのラバージャケットにミリタリーパンツ、ロングブーツという服装だが特筆すべきはその体型である。上から長い髪をポニーテールにし、ラバージャケットに豊かな胸の形が浮かんでいる。そこまではいい。胸より下の腹部がまるで妊婦のように出っ張っている。上半身や腕や顔を見るに太っているとは言い難く腹部のみが突出して膨らんでいるのだ。だが妊婦のように腹を労わった動きではなくごく普通に振る舞い階段を難なく上がってくる。
「貴方こそ帰っていたのか。ピヨーテ」
ピヨーテと呼ばれた女性はローザスの前に立つと腕組みをして後ろにいる菫とアミラを値踏みするように上から下をねめつけた。
「ふ~ん? オリジナル、ね。わざわざわたしの島に連れてくるぐらいだから信用は出来るのよね? ローザス?」
オリジナルと言われた菫は何の事がよく分からなかったがピヨーテはすぐに視線をローザスに移し肩に手を掛ける。さらに不必要なくらいに顔を近付けて舐めつけるようにねっとりとした口調で言った。
ローザスは弟子として最低限の信頼は勝ち得ていたと思っていたが今のピヨーテは不穏分子を招き入れたのではないかと彼を計っている。ローザスは鼻を鳴らしてピヨーテの手を外す。
「俺の客だ。貴方の害になるような事にはならない」
ピヨーテは不敵に笑みを溢した。
「あらそう? まぁいいでしょう。それよりも貴方に頼まれていたものは持ち帰ってきたわ。保管庫にしまってあるから後で見ておきなさい。それと貴方のお客でもわたしに紹介なしっていうのはいただけないわねぇ?」
「それもそうだ」
そう言ってローザスは菫とアミラを紹介し、それぞれの事情も伝えると菫とアミラが魔女を目指している事に興味を持ったのかピヨーテは彼女達に近寄る。
「魔女見習いって所かしらね。じゃあわたしも自己紹介をしておきましょう。もっとも名前くらいは聞いた事があると思うけれど」
くすくすと笑いながらピヨーテは言うもののアミラどころか菫までも本物の魔女を目の前にして固まっていた。無論自己紹介などされなくても二人ともピヨーテの事は知っている。
「わたしはピヨーテ・シャルレス。豪腕の魔女だなんて不名誉な呼ばれ方をしているけど本当はずっとずっとか弱いのよ?」
ピヨーテはあからさまに二人をからかった言い方をしたが菫とアミラはどう捉えていいのか顔を見合わせていた。ローザスはそのやり取りを見て低く笑った。
「か弱いなどとどの口が言うんだピヨーテ」
ローザスの茶化した言い方にピヨーテが眉を寄せて睨んだ。
「もう人がせっかく自己紹介をしてるのに水を差さなくてもいいじゃない」
ローザスに悪態をついてピヨーテは改めて菫とアミラに向き直った。
「ま、ローザスが連れて来たということはそこまで警戒はしなくてもいいとは思ってるけれど念の為にね」
ピヨーテが菫とアミラの頬に手を伸ばして触れる。二人は避ける事が出来ず触られたその刹那、一瞬だけ小さく青白く発光した。そのまま何もなかったかのようにピヨーテは手を離した。
菫は頬に手をやってピヨーテに訊ねた。
「あの、一体何を?」
「ああ、この島から出るにはわたしの許可がなければ出られないように呪いを掛けたの。まあ悪い事が起きなければ出してあげるから安心なさいな」
ピヨーテはそう告げて踵を返し階段を下りていく。そして一度振り返ってローザスに言った。
「わたしは外にいるから何かあったらベルを鳴らしてね」
「分かった」
返事をするとピヨーテは出てきた扉とは違う扉に入っていった。おそらく外に通じる通路なのだろう。彼女を見送りローザスは二人を連れて先程ピヨーテが言っていた保管庫に向かった。
保管庫内は雑多に置かれた宝石類にベラドンナ、トリカブト、マンドレイクなどの毒草類、蓋のされた色とりどりの液体の入った瓶、箱ごとに砂、赤土、粘土、黄色土などが積まれている。その中に鉛製の厳重な箱が一際目立っていた。保管庫内の照明を付けてローザスは鉛の箱に手を掛けたが菫とアミラには離れているように告げた。二人が疑問を口にしたがローザスは箱の蓋を開けて中を確認した後、菫達の方へ戻り壁に設えてある棚から計測器を取りだした。アミラが訊ねるとローザスは計測器を見せた。
「ガイガー・カウンターだ」
その言葉に菫とアミラが息を飲んだ。
「俺が離れていろと言った意味がわかるな? 万が一子供を産みたくなった時の為に近付くなよ」
ローザスがガイガー・カウンターを操作する。計測値がモニターに表示されるのだが、モニターの表示は不具合を起こしているかのように正しい数値が表示されなかった。
「どういうこと?」
菫が眉を寄せて訊ねてくる。ローザスは箱の方を見ながら言った。
「やはりな。放射線が強すぎて計測できないようだ」
そう言ってローザスはガイガー・カウンターを菫に渡し鉛の箱の蓋を閉めた。
「数値がゼロになった?」
アミラが言うと菫もモニターに視線を落とす。
「ローザス。これは何?」
鉛の箱から放射線が漏れないように厳重に蓋をするとローザスはひとまずローザスが使っている魔術研究室に移動しようと提案し菫達もそれに従った。
ローザスの研究室に移ると菫はピヨーテにオリジナルと呼ばれた意味を把握した。研究室に入った際に彼女に瓜二つの人物が主を迎え入れるように姿勢よく頭を下げた。さらに研究室の奥にある大きな培養容器にこれまた菫そっくりの人物が二人入っていた。合計三人のホムンクルスが目に入ったからだ。
頭を下げたホムンクルスは服装を除けば髪の長さくらいしか菫と違いはないように見えたが、容器の二人は全裸であるものの爬虫類の鱗のような肌に色もやや青みがかっており乳首と股間部は一枚の大きな鱗に覆われていた。
ホムンクルスの菫はローザスが帰ってきた事でまるで身の回りの世話をするハウスキーパーの様にローザスのコートを受け取り、客である菫とアミラを椅子に座るように促してもてなした。その後菫とアミラにはホムンクルスの菫がコーヒーを淹れて持ってきた。
「なんだかものすごく不思議な気分なんだけど」
コーヒーを啜りながら菫がローザスの後ろに待機している自分のホムンクルスを見ながら言った。
「そのホムンクルスってもしかして学院時代から?」
「ああ。君の卵子を基礎に作ったものだ。それから容器のはこのホムンクルスのクローンになる。だが、何かがおかしかったのだろうな。すぐに人の形を保てなくなったからああやって容器の中で状態を維持しているんだ」
ローザスはホムンクルスの菫に奥の部屋で待っているように告げて部屋から退出させた。
「さて、先程の話に移ろうか」
その言葉にアミラがおずおずと手を挙げた。
「あの私が聞いていい話なんでしょうか?」
どことなく場違い感を漂わせながらアミラが言うもののローザスは構わないと告げた。
「それに保管庫の事が気にならないのか?」
「そりゃ気になりますけど」
なおも食い下がるアミラにローザスは軽く息を吐いて言った。
「聞かれた所で困りはしないし後学の為に聞いておけ」
「…………はい」
アミラが首を縦に振ってようやく本題に入る。
「まず保管庫の鉛の箱の中にあったものだがあの中には特殊な鉱石が入っているんだ」
「ウラン?」
菫が訊ねてくるがローザスは首を横に振る。
「ウランではない。あれは一言で言うなら隕石だ」
「…………隕石……ですか?」
アミラが首を傾げながらもそこまで驚きはせずに言う。確かにただの隕石であるならば貴重ではあるが特別珍しい訳ではない。
「隕石ではあるが並みの隕石ではない。あの鉱石はメテオマテリアルと呼ばれているものだ」
「メテオ……マテリアル……」
どこか聞き覚えがあるのか菫は呟き眉を寄せていたがそれが何なのか分からないようだった。
「それでそのメテオマテリアルがどうしたんです?」
続きを急かすようにアミラが言った。
「それを言うには魔術の基礎を一度おさらいさせてもらう。アミラ。魔術師が生成する自身の魔力を何という?」
「え? それは生物魔力ですよね?」
「その通り。では地球が持つ霊気から生成された魔力を何という?」
「それは世界魔力です。というかすっごい当たり前のことですよね?」
「そうだな。魔術師が魔術を行使する場合に消費し術を発現させる訳だ。地球上に存在する全ての魔術師は間違いなく生物魔力と世界魔力を利用している。だがあのメテオマテリアルは違う。あれは非常に純度の高い地球外魔力、つまり宇宙魔力を秘めた魔石なんだ」
ローザスの説明に菫とアミラが難しい顔を浮かべる。
「宇宙魔力…………。あ!」
先程から悩んでいた菫が合点の言ったような声をあげてローザスを見た。
「思い出した。メテオマテリアルってあれよ。ロシアのあれ?」
菫の言葉にローザスは頷いた。だが話の見えないアミラは何の事かとローザスと菫の顔を交互に見る。
「え? え? 何の事です?」
「あなたいくら魔女科でももう少し魔導史を知ってなさいよ」
菫がアミラに対して呆れたように言った。しかしアミラも言いかえす。
「自分だってど忘れしてたくせに」
菫がじっと見返すとアミラは視線をローザスに向けた。
「結局何なんですローザスさん」
「アミラ。君はツングースカ大爆発というのを聞いた事がないか?」
「ごめんなさい分かんないです」
申し訳なさそうにアミラが言った。すると菫が呆れて言った。
「いい? ツングースカ大爆発ってのはね、一九〇八年のたしか六月三〇日にロシア帝国のシベリア、ツングースカ川の上流、だからえっと今のクラスノヤルスク辺りの上空で隕石が爆発したのね。かなりの範囲の森林が燃えたりなぎ倒されたりして地上の被害が非常に大きかった事件の事よ」
菫の説明にアミラは感心しながら聞いてそれが先程の話にどうつながるのかと再びローザスに向いた。
「ツングースカ大爆発は今菫が説明してくれた事が一般社会での通説になっている。だが、事実は少し異なっていてな。ツングースカ大爆発が起きた原因は英国魔術結社アルビオンの前身組織である大英帝国魔導省の行った宇宙魔力を使用した宇宙魔術行使実験にある。宇宙魔力は世界魔力や生物魔力と違い宇宙に莫大な量がある。それを利用する事で世界規模の大魔術を容易に行使できるようにする、といった実験だった。具体的にどういう技術が使われたのかは隠匿されてしまって詳しい事は分かっていないが実験の結果は知っての通り大爆発を起こし失敗した訳だ。だがその際に偶然にも生成された鉱石が地上に降り注いだ。それがメテオマテリアルだ」
ローザスの説明にアミラは凄い話を聞いているといった表情を見せていた。しかしアミラと違い菫はその先をローザスに促した。
「それで。そのメテオマテリアル。貴方はどう使おうと思っているの?」
ローザスは少し考えてから菫に視線を向ける。
「…………一説によれば大英帝国魔導省は奇蹟の聖杯たる第二聖杯を発現させる為に実験を行ったという話がある」
「…………呆れた。貴方、第二聖杯も製造しようと思ってるの?」
菫は眼鏡を外して目元をいくらか揉んで着け直しローザスを見据えた。
「第三聖杯はどうなったのよ?」
「無論製造をする。そもそも第二聖杯の製造過程で魔導史を調べ直していた際に第三聖杯の鍵を見つけてしまったのだ。もちろん第二聖杯も製造はするがまずは神の第三聖杯を製造する。順番が変わっただけだ。何も問題はない」
二人の会話を聞いていたアミラが口元を押さえて驚きを隠そうとしていたがそれは隠しきれずにいた。そういえばアミラはローザスの目的である聖杯製造の事を知らなかったと思い返す。
「どうしたアミラ?」
アミラに声を掛けるとアミラは立ち上がりテーブルを叩いた。
「どうしたもこうしたもないですよ。何とんでもない話を聞かせてるんですか! 第二聖杯と第三聖杯の製造って、今どきどんな魔術結社でも研究なんかしてませんよ? ツングースカ大爆発の事は知りませんでしたけど大英帝国魔導省がかつて第二聖杯を発現させる研究をしてた事くらいは私でも知ってます。でも結果は無理だったらしいじゃないですか。それで第二聖杯は別次元にあると結論付けられてしまってます。それから神の第三聖杯は世界の理が分かる物とかって言われてますけど物体として存在する物なのか霊体として存在する物なのかも分からない、そもそもあるのかないのかすら分からない代物ですよ? それを製造するって本気ですか?」
アミラは先人たちの結果から無理であろうことを捲し立てる。正直なところを言えば菫も似たような気持ちだったのだがローザスは不敵に笑いテーブルに肘をついて手を組みアミラを見返した。
「本気だとも。第二聖杯は正直に言えばまだ存在するかどうかは半々と言ったところだが俺の考えが正しいなら第三聖杯は物体としてこの地上に存在する」
ローザスは絶対の自信を持ってアミラに言った。うろたえもしないローザスの態度にアミラの方が狼狽していた。
「か、仮に製造に成功しちゃったら大変な事になりますよ? いろんな組織が狙ってくるでしょうしMUOだって聖杯の譲渡を迫ってきますよ?」
「そうなったらその時だ。そんな事は出来てから考えればいい。違うか?」
ローザスの言葉にアミラが言い返せず大人しく椅子に座った。納得のいかない様子のアミラに菫が声を掛けた。
「アミラ。アイツは昔からああいう奴だから気にしない方がいいわよ。魔女落としの変態聖杯製造者だっけ、アイツの評判は。あながち間違いでもなかったでしょう?」
アミラは溜息をついて菫に同意した。
「私、ローザスさんのこと凄い人だと思ってたんですけど、なんていうかいろんな意味でやっぱり凄い人でした。なんか残念です」
「残念とは酷いな。俺はこれでも大真面目に研究しているんだ。その為に学院を卒業した後、本来ならアルビオン所属の魔術師になることが決まっていたが出奔したんだ」
「けどそれが何でピヨーテさんに挑む事になるのよ?」
「簡単だ。魔女なら学院で教わる以上の知識を得られると思ったからだ。結果的にそれは正しかった」
「まあそうでしょうね。今のアンタを見てれば分かるわ。それで? 第三聖杯を作るとしてあたしは何を協力すればいいわけ?」
「ああ、君には神の母になってもらう」
「はあ?」
菫はローザスの言っている事が分からないといった風に眉を寄せた。アミラも首を傾げてどういっていいものか迷っているようだった。
「まあ聞いてくれ。魔導史上、神と呼ばれた人間はただ一人存在する。それは事実、人でありながら人を超えた力を持っていたからだ。それが誰かはさすがに知っているだろう?」
ローザスが問うと菫とアミラは顔を見合わせて菫が代表し答えた。
「…………イエス・キリスト」
答えを聞いてローザスは笑みを浮かべた。
「そう。宗教の世界では神性がどうとかと議論があるようだが魔導社会においてイエスは紛れもなく神だ。人の身を持ちながら死を超越したのは魔導史上イエスだけだ。不死者や吸血鬼になることで死を超えるのは容易いが人の身で超えたのは未だイエスだけ。魔女ですら世界魔力を一身に受け続けなければたちまち不老の効力を失い死を迎える。だがここに第三聖杯の鍵があった。菫。イエスがどうやって生まれてきたか知っているか?」
「……聖母マリアが天使ガブリエルに聖告、イエスを身篭る事を告げられて処女懐胎を受け入れたからでしょ」
「その通りだ。しかし子宮を使いイエスを育て出産しているその事柄は人間がごく普通に子を産む事となんら変わらない。この意味が分かるか?」
菫は難しい顔をして言った。
「まだるっこしいわね。つまり何が言いたいのよ?」
「神の子を産む事も人間の子を産む事もその仕組みは同じなのだ。つまり処女の女に聖告さえ告げる事が出来たなら俺は神を作れるかもしれない、とな」
「アンタね。最初の時点で詰んでるわよそれ」
「天使云々のそれはいい。問題は聖告された状態の子宮だ。それを再現できれば神を身篭らせる事ができる。それ即ち神の第三聖杯だ」
ローザスの言葉に菫とアミラは今度こそ言葉を失くし硬直していた。菫はローザスの言葉を何とか呑み込もうと難しい顔をしていたがアミラは完全に思考が止まったように驚いた様な呆れた様な表情を浮かべたままだった。
菫は説明を呑み込み自分の中で分かる位置に置いたのかローザスを鋭い視線で射抜いた。それもそうだ。ローザスは神の母になれと菫に言ったのだ。それは菫に神を身篭れといった事と同義であり、またローザスの言をそのまま受け取るのならば菫の子宮を第三聖杯にする事になる。魔女を目指している彼女にとって自身以外の魂を内包する事は魔女の道を断たれる事になる。それは許容しがたい事であった。
「…………ローザス。アンタ本気でそんな事を考えてたの? しかもその為にあたしを呼んだ…………。あたしを聖杯にする為に」
静かに告げる言葉の裏には怒りが込められていた。けれどローザスは淡々と返事をする。
「その通りだ。君は俺の知る中でもっとも素晴らしい人間だ。有り体に言えば好ましくもある。君以上に第三聖杯に相応しい人物を俺は知らない。それに…………」
含みを持たせて、鋭い視線を向ける菫を試すようにローザスは口を開いた。
「それに…………やってみたくはないか? 魔導史上キリスト以来の神を生み出せるのだぞ。俺は君を聖杯にし、君は神の母となる。魔女になる以上の功績を君はこの世に顕現させる事になる。さらに言うならば神を生む時点で君もまた神に等しい力をその身に宿す事になるのだ。君は魔女ではなく聖母になるべきだ」
菫は黙り二人の間に沈黙が訪れる。アミラは二人の雰囲気に口を挟めず、己が想像していた以上の話を聞いてしまった事に頭を抱えてしまっていた。そんなアミラの気持ちは露知れず菫は魔術師として僅かではあるがローザスの言葉を試してみたい気持ちが湧いていた。
自身の目標は魔女になる事だった。それはただ単に不老になりたいという安易な気持ちではない。
菫は日本人である。
東洋の人間で、そもそも魔女は西洋の魔術結社における存在であり西洋人以外の魔女は有り得ないとされてきていたのが西洋魔術結社の定説だった。無論東洋にも魔女に準ずる存在はある。例えば中国には仙人が、日本には鬼が存在している。けれど菫は魔女になる事を選んだ。東洋人が魔女になるというのは西洋魔術師から見れば冗句にしか聞こえない。自国で魔女に準ずる存在があるのならばそちらを選べばいいだけでわざわざ西洋魔女を選ぶメリットがないからであり、そもそも東洋人が魔女になれるはずがないという見下した意識によるところが大きかった。これは一般社会での白人至上主義が魔導社会にも浸透していた証左でもあった。菫はそれが気に入らなかったのだ。西洋魔術こそが優れているという風潮も確かにあった。しかし、こと魔導社会の各国の魔導史を辿るのなら中国は一国でヨーロッパの数カ国に匹敵する魔術、秘術の遺産があり日本は世界に比べても神代、古代からの古典秘術を多く現代に伝えている。
まさに一般社会での列強国の影響が魔導社会にもたらされ現代にも色濃く残っていた結果なのだ。
その中で菫が魔女になるという事は、東洋人が魔女になるという事は多くの意味がある。それ故にアルビオン魔導省立魔術学院大学部魔女科を首席でありながらありもしない罪で除籍されてしまった菫の絶望は計り知れなかっただろう。
それから六年。母国日本に帰り一人、魔女になる為の研究を続けていた孤独の彼女にローザスが持ちかけた話は天から差し伸べられた救いの手に見えた筈だ。だが蓋を開けてみれば聖母になれとローザスは言った。
――――神を作る。それは魅力的な提案である。誰も挑んだ事のない領域に踏み込む。なんとそそられる話だろう。だが。だがしかし、彼女の中の魔女になるという宿願がその魅力的な提案を拒絶する。それは過去の自分を否定する事になるからだろうか。
菫は唇を噛み俯いた。ローザスは席を立ち菫の隣に移動して片膝を付く。
「まだ考える時間は多くある。何ならピヨーテに話を相談しても構わない。あれは君が渇望した正真正銘の魔女だ」
優しい声音で告げるローザスに菫は声もなく頷く。
「ピヨーテには話を通しておく」
ローザスは立ち上がりアミラに向いた。アミラは二人のやり取りに当てられてか顔を両手で覆っていた(人差し指と中指を開けてしっかりとそのやり取りと見ていた)がローザスに見つめられて即座に手を下ろし背筋を伸ばした。
「アミラ。ついて来い。島の案内をしてやる」
それは暗に菫を一人にする為の口実である事は明白だったがアミラは従い席を立った。アミラを吹き抜け側に通じる扉の前に待たせローザスは奥の部屋の扉を開けっぱなしにして中に入り程なくホムンクルスの菫を連れて出てきた。
「菫。何かあったらこいつに聞けばいい。大体の事は教えてくれる。行くぞアミラ」
アミラを引き連れてローザスは吹き抜け場に出てピヨーテが入っていった扉を開けた。短いコンクリート造りの通路があり通路は緩やかに上がってその先には鉄製の扉あった。円型のハンドル錠が付いていたが締められてはいなかった。扉を開けると草木が広がっておりたった一歩で自然の領域に足を踏み入れていた。しかしよく見れば獣道の様な道が作られていてそれに従いローザスが足を踏み出し後にアミラが続いた。
ここはクルーザーを係留した隠し港の反対側だった。より島の真ん中に歩いていくと完全にココヤシやナツメヤシに視界を覆われる。四方が海だというのにその青さは全く見えない。しかし一、二分歩くと木々に囲まれてはいるが開けた場所に出た。そこは地面が耕されておりタマネギやレタスなどが育てられていた。
周囲の木の一つに梯子を立て掛けてやや高いところにあるパパイヤをピヨーテが取っていた。彼女はローザス達に気付くと腕に抱えたパパイヤを梯子の横に置いていた網かごに入れる。
「あら話し合いは終わりローザス?」
額に浮かんだ汗を腕で拭いピヨーテは一息吐いた。
「俺からの提案はした。後はアイツ次第だ。もしかしたら貴女に相談をするかもしれない。その時は話を聞いてやってくれないか?」
頭を下げるとピヨーテは腰に手を当てて言った。
「菫っていったかしら。魔女になりたい東洋人。…………いいわ。話しかけてきたら相談には乗ってあげる。それで貴方はわたしに何をくれるのかしら? こそこそと貴方がやっている研究でも教えてくれるの?」
まるで等価交換だとでもいうようにローザスを見る。
「もっともメテオマテリアルを何に使うかなんて大体想像はつくけれどね?」
ローザスは諦めたように髪を掻き上げて溜息をつくとピヨーテに言った。
「菫の返答次第では貴女にも伝える予定だった」
ローザスの言葉に横に立つアミラが驚いたように言った。
「ピヨーテさんに伝えてないんですか? あんな大それた事をしようとしてたのに?」
「そうなのよ。ローザスったらわたしにも秘密で研究内容を教えてくれないの。酷いでしょう?」
わざとらしくピヨーテが悪乗りをして言った。
「ええッ? 私にはべらべらと喋ったのに?」
「君に聞かれたところで君が俺の言った事を再現できるとは思えなかったんでな。だから俺は困らないがピヨーテは別だ。この人はやりようによっては俺より早く再現出来てしまうだけの力がある」
「あら。買い被りすぎよ」
「どうだかな。だが、どのみち俺一人で成し遂げるには困難であるのは間違いない。遅かれ早かれ貴女に協力を頼んだだろうな」
「じゃあ聞かせてもらいましょうか。貴方のやろうとしている事を」
ピヨーテが網かごへ向かって指をさすと網かごはたくさんのパパイヤが入っているのにもかかわらず重力を無視して宙に浮き始めた。
「わ、すごい」
素直な感想をアミラが漏らした。続けてピヨーテは腕を振った。
「浮遊術と飛翔術よ。浮遊術でモノを浮かせて飛翔術で動かす。こうやって重たいものを運ぶのに便利なのよ」
ピヨーテはそう言って彼女の部屋へ移動するように促した。
◆
ピヨーテの部屋にてローザスは聖杯製造に関して説明をした。椅子に座り興味無さ気にしていたピヨーテも話を聞くにつれて本腰を入れて聞いていた。
ローザスが一通り言い終わるとピヨーテは不敵に笑っていた。
「ローザス。貴方、本当に面白い事を考えるわね。いいわ。いいわよ。その常軌を逸した発想。本当に大好きよ」
「それで協力はしてもらえるのか?」
「当然。そんな面白い事に手を貸さない訳はないでしょう? でも聖杯になるのは菫よね? あの子、まだなると決めてはいないんでしょ?」
そうだ。菫はまだ了承していない。聖杯になる母体がいなければ神は作れない。ローザスは顎に手を当てて黙考する。万が一菫が断った場合だ。いやローザスにとって聖杯になるべき存在は菫のみだ。いかなる手を使ってでも説得しなければならない。しかしそれは菫が拒否を示してからだ。自ら選んでくれた方が本人の士気も上がるだろう。それでも拒否をするならば説得にはピヨーテに出張ってもらうしかない。魔女であるピヨーテの言葉なら受け入れる余地はあるはずだ。
「今はまだ待つ。菫の答え次第では、ピヨーテ。貴女に彼女の説得を頼む。魔女に固執する彼女には貴女の言葉が届くはずだからな」
「分かったわ。その時は任せなさい」
ピヨーテは頼もしく言ったがそれを見たアミラが言った。
「なーんか、根回しって言うか裏工作してるみたいでやな感じ」
誰にも言うでもなくアミラが不満を口にする。アミラの気持ちも分からないではないが、そうも言っていられないのだ。ローザスは後輩であるアミラに自身の為すべき事を成就させる為には裏工作も必要だと述べるとアミラは『そんなものですかねぇ』と呟いた。
「ともかく今は待てばいい訳ね」
聖杯の話が今はこれ以上進展しないと見たピヨーテの興味はアミラに移っていた。アミラの事情は既に聞いているがより具体的な事をピヨーテは訊ねる。
「そういえばアミラ。貴女、組織の派閥争いから逃げて来たのでしょう? アルビオンで何が起こっているのか知ってるの?」
話を振られてアミラは顔を曇らせる。学院の上位組織のアルビオン本部の派閥争いに巻き込まれ自らも命を狙われる立場になっているのだ。学院の友人達の安否も分からない現状では無理もない。
アミラは頷いて口を開いた。
「なんていえばいいか分からないんですけど私が学院の寮にいた時でした。時間は分からないんですけどもう夜だったのは覚えてます。突然、魔女科寮の寮監のバルフォア先生が突然部屋を出るようにみんなに言ったんです。それから名門血統派を中心に純血派の多数がアルビオンの主権を主張して中立派、実力統血派の実力者達を次々に拘束していって主権闘争を始めたって。学生派閥と見なされてる私達に被害が出ない内にグラスゴーから出るように指示されてそれからすぐでした。名門血統派の魔術師が寮に乗り込んできたのは。それで私達は最低限のものを持って寮から脱出してそれぞれがバラバラに逃げたんです」
それは唐突に起こりアミラや学生たちにとっては寝耳に水の出来事だっただろう。ましてや己の属している組織の本部の主権闘争に巻き込まれると夢にも思わなかった筈だ。
「実戦訓練もやっては来ましたけどいざ戦場に立つと全然雰囲気が違って協力して対処する事もできなかったんです。本当に私は運よく逃げる事が出来ましたけどたぶん拘束された子も多くいるし最悪戦死した子もいると思うんです」
アミラは乾いた笑顔を浮かべて何とか不安を押し殺そうとしていた。無論ローザス達には見透かされていたが、むしろアミラの歳で生死が掛かる戦場をしかも自身の組織の抗争で体験し友人達の生死も不明である現状で毅然とまではいかなくとも冷静さを保っているアミラは魔術師として優秀であると褒めるべきだ。
「冷静ね。貴女」
頬に手を当てながらピヨーテが言った。アミラは手持無沙汰だった手で痒くもない首を掻いて答えた。
「これでも名門とまでは行かないけどそこそこ歴史のある家の生まれなんで魔導社会の厳しさは知ってるつもりです。魔術結社同士の争いなんて日常茶飯事ですし生死を問う暗闘なんていろんなところで起こってる事は知ってますから。まあそれを学生魔術師の分際で経験することになるとは思いませんでしたけど」
「大変ね、貴女も。でも事情は分かったけれどいつまでわたしの島にいるつもりなのかしら?」
ふと顔をあげてアミラは困った風に笑いピヨーテを見た。
「いつまでにしましょう…………?」
暢気な言葉にピヨーテもローザスも毒気を抜かれてしまった。
「いや、そのいつまでもお邪魔するのは申し訳ないなーって気持ちはあるんですけど。ここって海に囲まれた島だしどこにも行けないなーって」
先程の曇った表情はいざ知れず楽天的なもの言いで不安のかけらもなかった。さしものピヨーテも言葉が見つからず呆れるほかなかった。
「それに正直に言うとピヨーテさんとローザスさん、あと菫さんもいるここってかなりの安全地帯なんじゃないかなーって思うんですよね」
まるで他人事のような言葉だが事実個人の実力はそれぞれがかなりのものを持っているし中でもピヨーテは群を抜いているだろう。つまりアミラの言葉もあながち間違いではなくアルビオンの名門血統派の追っ手から逃げる潜伏先としては一級地である。
ローザスは短く息を吐きピヨーテに向いた。
「わざわざ連れて来たのは俺だ。菫が答えを出せばすぐにアミラをアメリカ本土へ連れて行く。元々MUOに行くはずだったのならタコマ辺りに連れて行けば後は自分でどうにかするだろう。それでいいなアミラ」
アミラは少し悩んだが元はローザスの言う通りMUOに保護してもらう為に動いていたのだ。ハワイで立ち往生していたのがブルー島に連れてきてもらい湾岸都市のタコマまで送ってもらえるなら破格の待遇と言えるだろう。
「んーまあ。なんか惜しい気持ちはありますけどタコマまで送ってもらえるなら文句は言いません。MUOの本部もワシントン州にあるしなんとか辿り着けると思うので、それでお願いします」
アミラが頭を下げる。
「けどいいんですかローザスさん」
下げた頭を上げて不敵に笑みを浮かべてアミラは言った。
「聖杯のこと。MUOにたれ込むかもしれませんよ? 私を手の届くところに置いておいた方がいいんじゃないですか?」
ローザスを脅しているつもりなのだろうがローザスは鼻を鳴らして言った。
「具体的にどんな技術を用いて聖杯を製造するのかが分からないのに聖杯を作ろうとしている輩がいるとMUOに報告したところで君みたいな小娘の言葉などまともに受け取ってくれるはずがないだろう」
肩を竦めてやれやれと首を振る。対してアミラは簡単にいなされてしまい頬を膨らませた。
「口のいい人はすぐそうやって言い含めちゃうんだからやだやだ」
「そう思うのなら魔女になって見返してくれ。魔女科を卒業しても魔女になれる訳じゃないからな。魂の資質や世界魔力を一身に受け止められる肉体がなければなれないと聞くぞ。それに最後は現存する魔女から魔女施術を受けなければならないとも、な」
言われてアミラは口を尖らせて溜息を吐いた。魔女になる為に彼女がやるべきことはまだまだ多くある。それを思い浮かべて億劫になったのだろう。
「魔女になるのも大変なんですって。それに現存する英国魔女って今は一人しかいないからあの人に認められないとダメってことなんですよねぇ」
「あら、彼女まだ生きてたの?」
意外な事を聞いたとばかりにピヨーテが訊ねるとアミラは逆に驚いていた。
「え? ピヨーテさんあの人と面識あるんですか?」
「あるわよ? 英国魔女、イングリッド・エヴァンジェリスタ。まだ魔女がいろんな魔術組織で飼い殺しにされていた時代に何度も戦ったからね。もう顔馴染みもいいところだけど。そう。彼女まだ生きているのね。生きるのに飽きて子供でも生んでとっくの昔に死んじゃってるのかと思ったわ」
魔女は自分の魂以外の魂を内包できない。つまり魔女も子供を作れば魔女ではなくなる。ローザスには計り知れないがごく普通の人間の寿命を超えてなお生きるという事はどういう心境なのだろう。魔女は不老であるとはいえ人間なのだ。不死を求めて化物になった者や人間をやめて不死者や吸血鬼になった者とは違うのだ。とはいえ魔女になる者はピヨーテ然りだが怪物じみた力量を持っている。それは英国魔女、イングリッド・エヴァンジェリスタもまた強大な力を持っている事に他ならない。
「私は実際に会った事はないんですけど魔女になるには会わなくちゃいけないんですよねぇ…………あ」
何かに気付いたようにアミラは心底嫌な顔をした。
「そういえばあの人も純血派って聞いた事があります。……はぁ。今回の抗争で名門血統派と一緒に他の派閥を制圧してるんだと思うと一応学生派閥の私もその制圧される一人なんですよねぇ。気が重いなぁ」
「MUOに保護されるまでだ。それにここにいる間はその心配はしなくていいだろう」
ローザスが言うとアミラは大きく溜息を吐いた。それから気持ちを入れ替えたのか話題を変えた。アミラの視線はピヨーテの腹に向いていた。
「まぁなんとかなるかな。で、ずっと気になってたんですけどピヨーテさん。そのお腹ってまさか赤ちゃんがいるとかじゃないですよね?」
無論魔女であるピヨーテの赤子などではないのはアミラも分かっているのだが訊ねるのを止められなかった。あるいはただの肥満である可能性もゼロではないのだろうがそれを訊くにはアミラには度胸が足りなかった。
ピヨーテはさする様に腹を撫でて妖艶に笑った。
「これはねぇ。わたしの秘密兵器なのよ」
「秘密兵器?」
アミラが興味あり気に首を傾げる。しかしピヨーテは『期待されてもねぇ』と謙遜しながら笑う。
「正体はね。魔導施術をした水よ。まあ純水ではあるけれどね」
「水ぅ?」
アミラは拍子抜けしたように言ったがすぐに何故水なのだと眉を寄せて腕を組んだ。しかしピヨーテはこれ以上教えるつもりはないようだった。
「これ以上は秘密よ秘密」
「ちぇ。魔女の秘密を知るチャンスだったのにな」
そう言ったところで話を切るようにローザスは席を立ちアミラに今夜の寝泊りをする部屋へ案内すると言いピヨーテに軽く頭を下げた。まだ話していたいと文句を垂れるアミラを連れて部屋を辞した。
◆
ローザス、アミラが退室してから菫は己の姿を写したホムンクルスと二人きりという奇妙な空気の中、自身の目指すべき道の決断を迫られていた。時間はあると言われている。だが今の菫には時間がいくらあろうとも決断を下す事は不可能と思えた。
――――魔女と聖母。
交わることのない二つの道は対極に存在している。魔女になる為にアルビオン魔導省立魔術学院に所属しこれまであらゆる辛酸を嘗めて来たのは何だったのか。東洋人で、日本人である事を見下されてなお魔女を目指したのは何だったのか。
仮に聖母になることを選んでしまったら魔女になる為に注いできた努力も耐えてきた屈辱も何もかもが清算されることは二度となくなるのだ。正直に言えばそんな事は許されない。魔女になるべく努力した力は間違いなく菫を強くしただろう。魔術師として優秀な存在へと押し上げただろう。それは魔女科首席の地位として現れていた。しかしそれは過程の筈だったのだ。日本人が英国魔女になる。それを体現する事で自らを優位だと思っている西洋魔術師どもの凝り固まった意識を壊してやる事こそが菫が得たかったものなのだ。それも彼らの魔導に従ってだ。
英国魔術はその名の通り英国の魔術群であり魔術の行使に使用する口頭言語も英語であり書記言語もラテン文字二十六文字だ。母国語ではない言語を必死に習得しイントネーションの違いで意図しない魔術を発動させてしまう事も多々あった。日本秘術なら間違える事のない下級魔術であっても英国式で行使しようものなら途端に難易度が跳ね上がった。その全てを地道な努力で克服し魔女科首席に上り詰め、ゆくゆくはアルビオン所属の魔術師になりさらなる研鑚を積み現存する英国魔女に認められる立場になると決めていたのに名門血統に拘る連中によって嵌められて除籍され追放の処分になった。それも姦淫罪という重罪を犯した事になったせいで英国魔女には二度となれないしそもそもアルビオンに戻る事もできない。故に彼女は日本に戻り一人で、たった一人で魔女になる為の研究を続けた。満足な魔導設備もなく世界魔力を一身に受け取る為に必要な強靭な肉体を作る魔導施術も全て一人で行ってきた。魂にある魔術を行使する為の霊魂臓器である魔術器官の調整も全てだ。魔術を行使するのにより適した肉体へ。施術に施術を重ね人間でありながら人間離れした身体へなってもなお魔女を目指した。イギリス魔女がダメならばドイツでもいい。フランスでもいい。魔女になれるのならばもう国を選んでいる余裕はない。そう思ってきたはずなのだ。なのにローザスというイレギュラーが現れてしまった。それも魔女とは対極の選択肢を携えて。
どうするべきなのか、何がしたくて魔女を目指し西洋魔術師の意識を壊したかったのか。わからなくなってしまった。
菫は己の顔と同じホムンクルスを見る。不気味なほどそっくりだ。
「ねえアナタ」
声を掛けるとホムンクルスの菫が傍までやってきた。
「何でしょう?」
声まで同じとはまるで生き別れた双子のようだ。しかしどことなく人間味がない言い方にホムンクルスである事が滲んでいるがこの際気にしない。菫は隣に座るように言った。ホムンクルスの菫に言っても栓無き事だが何でもいいから話を聞いてもらいたかった。
「アナタはどう思う?」
ホムンクルスの菫は首を傾げた。その仕草はまるで無垢な子供のように思えた。
「どうとは?」
「あたしは魔女を選ぶべきか聖母を選ぶべきかってこと」
訊ねておいてそういえば何の話か分からないのではないかと菫は思った。まったくどうかしてしまったのではないかと溜息を吐く。
「ごめん。アナタに聞いても分からないわね」
「申し訳ありません」
ホムンクルスの菫は頭を下げた。何も悪くないのだが律儀に頭を下げる彼女に申し訳なさが浮かんでくる。
「アナタの所為じゃないから。謝らないで」
ホムンクルスの菫はまた首を傾げた。
「私の所為ではないのですか?」
なんと間の抜けた会話だろう。これほど何にも意味を為さない会話もそうそうない。
菫はやや呆れながら言った。
「そうなんだけど、アナタ…………う~ん。アナタって言うのもなんだしアナタ、名前は?」
「私の名前はバイオレットです」
「バイオレットね。わかっ…………」
そこで気付いてしまった菫は頭を抱えた。このホムンクルスは確かに菫をベースとしている。外見は眼鏡の有無と髪型以外は全て同じ。体型もほぼ同じ(僅かではあるが菫の方がややふっくらしていないでもない)であろう。そして名前はバイオレット。間違いなくローザスが名付けたに違いないのだが、バイオレットとは菫色の英語名だ。つまり事実上菫と名付けているのだ。
「…………アイツ。本当に大丈夫かしら」
菫が額を抑えてローザスに言い知れぬ不安を覚えているとバイオレットが言った。
「どうしたんですか?」
「いえ何でもないわ。…………でもないわね。友人だと思ってた奴がちょっとおかしい奴だって気付いたって感じね」
「マスターの事ですか?」
「マスター?」
「マスター・ピヨーテ」
菫は首を横に振って呆れた笑みを浮かべて言った。
「違うわ。ローザスの事よ」
「サー・ローザスですか?」
「サーってアイツがナイトって…………どういう呼ばせ方してんのよ」
いよいよ付き合い方を考えた方がいいのかもしれないと思った菫だが、ふといつの間にか押し潰されそうになっていた気持ちが少し晴れている事に気付いた。無論、魔女か聖母か簡単に決められない事ではあるのだが何かに迫られるような重圧感はなくなっていた。
◆
アミラに部屋を案内しローザスは自室に戻った。中では菫とバイオレットが仲の良い様子で話をしていた。バイオレットとそのベースになった菫が会話をしている光景はなぜだかローザスの心を躍らせた。
ローザスの入室に気付いた菫達は話を止めてローザスに向いた。
「ローザス」
ローザスが見るに菫の様子は比較的回復しているように見えた。これはローザスが思っているより早く答えが出るかもしれない。
「大分落ち着いたように見える。さすがにまだ答えは出ていないと思うが、どうだ?」
ローザスを見る菫の表情はどこか訝しげな視線があったが敵対しているといった感情はなかった。じっと見つめてくる菫にむしろローザスの方が違和感を覚え始めた時菫が口を開いた。
「まだ何とも言えない。けどこの子と喋ってたら落ち着いた」
「そうか。答えを出す時間に期限はないし急かす訳でもない。いつまでも待とう。それとアミラの事だが君の答えが出るまではここにいる。逆に言えば君が答えを出せばアメリカ本土に連れていく事に決めた。それだけは伝えておく」
「そう。何だかあの子に悪いわね」
アミラの事情も汲み取るこの配慮もまた聖母に相応しいとローザスは思った。
「気にするな。もともとアミラを連れてきたのは俺だ。それより君がこれから寝泊りをする部屋に案内をする。魔導設備は一から作ってもらう事になるがその手助けはする。魔術書などは俺が融通してもいい。研究に必要な素材は基本的に自分で採取する事になるが保管庫にあるものは共用品だから勝手に使っても構わない」
菫は頷くと疑問に思った事を口にした。
「採取ってここ島よ?」
「クルーザーがある。あれも勝手に使っていい」
「…………」
菫が額を押さえて溜息を吐く。
「あたし操縦なんてできないわよ? 船舶操縦免許も持ってないし」
それはやや面倒だな、とローザスは思った。一般社会のルールなど無視しても別に困らないのだが得てして従っていた方が波風を立てなくて済むのが実情である。ローザスとピヨーテも当然取得済みである。しかし菫が持っていないとなると取るかローザスもしくはピヨーテと行動を共にするしかない訳だが果たして彼女がそれを受け入れるだろうか。いやそもそもピヨーテの了解を得ていないので実質ローザスのみだ。そう説明すると意外な事に菫はそれを受け入れた。ローザスと行動する事に特に異を唱える事はないらしい。
「分かった。島外に行く時があるなら声を掛けてくれ。他に聞く事はないか?」
菫は顎に手を当てて思案したが取り立てて訊くべきことはなかったようで席を立った。部屋に案内してくれという事らしい。ローザスは頷くと自室を出てアミラがいる部屋の扉を開けた。
棚や机、椅子もあるが殺風景としか言えない部屋でアミラが暇そうに机に突っ伏していた。部屋にざっと目を通した菫がきょとんとした顔でローザスに訊ねた。
「ここがあたしの部屋になるのは分かったけど、ベッドも何にもないの?」
確かにこれではさすがに可哀想ではある。直接地べたに何も敷く事無く寝るのは屋内でありながら野宿となんら変わらない。菫の言葉に失念していたのかアミラも文句を言った。ローザスは二人に待つように告げて自室の奥の部屋から絨毯と毛布を二枚持ち出して菫達の元へ持っていく。ないよりはあった方がいいだろう。
「今はこれが限界だろう。菫。君が必要ならベッドなりなんなりクルーザーで購入してこなければならない」
菫は渡された毛布を手に軽く息を吐いた。
「そうね。あたしの部屋になるのだし必要な物は揃えるしかないわね。でもお金は?」
「心配するな。MUOと契約を結んでいるピヨーテに莫大な金額が渡されている。一部を除いて大半を俺が使っていいと言われているからな。それを使う。ただ言っておくが無駄遣いをするつもりは一切ない。必要な物を必要な時に必要なだけが原則だ」
菫は頷いたが、アミラは口を尖らせていた。
「菫さんにだけってずるくないですか? 私もベッド欲しいです」
その言葉にローザスも菫も呆れざるを得なかった。
「貴女、ローザスに助けられたって事を忘れてるんじゃないでしょうね?」
菫にそう言われてアミラは拗ねたように『ちぇ。わかってまーす』と返事をした。
ローザスは菫に船旅をしてきた疲れを取るように告げてアミラには狙われている意識を忘れるなと釘をさして菫の部屋を後にした。
吹き抜け場を見上げると既に日は落ちており薄暗くなっていた。空を眺めながらまずここまで菫を連れて来られた事に心の中で――――ブルー島に来て初めて――――安堵した。菫に断られていたら聖杯の話すらできなかったのだから。まずはこの段階に至れた事にローザスは一つの達成感を得て自室へ向かった。
◆
ブルー島の住人が眠りに着いた後ピヨーテは一人考えていた。ローザスが入れ込む魔女になりたかった紫園菫について。東洋人、それも日本人であるならば魔女になどならなくとも鬼になればよいのに何故魔女に拘っているのか。鬼と魔女は格で言うのなら同じである。血筋や性質から考えて菫は鬼になる方が容易いはずだ。わざわざなりにくい魔女を選ぶ必要などまったくない。にも拘わらず選ぶ彼女に興味が湧いた。
ローザスは何かあったら菫を説得してくれと言っていたが説得はともかく彼女と話してみたいというのが今、ピヨーテの感情だった。
音もなく部屋を抜けて吹き抜け場から菫の部屋へ侵入し絨毯を敷き毛布を掛けて寝息を立てている菫の上に跨り口に人差し指を当てる。違和感を覚えたのか菫が瞼を開けると目の前にピヨーテがいる事に目を見開いた。しかし声を出そうと思っても菫の口は縫いつけてある様に全く開かない。それがピヨーテによるものと気付いた菫は抵抗しないと意思表示をする為に身じろぎをやめてじっとピヨーテを見つめた。
菫の隣では寝苦しそうに何度も寝がえりを打つアミラがいるが彼女がピヨーテに気付いている気配は全くなかった。ピヨーテは互いの鼻先が当たるほど顔を近づけて静かに言った。
「貴女に興味があるの。少し話をしましょう?」
菫を見据えるピヨーテの瞳は吸い込まれそうになるくらいに妖しい輝きを秘めている。ゆっくりと菫から離れてもその瞳からは視線を離せない。まるで導かれるように菫も立ち上がりピヨーテに続いて吹き抜け場に移動した。
既に暗闇といって差支えないほど暗かったがピヨーテが手を叩くと壁に取り付けられている照明が灯った。
促されるまま菫はピヨーテに続き吹き抜け場の最初に入ってきた扉から外に出る。
外も真っ暗だったがまたもやピヨーテが手を叩き両手を開くと手の平大の発光する球が現れて一つはピヨーテの周りを浮遊してもう一つは菫の周りを照らしていた。光球に照らされて獣道のような草木の生い茂る道を歩き、一、二分すると辺りが開けた場所に出た。視界を遮るものは何もなく水平線が見通せる場所だった。
「いい場所でしょう。この海を見ているとここ以外に陸地なんてなくてまるで最後の人類になった気分になるのよ。とても素敵でしょう?」
果たしてピヨーテの言葉は頽廃主義者の様だったが菫はどう返していいのか戸惑い黙ったままだった。しかしピヨーテに気分を害した様子は見られなかった。
「ローザスに聞いたのだけどアイツは聖杯を作るとわたしに言ったわ。その器に貴女を選んだ事もね」
菫は視線をピヨーテから外して水平線を見つめさざ波の音に耳を傾けた。
「まだ決めた訳ではありません」
少し硬い声で己が緊張している事に菫は気付いていたが気取られないように平静に努めた。
その努力を知ってか知らずかピヨーテはゆっくりと円を描く様に菫に近付いて言った。
「でも、貴女…………魔女になりたかったのでしょう? 東洋人なのに。日本人なのに」
からかっているのかピヨーテの声は菫の心を揺さぶってくる。
「そういえば最近の日本の魔術師は自国の秘術を学びたがらないとよく聞くわね。日本語での詠唱がそんなに嫌いなのかしら? 無駄にドイツやフランス式を使うのにはそういう流行があるからなのかしら? 貴女もその一人?」
違う。違うと菫は声に出していいたかった。しかしそれを口にしたところでこの老獪な魔女に言い含められるのが関の山だと分かっていた。
つまる所、この魔女も東洋人が魔女になる事を嗤っているのだと菫は思った。しかしピヨーテの言はまた方向性を変えた。
「まあいいけれど。東洋人が魔女になれない道理はないのだし。貴女が何を思って目指したのかはわたしには分かりようもない。けれどそんな貴女にあの子は…………ローザスは拘っている。わたしから見れば一魔術師でしかない貴女に何を見出したのでしょうね?」
「アイツが考えている事なんてあたしには分かりませんよ」
この場にいないローザスに悪態を吐くとピヨーテもからからと笑った。
「そうね。あの子の考える事は分からないわね。…………でも」
ピヨーテは見透かすように菫を見た。
「貴女にそれだけの力があるとは思えないのだけどね?」
「…………ピヨーテさんに比べられたらあたしの実力なんて足元にも及びませんよ」
苛立ちそうな気持ちを押さえて菫は言ったがピヨーテは指を振ってチチチチと舌を鳴らしてそれを否定した。
「魔術師としての素養を言っている訳ではないの。魔術師としてならわたしが見たところそこそこあるもの貴女。そうではなくて貴女の人間としての力よ。意思の強さやあるがままを受け止める心といった、ね」
そんな力が自分にあるのだろうかと菫は唇を噛んだ。
聖母――――神を作る魅力的な研究であり作れたのならローザスの言う通り魔導史上二人目の神を降臨させる事になる。だが、魔女を目指した気持ちを捨てられずにいる。ピヨーテにしてみればきっと菫は弱い人間なのだろう。
「ローザスにはいざとなったら貴女の説得をしてくれと頼まれていたのだけど。残念ながらわたしは待てなくてね」
ピヨーテの手が菫の顎に添えられる。そして耳元で囁かれる。
「貴女は聖母になりなさい。魔女になどなるべきではないわ」
言い知れぬ怖気が背筋に走り菫は全く動けなくなる。息をするのを忘れてしまうほどに。
意識がピヨーテの口に行っている中、不意に菫は下半身に何かが触れている感覚を覚えた。それはスカートの上から股間部を押さえていた、いつの間にか顎から離れたピヨーテの手だった。
「後生大事に守ってきたのかもしれないけれどこれにどれほどの価値があると思う? 愛した男すら受け止められない事に何の価値がある?」
手を払いたいと思っているのに何故か力が入らない。菫は精一杯の抵抗としてピヨーテを睨んだ。
「魔女の貴方がそれを言うのか…………!」
ピヨーテの手はまるで蛇のようにするすると動きスカートの中に、下着の中に侵入してくる。菫の体温より低いピヨーテの手は冷たく感じ思わず声が漏れた。
「魔女を目指している癖に貞操帯すら着けていないなんて大した信念ね、菫?」
「…………ッ!」
「昔は魔女を意図的に作る為に装着させられた女たちも多くいたのに自ら目指しておきながらこの体たらくとはね」
耳が痛い事を言うピヨーテに菫は反論の言葉を持てなかった。ただし菫の気持ちも知らないで好き勝手に言うピヨーテに反感を覚えていた。
「何が…………言いたいんですかッ?」
にやりと嗤うピヨーテに何がしたいのか分からず菫は声を荒げた。しかしピヨーテは意にも介さず告げた。
「魔女になる事は貴女自身が何かを得る為になろうとした事かしら? それとも魔女そのものが目的なのかしらね? 前者なら魔女以外の道を見つけるべきね。後者なら救いようがない大馬鹿ね貴女」
「なんですってッ?」
その一言でピヨーテには分かったらしい。菫が後者の思いで魔女を目指していた事が。かつては魔女は過程であり目的は西洋魔術師の意識を壊す事だった。だが今の菫は魔女になる事が目的になっている。
ピヨーテはくすくすと不敵に笑った。
「うふふふ。貴女も歪で面白いわ。聖母になれる機会なんて魔女を目指す以上にないものなのに何を迷う必要があるのかしら」
「貴女には分からないでしょうね…………!」
明確に敵対する意思を見せて菫が言うとピヨーテはそれを気に入ったのかさらに腹を抱えて笑った。菫から離れて大笑いをしている。
「何がおかしい?」
「これは笑わずにはいられないわ。本当に歪で素敵ね菫。ローザスが拘るのも分かった気がするわ」
ピヨーテは息を整えると再び菫に近付いた。菫は警戒した体勢を取ったがピヨーテは呆れたように言った。
「別に取って食いやしないわよ。ただ、こんな事に悩むあなたを気に入ったから少しだけお手伝いしてあげようと思って」
「…………手伝い?」
唐突に態度を改めるピヨーテに菫の方が戸惑ってしまっていたがピヨーテは菫に近付くと菫が抵抗する隙も与えず両手で菫の頭を押さえて唇を重ねてきた。けれどピヨーテが顔を寄せるその瞬間、菫には見えていた。ピヨーテの口から零れる液体を。唾液ではないのは理解できたが、そこまででその先は合わさった口から送られる水のような液体を嚥下するほかなかった。
菫が喉を鳴らして嚥下した事をピヨーテが確認すると唇を離した。手の甲で唇を拭うと菫に言った。
「精々悩みなさい。きっと貴女は聖母になると思うけれど魔女になりたいと願う貴女を尊重してわたしからのささやかな贈り物よ」
何度か咳をして喉の調子を整えると菫はピヨーテに向き直って言った。
「何が贈り物よ…………!」
そう口にしたところで身体に違和感があるのを覚えた。下半身、それもまさに股間の部分が何かに覆われているような感覚。スカートの上から押さえてみるが変わった様子はない。
「何をしたの?」
自身に何が起こったのか理解する為にピヨーテに訊ねるとピヨーテは意外な事を口にした。
「魔女の貞操帯よ。今は違和感があるでしょうけど直にそれも馴染むわ。これで貴女の魂と身体を汚す事はできないし何であろうと拒絶するわ」
「なんでそんなもの…………」
やはり理解が追いつかずそんな言葉しか出て来なかったがピヨーテは笑っていった。
「そんなのわたしが貴女を気に入ったからに決まってるでしょう。なるほどねぇ。ローザスが拘るのも分かるわ」
なんだか分からないうちに気に入られていたらしい。菫が呆気にとられているとピヨーテは踵を返し住居の方へ戻り始めた。
「ちょっと、待って」
引き留めるとピヨーテは顔だけ向けた。
「結局何がしたかったんです?」
ピヨーテはまたもくすくすと笑った。
「簡単よ。貴女の事が知りたかった。もう十分よ。起こして悪かったわね。もうゆっくりと休んでいいわよ」
合点の行く答えではなかったが菫はひとまずその答えで納得をした。先に歩きだしたピヨーテの後を追って歩き始める。
その時、島に打ち付ける波の音が一際大きく響いたのを二人は聞き逃さなかった。