魔導の探求者
日本の首都たる東京の郊外、下河町の築十三年の鉄筋コンクリート造りのアパートの二階、202号室で青年――――ローザス・ブラックは頭を下げて(日本で言うところの土下座をして)いた。202号室は1DKの間取りでリビングとして使っている部屋にはローザスとこの部屋の主である若い女性――――紫園菫が対峙していた。
ローザスは手入れのしていない襟足がやや長いブラウンの髪で顔色はやや不健康そうだった。服はインバネスコートを着て中に甚平に肌襦袢、下は黒のチノパンというどう考えても和洋折衷を間違えた着こなしをしていた。対して菫は銀縁の丸眼鏡を掛けセミロングの手入れされた黒髪、ふくよかな胸に豊かな尻の持ち主で服は胸元が開いた七分袖のTシャツにロングスカートを着ていた。休日の誰にも邪魔されない寛ぎの時間を過ごすラフな格好だ。
ローザスは頭を上げると足の低いテーブルに頬杖をしてまるで道端に転がっている犬の糞でも見ているような視線を向ける菫に言った。
「やあ菫。久しぶりだ。御機嫌は良くないみたいだが」
菫が眉を僅かに寄せたのをローザスは見逃さなかった。
「あのねローザス。よくあたしの前に顔を出せたわね。その根性に怒りを通り越して溜息しか出ないわホント」
ローザスと菫は決して仲の悪い関係ではない。ただし菫がローザスに対してつっけんどんな態度を示すようになったのは六年前の事である。
二人はアルビオン魔導省立魔術学院に通っていた同期生であったが卒業したのはローザスだけであり菫は卒業できなかったのだ。学生時代ローザスは魔導史科に在籍しており菫は魔女科に在籍していた。二人は学科を越えた自他ともに認める好敵手でもあった。だがこと戦闘に関する魔術に至っては、ローザスは菫に後れを取っており模擬戦では引き分けはあれど、ただの一度も菫に勝てた事はなかった。しかしこと魔術研究においてローザスは菫の先を行っていた。
中でもバチカンに保管されている聖遺物であるイエスの聖杯の劣化品とはいえレプリカを製造するなど他の学生の追随を許さない結果を出していた。
当時のローザスが次の研究の題材とした物はホムンクルスだった。ホムンクルスは魂のない人造人間であり医療でいうところのクローンと違うのは生殖能力を持たないところである。
ホムンクルスを製造するにあたって必ず必要な物がある。それは処女の卵子である。ローザスはそれを入手するにさも当然のように菫に協力を願い出た。魔女科の首席である彼女は魔女としての素質は非常に高かった。また魔女は処女である事が絶対条件であるため菫の卵子はホムンクルスの素材としては特上の物である事は間違いなかった。もっとも頭を下げられた程度で菫が潔く卵子の提供をしてくれるはずもなくローザスは勝負を持ちかけた。菫が得意な結界破り勝負を。ローザスが魔術で結界を作りそれを菫が破る、挑発にも似た賭け事だが菫はそれを受けた。
結果はローザスの十六戦一勝十四敗一不戦という惨憺足るものであったが一度だけ勝利を収め卵子を貰えたのだ。もっとも十四敗で菫から無理難題のペナルティを課せられたが言うまでもない。そして――――この勝負の一不戦こそが二人の関係を歪にさせた遠因でもあり菫が卒業できなかった原因でもあった。
魔女は処女である事が絶対条件である。
これは魂の所在に大きく関係する。性交の有無で魂にどのような変化が訪れるかというと男性ならば自身の魂の一部が分離して相手の魂に定着する。十全だった魂が欠損するわけだ。女性ならば相手の魂の一部が自身の魂に癒着し妊娠していようがしていまいが未来に生まれる可能性がある子供の魂として母体の魂の一部分に準備される。これによって母体となる女性の魂は自身以外の魂を抱える事になる。男女とも魂の在り方が大きく変化するのだ。
魔女とは地球の気である世界魔力を一般の魔術師とは違い一身に受ける事ができる存在でありその際に自身以外の魂があると受け取る事ができなくなるのだ。故に処女であることは魂が自分だけの魂である事を証明でき、処女でないことは自分以外の魂を持っているとされてしまうのだ。
当時菫は魔女科の首席であり尚且つ日本人という事もあり次席だった名門血統派のキャロル・ド・ゴドウィンソンを筆頭に疎ましく思われていた。
ローザスとの勝負で卵子を賭けていた事から魔術学長にしてこれまた名門血統派のフリーマン・クロムウェルに虚偽の告発を行われた。その結果魔女として重罪である姦淫罪を適用された上で除籍処分を下され学院を去る事になったのだ。
その経緯がある為、除籍の遠因を作ったローザスに複雑な気持ちを抱いているのだ。無論ローザスもその事は分かっているので菫の態度には不快さを感じていないのだ。
「やれやれ。すっかりとげとげしくなったものだ」
「アンタの所為でもあることは分かってると思うけど?」
ローザスは嘆息して肩を竦めた。
「まあいいだろう。単刀直入に問おう」
居住まいを正して菫を見据える。彼の真剣な表情に流石の菫も頬杖を止めて腕を組んでローザスを見返してきた。
「で? 何よ?」
「…………君は今でも処女か?」
「…………今の日本じゃセクハラになる発言ね、それ。まあいいけど。百パーセント処女よ。あたしは今でも魔女になるつもりがあるからね。もうイギリス魔女にはなれないけど」
「結構。ならば話を聞いてくれ。君次第だが運が良ければ魔女になれる可能性があるかもしれない」
ローザスの言葉に菫が目を瞠った。
「どういうこと?」
訝しげな声音で聞き返す菫にローザスは本題に入った。
「俺は今、豪腕の魔女の弟子になっている。学院では学べなかった多くの事を学んだ。それで今は第三聖杯を作ろうと思ってるんだ」
「豪腕の魔女……? もしかしてピヨーテ・シャルレス?」
ローザスは頷いた。
「その通り。彼女に戦いを挑んだのさ。学院を卒業してすぐにな。もっとも七日七晩粘ったが七日目の一度しか彼女には攻撃が通らなかった。が、それのお陰か健闘を称えてもらい弟子にしてもらった」
いつの間にか菫は少し前のめりになりローザスの話を聞いていた。
「もしかしてピヨーテに取り成してくれるの? アナタが?」
期待が込められた言葉だったがローザスは指を振ってチチチチと舌を鳴らした。
「ただ取り成すには条件がある」
「条件?」
菫が眉を寄せる。
「先ほども言ったが俺は第三聖杯を作ろうと思ってる。イエスの聖杯たる第一聖杯でもなく聖杯伝説の奇跡の聖杯たる第二聖杯でもない、あるのかないのか分からないと言われてきた神の第三聖杯をな。その製造に力を貸してくれるのならピヨーテに取り成す事は約束しよう。ただしピヨーテが君を認めるかどうかは約束できない。これが条件だ。どうする?」
問うたと同時に菫は間髪を容れず答えを返してきた。
「飲むわよその条件。けどアンタがあたしに何を求めているのかがさっぱり見えてこないんだけど?」
「それは追々教える。まずは俺の魔術研究拠点に移動する。話はそこでする」
「約束、守ってもらえるのよね?」
重ねて菫が訊ねてくるのに対してローザスは固く頷いた。
「学院時代から俺は君の実力、その潜在能力を高く評価していたんだぞ。口惜しい事に戦闘魔術師としては君の方が優れている。それは認めよう。しかしだ、俺には俺のやりたいことがある。その為の努力は誰よりも続けてきた。君が魔女を目指す以上の熱量を持ってな。その鍵がようやく見えてきたんだ。君が俺に協力する以上、俺は君を裏切らないと誓ってもいい」
ローザスの態度に菫は軽く息を吐き髪を梳きあげた。
「アンタがそこまで言うならよっぽどなんでしょう。あたしだってアンタの魔術研究の態度は知ってるからね。断言してもいい。あたしが協力する以上アンタはあたしを裏切らないってね」
ローザスは笑みを溢して菫に言った。
「ならば今この瞬間から君と俺はパートナーだ。よろしく我が半身」
ローザスは手を差し出す。それを菫も握り返した。
「この身が魔女に染まるまで共に歩む事を誓うわ」
二人は固く手を握り、離した。
パートナーシップを結んだところで菫が現実的な問題を口にした。それはローザスに協力する事で日本に帰って来られなくなる可能性がある以上アパートの家賃などをどうにかしなくてはならないという問題だ。それに現在菫は下河町の場末のクラブでホステスとして働いておりそれもどうにかしなくてはならない。菫は日本の魔術結社には所属しておらず後ろ盾もなく魔術研究に没頭できるだけの財力もない。故に学院を追放されてからは女である事を武器に夜の水商売で金を稼ぎその傍ら魔術の研究をしていたらしい。だからこそ仮にピヨーテの弟子になれなかった場合この帰ってくる場所を残しておかなければまた一から生活基盤と魔術研究拠点を作らなくてはならない。潔くないというのは簡単だが保険を掛けなければ全てを失う彼女にとってはかなり重要な事だった。
ローザスはその辺りの事は菫の好きにすればいいと告げると彼女は大急ぎで行動を始めた。ローザスがいるのにも関わらず服を脱ぎ品の良さそうな青いワンピースに着がえて高そうなショルダーバッグを取り出してきた。そのまま洗面所で顔を作り(二十分は掛かっていた)化粧をして彼女は出てきた。もともと顔の堀が深い方だった菫が化粧をした顔はどうにもけばさが漂いローザスは遠慮なく『似合ってないなその化粧』と感想を述べた。それを聞き流しながら菫もまた『日本じゃあ化粧をしてない女なんていないわよ』と返してきた。一通り支度を整えた菫はクローゼットから薄手のケープを取り出し羽織った。
「あたしは今から行くところがいろいろあるからアンタはどうするの? 家から出るなら鍵を閉めないといけないんだけど」
「心置きなく留守番をしておこう。日本には土地勘を持っていないんでね」
「なら誰か来ても出なくて…………」
そこまで言い掛けてから菫は黙った。それからローザスを見て溜息を吐いた。
「ま、いきなりアンタみたいな外人さんが出て来たら大体の人は帰るでしょう。誰か来たら対応はアンタに任せるわ。日本語でも英語でも好きな方で対応して頂戴。じゃあ行くわ」
慌ただしく出かけて行った菫にローザスは言葉を掛ける暇もなく一人残された。
◆
菫が帰ってきたのは日付が変わってからだった。彼女が言うにはまずアパートの契約会社に赴いて家賃の前払いの話をしに行ったらしい。向こう数年分の家賃を一括で払ったとの事。それから電力会社、ガス会社、水道局に電力とガスと水道を今月いっぱいで止めてもらう様に連絡を入れてそのあとクラブに行ったのだという。そこで一身上の都合で店に出られないこと、その間の給与はなし。けれど籍は残してもらえるように交渉し結論から言えば菫の要求は通ったのだがクラブに行った所為で最後に店に出て欲しいという事でこの時間になったという訳だった。
一通り説明を受けた後、見るからに疲れている菫にローザスは労いの言葉を掛けたが彼女からの返事は『あ~』や『う~』といった空返事で眼鏡を外してテーブルに突っ伏して動かなくなった。それに酒臭さと煙草臭さと何らかの匂い――――おそらく香水だろう――――が混ざって有り体に言って異臭となっていた。
「全身から臭ってくるな。酷い臭いだ。相当飲んだのか?」
返事はなくローザスは肩を竦めてキッチンへ向かった。戸棚からコップを取り出すと水を一杯汲んで戻ってきた。それを菫に与えて酒気を飛ばす。
水を一気に飲み干した菫は頭を掻いて悪態を吐いた。
「くそぅ。度数の高い酒ばっか飲ませやがって」
「君は強い方だと思っていたがな」
「あたしだってその自覚はあるわよ。でもねお腹がパンパンになるまで飲まされたらこうなるわ。羽振りのいいお客なんだけどあたしを酔わせて胸や尻を触ってやろうって魂胆が見え見えなのよ」
ローザスは遠慮なく菫の胸を見て言った。
「確かに君の胸や尻を触りたくなる気持ちは十二分に分かる」
菫はローザスに胡乱気な視線を向けて来た。
「さすがあたしの卵子を欲しがった奴は堂々というわね」
言いながら菫は空になったコップをローザスに突き出してきた。おかわりを要求しているらしい。ローザスは黙って受け取ると再びキッチンに立って水を汲んできた。菫に渡すとやはり彼女は一気に飲み干した。それから長い溜息を吐き立ち上がった。
「ちょっとシャワー浴びるわ。その後、これからの事を話し合いましょ」
菫はその場でケープとワンピースを脱いで下着姿のままバスタオルと替えの下着を取ってバスルームへ向かった。
◆
三十分後バスルームから出てきた彼女はTシャツとスウェットパンツを着てローザスの前に座った。先ほどより酒気が抜けてしゃっきりとしていた。
「で? 具体的にアンタの拠点ってどこなのよ?」
「太平洋だ」
「はぁ?」
思ってもみない回答だったのか菫が面食らったような返事をしてきた。もう一度ローザスは言った。
「太平洋だ」
「二度も言わなくても分かってるわよ。で? 太平洋っていうのは具体的にどういうこと?」
「ハワイ諸島から南東に行った所にブルー島という無人の島がある。そこが今の俺の魔術研究拠点だ。尚且つ豪腕の魔女ピヨーテの根城でもある。まずはそこに向かう」
「向かうったって、移動手段は?」
怪訝そうに訊ねてくる菫にローザスは答えた。
「俺がどうやって日本に来たと思ってる。ちゃんと船を用意してある」
「パスポートは?」
「あった方がいい。そのまま他国へ行く可能性もある。あと船で行く以上最低でも十日は掛かる。その覚悟と準備はしておいた方がいいかもしれないな」
「…………十日」
呟くように菫がいいこれからの事を考えているようだ。
「いつ出国するの?」
「明日、というか今日だな。東京湾に入国管理官と海上保安官に来てもらい出国審査と船体の確認をしてもらう。それで出国できるはずだ」
「そんなのでいいの? 理由とか訊かれないの?」
「世界一周とでもいえばいい。大体俺がその名目で日本に来ているからな」
菫は口を噤みローザスの言葉を反芻しているのか何度か頷いていた。質問がないと見計らいローザスは床に横たわる。欠伸をついて菫に言った。
「少しひと眠りさせてもらうぞ。いろいろと強行軍だった所為で流石に疲労が溜まってるんでな」
ローザスの言葉を聞いた菫が思考を止めて答えた。
「待って、寝るなら布団を用意するから」
菫が立ち上がりクローゼットの下に積んである布団を引っ張り出した。
「あとそのコートくらい脱ぎなさい」
口うるさい菫の言葉に従いローザスはコートを脱ぎ、布団の上に横になる。菫はその隣にもう一つ布団を敷き横になった。