ドラゴンのいけにえ
一匹のドラゴンが空を飛んでいた。ドラゴンは入道雲のすぐ横を通り過ぎた。ドラゴンのその羽ばたきで入道雲はふわりと形を変えた。
ドラゴンの行く先ではトンビがソアリングをしていた。だがトンビはドラゴンの姿を目にしたとたん、慌てて羽ばたき始めた。そしてトンビが二三回羽ばたいたところでドラゴンはその牙でトンビの体をとらえた。
ドラゴンの牙はトンビの胸や首をずたずたに切り裂いた。ドラゴンの口の端からトンビの血が滴り落ちた。そのような状態になってもなお、トンビの意識はまだ続いていた。そしてドラゴンは生きたままの状態のトンビを飲み込んだのだった。
やがてドラゴンは火山の中腹にあるくぼ地へと降り立った。そのくぼ地には祭壇のようなものがあった。そしてその祭壇の前には一人の少女が立っていた。
「お前が今年のいけにえか?」
ドラゴンは尋ねた。
「はい。ナンシーと申します」
「ナンシーよ、じっとしていればすぐに済むし楽に終わらせられる。もっとも俺にいけにえの気持ちなどわからぬが」
「ドラゴン様、あのう」
「何だ?」
「お口が臭いです」
ナンシーは言った。
「お言葉ですが、歯磨きはされておりますか?」
「余計なお世話だ!」
これからただ食われるだけのいけにえが何の心配をしていやがる。俺の口臭がどうだろうが、別に関係ないだろうが。
「お前、そんなことを言ってどうなるかわかっているだろうな?」
「むろん、バリバリむしゃむしゃと食われるのでございましょう?」
「それはそうだが、より痛みや恐怖に苦しんで死ぬようにしてやるからな」
そう言ってドラゴンはぐわぁっと口を開いた。
その直後だった。
「うわっ、くっさぁ!」
ドラゴンはそう言ってのけぞった。
「何だ?何の匂いだ、それは?」
「ええ、うちのおばあちゃんが化粧としてつけてくれたんです、ドリアンの実の汁を」
ドリアンの実の汁といえば、世界で最も臭い物質である。その匂いを嗅いだ生物は呼吸困難に陥り、最悪の場合意識を失うということをドラゴンは仲間から聞いたことがあった。
むろんドラゴンもその例に漏れない。
「おええ!げほっ、げほっ!てめっごふっ!なんてことしやがる!」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫に見えるか、これが!」
「申し訳ありません。どうか怒らないでください」
「お前、さてはいけにえになりたくなくてそんなことをしたんだろう」
「そんなことはありません。これはおばあちゃんが薦めてくれたからつけただけのこと」
とんだくそばばあもいたものだ。見かけたら焼き殺してやる。
「それよりもドラゴン様、あなたの舌のお好みに合うように、私のこの体に調味料をまぶしてまいりました」
「何、本当か?」
これまでそんな殊勝ないけにえはいなかった。バター塩味が理想的だが、この際多少の違いは許そう。
「トリカブトの根っこの粉末を体にまぶしてまいりました」
「猛毒じゃねーか!」
トリカブトの根っこといえば、嘔吐、下痢を引き起こすうえに呼吸不全になるという悪名高い毒草ではないか。
「ふざけんなよ、食えねーじゃねーかよ!体洗って来いよ。向こうをしばらく降りたところに湖があるからさ」
「わかりました」
そう言ってナンシーはすたこらと山を下りていった。
まったく、今年のいけにえはくだらないことばかりしやがる。体ににおいをつけたり毒をつけたりしたところでどうせ死ぬ運命には変わりがないというのに。村に帰ったところで村人には追い返されるし、たとえ逃げたところで……。
「あいつまさか、逃げたんじゃねえの?」
ドラゴンは翼をはためかせて、くぼ地から出た。見ると、池の方には少女の姿はない。視線をぐるりと巡らせると、少女は森の方へ向かって走っていた。
「てめえ、逃げるんじゃねー!」
「あ、ばれた」
少女はつぶやいた。
ドラゴンが猛烈な勢いでナンシーへと向かっていった。ドラゴンは大口を開けてナンシーを飲み込もうとした。
そのドラゴンの口の中へ、ナンシーは灰緑色の木の実を放り投げた。とっさにドラゴンは口を閉じた。その木の実を吐き出そうとしたのだ。しかしその時の拍子に牙と牙との間に木の実が挟まりこみ、つぶれてしまった。そして木の実の汁と、その香りが口の中に広がった。
「くっさあああああ!」
ドリアンの実のにおいは最悪の場合、悪臭によって気絶することもある。ドラゴンもその例にもれなかった。
ドラゴンは意識を失った状態のまま、これまでの勢いそのままに飛んでいった。ドラゴンは少女を飛び越えて、森のど真ん中へと倒れこんだ。
目が覚めたドラゴンはすぐさま飛び上がり、村を襲った。
「ナンシーはどこだ!」
「ドラゴン様、いったいこれは」
ドラゴンは炎の息を吐いた。炎は村人の体を焼いた。あたりに人肉の焼けるにおいが漂った。その匂いを嗅いだほかの村人たちは恐怖し、パニックに陥った。
「ナンシーはどこだ!」
ドラゴンがどれほどナンシーの姿を探し求めても、それを見つけることはできなかった。
それもそのはずで、ナンシーは村から遠く離れたところへと逃げ出していた。村を出るためにまとめた荷物は村はずれの木陰に隠してあった。ナンシーはそれをもって出て行くだけでよかったのだ。
ナンシーはふと振り返った。ナンシーの目には村が炎と黒い煙によって破壊されていく様子が見えた。それを見るとナンシーは身震いするような思いを感じた。しかしすぐにあの炎が自分を殺すことはないということを思い出した。それから体の上からのしかかっていた、重く透明な泥のようなものが消えていくような気がした。それは胸のすっとするような爽快な気分を与えた。
「ざまぁみろ」
ナンシーはそうつぶやいた。