クリスマスの負け犬
――――トナカイが空を舞う日になぜか恋の魔法が降りかかる国でおこったほんのひと匙のものがたり
◇
恋の魔法に敗れてあやかった、とある男女のクリスマスにまつわるおはなし。ハッピーエンド。
物語は待ち合わせ場所からはじまります。
どうかお楽しみいただけますように。
クリスマスイブの夜のはじめだった。私は土曜の半休で、つきあいはじめの彼は仕事だった。
私はおしゃれをして、駅前のからくり時計の下で同じようなたくさんの人間とともに彼が来るのを待っていた。それは息が白くなるような寒い日で、コートの下は薄着だった。かじかんだ手を忘れるように、気をそらせるために人間観察に励んでいた。
黒ずんだ雪は足元をやたらと冷たくした。使い捨てカイロを買えばよかったなと考えたときに、隣からいきなり伏せ字が相応しい声が聞こえたものだからやけに驚いたのだった。
冬至から間もないときの夜の訪れは早く、イルミネーションは待ち合わせ場所すら波蝕していて、私たちの色をほんのりと変えていた。
いくつかの色を交互に纏って、光の角度で違う様相を見せる人間を私は見るともなく見ていた。
たしか一瞬だけの隣人は、廉価品ではない眼鏡をかけた柔和そうな男性だったはずだ。たしか長い濃色のコートを着ていた。そのひとよりも長生きしていそうな、きっちり手入れされてきたウールのコートだった。留め具は本当の動物の角を使っていて、長い年月が角をつやつやにしていた。
しきりにスマホで時間を確認しながらそわそわしていたから、待ち遠しく思うような待ち合わせなのだろうなと微笑ましく捉えていた。
だからそれは物珍しいわけでもない、ほんの些細でありふれた悪態ではあったけれど、その豹変に驚いてしまったのだ。あらためて見やれば、携帯を手にしたその肘から下がぶるぶると震えていて、表示されていた刻印まで目に入ってしまったのだった。
気の抜けるような軽く謝るしぐさを描いた刻印の上の、別れを告げるシンプルな文字まで、無駄によい動体視力が捉えてしまった。こんなに品の良さそうなひとでも、悪態ってつくんだなんて思った。
そのまま視線を外そうとしたのに無理だった。視線を感じてしまった。つい見てしまったことを本人に気づかれてしまったのだった。
顔を上げた私はただ気まずげに束の間の隣人となった男と目を合わせるしかなかった。男のガラスの色がイルミネーションに合わせてくるくると色を変えた。その奥にある瞳に浮かんだ怒りと恥ずかしさには、ほんの少しの悲しみが見てとれた。
それはきっと気づいてはいけないものだった。
だからあっという間に男に訪れた悲しみという滲みはほかの感情を凌駕して眼の内を覆い、メガネ越しの瞳は涙でいっぱいになってしまった。
さきに眼鏡をとるか、それともまずはしゃがむか、男には逡巡があったように思う。
でも涙腺の崩壊のほうが速くて、とにかくしゃがもうとする男のコートの裾がやたらと気になってしまって、普段ならぜったいにしないのに思わず他人の裾を絡げてしまった。
だから、そのままワンピースの裾にすがりついて泣かれてしまったのは、自明の理みたいなものだろう。
私は家族のように男の髪や背を撫でて慰めたわけではなかった。
ただ困惑した顔を露わにしたまま、ただ絡げた裾を膝に乗せそこない、縋りつかれながら、嗚咽による振動が伝わってくるなかで所在なく立ちつくしていただけだった。そんな足元を、黒ずんで残る雪ごといろんな色の光が染め変えていっただけだった。
だけど、そんなことはあのひとにとって言い訳にもならなかったのだろう。
ともかくその日、私は公衆の場で泣く男性という存在を生まれてはじめて目の当たりにした。そして世のなかの日の浅い彼氏というものはそうやって見知らぬ男に縋りつかれて困っている彼女を見ると、声もかけずに立ち去り別の女をナンパしても当然なのだという現実を知ったのである。
繰り返しになるけれど、その日はクリスマスイブで、この国では紛れもなく信仰よりも恋愛の日として認められる日だった。
昨日まで降って降った雪はホワイトクリスマスになりそこねて、そこかしこで黒ずんだまま残っていた。
スカートだか脚だかに絡みつきながらようやく泣きやみかけた男性をよそに、震えたスマホを見たらもう待ち合わせ時刻はずいぶんと過ぎていた。冷えた脚は思いもよらぬものが温めてくれていたが、肩や手は芯から冷えていた。
たしかに視線を感じたのに、見つけた人ごみのなかの明るい色の頭はたぶんあのひとだったのに、さらに待っても彼氏は現れなかった。これはもう碌でもない予感しかしない。
そばに来てくれていたなら、困り顔の私に気づいたと思う。
元々助けてほしいなという声にならないメッセージを伝えても頼りにならない男性なのだろうとは想像がついていたけれど、それでもいい意味で期待を裏切ってほしかった。頼りになる男性なのだというところを見せつけて、惚れさせてほしかったような気がした。
覚悟を決めてメッセージアプリを開こうとすれば、アイコンがついていた。
もう別の女の子を見つけちゃったよ。
その男とつきあっちゃいなよ。
ハッピークリスマス
&
バイバーイ!
どことなくまた軽いメッセージだった。もちろん彼氏からだった。たった今、元彼氏となったひとからだった。そんなメッセージさえも華やかな色とりどりの光が彩った。
いつ震えたのだろう。
私はアイコンにつく数字の通知しか使わない人間だ。
メッセージの着信からはすでに十分も過ぎていた。
私はため息をこぼすべきか、ちょっと笑うべきか迷った。
予感はあった気がする。
ただこの先はクリスマスにバレンタインと続くから、シーズン的に別れ話が出なかっただけだ。このひとと何年もつきあうのは無理だろうなとは気づいていた。
数ヶ月前の、大学時代の友人の結婚式の二次会で口説かれて、まわりに囃し立てられるという形ではじまったおつきあいだった。
新婦の顔を立てなければならない場で断るのは難しく、縁なんてこれくらいの些細さからタイミング次第で形作られるものだと知らないほど子どもでもなかった。
ただ断れない展開ではじまってしまったおつきあいだから、あちらだって引っ込みがつかなくなっただけなんだろう。会うたびに違う気がするとは私だけではなく、お互いに感じていた気がする。
ノリだとかイベント用だとか、そのくらい軽いものだったことがこれで証明されたに過ぎない。
私も追いかけて縋りつく気にはなれなかったのだから。
誤解したのかもしれないし、ただただ歩いていたらもっとかわいい娘がいたのかもしれないし、端から私とは過ごす気がなかったのかもしれない。
でもそんな神妙さが似合う人間ではないと信じていたのに、私もクリスマスを特別視していたみたいだ。
ほかの日に振られるよりもなんだかみじめなのも、クリスマスの魔法というものなのかもしれない。
横に同じような敗者がいなければ、私だって役に立たない涙を流すこともあったかもしれない。
いまだ足元から見上げる泣き虫な初見の男にメッセージを掲げてみせた。イルミネーションとのコントラストが男の顔色をわからなくさせた。それでもせめて、これでプライバシーにふれてしまった借りは返せたはずだった。
男は眼を見開いて、それから申し訳なさそうに眉を下げた。
「だいじょうぶよ。泣けないくらいのお相手だったの」
小さくうなずいてそう伝えると、どうやら男の涙はすっかり引っ込んだらしく、今度こそお互い気まずさで笑った。
そう、我々は同じ振られ穴の貉だったのだから。
ほんとうにツイてない。
でもちょっと愉快でもある。
横に振られ仲間もいるからひとりではないところが、共感相手がいるところがさすがクリスマス。言葉は悪いけれど、負け犬にもあまった幸福の欠片を配られてしまったようだった。
だからこそ、あんな彼氏にホテルに放り込まれてはたまらないなと思うことができた。そんなに簡単に見捨ててナンパに励んでしまうひとに、もしも病気でもうつされたら困る。
こういう感情は途方もない気持ちになったときの、自衛本能めいたものなのだと思う。そんな風に相手を悪くとらえてしまった己のおぞましさに、あとから自己嫌悪に陥る類のものだとは経験上分かっていた。
そうでも思わなければやっていけなかっただけだけれど、でもそう思うことでそのときは楽になることができた。
それなら、なしくずしでつきあうよりも、奇妙な今の哀れさの共感のほうがよっぽど味があって安全ではないかとそんなふうに考えたのだ。
立ちあがった男の裾を離すと、念のため件の結婚式の新婦に、説明メッセージをしたためはじめた。元彼となった人間に、万が一これが浮気と誤解されて広められてはたまらないなと思ったから。そう思ってしまう自分の性分は嫌いだけれど、必要悪な処世術だと割りきるしかない。
「あのう」
それでも誰にも非がないような感じのよい説明を模索していたら、隣の男に声をかけられた。
「ディナーの席が空いてしまいました」
たしかにそうだろうなと私は首肯する。
もちろん私の元彼氏は予約先にナンパした女性を連れて行くのだろう。
それからこの目の前のひとの元恋人は、ディナー先の譲渡をこのひとにねだりはしなかったのだなと思った。
「それでこのお詫びとお礼になりませんか?」
もちろん話しかけられたときからそういう誘いなのだろうなとは気づいていたけれど、私は首をかしげた。男の背が高いせいであまり曲げたことのない角度で見上げるかたちになったのは、ちょっとした予想外だった。
「とても評判のよいフレンチレストランなんです。ワインはお好きですか? それならこんな冴えない日こそよいものをおごらせてください。ちょっとワイン選びは得意なんです」
「お得意なんですか?」
私はまるで信じられないという顔をしてみせた。だってこの男はクソッだとかチクショーだなんてまるでこどもみたいな悪態をついたうえに、ついさっきまで泣いていたのだ。
「ぼく美味しいものには目がないんですよ。あのお店、本店とは違ってビストロのように少し敷居は低くて、料理もイタリアンや和風混じりの創作フレンチなんですが、それでもこの日ですから、半年前に空きができましたといわれてやっと押さえられたものなんです。お互いにこの装いですから顔を立てると思って、ぼくにおごらせてはいただけませんか?」
「あらまあ」
奢りだという。なかなかのフレンチだという。ワインを奮発するという。
別に彼氏彼女ではないので割り勘でよいのだけれど、こんな難関な日を勝ち取ったせっかくの予約も、せっかくの着飾った姿も、そういわれてしまえば無駄にするのはもったいない気がした。
たぶんふだんの私なら乗らなかった。
だけど、ごはんに恨みはないと行くことにしたのは、やっぱりクリスマスの魔法とやらが成した技だと思う。
どうやら今からだと男が予約していたディナーの時間にはちょっとだけ遅れるらしい。でもまあ遅れてもなんとかなるでしょうと、こんな繁忙期にのんきなことをいう男を私は急かすことにした。
私がつきあってきた歴代彼氏はみんななぜかチャラチャラした感じだけれど、でも女性を走らせるような真似をした男は誰もいなかった。それは誇ってもよいことだったのかもしれない。
もちろん今だって走ることにしたのは私だ。
休日クリスマスイブの今日は、決して薄着でキメる女性を待たせるべからずといったところの、ワンピースに決め髪にピンヒールだったけれど、溶けた雪で薄汚れた道をとにかく走った。
結局は電車のなかで、いきさつを説明するメッセージなんて、新婚のイブにそれもどうなのかとやっと気づいて送信を取りやめた。
やはり動揺して冷静さを失っていたみたいだ。
息を吸い込めば隣の男の定番だけれど穏やかで落ち着いた香りが胸底まで届いた。
窓に映った髪は当然ながらもう乱れていた。お化粧だって直したい。おまけに踵の保護シールがストッキングを巻き込んで縒れてしまっている。靴にも雪の残骸が散っていた。
ちっとも素敵な女性ではなくなってしまっていて、笑いそうになってしまった。
そのまま、まったくスムーズではない獰猛なまでの慌ただしさでお店に駆け込んだのは、まだ予約十分前のことだった。
走らなくてもどうにか間に合ったような気がしてきた。もうどうにでもなれの気持ちで、くさくさしていたらしかった。あとから思えば走ったのだってただの鬱憤晴らしのようなものだったのかもしれない。
結局は店内超回転のクリスマスのこの日、前の客が粘ったのか、結局二十分遅れで席に腰をかけた。先に化粧室を使わせてもらえたので、身綺麗なおねえさんスタイルには戻れたし、実際には私自身はそんなに待っていないけれど、男のスラックスこそクリーニングが必要になったに違いない。泣かれてしまったのと同じくらいの迷惑をかけてしまったなとは思う。
キャンドルが作りだす揺らぎの光のなか、男はスマートに椅子を引いてくれた。辛口が好きだと言っただけでスムーズに飲み物を選んでくれた。そのうえ、走らせても文句ひとつなく溶けかけた雪で汚れた道を走ることを選んでくれたのだった。なんともなしに見上げると微笑んでみせてくれたから、ますます泣き虫なことへのアンバランスさが際立った。
アンティークなコートの手入れができるひとだから、そのスマートさこそが元々彼の自然なありかたなのだろう。
少なくとも大学まで公立を貫いた私にはワインの銘柄なんてまったくわからない。
私にわかるのは、せいぜいそれがブルゴーニュを目指しているのか、ボルドーを目指して作られたかを示す、瓶の形の見分けかたやぶどうの品種名くらいである。
私は赤ならボルドー系が好きらしいし、白ならブルゴーニュ系が好きなようだ。辛口が好きだけれど、ドイツやイタリアのような甘い白ワインにだって美味しいものがあるとは知っている。
お酒は詳しくないからこそ、誰かが単純に未知の世界を見せてくれようとしていることは、楽しくて嬉しい。
そして意外にも眼鏡をくいっと上げながらワインリストを見て、お店のひとと二言三言話しては選ぶ姿が手慣れているだなんて、泣き虫のくせに生意気だぞなんて、どうみても同世代か向こうが少し上だけれどお姉さんぶって嘯いてみるしかなかった。要するに私が不慣れな席に尻込みしていただけだ。
読む本がないと喚けば百科事典を渡される、そんな家庭で育った私だ。
これだけの格式の席は、結婚式しか知らない。
どうせ一期一会だ。
名も知らない男の夕飯にご相伴にあずかっただけ。
走ったりして恥をかかせてしまったかもしれない。でも今はかじかんだ身体もぬくもりを取り戻し、服もメイクも憂いなしだから、見逃してほしい。
かわいく媚びたりできるわけでもないし、そういうのが似合う系統の顔でもなかった。
私はそれならまだ妖艶なお姉さんになるほうが簡単な顔立ちをしていたし、姿勢だって身長のわりによいほうだ。そういう意味ではたぶん連れ歩けないほどではないと思う。尻込みを隠して微笑むことができるくらいには大人だ。
これはビジネスでもない。
そして男には、なんだか悔しいけれどフォローするだけの余裕がある。
それなら必要なのは、男も女も状況を楽しむ度胸だけあればいい。
乾杯用のシャンパンは絵が描かれた素敵な瓶に入っていた。
その瓶に描かれた絵は桜みたいに見えるけれど、花びらの枚数が違う枝が金色に縁どられていた。
グラスをお互いに掲げてひとくち含んでみると、瓶の見た目から想像していたよりもずっとしっかりとした味がした。余韻はきれいと例えるしかなくて、しばらく口も開かずに浸ってしまった。
「とてもかわいらしい瓶ですね。外国っぽいのに日本らしくも見えて」
「でしょう。これアネモネなんですよ」
男が眼鏡の奥からなにかを探るような色を宿して見てきたのは、これがただのお礼に過ぎなくて、口説いたり口説かれたりすることとは無縁だからかなと思う。
「ずいぶんふつうのアネモネと雰囲気がちがいますね。ヨーロッパの野生種でしょうか?」
「うん、原種のアネモネ・シルベストリスに一見見えますよね。でもよく見ると葉が違って……そう。ちなみにこの絵を描いたの、植物学者でもあったロレーヌ地方出身の有名なガラス工芸家なんです」
男はその芸術家の二文字を口を動かすだけで表現し、私はうなずいた。その名前はあまりに有名なために、声に出してしまえばどれのことだろうと周りの目を集めたに違いなかった。
「あのランプとかガラスの花瓶とかであまりに有名な、あのひとですね?」
「そう」
ふっと笑う姿を見て、このひとは蘊蓄が好きなのかなと思った。
「まさか、ジャポニズム?」
「そう。だからこれ本当は秋明菊なんです。日本っぽいで大当たりです」
蘊蓄好きのひとは昨今なかなか市民権がないから、ずいぶん年上のひとならまだしも、近い年のひととそう出会うことがない。ましてや、嫌味もなくそれを話すひとは珍しい。
私もきっと珍しいのだろうけれど、蘊蓄を聞くのは大好きだったからにこりと笑った。
「こんなパッケージにも描いたりもするんですね」
「するんですよ。ちなみにこれがスパークリングに辛口をもたらしたはじまりのワインなんです」
どきりとしてしまった。
食前酒は一瞬で決めていたから、そのかわいらしい容器も名前も、振られたばかりの元彼女に合わせて選んでいたのだろうなと思っていたから余計にだった。
「おもしろいですね」
「貴女は辛口が好きだというし、アネモネが似合う華やかな容姿だし、だからこのふしぎなひとときには、これがちょうど合うだと思ったんです」
あまりにも衒いなくそれをいうものだから、意味もなく照れてしまい、アール・ヌーヴォーの時代の名を冠したスパークリングワインをもういちど舌で転がした。そうやって味わいながら、こういうのを優美とか馥郁などと表現するのだろうかと目を伏せながらそんなことを考えた。
前菜は見慣れないゼリー寄せで一口目から美味しかった。
ポタージュも冷えた身体にはとても優しく染みわたる。
ポワソンを待たずに食べたクロワッサンはあまりにもサクサクだった。
市販品よりはるかに重厚な層となったそれからは変わったバターの香りがした。焼きたてだった。発酵バターを練りこんだ自家製なのだそうだ。
続けざまの魚料理はムニエルに似たなにかだったけれど、それが驚くほど男が選んだ銘柄のシャブリエワインと合った。
ボトルの文字を見て男に訊けばこのシャブリとは地区の名前だという。ブルゴーニュの北のほうに位置し寒さが強いのだという。
シャルドネというぶどうの品種名だけは知っていた。シャブリの古い土壌の石灰質には、牡蠣の貝殻などが堆積しているため、ミネラルに飛んだ大地の土壌がこの味にするという。
甘くなさすぎないところが素敵だった。
後味もとても素敵で言うことがない。
牡蠣つながりでオイスターバーの話をした。
私は無難に三陸と広島の牡蠣しか知らず、男は厚岸の牡蠣や隠岐の岩牡蠣の味や触感の違いの楽しみを語った。
これは予想どおりにまったく違う生きかたをしてきた人間だと思いながら、私は代わりに庶民的な牡蠣小屋の話をした。焼けすぎないように食べるには、次から次へと投入される牡蠣をいかに捌ける人員を配置するかが問われるとかそんな話だったように思う。
なお、男の蘊蓄は大変面白かったけれど、そのあとに続いたオレンジ色の雲丹の話のほうが印象深かった。蝦夷雲丹は昆布が主食なので、昆布が美味しい産地のものを選べば、それだけで確約された最高の美味しさがもたらされるというのだ。確約までされてしまった最高の美味しさである。多少高かろうとそれはぜひとも食べてみたい。しっかり心のなかでメモを取った。
なかでも利尻島や積丹半島での旬は夏なのだそうだ。
名前も知らない男はyouと呼んでほしいと言ったので、私もまたこの場ではsheでもmeでもお好きなようにと応えて、フォカッチャにも手を出した。
これがまたバターと合わせると大変に美味しい。家で作るようなものとは違う。
口直しのシャーベットは柚子で、すっかり暖まった身体には美味しかった。
名も知らない人称だけの呼び名で交わす会話は、鴨肉など食べ物のことに終始すれば意外と困ることもなかった。
満腹感とともにお互いに無言となってもさして苦痛を感じないまま、揺らめく光のなかで、流れる音楽に耳を澄ませた。
くちくなった腹に幸福の吐息をこぼした。
吐息は予想外にいろんな感情を代わりに連れてきた。
邯鄲の夢に現実が入り混じってきたかのように、彼氏と会うはずの日に、よく知りもしない男性と食事をしてしまっていることへの驚きと、たとえ無言でも気にならない相手は貴重だという囁きと、相反する例えようのない罪悪感が時とともにないまぜになってくるのを感じていた。
せめて名前さえ知ることができれば悪者にだってなれたけれど、それは二人ともがそう感じていないと成り立たない世界だから、私たちは席を立った。
「ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
預けたコートをお互いに着ながら、その素敵な年代物のコートが大切に受け継がれていきますようにと勝手に願った。それから決して払わせてはくれなさそうな男性にお礼をいって、そしてそのまま店の前で別れた。
「メリークリスマスの言葉どおりの楽しいクリスマスをありがとう」
「こちらこそメリークリスマスのひとときを一緒に過ごしてくれて感謝してる。ありがとう」
さようならとも、それではまたとも言い難くて、踵を返すと私はただそのまま歩いた。
かえすがえすも不思議な夜だった。
腕を組んで歩く恋人たちの間を、忍びよる寒さに襟をぎゅっと寄せながら縫うようにして歩いたけれど、くちくなったお腹のせいか、不思議な体験のせいか、そのときにはまだちっとも惨めな気持ちにはならなかった。
移り気な彼氏とつきあい続けなくてよくなったのだ。
私は貞操を守りつつも美味しいものをたらふく奢られて食べられるという幸運にあずかったのだから。私の喉はまだ幸福の吐息を持っていた。
だからきっとこれは、もしかしなくてもサンタクロースが無造作に振りまく幸福の一環だったのだ。
そうやってちょっと高揚していたからこそ、反動もきた。
いつもはなんでもないひとりの部屋が、玄関のドアを開けたとたん急に伽藍堂のように映ったのだ。
束の間の夢くらいがちょうどいいんだと、服を脱ぎ捨てながら思った。
だけど部屋のなかで感じた寂しさは、お風呂場を開けたときの冷たさでもっと駄目になってしまった。
まるであの男の涙腺の緩さがうつったみたいだとも風呂場でやたらファンタジックなことを考えながら、湯に顔をうずめてぶくぶくとこどもみたいに息を吐くしかなかった。
それから、感傷を振り払うように寒さに身を震わせて布団に包まれたのだった。
ところがである。
袖振り合うも多生の縁とはよく言ったもので、縁とはとかく不思議なもの。一度会えばよく会うものなのだ。
これはもう認識していなかっただけで、これはきっとこれまでだって視界に入っていたに違いない。そのくらいの邂逅率で私たちは電車のなかでお互いを見かけた。
もしかすると、視覚情報を処理する脳のどこかではきちんとその存在を知っていたから、私はすんなりあの夢のような気さえしているクリスマスイブの日にあっさりついて行ったのかもしれなかった。
そんな気がするほどに見かけた。
その間にも私の周りではいつの間にかクリスマスの出来事に関して、勝手に玉虫色なストーリーが作られていた。
元彼氏がつくりあげて広めたらしいストーリーには、驚くことにひとりの悪者もいなかった。
あの状況をうまく味方につければ、彼はいかにだって私を糾弾する話を作れたはずだ。だけど元彼氏はそうしなかった。
元彼氏の人間性を誤解していた。
レッテルを貼って、つきあっていたのにきちんと向き合おうとしなかった。向き合えないなら、はじめから上手に断らなければならなかった。少しでも彼に幸せな瞬間を与えられたことが私にもあっただろうか。
この途方をすでに失った罪悪感を、私はすぐさま呑みくだすことができるほどおとなではなかったみたいだ。ちょっとそのことに自分でもびっくりしてしまった。
お互いさまなのだとはわかっていたけれど、たしかに私も間違いなく悪いのだった。そのくせ、そうやって己を悪い女なのだと受け入れようとしている間にだって、かんたんに吊り革を持つ抜きんでた頭を、その飄々とした眼鏡姿を見つけてしまうのだった。
気がつけば件の結婚式に参列した高校時代の女友達は、どうしてだかみんな元彼氏に首ったけになっていた。どうやらナンパの彼女とは続かなかったらしかった。そのかわりに共学校よろしく、バレンタインのチョコは抜け駆け禁止よときゃあきゃあはしゃいでいる様子を見たことで、ようやく罪悪感と折り合いをつける算段ができたのだ。
そしてそのころには電車であの男を見かけるたびに、この顛末を伝えたいような謝りたい気持ちに駆られはじめていた。
なぜなら、その玉虫色ストーリーでは、元彼氏が待ち合わせに駆けつけようとしたところ、私には年季の入った恋人志願者が泣いてすがりついており、その男のあまりもの情熱に絆されて、自ら身を引いたことになっていたのだから。
混雑した通勤電車のなかで、まるで天の川のようにひしめき合うひとのなかで、もう十度目を超えて数えるのをやめてしまった軽い会釈をしあう。
混みあった車両のなかを泳いで渡ることなんてできないから、それ以上会話することなんてないまま、近くて遠いようなそんなひとだと思いながら、さらに会釈を重ねるうちに半年が経った。
夏至を過ぎたばかりのはじまりたての夏の蒸し暑さにまだ身体が馴染んでいないような、そんな平日だった。
月曜日でも金曜日でもなかった。私は珍しくもすんなりことが進んだ仕事終わりで、ワンシーズン前のブラウスと新作のスカートを身につけていた。詰まった襟には熱がこもっていた。首すじに汗をうっすらと浮かばせながら、その日は帰りの電車に乗り込もうとして、その眼鏡姿を無駄によい動体視力が滑り込む車窓越しに捉えた。
あの冬の日と似たような時刻でありながら、まだ明るい夕方のうちだった。
街灯さえまだ点いてはいなくて、あえて言うなら電車の灯りは点いていたかもしれないけれど、そんなものに関心はなかった。
私は乗る車両を一両変えて並びなおした。
帰りの電車で見かけたのはたぶんはじめてだった。
ほぼ最後に乗り込む形になったから、ドア近くに落ち着いて、ひとの隙間から見えるドアのガラス越しに髪やお化粧の乱れがないことを確認しながら、この衝動とどういう折り合いをつけるか考えた。
次の駅で、後ろから乗るひとたちに合わせて中へ進んだ。だけどその先はどこにだって移動できる程度の混み具合だ。
それは七夕ではないけれど、もう泳げる天の川だ。
硬派な書店のカバーをかけた文庫本を片手で読んでいた。痩せたかもしれないし、冬のあのころは着ぶくれしていたのかもしれない。
吊り革をいとも簡単に持っていた。見つけることが簡単だっただけあって、薄着だと背が高いことがよくわかった。
立ち止まるべきか進むべきか、逡巡は一瞬で止めた。
なにより私には支払わせるだけではなるものかという言い訳があった。
私はもうあの日の食事や飲み物がどれだけ高価だったか理解しているし、話したいことだってあった。
元彼氏が広めたストーリーがまかり通っていると知ったら泣くだろうか。訂正しなかった私を怒るだろうか。笑うだろうか。
そうやって、仕立てのよいしつらえには似合わないあの悪態をもう一度引き出してみたい気がした。
浮いたコートのクリーニング代とは全然釣り合いそうもない差額を埋めたかった。
ここまで見かけるならせめてちゃんと知り合いになりたかった。それが言い訳にすぎなかったのかどうかは説明がつかない。
ただ、なにも恋人になりたいとか特別なひとになりたいだとか、そういった大それたことは思っていなかった。
恋心に似た感情がそのときにだって、まったくなかったとはいえない。だけど育ちも違えば、男女が出会えば恋人にしかなれないような年ごろだってそろそろ終わりを迎えていたから、違う関係にだってなれるに違いないという希望を持っていた。
ちょっと遭遇したらごはんを食べて、ちょっと愚痴をいいあって。長い人生のうちには、そんな緩やかな時間があったっていいのではないかと思ったのだ。
混んでいるとはいっても移動しやすい程度の電車のなかを私はあっという間に泳ぎきって横に潜り込んだ。乗り換えまではまだ数駅あったから余裕もあった。
でも横に並んでその穏やかな香りをそういえばそうだったと吸い込めば、何度もあの風変わりな夜を思い返すたびに、もしかしてと気づきはじめた勘違いを正したい気持ちが一気に膨らんだ。
それは驚くような急激な変化だったけれど、嗅覚ってそういうものなのかもしれない。
だからカバンから名刺を取り出して、本の隙間から覗くアンティークの時計を視界に捉えながら座席に腰かけているひとたちを観察して、気づくまでそ知らぬふりで待った。
電車がちょっと揺れて顔を上げた男は、まじまじとこちらを見てから、あれ嘘と零した。
ぽかんとしたまま顎で眼鏡の位置を直して、それから急いで本を閉じようとした男の、その本の読みかけのページにすかさず名刺を挟んだ。
男は本を開きなおし、椎岡味佳と書かれた名刺を見て、数秒固まった。
その息をぷっと吹き出すと、こちらを向いた。
「これもらっていいのかな」
「ええ。しおりがわりにどうぞ」
澄まして告げると、ありがとうと本当にそのまま本を棚に置かれた鞄にしまった。羨ましいかぎりの身長だ。そうして男は棚から鞄を引き出すと、代わりの社用名刺をスムーズに一枚抜き取っては、ビジネスぶって渡してきた。
作法どおりにずらし置かれた名刺入れの上で博戸裕翔と書かれた文字を見て、声を潜めて二人でくすくすと笑ってから受け取った。
悪態をつかずになんだと小声で男は言ったし、私も指先を震わせながらまさかのと呟いた。
私があのクリスマスの席で、目の前のひとが二人称で名乗ったと思い込んだのは、普段から私が一人称や三人称で呼ばれがちだったからだ。そして、目の前のひとが私に知り合いになる気がないと勘違いしたのは、彼だって三人称さえ持つ男だっただけだった。
それだけのことだったのだ。
笑った瞬間にはわだかまりでもないけれど、懸念はすっと晴れた。
近寄れない邂逅を繰り返しながら、じわじわと発酵するように膨らんでいたなにかが、あとは決められた形に吸い寄せられるように収まったように感じたのは、きっとお互いに同じだったみたいだった。
想像していたよりもはるかにずっと綺麗にハマったそれは、好みの匂いと相俟ってしっくりとなじんだ。
次に目を合わせた瞬間には、お互いに名を呼ぼうと開いた口を閉じて声にするのをやめてしまったほどだった。
まもなく男の眼鏡越しの目は表面張力との闘いをはじめた。滲みでては、みるみるうちに膨らんでしまった涙を見てしまえば、言葉にしなくても夕飯を一緒に食べるつもりにしていることがもうわかっていたから、泣き崩れるまえにと空いた肩をぽんぽんと叩いて差し出した。
もちろん何を食べるかだって言わなくても知っていた。あのときどちらからともなく喉元まで出かかった言葉があったことが、もうわかっていたから。
それどころか、たぶんおぼろげながらもそこからああでもないこうでもないと、裾を持ったり走ったり、美味しいもののために遠出して知らない景色をつくりあげるのも楽しくて素敵かもしれないと、あのときお互いに考えていたことだって理解したように思う。
肩に届いた固い髪がこそばゆくて、遅れて震えが伝わってきたから、今度はそっと眼鏡を取りあげて肩に押しつけるとその後頭部を撫でた。
あの日を振り返るうちに、あの日の行動をなぞるうちに、あのときそうしていたらなにか変わったかなと想像してしまったとおりに、私はそこを撫でていた。
嗚咽までには至らなかった男ともう一度言葉なく笑いあったときには、もうこのあとに辿っていく今年のクリスマスより先に贈るお菓子のことだって瞼裏に浮かんでしまったけれど、それは預言のように確かなものだったから、あとは取り出したハンカチをそのまなじりに当てて眼鏡を返すだけでよかった。
電車を降りれば外は汗が貼りつくような夕方すぎで、イルミネーションどころか街灯ひとつ点ってもいない明るい街並みへと向かう階段を並んで降りながら、偶然ふれあった指さきをそのままからめて、私たちは手をつなぎあって歩いていった。
(終)
クリスマスの魔法の残り香にやられたわけでもないけれど、ビルの隙間から差し込む夕焼けを浴びながら、つながれた手の熱が次第に馴染んでいくのを感じていた。
歩きながら、秋の終わりになったらあのコートにさわってみたいなだとか、そのまえに次はどんないたずらをしてこのひとを驚かせてみようかなとか、そんなことを考えていた。
このひとならお花見の薀蓄だって持っているに違いなくて、サンジョルディも楽しんでくれるに決まっていた。
大通りまで出て、街路樹のスモークツリーのしたを歩きながら、あれは花穂で花そのものではないのだとそんな蘊蓄めいた言葉がよぎったけれど、もうすこし手のぬくもりをただ味わっていたくて口をつぐんだ。
きっとこのひとなら夏の山野草も詳しいはずで、紅葉だって一緒に散策してみたかった。はたしてこのひとは冬の牡丹鍋なんて食べたことがあるのだろうか。
育ち方が違うから、衝突だってそのうちするのだろう。思いっきり泣かせてしまうことだってあるかもしれない。悪態を吐かれてびっくりするかもしれない。
私たちはクリスマスの負け犬に過ぎなくて、ほとんど相手のことを知らなかった。
だから、おたがいを知るにつれて、合わないと感じることだってあるかもしれない。続かないことだって当然ありえるのだろう。
まずはその初めの一手として人並みの身長差をあまり経験したことがなかった私は、みんながいうところのつきあいはじめって首が痛いよねという言葉の意味がやっと分かっていた。見上げるとたしかに首が痛いのだ。それから手をつなぐときのなんだか慣れない肘の曲げ方にも驚いていた。
つきあうというのはちょっとごはんを食べる知り合いになるよりも、それだけハードルが高くてシビアな世界だ。それでも繋いだ手が歩く道を選んでしまったからには、あとはもう同じ道を歩けなくなるまで進んでいくしかない。
願わくば次のクリスマスまでなんていわないで、コートが彼のものでなくなるくらいまでずっと丁寧な手入れを目にしながら一緒にいられたらいいのになんて思いながら、私は夕焼け越しの男の横顔を見上げた。眼鏡越しに見える世界は私の知らないゆがみと色合いを帯びていて、そのことをおもしろく感じて私はくすくすと笑った。
男の視線を何度か感じながらそのさきの赤信号まで歩いた。それからやっと眼鏡越しの瞳を見上げたのはヒールと歩道のタイルと慣れない身長差のせいだったのだけれど、明らかにほっとしてみせられたものだから、もっとどきどきさせたくなってしまったのはきっと魔法の残り香のせいだった。それに加えて蒸し暑さにもやられていたのかもしれない。
さきほどからいつどんなタイミングで呼んでみようかとためらっていたその名を今度こそ私ははじめて口にした。それは車のエンジン音にかき消される程度の声だったけれど、その音は確実に届いたようだった。手つなぎと荷物で隠しようのなかった恋人の顔が、まるでクリスマスみたいに赤くなってしまう様子を私はほほえましく見守ったのだった。
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お読みいただきありがとうございました。
メリークリスマス。
▼スピンオフ予定
「華燭の遠吠え」(12月15日19時予約投稿中)
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▷元カレはとってもいいやつです。後日譚。とても短いです。