第八話 月夜の遭逢
夜の森は昼間とはまた異なる姿を見せる。茂った森には月光は刺さず、ザッザッという一つの足音は夜闇に吸い込まれるように溶けていく。
見渡す限りの闇。道行く私たちの導は、ほとほと皆無と言えた。道に慣れた私ならば問題ないが、知らぬ者が迷い込めば、たちまち方角を見失うだろう。
しかし、そのような物々しい雰囲気とは裏腹に、私の心は非常に快い時を過ごしていた。
何故夜の森とは、これ程に心が休まるのか。清涼な風は肌に心地よい感覚を残して踊り、膨れ上がった緑の芳香は、まるで私たちを抱擁するように優しく鼻孔を撫でていく。
心地の良い刺激によって冴えた脳は、私に様々な思考をもたらし、やがて頭の片隅にやった記憶を掘り起こした。
「ハモ、人数分あるかな」
「あんな二食べたのにまだマダ食べ足りないノ!?」
鼓膜が張り裂けそうな絶叫に堪らず片目を瞑り、微量の殺意を含んだ視線をウルに送る。それを受けていつものように背中を丸くする様子を見て、私の口からは自然と深い溜息がこぼれた。
孤児院へ持って行った大量の魚は大いに喜ばれた。孤児院では基本的に身元が不明な人物からの差し入れは受け取っていないのだが、今回はアリアの許可もあって特例として受け渡しの許可を得ることが出来た。
魚は全て漁師たちによって下ごしらえが済んでいたため、後は調理するだけだったのだが……問題はその量だ。
当然孤児院の子どもと大人二人では食べきれず、最終的に教会の全施設へ差し入れと言う形で魚は美味しく頂くことになった。私もそれなりの量を食べたのだが……一部からの憧憬の視線が眩しくてついつい勢いをセーブしてしまっていた。
体裁と言うモノはいくつになっても大切なモノなのだ。
全ての魚を調理し、そして巨大な教会を歩いて周った結果、気付けば外は夕日が沈む頃合いになっていた。そうなると、鳴りを潜めていた腹の虫がいよいよ騒ぎ立て始めてしまう。
別にここで食わずとも帰りがけにまた街の屋台を買い食いして周るのも良かったのだが、それは新たに生まれた背中の重みが許してくれなかった。
フミナ・レグリエース。猫耳族の血を色濃く引くカミトの妹。私は彼女に、"兄に会いたいか?"と問うた。それに彼女が返した言葉はイエスだ。つまりその約束を果たすには私が彼女を連れて帰る、もしくはあのヘタレをここへ引っ張って連れて来るしかない。
この二つの手間を天秤にかけ、前者の方へと傾いたというわけだ。理由は単純明快、ここまでの往復回数が前者の方が少なく済むからという点に尽きる。
そんな経緯を経て、私は一人と一体を連れて再び家路を辿る。なんだろう、行き来する度に人数が増える法則でもあるのだろうか? 右脇から聞こえる眠たげな欠伸を左へ聞き流し、私は背中の重みへ問いかけた。
「兄に会うのは楽しみか?」
問いに答えるように、フミナの身体が少し震えた。
「はははッ、そう心配するな。始めこそ驚くだろうが、アイツはお前に会いたがっていたぞ」
「そ、そうなの……?」
「ああそうだとも。私がお前のことを知っているのが、なによりの証拠だ」
自身のことすら滅多に話さないカミトが、唯一話した家族への危惧、虞。それは彼の家族を心配する心に直結するものだ。でなくては、あのような顔は見せないだろう。
誓いを語ったあの食卓でのことを思い出しながら、私はフミナに思いのままを語る。それが伝わったのだろう。フミナの身体から強張っている感覚が徐々に溶け出していった。
「お兄ちゃんは、今どんなことをしてるの?」
「うーん、そうだな……」
普段の調子で答えようとして、やめた。この子が知りたいのは真実だ。それもただ知りたいのではない。フミナはカミトの近況を知ることを切望している。そんな彼女の問いに冗談で返すのは興冷めもいいとこだった。
「ちゃんと手に職を付けて、立派に働いている。詳しく知りたいのなら直接聞くといいだろう」
結局答えているようで答えていない返答になってしまったが、これでいいのだと思う。これから彼らは多くの言葉を交わすのだ。そこにある感動や驚きを私が奪ってしまうのは、少々忍びなかった。
さて、そうこうしているうちに景色は森から拓けた広場へと移っていく。森の暗さで忘れてしまいそうになるが、今宵は月が煌々と満ちる満月の夜だ。降り注ぐ青白い光は霧雨を模すかのように密な輝きを放っており、その輝きを森の木々たちが張り合うように力強く照り返している。
月に照らされた葉末は、秀麗な剣のように鋭い輝きを帯びる。劇的な剣舞にも見えるその光景は、いっそ神秘的な雰囲気さえ醸し出していた。
予想外の絶景に思考が数舜停止する。放心した頭を小さく左右に振って、私は行く手を見据える。久しぶりに対面する月光に自然と眉を潜めながら、私は眼前に聳える豪邸を指さした。
「さあ着いたぞ。ここが私と、君の兄が住む家だ」
絶景の中心に建つ我が家も、周りの景色に当てられて普段見せない姿を見せる。だが、予想された感動は不意の感動には敵わないらしい。人間、感動するも驚嘆するも、やはり不意を突くのが一番効果的なのかもしれない。
故に私はそれにさほどの感慨を覚えず、家路の最後の道をズンズン進んだ。
家の窓からは橙の明かりが外に漏れている。どうやらカミトは既に帰宅しているらしい。書置きもなしに留守にしていたからなあ……。
仕事から帰っても誰も居らず、加えて夕飯のない───今日の料理当番は私が担当だ───現状に、恐らくカミトは大変ご立腹なことだろう。
私は一度フミナを背負い直し、普段より少々重たい扉を押し開けた。
「今戻っ───」
ドアを開けた瞬間、目の前を鋭利な何かが豪速で通過した。カツンと壁に突き立ったそれを見やると、獲物は台所の包丁だった。今のでフミナが脅えていないかと背中の気配を探るが、幸い飛翔する速度が速度だったために包丁の存在に気付いていない様子だった。
ホッと肩で息を吐き、私はフミナに見えないよう壁に刺さった包丁を抜き取った。
「遅いぞ! お前こんな時間まで一体どこほっつき歩いてたんだ!」
怒声と共にエプロン姿のカミトが姿を現す。伸び放題の長髪によって何処となく女性的なそのシルエットが、果たしてフミナの知る"お兄ちゃん"と一致するかは甚だ疑問だった。しかし今の声を受けて、フミナの気配が明らかに強張った。どうやらその心配は杞憂だったらしい。
その思考の片隅で鼻に意識をやると、奥の方からなにやら美味そうな匂いがする。どうやら帰りの遅い私に代わり、夕飯の支度を済ませていたようだ。なんとも出来た弟子である。
「その台詞、果たして言うべきは貴様かな?」
挑発的な私の発言を受け、カミトは初めて私が背中に背負う人物に気が付いた。その表情は驚愕、恐怖、罪悪、そして安堵や歓喜の色を映す。
全く、それ程思い詰めていたのならさっさと会いに行けばよかったものを……。
「フミナ……」
「お兄ちゃん───っ!」
背中から勢いよく飛び出し、フミナは獣人の脚力を遺憾なく発揮して最愛の兄の元へと一目散に駆けていった。勢いを殺しきれず吹き飛んだカミトを見るに、これは抱き着くというより突進と言った方が正しいだろう。普段ならば何の気なしに避けるだろうが、さしものカミトも妹相手に加減を見誤ったようだ。
いい気味だとしたり顔を浮かべながら、私は絡み合う二人に邪心を隠さず声を掛ける。
「良い格好だな、カミト」
押し倒された体勢から顔だけ持ち上げ、カミトは恨めし気な視線を送る。しかし私が片眉を吊り上げて見せると、途端にその視線は宙を泳ぎ始めた。やがて堪忍したように溜息を吐き、至極嫌そうな顔で呟いた。
「……ありがとう」
普段ならば素直な感謝の言葉に煽り文句の一つや二つぶつけてやるのだが、今回ばかりは素直に受け取ってやることにした。なんと言っても三年ぶりの再会だ。こんな日くらい気分良く過ごさせてやりたい。
「それじゃあ私は外で食べてくる。暫くは二人きりで居るといい」
今しがた潜ったばかりの扉に手をかけ、私は再び我が家を発つ。やれやれ、私がゆっくり休めるのは一体いつになるやらだ。
街の目ぼしい飯屋を脳裏で吟味していると、背後から勢い良く扉が開かれる音がした。何事かと振り返ると、フミナが柵から身を乗り出してこちらへ手を振っている。
「ロウリィさん! お兄ちゃんを助けてくれて、ありがとう───っ!!」
お揃いの紅蓮の双眸は、昼間と同じく涙に濡れていた。しかし悲壮ではなく歓喜に濡れるその輝きは、件の物とは全くの別物だ。
───全く、世話の掛かる兄妹だ。
私は小さく手を振り返し、やや足早にこの場を去った。さっさと飯を腹に入れなければ。微量に籠る目尻の熱は、きっとこの空きっ腹が原因なのだから。
♢
「ああ~食った食った」
少し膨らんだ腹を抱え、私は城下町を宛てもなくふらふらと歩いていた。外食というものを本当に久しぶりにしたおかげで、私の胃袋は普段の三倍ほどにまでその容量を増やしていた。
その理由は単純で、それらが私の知る味とは大きく違っていたことにある。同じ料理でも、私が作るものとではまず香りから違っていたのだ。
そりゃあそうだ。私が生きていたのは千年も昔の話。その間止まっていた私とは違い、彼らの時は動き続けている。それに伴って好みの味が変わっていくというのは、実に自然な流れだった。
「よし、次はあの店に行くぞ」
「エエっ!? マだ食べるつもリダったの!?」
ウルの声には、呆れた色の内に微量の脅えが含まれている。いやいや、それに付き合って食べているお前だって相当の健啖家だという自覚はあるのか?
「なあに、資金的にも次で最後だ。お前だってまだまだ……ん?」
一瞬、何者かに見られている気配があった。チラリと隣に視線を送ると、どうやらウルも気付いたらしく瞳で私に判断を仰いでいる。
「こっちの方から嗅いだこともない飯の匂いがする……予定変更だ、行くぞウル!」
「ま、待ッテよロウリィ!」
我ながら芝居が下手だなと思いつつも、私とウルは人気の少ない路地裏へと駆け込んだ。今の視線はこちらを観察するモノだった。チラリと伺ったとは程遠い、私たちを注視するあの視線。その元を探りながら、私たちは路地裏の居酒屋群の合間を歩いた。
「ウル、遠見の鏡を使え」
「分カッた!」
今受けた視線に敵意はなかった。だがその奥に、私を探る懐疑的な色が潜んでいたのだ。何者かは分からないが、私たちに良い印象を持っていないことは確かだ。視線を辿ってとっちめてやってもいいが、それをするにもまずはその姿を見ておきたい。
幸いにも、私たちが路地裏に入ってから視線の主は追跡を迷っている。魔法を展開するには今が好機だろう。仮にだが、もし相手が転移系の魔法の使い手であれば、私たちから仕掛けた時点で相手の術中だ。異常事態だからこそ、ここは慎重に動かねばならない。
「ロウリィ見つけタ! うわぁ何コの子スッゴい美人!」
「……見せてみろ」
関係ない情報を嬉々として話す様にうんざりしながら、普段より小さい掌サイズの鏡を受け取る。そこに映っていたのは、カミトとお揃いの白髪を持つ、藍の瞳を持つ少女だった。白衣を羽織っていることから察するに、医師か研究者だろうか。
端々に映る情報と頭の中にある街並みの情報と照らし合わせ、私は奴の居場所の算段を付ける。
この造形だと数軒先の民家で間違いないだろう。動くのを迷っていたのは、待ち伏せしたコースから私が外れたからだろうか。距離が近い分、下手に動けば気取られる。鏡面の向こうの少女は恐らくそう考えたのだろう。
「ウル、お前コイツを知っているか?」
ウルは左右に首を振り、そして思い出したように小さく声を荒げた。
「うーん……って、ロウリィが知ラない人間をワタシが知ッテるわけナイでしョ!」
それもそうか。ならば一層訳が分からない。少なくとも私はこの少女と面識はないし、何処かですれ違ったなどということもない。それは先ほどのウルの反応が証明してくれている。コイツが今のような反応を示す相手は、大概すれ違った時にも同じような反応を見せるからだ。
普段は鬱陶しいことこの上ない悪癖だが、今回ばかりは良い判断材料となったようだ。
「よし、じゃあ行くか。ウル、もしコイツが逃げた場合、追跡は任せたぞ」
「トーゼン! このワタシに見らレたカらには、彼女はもうドコにも逃げられないワ」
『遠見の鏡』は、場所ではなく人を映す鏡。一度その鏡に映せば、ウルがその人間を記憶している限り何処に居ようが映し出すことが出来る。これさえ終えてしまえば、転移だろうが飛行だろうが関係ない。ここで奴が逃げれば、奴の棲み処、奴の仲間、やろうと思えば奴の活動範囲も容易く割り出すことが出来る。つまり奴が逃げた時点で、本来定石であるその決断はこちらに利点しか与えない悪手へと変わるのだ。
ウルが霊体化したのを確認すると、私は瞬時に力を解放し、追跡者が潜伏する家屋の屋根へ飛び上がった。
「……っ!?」
少女がこちらの動きに気付き行動を開始したようだが、遅い。少女が立ち上がった頃には、私は既にその傍らへと降り立っていた。
「私に、なにか用か?」
逃走は無理だと悟った少女が、せめてもの抵抗にと白衣のフードを目深に被る。だが今更そんなことをしたところで、とっくに面は割れているのだ。私は小さくため息を吐きながら、少女へ一歩歩み寄った。
「別に獲って食おうってわけじゃない。ただ訳を───ッ!?」
その奇襲に気が付けたのは少女のおかげだった。一瞬、少女の藍の瞳が私の後方へ移ったのだ。咄嗟に回避……ではなく、私はその攻撃を敢えて受けることにした。
うなじに重い衝撃が走る。普通の人間であればその一刀で首を両断されていたことだろう。だが私に限っては、その未来は普通から最も遠い事象だ。
「随分とご挨拶だな。それともなんだ? 現代では後ろからいきなり斬りかかるのが、正しい挨拶の作法だとでもいうのか?」
首筋にあてがわれた短刀を握る腕ごと掴み、襲撃者を拘束する。肩越しに後方を睨むと、闇の中で驚愕に揺れる橙の瞳が。
こういう手合いは常に先を見据えた行動を心がけているものだ。そして、その手の輩の思考から一番遠いものがこの、奇襲を迎え撃つという行為である。
「逃げなさい! ここは私が抑え───グッ……!?」
襲撃者が少女に向かって吠え立てる。声から察するに、この人物も女なのだろう。
この言動が意味する状況は実に様々だが、この場合少女が女の庇護下、もしくは保護対象にあると見て間違いない。ならば、今より話しやすい状況を作れそうだ。
私は襲撃者を投げおろし、拘束の手を手首から首元に持ち替え担ぎ上げる。夜空に向けてその肢体を掲げ、月光の元に襲撃者の容姿が露となる。顔は覆面をしているから分からないが、月光を反射する硬質な五体は漆黒に染まっている。
鎧とも衣服とも違う、それは外骨格と呼ばれる金属製の外装だった。明々白々、女の種族はヒューマノイドで確定だろう。
橙に燃える双眸が私を睨む。しかしこの状況から彼女になにか出来ようもない。私は女から視線を外し、放心している少女へと再び話しかけた。
「と、まあ御覧の通り。戦闘は避けた方がいい。それと逃げるのも無駄だぞ? 既に貴様は私に見られた。例え転移で逃れようとも、何処か地表に現れた時点で貴様は私の監視下だ。まあそれもこれも、貴様にこの女を見捨てて逃げる勇気があればの話だがな」
「うッ……カハッ───」
言葉と共に、首を絞める右手に力を込める。英雄がやっていい絵面ではない気もするが、そんな体裁を気にしていられる程この状況は温くない。下手に手心を加えてしまうと、今後の生活に支障が及びかねないからだ。
それにこのヒューマノイド。一時とはいえ、この私から完全に己の気配を消してみせた。余り認めたくはないが、隙を見せればこの拘束も軽々抜け出せる程の実力を滲ませていたのだ。
対して眼前の少女から感じる力は酷く矮小だ。揺さぶりをかけるなら、この女より白衣の少女の方が手っ取り早いだろう。
「ユウ!? やめて、ユウを離して……っ!」
「おいおい。それじゃあまるで私が悪人みたいじゃない……おい待て。ユウ、だと?」
その名前には聞き覚えがあった。何処でだったかと思考を巡らし始めて、私はそれを放棄した。私は表で活動を始めてからというもの、未だそう多くの人間と関わってはいない。その中に、顔と名前の一致しない人物など居る筈もなく、必然的にユウという名前は人から聞いた名前ということになる。
では、何処で聞いた名前なのか。そんなもの、あの時あの場所しか、私の記憶には存在しなかった。
「そうか。それじゃあお前は……えっと……そうだ。お前の名前はニイナ、だ」
少女の瞳が零れんばかりに見開かれる。どうやら私の読みは大正解だったようだ。
その名前は、三年前にあの食卓で聞いた名だ。ユウとニイナ。それはカミトが幼少の頃共に過ごした人物の名前だった。カミトは生きているかも分からないと言っていたが、五体満足な体躯を見る限り、彼女らは未だ健在だった。
「なるほど、見えてきたぞ。お前らは私がフミナを連れ出したのを見て、私がどのような人物か見定めに来たのだろう?」
少女と女が同時に息を呑んだ。どうやらこの読みも当たりを射抜いたようだが……いやいや、ならばいきなり襲撃を仕掛けるのは流石に浅慮ではないのか? もし私がただフミナを引き取っただけで、もし私が善良な人間だったならば取り返しの付かない事態になっていたぞ?
当てずっぽうではあるが、恐らく彼女らはずっとフミナの監視をしていたと見ていいだろう。自ら引き取りに行かなかった理由は不明だが、彼女の安否をずっと気に掛けていたに違いない。
そんな時に身元の知れない人間が大事な人間を連れて孤児院連れ出て、引き取ったその日のうちに夜遅くまで街をふらふらとしていては、嫌でも心配になるというものか。
私はユウと呼ばれたヒューマノイドをニイナの横に下ろした。小さく咳き込むユウにニイナが駆け寄り、なにやらユウの身体をあちこち触り始めた。恐らく身体に異常がないかを調べているのだろう。私は辛抱強くそれが終わるのを待ち、数秒経ってニイナが小さくため息を吐いた。
一連の動作を見ていたが、この少女中々の手際の良さである。カミトが語ったように、ニイナは幼少の頃から多くの機械を触ってきたのだろう。
やがてその藍色は私へと向き直る。未だ戸惑いに揺れる瞳を勇気で奮わせながら、少女は少し擦れた声でその疑問を口にした。
「あなたは……何者なの?」
「私か? 私はロウリィという者だ。よし、自己紹介は済んだな? それじゃあ行くとするか」
いつものように端的に答え、私は足早に彼女らに踵を返して歩き出した。
「やッと終わったノネ!」
事態が収束したことを悟り、ウルが普段よりもやや早い速度で実体化をした。散々文句を言いつつも、なんだかんだでコイツもそれが楽しみで仕方なかったらしい。
その瞳が訴えてくる。さあ早くあそこに行こうよと。
だが催促するウルを真っ向から無視し、私は再びユウとニイナに向き直った。振り向きざまにビシッと指を指し、私は寄り添って放心する二人へ向けてやや怒りを含んだ声音で呼びかけた。
「おいお前ら、なにを呆けてるんだ。行くぞと言っているだろう」
「い、行くって何処に? まさか私たちを兵士に突き出すつもりじゃ……ひっ!?」
あまりにも的外れな応答に、私は堪らず踵を鳴らした。その音に反射的にユウが姿勢を正し、ニイナが仰け反って脅えたように擦れた悲鳴を上げる。
もしかしたらユウは何処かの軍隊に所属しているのかもしれない。今の一連の動作は、軍隊で気を付けの合図で良く用いられる動作だったからだ。
もしかしてまだ頭の中が混乱しているのかもと、私は彼女らが答えを見つける助け舟を出した。
「私をストーキングしていたのだろう? ならば私たちが何処へ向かうか直ぐに理解が及ぶはずだ」
しかし、彼女らの頭上に浮かぶのは一向に疑問符ばかりだ。これ以上勿体ぶっても仕方ないと溜息を吐き、私は指した指を彼女らから目的の建物へと向けた。
「あそこだ」
私の指先を追って、二人の視線は促されるがままその店へと向かう。しかしまたも彼女らの反応は、私の思うものと違ったものだった。
「「は……?」」
揃った声で、とうとう彷徨っていた疑問符は私の元へと投げ付けられた。まるで何を言っているか分からないというような二人の視線を受け、いい加減にうんざりだと、私は言葉を付け足した。
「お前らは字が読めないのか? あの店は『轟々ビーフ』と言ってな、さっき入ったどの店でも聞いた著名の店で、もう絶品だと好評なんだ」
「は、はぁ……へっ、ちょっと!?」
的を射ない返答はいい加減もう聞き飽きた。私は二人に『重力操作』を掛け、強制的に連行することにし、再び店へと足を進めた。
「ほら行くぞ。私もコイツも、もうあそこで腹を満たしたくて堪らないんだ。それともなんだ? 焼肉、食わないのか? 嫌いなら無理強いはしないが……」
「そういう話じゃないでしょ!? あーもう分かった! 焼肉食べる! 食べるからもう降ろして! 私こういうのすっごい苦手なの!」
ようやく望んだ返答を得た私は二人に掛けた魔法を解いた。ほっと胸を撫で下ろしている辺り、ニイナは本当にあの浮遊感が苦手だったのだろう。
全く約数メドル進むのに一体どれだけ時間を掛ければ気が済むというのだ。
早く向かわねば閉店時間になってしまう。二人を連れて、私とウルはやや足早にがやがやと賑わう暖簾の向こうを目指した。
♢
「それで、貴方は一体なにが目的なのよ」
いい音を立てて焼ける肉を次々に頬張り、ニイナは頬を膨らませながら問いを投げた。散々文句を垂れた癖にこの女、いざ店に入ってみるとどうだ。この中の誰よりも肉を食いやがる。
私の腹が等々満腹になり、食べ過ぎたウルがトイレへ駆け込み、そしてユウが慎ましく適量を食べ終えたというのに、ニイナは未だに一人で追加の肉を要求し続けていた。
「単純に話がしてみたかったのさ。あの少年が尊敬する師と、敬愛する姉とな」
呆れの成分をふんだんに声に乗せ、私はそれに即答した。
「少年って……もしや貴方は、ジークを知ってるのですか!?」
「知ってるもなにも、奴はここ数年私が世話をしてやっているんだが……あれ、言ってなかったか?」
「言ってないわよ!」
机をガチャリと揺らして憤慨するニイナを片手で制し、私は彼を彼女らに引き取ったいきさつを話して聞かせた。
死にかけた状態で小屋の屋根で眠っていたこと。私の命名によって現在はカミトと名乗っていること。王国の王子や姫と仲良くやっていること。そして、私の元で研鑽の日々に明け暮れていることを。
「現在は王城で働かせている。家事もこなせているし、奴なりに上手く周りに馴染めていると思う」
「そうですか。まさか立ち入り禁止区の裏山に身を隠していたとは……」
安堵の溜め息を吐きながら、ユウの強張っていた肩は吐き出す息と共に和らいでいった。
「たまに危うい面を見せることもあるが、お前たちが心配することは何一つないことをこの私が保証しよう。それでだ……」
私はユウから視線を移し、正面に座るニイナを半眼で睨んだ。
「お前は少し情緒が豊か過ぎないか?」
「うっ、うるさいわね! 嬉しいんだから……っ! 仕方ないじゃない……」
両手でしきりに目元を擦りながら嗚咽を漏らすこの少女。実を言うと私が話を始めて数秒後には既にこの状態だったのだ。
嬉しいのも分かる。不安だったのも、まあ分かる。だが大衆の前でここまで感情を顕にする奴は、この私ですら滅多に見たことがない。現に辺りからは、シラフの癖にボロボロと泣き崩れる少女に若干の奇異の視線が集まっていた。
「なら好きなだけ泣くといい。そして食うといい。その間に私は……」
先程から気になっていた、ニイナの所持していた本を奪い取った。
「これでも読んで暇を潰すとしよう」
「あっ! 返しなさいよアンタ! それは私の大切な───」
「肉」
「へ……?」
間の抜けた声を上げるニイナに、私は伝票をひらひらと揺らしながら言葉を続けた。
「別に金を払えとは言わん。ほぼ脅して連れて来たようなモンだからな。だが……」
「いった!?」
伝票をくしゃりと握り、中指でニイナの鼻を弾いた。
「だからと言って好き勝手食い散らかして、こちらになんのトクも無いだなんて、それは人としてどうなんだ?」
「うっ……でも、その本は……」
「デュランダル・レコードだろう? ローランという英雄が書いたという、至高の自伝……だったか?」
以前話には聞いていたが、結局読まず仕舞いでいたのだ。忘れていたわけではないのだが、いまいち探すのも気が乗らなった。
それにわざわざ理由を上げるならば、『どうしてわざわざパチモンの自伝を読みに行かなきゃならないのだ』の一言に尽きる。
「そうよ……って、まさか知らないの? これ程有名な本、中々ないと思うんだけど……」
「ええっと……ああそうだ。ほら、私は山奥にずっと籠ってたからな。現世の情報には少々疎いのだ」
適当な理由を作って見たものの、ニイナの訝し気な視線により力が増すだけだった。
「そうだって、アンタ誤魔化すにしてももう少しマシな嘘があるでしょ……いいわ貸してあげる。ただし絶対に汚さないでよね! それは私の大事な大事な本なんだから!」
グルグルと唸る様はまるで何処かの誰かのようだ。私は苦笑を浮かべつつ、やや豪奢な装飾の付いた分厚い本を改めて手に取った。
「さてさて、一体私はどれ程面白おかしく書かれているのかな?」
聞こえない程度に小さく呟き、ページをパラパラとめくる。
その著書の書き出しはこのようなものだった。
『記録者。記録する者。この世界の全てを解明するべく、世界を開拓する者たちの総称だ』
おやおや? と眉を潜める。脳裏に確かな嫌な予感を感じながら、私は続きを読み進めた。
『ある者は緑溢れる大森林を。ある者は燃え盛る炎の山を。ある者は濁流渦巻く大海原を……。
それぞれが、それぞれの思うがままに各地へ赴き、まだ見ぬ秘境、まだ見ぬ財宝を求めて旅をする。偉業を成した者には巨万の富と名声が約束され、中には一国を従える記録者もこの世界にはいるという───』
「くっ……ふふふ……あははははっ!」
そこまで読んで、私は込み上がる笑いを抑え切ることが出来なかった。
「ちょっとなにがそんなに可笑しいの!? まだ冒頭部分も読んでないじゃない!」
再びニイナが憤慨する。先の時より数段熱のこもった声だったのは気のせいではないだろう。確かに今のは気分を害するものだったと思い直し、私はどうにか笑いの波を抑えて弁明をした。
「いやぁすまない。色々モノを知っていると細かいところに敏感になってしまうのだ。決してこの本を馬鹿にしているわけではない。むしろ現段階で私は、この創作物を大いに評価している」
それは心からの言葉だった。故に伝わったものがあったのだろう。ニイナはこれ以上私に追求することなく食事を再開し始めた。それに倣って、私は再び活字の列に目を通す。
その途中ふと思い付いて、私はこっそりと伝票からペンを抜き取った。こういうのを、魔が差したというのだろう。
ほら、ファンサービスは大切だろう? ……なんてな。