第七話 英雄の心奥
朝の訓練を終え、カミトは元気よく己の勤め先へと発った。ついこの間まで死にそうな顔で出かけていたというのに、子どもの成長とは存外早いものなのだな。
と、どうでもいいことで弟子の成長を感じつつ、私は食器の片づけも早々に我が家を出た。
我々の役割は大きく二分されている。ざっくり言えば、労働力はカミトが、雑用は私が担当だ。故に現在の収入源はカミトのみ。私はカミトの稼いだ金で悠々と生を謳歌していた。
しかし私も鬼や悪魔ではない。カミトが汗水垂らして働く代わりに、私は家事全般を買って出ている。
そして今は、街へ買い出しへ向かう途中だ。
「さて。夕飯はどうするか……カレーは散々食ったし、今日は多少凝ったものでも作ってやるかな」
献立を頭の中で立てながら、私は毎日通った街道を迷うことなく進んで行く。向かった先は魚市場。ステアフィロートは王城の裏手に広がる海を中心に扇状に広がる大国だ。つまりここで卸される魚は全て昨夜、もしくは今朝獲れたばかりの鮮魚のみだ。王国民からは"安い、美味い、めちゃくちゃ美味い"と重宝されている。
通い始めてはや三年。私もすっかりここの常連だ。当然周りの人間に顔も知られて来る。
「おういらっしゃロウリィちゃん! 今日は上物が大量だぜ! さあさ入った入った!」
「……ちゃん呼びはやめろと言ってるだろう、オヤジ」
顔見知りのオヤジが大きなしゃがれ声と共に垂れ幕からにゅっと顔を出した。雑に切られた短髪にねじり鉢巻、如何にも海の男といった風貌の男だ。外見の年齢は私より上。つまり私は彼にとって小娘のように見えているのだろう。
相変わらずの呼び方に心底嫌な顔でぼやきながら、私は奥へ戻るオヤジを追って垂れ幕を潜った。
「ほう。確かにこれは身乗りの良い」
青いシートにやや煩雑に並べられたその魚たちは、未だ生きていると錯覚させるほどの輝きを見せていた。今は時期的にカツオやタイが旬だ。あらやサク、果ては活物まで。並ぶ大半がこの二種の魚だった。
「オヤジ、今日のオススメはなんだ?」
「俺の一押しはこっちだ。ついてきな!」
忙しく働く海の男を掻き分けながら、オヤジはズンズンと先を行く。生魚を扱うが故本来涼しくあるべきこの場所は、男どもの活気と熱気で少々蒸し暑かった。だが仕事に勤しむこの光景は、人が営み、懸命に生きている証だ。これ以上なく美しく、価値のあるものだと私は思っている。
働く彼らの様子を観察しながら、大きな背中の後をスルスルとつけていくと、人波の向こうにいよいよオヤジのとっておきが姿を現した。
「これは……ハモか」
現れたのは細長く、ヘビの様な体躯をもつ異形の魚だ。ハモは他と異なる形状故に、そこらの魚とは一風変わった触感と味を持っている。これがまた美味いのだ。
この魚は血に毒を持っているため生で食べることは叶わないが、酒蒸し、唐揚げ、てんぷら等々。その用途は多彩を極める。小骨が多く、身が崩れやすいため扱いは困難だが、そんなものはここで捌いてもらえば済む話だ。
「流石ロウリィちゃん。コイツを見て涎を垂らす客は早々居ねぇよ」
オヤジの呆れた声は聞こえぬ振りだ。私の頭はもう、この魚をどう食らってやろうかと考えるのに手一杯なのだ。
「とりあえずコイツを二尾……いや、三尾頂こう。オヤジが食いたい奴を選んでくれ。血抜きや骨抜きもついでに頼む」
毒は私には効かないが、毒のあるものをわざわざ食べるのは些か抵抗がある。それに生で食ってもそんなに美味くないしな。どうせならとびきり美味く調理して食いたいだろう?
「相変わらず注文が雑だねぇ。まっ、信頼されてる証拠だな!」
文句を言ったり喜んだりと忙しいやつだ。語る合間の数瞬に、オヤジは大ぶりの三尾を手に取った。流石は長年この仕事をこなしているだけはある。選ぶ手に迷いはなく、オヤジはさっさと調理台の方へと持って行った。
だが、幾ら熟練のオヤジと言えど、ハモを三尾おろすのはそれなりに時間を要する。ただ待っていても退屈だ。私は裾物をつまみ食い、賄を食べる漁師に混じって贅沢なあら汁を飲むなどして時間を潰した。
そうして十分ほどが経過し、二杯目のあら汁を啜っていると、呆れた様子のオヤジが調理場から戻ってきた。
「あのなぁ。それは俺たちが朝の務めのご褒美に食うもんで、お客に振舞うもんじゃないんだぞ?」
「まあまあ細かいことは気にするなって。むさ苦しい野郎ばかりの五十集に、私が清涼剤として居てやってるんだよ」
私のあまりの横暴な物言いに、周囲からは野太い笑い声と賛同の声が飛び交った。この場に味方は居ないと悟ったオヤジはガックリと肩を落とし、槍投げに持っていた袋を掲げた。
「ほら、お望みのモンだ。おっと、お代はきっちり頂くぜ? 三尾で合計五千ガットだ。当然だが、下処理の手間賃も込みだぞ!」
うん、安い。ハモはグロテスクな見た目に反し、さりげなく高級魚に位置している。そのため、大振り三尾でこの値段は相当安いのだが……言われた値段で買ってしまうのは、私の流儀に反する。
───さあ、勝負だオヤジ!
「高い。責めて四千八百ガットだ」
「いいやダメだね。流石に今日は譲れねぇ。お代はきっちり五千ガット! これで決まりだ!」
ガヤガヤと揉める私たちの周りに野次馬が集まり出す。次第に飛び出す野次に、お前ら仕事をほっぽっていいのかと心の中で突っ込みながら、オヤジとの死闘は苛烈さを増していく。
「四千五百!」
「なんで下げるんだよ! 今日ばっかりは五千から下げる気は微塵もねぇぞ!?」
畜生。今日のオヤジはしぶといな……こうなれば止む終えん。奥の手だ。
「よし、じゃあこうしよう。ウルにオヤジを癒してもらう。代わりにお代は四千だ。どうだ? 悪くない提案だろう?」
この手は既に幾度も使ってきた。初めは半信半疑だったオヤジだが、一度あの感覚を知ってしまえば、この言い分も納得がいくだろう。ウルの治癒は傷を治すだけではなく、疲労を和らげたり、活力を与えたりすることが出来る。よって、オヤジの今日の仕事の効率が飛躍的に上がるのだ。
これはどちら共に得がある対等な取り引きだ。さあ、どうするオヤジ……!
「嬢ちゃんの治癒か……確かにアレがありゃあ仕事は捗るが……くっ! ダメだ! 今日は絶対に譲らんぞ!」
これでもダメか。今日はやけに頑固だ。となればもう、私にはこの手しかない。
「ウルの治癒に加えて、私が船や魚の運搬を手伝おう。それならば、二千五百でも文句はあるまい?」
過去に一度だけ、私はこの五十集に続く波止場の運搬を手伝ったことがある。『重力操作』を使って重たい物や倉庫の船を運んだ程度だったが、人力でやるのとは作業スピードに雲泥の差が現れる。私としては暇つぶしの一環だが、彼らにとってはこれ以上ない申し出だろう。さあ、これならどうだ……!
「ううっ……クソッ! 俺の負けだ! その条件なら二千五百でも安い! そいつはもうタダでくれてやらぁ!」
嬉しそうな顔に屈辱を滲ませるという器用な表情を作りながら、オヤジは絶叫と上げてがっくりと崩れ落ちた。
「ふっ、勝った!」
拳を天高く突き上げ、私は勝利を宣言した。群衆はたちまち歓声に湧き、私を囲むようにしてはしゃぎ回る。自分とこの商品が値切られてこのお祭り騒ぎは如何なものかと思うが、まあこういった粗暴さが彼らの良いところでもある。
私は項垂れるオヤジの頭にポンと手を置き、優勝旗のように掲げられた袋を受け取った。袋を帯にしっかりと止め、手近な台の上へと身を躍らせると、私はくるりと群衆へと向き直った。
そしてニヤリとひとつ笑い、拳を再び天へと突き上げ───
「さあ、働くぞ野郎ども───!!」
♢
「さて、どうしたものか……」
現在私は危機的状況に瀕している。どれほどかと例を挙げるならば、そうだな。魔物の大群を単騎で、それも被害を出す前に駆逐しなければならない……と言ったところか?
下らない思考に耽りながら、私は両手で抱えた生臭い塊をうんざりと睨んだ。
「ったく。少しはモノを考えてから渡せっての」
漁師たちの手伝いにより、今日の作業はそれはそれは順調に進んだ。オヤジ曰く、「一日の作業が三時間で終わった」だそうだ。いやそれはいいことだ。仕事が早く終わればそれだけ自由時間が増える。日頃働き詰めの彼らにとってこのような、いわゆる"暇な時間"というのは存外大切なものだ。
なにをしようか考えるということは、それだけ時間的にも、精神的にも余裕が生まれるということだ。実に健康的で素晴らしい。
故に、舞い上がってしまうのは仕方ない。万歳三唱や胴上げまでは許してやろう。
だが、だが……!
「生魚をこんだけ寄越してどうしろってんだ……っ!!」
現在地は自宅の庭。ただの広場の隅っこで、私は両足を投げ出して三つの大袋とにらめっこをしていた。隔離されたこの場所では、どれだけ叫ぼうと誰にも聞こえない。ということは誰にも聞いてもらえないということなのだが、ここは敢えてその思考は捨てよう。どうしようもないことを思案しても時間の無駄だ。今はこの大量の魚をどう捌き切るかだけを考えねば。
「どうスルんだッて……メチャくちゃ嬉シそうに受け取ってたじゃナイ。ソレ」
いつの間に実体化していたのか。私の横に並ぶようにしてウルが座り込んでいた。いつも私が向けるような呆れ顔を満面に貼っ付けて。
「うっ……」
珍しく的を射たウルの指摘が心を抉る。あまりにも真っ当なそれに返す言葉も思いつかず、私は無様に唸り声を発することしか出来なかった。
そうなのだ。場の雰囲気に完全に酔っていた私は、あろうことかこの魚を両手を広げて……いや、飛び跳ねて喜んで受け取ったのだ。しかし過去を悔いても仕方ない。とりあえず数分前の私を五千兆回呪って自己完結させ、私は打開策を模索すべく思考を切り替えた。
家の冷蔵庫には当然だがこんな量の魚は入らない。ならば城にでも持っていくか? いや、それはなんか癪に障るから却下だ。他に大人数が居てこの魚を持って行っても青い顔をされない場所は……
「あった」
言うが早いか、私は早速行動を開始した。とりあえず大袋の中から当初の目当てのハモだけを自宅の冷蔵庫へとぶち込み、再び下山するべく準備をする。
「なにカ思イ付いたの?」
ふよふよと漂いながらウルが隣に着く。再び大袋を抱え、私は次の目的地を宣言した。
「ああ。今からカミトの妹に会いに行く」
「ヘぇ~カミトの妹ノところに……ッテ、エえ!?」
全く私としたことがこんな大事なことを失念していただなんて。三年前に卓の前で、カミトは妹を孤児院に置いてきたと語った。ならば今もこの王国内に彼女は居るはずだ。孤児院という曖昧な情報だけで場所を特定するのは難しいが、しかしその提供者がカミトとなれば話が変わってくる。
世界を見たこともないカミトがその場を孤児院と断定出来たということは、一目見ればそこが孤児院、もしくは子どもを引き取ってくれる施設だと分かる外観だったということだ。となれば、この王国内には一か所しか当たりは付かない。
むしろそうでなくては困る。色々な意味で、な。
♢
レグリース教会。通称『迷い人の道標』と呼ばれるこの教会は、神の教えを説くこと以外に、この国に設置されている教会を総括する役割を持ち合わせている。故にこの場は、象徴として分かりやすい造形で設置される必要があるし、分かりやすい場所に設置されていなければならないのだ。
私は神や悪魔の類は一切信じていないため、今までこの手の場所とは無縁だったのだが、まさかこんな形で訪れることになろうとは思いもしなかった。
「さて、首尾よく目的地に着いたわけだが……」
「散々買イ食いして遠回リシておいテなにが首尾ヨクよ……っイッたぁ!?」
煩い精霊を拳で黙らせ、私はここに来て直面した大きな問題について思考を巡らしていた。
それは実に単純なことで、最も当たり前のことで、故に必須な事項だった。
「なあウル」
「なァに?」
「私はなにを建前にしてここに入ればいいんだ?」
そう。先も言ったが私は無信仰者だ。崇める神も居なければ、恐れる悪魔も居ない。ただ魚を持って中に入り込み、適当な場所に置いて帰るのも考えたが……そんな怪しい食い物は私だって口にしない。
孤児院を訪ねるにしても、一体なんと言って訪ねればいいんだ? 大体が私はカミトの妹、フミナの顔も知らないのだ。
教会の大門を前に、ウルと並んでただただ首を捻る。思い付きの行き当たりばったりの行動は、目的地を目の前にしてそのプランの粗が現れた。
必然的に、生臭い大袋を抱えた女二人という不審者となってしまっている。周囲からもなにやら視線が集まってくるのを感じ、いよいよ行動に移さねばならないと決心したその時だった。背後に立つ気配と共に、柔和な女の声が聞こえた。
「あの、教会になにかご用ですか?」
振り返った先に現れたのは、秀麗な修道服に身を包んだ一人の少女だった。年齢は恐らく十六程度。果物の袋を抱えているのを見るに、恐らく買い出しからの帰りなのだろう。
フードから覗く長髪は光を弾く白。戸惑う双眸は吸い込まれるような黒。本来相反するはずの二色が、この少女には見事に集約されていた。
ありていな言葉で言おう。この子は、凄く、可愛い。
「私はアリア・レグリースと申します。この教会で孤児院の主任を任されている者です。なにかお困りなのでしたら、私がご案内させて頂きますが……」
なんという幸運だろう。目的としている場所の責任者とばったり出くわすだなんて。しかしその若さで総括とは……よほど優秀なのか、それとも見た目が若いだけで実は結構年を取っているのだろうか?
湧いて出た雑念を咳払いで振り払う。この提案は願ってもないものだ。孤児院の者となればフミナのこともなにか聞くことが出来るかもしれない。そう考えた私は、特になにも考えもせず頭に浮かんだ言葉を並びたてた。
「あ、ああ。用と言うか……もういいや。君はフミナという少女を知っているか? 私はその子に会いに来たのだ。これはその手土産だ。魚市場から貰った鮮魚が入っている。どうか、遠慮せず、受け取って欲しい」
後半は言葉を切り、念を入れて伝えた。いよいよ色々と考えるのがいい加減面倒になってきたのだ。言葉は支離滅裂だが、私の目的だけはこれで伝わった。後はもう流れに身を委ねよう。
───五秒後の私、後は頼んだぞ!
「ま、待ってください! 今フミナと言いましたか? あなたはフミナちゃんを知っているんですか?」
少女の表情が明らかに変わった。予想外の食いつきに思わず面食らってしまう。しかし考えてみれば当然の反応か。カミトの妹、つまり身元不明だった子どもの名を口にしたのだ。
名前を出したのは悪手だったか……畜生! 呪うぞ、五秒前の私!
「いや、本人は知らない。その関係者から名前を聞いたんだ」
「関係者……ですか?」
苦しい言い訳だが、嘘は言っていない。別に私がカミトのことを語っても良いのだが、本人が未だ探す素振りを見せないのは、カミトが未だ妹と顔を合わせたくないからだ。見ず知らずの場所に一人置いていったのだ。顔を合わせづらいのも至極当然のことだろう。
その思考に至って、私は気付いてしまった。私がカミトに気を使っているという、屈辱の事実に───
「ああ。そのフミナって子のお兄ちゃんだ。ジークって名前、聞いたことないか?」
先とは打って変わってサラサラと言葉を並び立てる。やはり私は隠し事やごまかしの類には向かないな。ふん、いい気味だ。ヘタレのダメ兄貴め。
「まさか……本当に……本当にフミナちゃんの……っ!!」
「なっ……お、おい! 急にどうした!」
喉になにかつっかえたように嗚咽を漏らしながら、少女は突如として膝から崩れ落ちた。流石に予想外の反応に、私は堪らず取り乱してしまった。
泣き崩れる少女に駆け寄ると、いよいよ周囲の視線も奇異の色を帯び始める。加えて隣から……
「アレぇ? ナニなにローラン、女ノ子泣かしちャッたの?」
などと煽ってくるもんだから収集が付かない。というか、往来に居る時にその名で呼ぶなド阿呆め。とりあえずウルは拳で黙らせ、私は少女の手を取り、立ち上がるのを手伝ってやる。しかし腰が抜けてしまったのか、中々うまく立ち上がれない。どうしたものか……。
「すみません……私嬉しくなってしまって……フミナちゃん、ずっとお兄ちゃんが迎えに来てくれるのを待っていたものですから……」
「……」
ああ、そうか。そうだよな……。
「ウル。コイツを頼んだ」
「エっ? ちょ、チょっトイキナリ……おっモ!?」
大袋をウルに投げ渡し、私は未だ立ち上がることの出来ない少女を横抱きに抱えた。少女は驚きの声を上げはしたが、逃げるような素振りは一切見せなかった。
恥と体裁を天秤で諮れる聡明な子だ。故にこの涙と先の言葉は、紛れもない真実なのだろう。
「彼女の場所へ案内しろ。どうしても会わなくてはならない用事が出来た」
「……はい、分かりました。孤児院があるのは門を潜って直ぐ左手です」
結果としてより視線を集めることとなってしまったが、今の私にはそんなことは些細なことだった。伝えなくてはならないことが出来た。言わなくてはならないことが出来た。
やはり私は色々考えるのには向いていないらしい。なにか一つに決めてしまえば、こうも簡単に足が前に出るのだから。
きっと彼女は心落ち着かぬ日々を過ごしていたのだろう。恐ろしかっただろう。不安だっただろう。
だが、それも今日終いだ───
彼女の語った通り、孤児院は門のすぐ側にあった。消して大きくはないが、しかし造りはとても立派だ。年季はあるが、手入れは行き届いている。健全な人間が住む証拠だ。
「おかえりなさ……あれ? アリアさんどうしたの? 怪我しちゃったの?」
少し古びた木造の建物に入ると、心配顔を湛えた栗色の小さな頭が私たちを出迎えた。横抱きにされたシスターを見て、彼女が怪我を負っているのだと勘違いしたのだろう。
「心配してくれたのね、ありがとうエヴァン君。大丈夫、ちょっと転んだだけよ」
アリアがふっと微笑むと、それだけでエヴァンの表情も自然と緩む。良好な信頼関係を築けている証拠だ。もう大丈夫と言うアリアを、そっと床に立たせてやる。まだ少し足が震えているが、頼れるシスターは毅然としてそこに立っていた。この少女の胆力は相当なものである。
「君。一つ聞きたいことがあるんだが、いいかな?」
「お姉さん……だれ……?」
不安そうに身を縮こませ、視線を私からアリアへと流す。視線を受けたアリアは、エヴァンの隣に跪く。そして震える小さな手を優しく握りしめて、語り聞かせるように囁いた。
「このお姉さんはね。私を助けてくれたとても優しい人なの。大丈夫、怖いことはしないわ」
するとどうだろう。警戒態勢に入っていたエヴァンから身体のこわばりが雪溶けのように消えていったではないか。あまり言うべきではないのだろうが、この少女は子どもの扱いに手慣れている。予感はしていたが、恐らく彼女はかなり優秀なシスターだ。
「私の名前はローランと言う。ここにはフミナという女の子を探しに来た。君は彼女の場所を知っているかな?」
アリアに倣って、今度は子どもと目線を合わせて語り掛ける。ロウリィと名乗らなかったのは、単純に先程門の前でウルが私をローランと呼んでしまったからだ。
大英雄の名前を出したのが覿面したのだろうか。先と違い、エヴァンは恐れることなく私と向き合った。
「フミナちゃんなら多分いつもの場所に居ると思う。それよりお姉さん、ローランって言うの? 凄い! 大英雄と同じ名前だ! 恰好も伝説通りだよ! ね! アリアさん!」
「こんな名前、今時珍しくもないんじゃないか?」
エヴァンではなくアリアに問いを渡す。ローランがこの地に現れて千年と少々。一般的に使われる名前となっていても全く不自然ではないのだ。しかし、返ってきた言葉は私の予測を大きく裏切るものであった。
「いえ……大英雄の名はとても神聖なもので、一般ではまず使われない名前です。失礼は承知の上ですが、あなたは貴族様でいらっしゃいますか?」
彼女が貴族かどうかを問うたのは言うまでもなく、私の身成りがそれに相応しくないからだろう。しかし弱った。まさか自分の名前がそんな大切に扱われていたとは全く思いもしなかった。嬉しく思わないわけじゃあない、この状況でなければ顔がにやけていたかもしれない。
さてどうしたものか。このまま貴族と通すことも出来るが、嘘を吐けば必ずいつかはボロが出る。ならば、本当のことを語ってもいいかもしれない。別に私の存在を公から隠しているわけでもない。
「いいや違う。私は正真正銘、ローラン・ヴァン・デュランダルだ。信じるか信じないかは、そちらに任せるがな」
当然信じては貰えないだろう。なにせローランは伝説の人物で、実在していたとしても生きていたのは千年前。いくら堂々と言い放ったところでそう易々と信じて貰えることではない。流石にデュランダルを見せれば信じて貰えるだろうが……それだけは絶対にしたくなかった。
いやしかし。これで信頼を勝ち取るのは流石に無理があったか。今ならまだ取り返しが付く。今のは軽い冗談だと言葉を続けようとしたその時、呆けていたアリアがゆっくりとその言葉を口にした。
「……信じます。常識で考えれば信じられないことかもしれませんが……私は───」
───恩人を疑うような人間には、なりたくないんです。
イタズラっぽく笑うその笑みは、まるで野に咲くひまわりのように晴れ晴れとして美しかった。誰かにこんなに真っ直ぐな言葉をかけられたのは、もういつ以来になるか分からない。
カミトの裏表のない声とは違う。あれは単に不器用なだけだ。アリアのそれを例えるならば、それは抜き身の剣だ。剣は所有者の顔を映すというのは有名な言葉だが、まさにその通りだ。彼女の言葉は、彼女が感じたものごとを、真っ直ぐ伝えているに過ぎない。
どうりで子どもたちに信頼されるわけだ。アリアには、そもそも疑おうという気さえ起きないのだから。
「少年。君は、ローランが好きか?」
見ればわかる問いだった。エヴァンは私がローランその人であると伝えてから、完全に放心している。
初めは半信半疑だったが、私の言をアリアが信じたのだ。エヴァンが私を疑うことはあれど、アリアを疑うことは決してない。それほどまで、彼らの間にある信頼関係は絶対だった。
そこにある色は強い憧れだ。わざわざ言葉にするのは無粋な問いかけだったと思う。だが、どうしてもその口から聞きたかったのだ。私が過去にし、それを見た人々が後世に語った英雄譚。
私は今、彼らにどう映っているのか。それが知りたくてしょうがなかったのだ。
「うん。ローランのお話を読んで、ぼくはいつも勇気を貰ってた。こんなかっこいい人になりたいなって、ずっと……ずっと思ってた」
己が内から言葉という言葉をかき集めたのだろう。少年の返答はたどたどしく、探るような声音だった。
「……そうか」
私はエヴァンの頭にポンと手を置き、柔らかい栗の毛をわしゃわしゃと梳いた。恥ずかしそうに紅に染まる頬がなんともいじらしい。
「君は多分、私にもう一度剣を取ってほしいと願うのだろう。しかし私は、そんなことはもう二度とあってはならないと考えている」
小さな頭から手を離し、肩へと回す。少し驚く少年の瞳をしっかりと捉えて、私は言葉を続けた。
「私が剣を取るのは、王国が危機に瀕した時。人が圧倒的な力に屈しようとしている時だ」
尊敬、歓喜、困惑、そして疑問。エヴァンの瞳は様々な表情を明瞭に映す。なぜ今こんな話を持ち出したのか、私自身よく分かっていない。ただ、伝えなくてはならないと思ったのだ。私が生きているうちに、生きている人間に、私が私の口で、言葉で、伝えなくてはならないと感じたのだ。
「だから、この国の平穏は……エヴァン。君たち未来を担う者に預けたいと思う。君たちが、自らの力で国を支えて行くのだ。この役目、頼まれてくれるか?」
「うっ……ん……うんっ……っ!!」
力強く頷く少年の顔は、もう涙でぐちゃぐちゃだった。彼の涙は一体なにを映しているのだろうか。私の知らない感情に、忘れていたあの暗い感情が這い出てくる。それを強引に飲み下し、私は再びエヴァンの頭に手を乗せた。
ずっと気がかりだった。私は役目を終えた後、誰にも告げずに山奥へと身を潜めた。もしかすると不安だったのかもしれない。私が手を離した世界が、人々が、自らの力で歩んで行けるのかが気掛かりだったのかもしれない。
「いい返事だ」
声が出せなくなってしまった少年は、再び強く頷いた。未来は大丈夫だ。この子たちが造る未来は、きっと今よりずっと良いものになる。そう確信させる応答だったと、私は思う。
「ちなみに言っておくが、私のことは秘密にしておいて欲しい。先も言ったが、私はもう表を去った人間だ。紙の中に収まっているのが丁度いいんだよ」
思い出したように言葉を添え、今度は本当に少年から手を離し、私はアリアへと向き直る。
私はずっと停滞していた。己の時を止め、周りの時を止め、ただ悪戯に余生を消費していた。しかしカミトと出会い、アリアと話し、そしてエヴァンと関わって、どうやら私は過去に残る未練をようやく振り払うことが出来たみたいだ。
ならば……そろそろ私も次の未来に向けて踏み出さなくてはならない。
「フミナの場所へ案内して欲しい。いつもの場所とは何処だ?」
そろそろ本題に入らねばならない。私は、そのためにここに居るのだから。
「いつもの場所なら、きっと外のテラスですね。彼女はいつもそこで兄の帰りを待っているんです」
先を行くアリアの後に続き、廊下を抜けて反対の戸から外へと再び出る。そこはウッドデッキになっていた。その隅の柵に、一人の少女がポツリと外を眺めて立っている。風に靡く黒い髪を見て、私はカミトが元は黒髪だったという話を思い出していた。
寂しそうに伏せた耳と、垂れ下がった尻尾。聞いていた通り、フミナの容姿は獣人のそれだった。彼は獣人とのハーフで、妹には獣人の血が色濃く出ていると、昔聞いた覚えがある。
アリアには戸の前で待機してもらい、私はゆっくりと少女のもとへと歩み寄った。
「君がフミナだな」
「ニャニャ……!?」
知らない声に名を呼ばれ、弾かれたように少女がこちらを向く。驚愕に揺れる紅蓮の双眸には見覚えがあった。最も、奴とは違いこちらは可愛げのある瞳だったがな。
「お、お姉さんはだれ……?」
不安と微量の恐怖をその声は孕んでいた。そして当然のように視線は後方に待つアリアへと向かう。しかしその不安も、恐怖も、そして疑心も。続いたのは次の言葉を聞くまでだった。
「私は、君の兄を保護する者だ。率直に問う。フミナ、君は兄に……ジークに会いたいと願うか?」
みるみる変わるフミナの顔色を見て、私はいつかのようにニヤリと笑った。